巻第二十七「美濃の国の紀遠助、女の霊に値ひて遂に死にたる語 第二十一」
今は昔、長門の前司、藤原
孝範は、数多い従者がいる中でも、とくにこの遠介を重用した。当時藤原の氏の長者が住む東三条殿という屋敷があったが、その宿直にこの遠介を派遣するほどだった。
やがてその東三条殿での仕事が終わり、遠介が休暇を与えられて、美濃に帰ろうとしていた時のことである。彼が勢田の橋を渡ろうとすると、橋の上に女の姿を見つけた。動きやすいように褸の裾を引き上げた姿で立っている。遠介は、なんだか気味が悪くて通りすぎようとしたが、女が声をかけてきた。
「あなた様はどちらへお行きですか?」
遠介は馬から下りて答えた。
「美濃へ下ろうとしているところです」
「私がお願いしたいことがあると言ったら、お引受なさいますか?」
と、女が言った。
「いいですよ、話を聞きましょう」
と遠介は言った。
「ありがとうございます」
女は、絹でつつまれた箱を懐から取りだして、言った。
「この箱を、
遠介は、気味悪く感じて、ろくでもない申し出を請け合ってしまったと思ったが、女の様子がなんだか恐ろしくて、今さら断れなかった。
遠介は箱を受け取り、訊いた。
「その橋にいらっしゃるはずという女房とは、どなたか教えてもらえますか? どこの人でしょう? もしお会いできなかったら、どちらへお訪ね申し上げたらよいでしょうか?」
女は答えた。
「あなた様がその橋のもとにいらっしゃるだけで、その箱を受け取りに、その女房は現れるでしょう。必ずそうなります。だから、橋の上でお待ちなさい。でも約束してほしいことがあります。ああどうか、決してこの箱を開けることはしないでください」
遠介は従者を連れていた。その従者には、女がこのように言い立てている姿が見えなかった。ただ主人である遠介が、何があるというわけでもないのに馬から下りて、ただ無意味に立っているように見ていて、その行動を不審がっていた。
遠介が箱を受け取ると、女は去った。
その後、遠介は馬で美濃に下り着いた。
しかし、彼は女からのことづけを忘れてしまった。段の橋を通りすぎて、女房に箱を渡すことができなかったのだ。彼がそれを思い出したのは、美濃の家に帰着した後のことである。
(いかにもまずいことをした、箱を渡しそびれた!)
と、遠介は思った。
(いずれまた後で、相手を訪ねて箱を渡そう)
遠介の家には壺屋という今で言う納戸めいた所があった。遠介は、その壺屋に積まれた物たちの上の方に、その箱を重ねて置いた。
だが、遠介には非常に嫉妬深かい妻がいた。彼女は、遠介が壺屋に箱を置いたのをさりげなく見ていたのだ。
妻は思った。
(あの箱は、きっと別の女に送りものをしようと、わざわざ京で買ってきたものなんだ。それを、私の目を盗んで、あんな風に隠し置いているのにちがいない)
その後、遠介が出かけている間に、妻はこっそり箱を取りだした。そして、それを開けた。
箱の中には、くり抜かれた人間の眼球がいくつも入っていた。また、切り落とされた男根も何本かまざっている。それらにはまだいくらか毛が生えていた。
妻は、これを見ておどろき怯えた。遠介が戻ってくると、いかにも落ちつかない様子で彼を呼んで、この箱の中身を見せた。
「ああ、なんてことだ」
と、遠介は言った。
「見てはならないと言われていたのに、やってくれたよ!」
遠介は、狼狽えながら箱をもとのように結ぶと、そのまますぐに、あの女に言われた段の橋まで持って行った。
すると、ほんとうに女房が現われた。
遠介は箱を渡して、例の女からのことづけである旨を告げた。
だが、女房は言った。
「この箱は、すでに開けて見られてる」
「けっして、そんなことはありません」
と遠介は言った。
しかし、女房は、険悪な表情のまま言った。
「最悪なことをなさいましたね」
女房が箱を受け取って去ると、遠介も家に帰った。
だが、その後、遠介は「体調がおかしい」と言い、床に伏せった。そして「あれほど開けてはならないと言われた箱を、意味もなく開けて見るなんて……」と妻に言うと、それほど経たずに死んでしまった。
このように、人妻の嫉妬深くて猜疑心が強いのは、夫のためによくないことである。嫉妬ゆえに、遠介は天寿を全うできず死んでしまった。こうしたことは女にはよくあることとは言うものの、人びとは皆この話を聞くたびにこの妻を悪く言った、と語られているということだ。
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