現代語抄訳『今昔物語集』
山茶花
巻第二十六「能登の国の鳳至の孫、帯を得たる語 第十二」
今は昔、
陰陽師は言った。
「これは何か悪いことが起こるに違いない。厳重に物忌みしなさい。身の振り方を間違えたら、あなたは命を落としかねないよ」
これを聞いた鳳至ノ孫は怯えた。陰陽師の言葉に従うのなら、さしあたり怪があったこの家を離れて、所を変えてどこかで謹慎しなければならない。しかし、彼には、そんなことができる場所が見つからなかった。それで家を離れられずにいた。
(どの道屋内にいたら、その屋が崩れてくるかもしれないんだ。そうなったら、下敷きだ。とにかく、この家を離れよう。海辺にでも行って、そこでじっとしていようか。逃げた先が、山の近くじゃあ、山が崩れてきたり、木が倒れかかってくるかもしれないからな)
物忌みすべき当日の朝、鶏が鳴いた頃になって、鳳至ノ孫はそう思った。そして、家の従者一人だけを供に家を出て、彼は浜辺へ向かった。
鳳至郡は、海を眺めてもこれという目印になるような岩や島もなく、その先にどんな世界があるとも見及ばないような空間ばかりが、ただ広がっている。鳳至ノ孫は、その浜辺をぶらぶら歩いていたが、その内に疲れると、その場で横になった。そうして、ひたすら時が過ぎるのを待った。
けれども、午の刻(正午)に鳳至ノ孫が北の方をふと目を向けると、なんだか不吉で様子がおかしい。驚くべきことに、遠く沖の方で、高さ百丈はあるだろうと見える大波が立ちあがって、それがこちらに向かって来ているのだ。一丈は現代の約三メートルに相当するから、百丈は約三〇〇メートルである。
鳳至ノ孫は、それを見、おどろき怯えた。彼は慌てて、従者に大声で言った。
「あの波の高さを見ろ。とんでもないぞ! あんな波が来たら、この里は津波に流されて何もかもなくなってしまうだろう。逃げよう」
「ご主人はなにを仰ってるのか?」
と、従者は言った。
「海の面といえば、まるで
(俺には、何か憑いているのだろうか?)
と、鳳至ノ孫は思った。
(あの異常な波が、この男にはどうやら見えていない。俺の目にだけ波が見えているのだ。このこともまた、何かのお告げであるのかもしれない。たぶん、こいつが大波に押し流される運命にある、という教えだろう。波も、はじめ見た時は高さ百丈と思えたが、今ではそれほど大きくはないようだ。ただ、こうしている間にも、波が段々と近づいてきている。今の内に、何か手を打たなきゃいけない)
鳳至ノ孫は、起き上がると逃げようとした。
が、従者に手を引かれて、止められた。彼はしっかり従者に捕まえられてしまった。 「ご主人は、一体何をしようとしてるんですか! こりゃあやっぱり、何か物が悪い物がお憑きに違いありませんよ」
「俺は正気だ!」
鳳至ノ孫は言った。
「お前の目には、ほんとうにあの波が見えてないのか?」
「はい、ぜんぜん。そんな波なんてありません」
(これはどうも、俺があの波に押し流されて死ぬ運命にあるってことだ)
と、鳳至ノ孫は思った。
(結局、あの
鳳至ノ孫は座して手を合わせた。
彼は言った。
「あの波が見え始めたときは高さ百丈ほどもあると見えたが、近づくほどに小さくなって、今では五十丈ほどになった……」
鳳至ノ孫は瞼を閉じた。ややあってからまた目を開け、言った。
「波も近くなってきた。だが、妙なことが起こったぞ。あの波の中に大きく燃える炎が現われた。これは一体どういうことだ!」
主人の独り言を従者は聞いていた。
鳳至ノ孫は続けた。
「あやしい炎を宿したあの大波が、ここからわずか三十丈ばかりの距離まで迫っている。波の高さは二十丈ほどに縮まったようだが……」
鳳至ノ孫は再び目を閉じ、しばらくしてから開いた。
「いよいよ、あの波までわずか二・三丈ほどになったぞ……こちらにやってくる!」
鳳至ノ孫は、手をすり合わせて目を閉じた。けれども、時が経っても、予期したようにその身に衝撃を受けることはなかった。ただ浜辺に波が打ち寄せるさらさらという音だけを聞いた。
従者の男は、波こそ見なかったが、今では主人のただならぬ様子にもらい泣きして、同じように目をつむっていた。その彼も、この波の音だけは聞いた。
二人は目を見開いて、周囲を見めぐらした。が、何事もない。
「あの波が消えてしまったのは、どういうことだろう?」
二人は不思議がった。
が、波の打ち寄せる浜辺の際近いところに、何やら黒くて丸いものがあるのに、鳳至ノ孫が気づいた。
彼は、従者にそれを示した。
「あれは何だ? 行って見よう」
走り寄ると、蓋がついた漆塗りの小桶だった。その蓋を開けて中を見ると、たいへんに素晴らしい帯が入っていた。袍を束ねる石帯が、通天の犀の角でできてるという大変貴重な品である。なんという奇跡だろうか。
「きっと、あの怪の意味は、天の神がこれを俺にお与えになろうということだったのだ」
と、鳳至ノ孫は言った。
「それじゃあ、帰るぞ」
二人は、その帯を取ると帰った。
それからというもの、鳳至の家は急に豊かになりはじめて、驚くほどの大金持ちになった。鳳至ノ孫は、依然として「鳳至ノ孫」と呼ばれたままだったが、そんな彼もやがては老いて亡くなった。その時でも、家は豊かなままだった。
鳳至ノ孫には息子が一人いて、その息子が例の帯を相続した。いつしか彼もまた「鳳至ノ孫」と呼ばれるようになり、その代でも鳳至の家は相変わらず繁栄を続けた。だが、当時その国守となった
あるとき、為政は、大勢の郎等・眷族を引き連れて、鳳至の家にやってきて、そこに居すわった。そして、自分たちに、日に三度の食事を提供するよう、鳳至ノ孫に求めた。彼らは、身分の低いものから高いものまで、全員合わせて五・六百人もいたし、その上「食事にはケチをつけてえり好みしろ」と為政が部下たちに命じていたから、たいへんな負担になった。鳳至ノ孫が粗末な物を出せば、食べずに捨てられてしまうのだ。それでも、しばらくの間は、彼は耐えた。鳳至の家はその要求に耐えられるほど豊かだったからだ。
けれども、為政たちの滞在は、しばらくどころか四・五ヵ月にも及んだ。ついに弱った鳳至ノ孫は、例の帯を首にかけて、家から逃げ出した。
鳳至ノ孫が能登国から去ると、為政は、税を口実にして鳳至の家の財産を漁って、役所である館に取って帰った。
その後、鳳至ノ孫は此処彼処に足を向けて、各地をめぐった。けれども、この帯の御利益だろうか、どこに居つくわけでもない旅暮らしだったが、どこでも困窮することはなかった。やがて為政が国守の任期を終えて国を去り、新しく
さらに行任の任期が終わり、その次に
実房は、京に上ると、当時関白だった藤原道長にこの帯を献上した。道長は、数多い帯の銘品を収集していたから、きっとその中に加えられたことだろう。帯がそれからどうなったのかは知られていない。
このようにめでたい宝だから、波にも見えれば炎にも見えたのだろう。幸いにしてこの帯を手に入れることができたのも、前世の報いだったのだろう、と語り伝えているということだ。
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