迷い子

@ninomaehajime

迷い子

 森の手前には鳥居が連なっており、ところどころ傾いだ柱が奥行きを不鮮明にさせる。眩暈めまいがしそうな朱い門の回廊を、幼心に駆け抜けた。

 遠い昔のことで、どうしてあの千本鳥居をくぐり抜けたのか定かではない。おそらく好奇心に負けたのだろう。ただ記憶をいくらさかのぼってみても、もうあの場所への行き方は思い出せない。

 夢にも似た出来事の続きを語ろう。

 行き着いた先は、奥深い森の中だった。日中だったにも関わらず、光は仄暗い。例えるなら瞼の裏に浮かぶ光にも似ており、木々の輪郭がぼやけていた。本当に静かで、小鳥の声も虫の音もしなかった。急に心細くなって鳥居を引き返そうとしても、木立のあいだに空虚な闇を孕んでいるだけだった。

 暗い森の出口を探して、鬱蒼うっそうとした木々のあいだを彷徨さまよった。枝木は奇妙にねじれており、いかにも禍々しい。時折気配があり、地滑りに酷似した音とともに黒い影が這いずっていた。断じて鳥獣の類ではなく、頭上を細長い体躯の何かが跨いでいったとき、恐ろしくなって一歩も動けなくなった。その場にしゃがみこみ、泣くことしかできなかった。

 誰かの声がかかったのはそのときだった。

「迷ったのですか」

 幼い女の子の声だった。顔を上げると、ひっくと喉を鳴らした。この暗さの中にあって、白装束が鮮明に浮かんでいた。よわいはおそらく七つほど。闇に溶けそうな黒髪は長く、白い両足は履き物を履いていない。

 こちらを見下ろす両の瞳は白く濁っていた。

「お姉ちゃん、誰……?」

 実際にはそう年齢は変わらなかっただろう。その佇まいに老成した雰囲気が漂っていて、ただの子供というにははばかられた。

「私は……」

 その背後から人ではない影が現われて、思わず後ずさった。よくよく見れば、未発達の角を生やした仔鹿だった。少女が伸ばした手に首筋を撫でられても逃げ出さず、人間によく馴れていた。

「誰でしょうね」

 奇妙な呟きだった。その身に薄い斑点を散らした仔鹿は、生気に欠けた手を舐める。焦点の定まらない瞳がこちらを見据えた。

「あなたは外から迷いこんできたのですか」

 そう問われ、頷いた。千本鳥居を通ってここまで辿り着いたこと、帰り道がわからなくなったことを子供ながらに訴えた。土の匂いを嗅いでいた仔鹿が、鼻を上げて耳を跳ねた。

「そうですか」

 白装束の少女は言った。

「ここは人がいるべきではありません。外まで案内しましょう」

 目が見えないはずの彼女は、こちらに手を差し伸べた。死人を思わせる皮膚の色に気後れし、恐る恐るその手を取った。あまりにも冷たくて、全身に寒気が走ったのを覚えている。

 凍えた手に引かれて、暗闇の森を歩いた。自分の草履と裸足の足音。土に蹄の跡が刻まれていく。長い黒髪が揺れる後ろ姿に尋ねた。

「ここはどこなの?」

幽世かくりよです。彼岸と此岸のあいだにある場所」

 当時は言葉が難しく、よく意味がわからなかった。ただ、自分が立ち入るべきではない場所に足を踏み入れたことは直感的にわかった。

 その場所にいる、この盲目の少女は一体何なのだろう。

「お姉ちゃんは……」

 先ほどの様子を思い出し、口ごもった。

「何でここにいるの」

 少し間があって、答えが返ってきた。

「現世は、少し眩しすぎる」

 やはり要領を得ない内容だった。それ以上は何も聞けず、沈黙が下りた。ふと暗闇がわだかまる木立の向こうから、何か聞こえた気がした。傍らの仔鹿も耳をそばだてる。顔を向けると、遠くで鬼火めいた光の行列が垣間見えた。

 太鼓を叩き、笛を吹き鳴らす音。あれは、祭囃子だろうか。

「見てはいけません」

 その一言は静かだった。ただ、自分が恐ろしい禁忌を侵している気がして、酷く落ち着かない気分になった。俯くと、誰でもない声がした。

「もう一人――」

 くぐもった、あるいは水の中で喋っているのに近い声音だった。顔を上げると、黒髪の少女がめしいた瞳を虚空に彷徨わせていた。

 こちらの視線に気づき、彼女は言った。

「先を急ぎましょう」

 仔鹿を従えた奇妙な少女との同道は続いた。かすかに聞こえる祭囃子の中、一切日の差さない森を延々と歩く。暗闇に目が慣れてきても、その道のりは終わりがないかに思えた。変化が現われたのは、遠くから野太い声がしてからだった。

 うわん、と聞こえた。子供の泣き声にも、無邪気な歓呼の声にも思えた。華奢きゃしゃな手に力がこめられた気がした。ふと目線を下ろせば、仔鹿が耳を伏せて首を垂れていた。怯えている。

 少し急ぎ足になった道中にも、正体不明の声は響いていた。遠のくどころか、ますます近づいている気がする。違和感を覚えたのは、その声が発せられる高さだった。

 遥か樹上から、何かがこちらを見下ろしている。

「お姉ちゃん」

 理解しがたい危機感に見舞われて、怯えた声で彼女にすがった。返ってきたのは、頓珍漢とんちんかんとも言える言葉だった。

「しりとりをしましょう」

 呆気に取られた。こちらの反応に構わず、少女は淡々と言った。

ひいらぎ

 何も言えずに困惑していると、白濁した瞳にうながされた。

「ぎ、です」

「ぎ、ぎっくり腰」

「塩」

「……桶」

「煙」

「り、栗鼠りす

「鈴」

 謎の声に追い立てられる中で、なぜか盲目の少女としりとりをするという不可思議な状況に陥った。こちらを見上げる仔鹿のつぶらな瞳に、自分は何をやっているのだろうと疑問に駆られた。

 ただ気のせいだろうか、黒髪の少女は年齢相応に楽しそうに見えた。

いわし

「鹿」

「鏡」

「三日月」

桔梗ききょう――」

 次第に拍子が合い、言葉が連なっていく。不思議な心地だった。ただしりとりをしているだけなのに、何かに守られている安心感があった。例の野太い声の大きさも弱まり、遠ざかっていく。

 これは後で知った話だ。しりとりには魔除けの力があるという。言葉の尾を繋ぎ、言霊ことだまで結界を作る。

 あ、と声が出た。暗がりの向こうに朱色の鳥居が佇んでいる。ねじ曲がった枝葉に囲まれ、連なった通り道の奥底で仄かな光が見える。まるで水底から見上げる日差しのように揺らいでいた。

 冷たい手が離された。思わず駆け出して、ふと後ろを振り返る。仔鹿と少女は、そこに佇んだままだった。

「お姉ちゃんも行こうよ、その子と一緒に」

 白装束の少女は目を細め、やがて首を振った。

「私たちは、もうそちらには行けません」

 盲いた瞳でこちらを見据えた。

「早く行きなさい。あなたは、見られています」

 言葉を失った。少女の胸元に穴が空いていた。重ねた紙切れが剥がれ落ちるさまにも似ていて、この森よりもくらい深淵が覗いている。白魚のような細い指先が這い出て、そのあいだから透き通った瞳がこちらの姿を映していた。

 悲鳴を上げて逃げ出した。朱い門をくぐり抜けて、もう二度と振り返ることはしなかった。

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