巻第二十九「世に隠れたる人の聟と成りたる■■語 第四」
今は昔、■■(原文欠字)という男がいた。父母が先だったおかげで、男は「どうやって世渡りをしたものか」と思い悩んだ。彼が経済力のある妻を探し求めていたところ、「両親がなくて独身だが、華やかに暮らしている女がいるぞ」と、人から教えられた。さっそく男はその家を訪ねて、求婚した。女が承知すると、男がその家へ行き、二人は契った。
男から見て、女が住むこの家は、じつに理想的だった。使用人たちも多くて活気がある。家に仕える女房たちは、老若合わせて七・八人ばかりいて、皆衣服を感じよく着ている。より身分が低い召使たちも、若くて元気な者たちが数多い。また、どこから持ってこられた物なのかは不明だが、男や、彼が連れてきた小舎人童が着る服も、よいものが用意されていた。牛車も立派だ。文句のつけようがないのである。
(これは仏神の助けにちがいない)
と、男はよろこんだ。
妻は、二十才と少しである。姿がきれいで、髪が長かった。男は、これまで見かけた宮仕えの女たちの中でさえ、これほど美しい者は見たことがなかったから、ただ貧しい生活が助かったばかりではない。夜の営みも盛んだった。通い婚だった当時、性愛の場面では、基本的に女は男が家にやって来るのをただ待つしかなかった。それゆえ男女の仲が冷えこむと男が女の家を訪れなくなり、「夜がれ」が起こったが、この二人にはそれも無縁で、四・五ヵ月も毎晩のように男が女の家へ通った。こうして女が懐妊した。
それから、女の気色は悩ましげなり、三か月ほど経った。ある昼のことである。年長の女房二人が妻に寄りそって膨らんだ腹を撫ですさっていて、男はそんな妻たちの姿をそばで見ながら、出産のときになにか危険はないのかと不安がっていた。やがて男が気疲れして横になると、一緒に居た女房たちが一人ずつ立っては、部屋を去った。
(俺の気持ちを察して、席を外してくれたのだろうか)
男が寝そべったままそう思ったとき、
すると、男たちがいる部屋で、思いがけない方面の障子が引き開けられた。誰がこれを開けたのだろうと男が目を向けると、突然そこから、紅の衣に蘇芳染めの水干をかさねた袖口が出現した。(これはなんだ……、誰が来たんだ……)と男が驚いていると、そこから覗き見えた顔が、さらに彼を怯えさせた。その髪は後ろの方で結って、烏帽子も被っていない。当時は、舞楽の演目に
(盗賊が押し入って来たんだ!)
と、男は思った。
「いったい何者だ!」
男は枕元に置いた太刀を取るやいなや、声を大きくして言った。そして妻に訊いた。
「誰か人はいるか?」
だが、妻といえば、男のそばにいて、頭から衣をかぶると、汗みずくの様子で伏している。
男の言葉を聞いて、落蹲に似た者はさっと近づいて、言った。
「どうかお静かに。私はお前様が恐れるべき相手ではありません。私の風体をご覧になって恐怖をお覚えになるのは仕方のないことですが……。私の話をきちんとお聞きになれば、きっと同情をお感じになるでしょう。ですから、恐がるのなら、話を聞いた後にしてください」
男は話しながら涙を流したが、それでいて、同時にそばの妻も泣きそうな気配である。男はなにか釈然としなかったが、居ずまいを正して、心を静めた。
そして、言った。
「これはどういうことか? 何者が入って来て、こんなことを言うのか?」
男はてっきり、盗賊が物取りか殺しにでも来たかと思った。しかし、相手はどうやらそんな様子ではない。むしろさめざめと泣きはじめた。とはいえ、これはこれでなにか怪しいと男は心中で思っていた。
「こう申し上げますのも、ほんとうに恐縮で、心苦しいことです。だからと言って、お知らせしないままでるわけにもいかないことでして……」
と、落蹲に似た者は言った。
「じつはお前様の妻であるその人は、私のただ一人の娘なのです。母もございませんで、世間からこの娘をじつに哀れで愛しいと思ってもらいたくて、このように家に置いていましたところ、お前様がやってきました。私は、お前様が娘とこんな深い仲になり、通いつづけることになるとも思っていませんでした。それでこれまでお知らせしなかったのです。しかし、こうして娘も身重になり、お前様の愛情もひとかたのものでないと承知しました。『いずれは私のことを知るのだし、これ以上隠れたままでいるべきではない』と思いまして、このように参上したのです。今ではこうして姿をお見せできて、安心しています。もしもお前様がこんな私の娘を妻にしたことを厭い、これより娘から去ろうとお思いなるなら、生きていられると思わないでください。必ず恨み申し上げます。それはそれとして、これからもお前様のお気持ちが変わらずにいらっしゃるのなら、今生は不満なく過ごすことができるでしょう。ただし、この娘に私のような親がいると口外することは一切許しません。私も、これからもうお目見えしない所存です」
落蹲に似た者は、蔵の鍵を五つ・六つ男に差し出した。さらにいくつか束ねて結んだ文書の類も添え置いた。近江国に領有している土地の証文であるという。
「こんな私から受け取ったものだからと言って、素性の知れない品であると疑い、お使いになるのを躊躇ったりしないでください。私とお前様とは、これでお別れです。もっとも、お前様が娘から去るようなことがあれば、再び見えることは避けられないでしょうが。そうでもない限り、私はただお前様たちに影のように密かにおそばでございまして、見守り申しますぞ」
そう言い残すと、落蹲に似た者は去った。
男は、驚きあきれて、どうしたらいいのだろうと逡巡していたが、妻は、夫のそんな姿を見てさめざめと泣いた。
男は妻を慰めながら、思った。
(なにはともあれ命あっての物種だ。もしこの妻の元を去れば、俺は必ず殺されるだろう。あの得体の知れない義父につけ狙われれば、きっと逃げられない。命も惜しいし、妻を愛してはいる。結局、これお前世からの宿命というやつだろうか。それにしても、今後出先で何か人びとが小声で話しているのを見かけたら、どこからかこの秘密が漏れて、ひそひそ話をされていると疑わずにはいられないだろう。まったく、なんてことだ)
方々に思いやられることはあったが、とどのつまりは命が惜しくて、ここからは去るまいと男は決心を固めた。
その後、義父からもらった鍵を使い、言われた通りに蔵を開けて見ると、たくさんの財宝が蔵の屋根にとどくほど積み蓄えられてあった。男は、その宝を思うままに使った。また、近江の土地も我が物として、豊かに暮らすようになった。
ある日の夕暮になろうという時、使いがやって来て、上質な紙にしたためられた
「醜い私の姿をお見せしたあの日以来、お前様はその私を疎ましく思う様子もなく、蔵の財宝も近江の土地も、遠慮なくお使いになっていらっしゃる。私としては、嬉しいという言葉では言い尽くせない気持ちでございます。もしも私が死ぬようなことがあれば、霊となって、お前たちを守護いたしましょう。
「私は、もともとは近江国の云々と申す者でございました。しかしながら、ある時、思いも寄らない者に騙されたのです。私としては、自分を頼れる立派な者と見せようという一心で、ただ頼まれた仕事をやってみせたのでございます。それでいて、知らぬ内に盗人の仲間として働いていた、というような次第でございました。騙されたことに気づきました後で、敵に仕返しをしようと出向いたところを、検非違使に捕えられてしまいました。
「どうにか知恵をしぼってそこから逃げることができまして、命ばかりは助かりましたが、罪人として辱められて、もう世間には顔向けできなくなりました。それで、こんな素性のものと人に察知されぬよう、世間向けにはとっくに死んだものとして、このように隠れているのでございます。
「それはそれとして、世にあった時には私も財産家でございました。京にこのような家を作り、蔵に宝を蓄えてございます。娘もそこに住ませて、このように聟となる者が現われたら、娘を嫁がせて宝を奉ろうと、いままで待ってございました。近江の土地も先祖からの所領でございますから、誰が文句を言う筋合いもありません。
「今となっては、このように私の思いどおりになっている次第でございまして、実にありがたく感じております」
などと、こまごま書かれているのを見て、男は、なるほどそういう事情だったのかと了解した。
その後は、蔵の物も近江の地所も自由に扱い、苦労なく過ごした。それでも、少しばかりやりづらい夫婦関係ではあったが。
こうした事情は秘密であったが、後々には人の知るところになったのだろう。それでこのように語り伝えられているということだ。
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