終話
――急性骨髄性白血病。
それが彼女、日向薫が発症した病気の名前。昔は不治の病の一つとされ、近年では骨髄移植などの過酷な移植手術などを行い、生存率を上げていたが、現代においては更にその医療技術は革新的に進み、現在の発症後生存率はかなりの確度で、八割近くの人が完全寛解まで至っている。
……唯、それでもやはり、数パーセントの人は再発、又は治療が合わずにその命を散らしている。
始めて彼女がその病魔に襲われたのは高校受験に合格し、桜が舞い散る季節だった。何時ものように朝の洗顔をしようと洗面で鏡を見た時、ふと感じた違和感。目の下にできた隈、寝不足の倦怠感かと思っていたそれが始まりとは知らず、向かったバイト先で昏倒して、そのまま緊急搬送された。病名を聞かされた当初は悲観し、絶望の中、何度も薄く左腕に傷をつけてしまったが、医者たちの懸命な努力と彼女自身の「生きたい」と切に願う気持ちが天に通じたのか、一度、その病魔に打ち勝つことが出来た。
――そう、一度目の最初で最後の勝利。
二度目の再発は、夏の盛りに起こってしまった。
そうして彼女は悟ってしまう。
自分の命に『期限』が有るのだと……。
――ならば、この息の続く限り、私は私らしく生きて、最期のその瞬間まで、笑って生き抜いてやる。
~*~*~*~*~*~*~*~
その年の秋、金木犀が一度目の花を咲かせる頃、彼「木下勇次」が緊急搬送された。知ったのは偶々だ。私はいつものように芝生に腰を下ろし、日当たりの良い金木犀の隣で本を読んでいると、急に木がざわめき、その香りをそちらへ向ける。ベンチに腰掛け、俯いた少年が一人、そこに居た。気にはなったが声を掛けるような雰囲気ではなく、少し様子を見ていると、いきなり木陰が冷え、思わず腰を上げて私は彼に近づいた。
彼が入院した病棟は、私が手首に傷をつけた時と同じ、形成外科の階だった。私の大袈裟なリアクションをわざと無碍にあしらうような物言いをし、まるで興味もないような仕草を装ってはいるが、あまり人馴れしていないだろうとすぐに気がついた。
――その瞳の奥に有る、仄暗い闇を私は知っていたから。
それから毎日のように私は彼と話をした。何が好きで何が嫌いか。それは食べ物に始まり、趣味趣向へと移り、最終的には女性のタイプを聞き出そうと画策したが、そこは上手くはぐらかされた。
――今までそう言う類の経験がないのでわかりません。
……ちくせう。二の句が継げないじゃないか、そんな言い方をされると。
でも……。
歳の近い、まるで兄妹のように話せる彼のことが私はどんどん好きになっていった。いや、ただ友人としてだ! 「叩けば響く」と言えば良いのか、私のどんな言動にも何かしらの返答を返し、なかなかに鋭いツッコミまでしてきてくれる。
あぁ、もう相方と呼ぶにふさわしい相手だ!
そんな彼が寂しそうにする瞬間が増えていく。……それはいつも彼の家族が訪れた日だった。深くは聞くまいと思っていたが、つい「口に出して吐き出せば、少しは気分が楽になる」と聞いてしまった。
――『生きたくない』理由。
いけない事とは理解っていた、頭ではきちんと理解している。……でも。……だけどそれはあまりにも……。
――私の小さかった頃の思い出と重なる部分が多すぎて。
――あぁ、やはり瞳の奥のその闇は、私とおんなじ理由だったんだ。
全てに見放された絶望と、生きていく事に意味を見いだせない虚無感。何故私は、私だけが……こんなに苦しまないといけないの?! 頭の中でそればかりが繰り返され、だけど答えなんて見当たらなくて。いつしか『死』と『楽』が同義に見えはじめた時……。
あの子が私の手を引いてくれたんだ。
だから、次は私の番!
そう決めて彼の部屋に向かった時、打ちのめされる彼を見た。激情にかられ、私は彼の親を責めたけど、結局無力な私はただ黙って、ベッドに眠る彼を見つめる事しか出来なかった。
~*~*~*~*~*~*~*~
リハビリを終えても、僕の病院通いはルーティンとなっていた。編入した高校にも一人か二人ではあるが友人ができ、何時しか学校内で笑顔を見せることが出来るようになっても、僕は終業と同時に教室から走り出て、バスに飛び乗り、彼女の病室へと向かう。
――気がつけば、また甘い香りが漂う季節になっている。僕は高校二年生となっていた。
「……今日は暖かいですね」
「……うん、そうだね。芝生の方で寝転びたいかも」
はにかむ彼女の唇は、薄いピンクだった頃から更に白さを増し、紺の長かった髪は、クスリで綺麗に無くなってしまっている。大きめのニット帽を目深に被り、少し落ち窪んでしまった大きな目を揺らし、僕の方をチラと見上げた後、車椅子を少し動かそうとブランケットを膝にかけ直す。
「あぁ、僕がやりま――」
「大丈夫。このくらいは自分でしないと、ね」
彼女は僕が言い切る前にそう言って、細く、筋が目立った腕を動かして、舵輪を回して日当たりの良い場所へと移動する。その仕草に胸が締め付けられ、目の奥が悲鳴を上げるがぐっと堪え、隣のベンチに腰掛ける。
「……薫ねぇ、今日はどんな本を読んでたの?」
「ん? これだよ」
膝に乗せた文庫本を手に取り、こちらに渡しながら「今回の犯人はねぇ」といきなりのネタバレ発言をしてくる彼女に「おい! 渡しながらネタバレかよ」と突っ込むと、相変わらずクスクスと可愛らしい笑顔を見せながら「ナイスツッコミだ」と言ってくる。夕暮れが迫る少しの時間、病室に来ることを嫌う彼女と会うことが出来るこの場所が、互いの一番幸せな場所となっている。
「……ねぇ勇次、金木犀の香り……好き?」
「……嫌いではないかな」
「もう、ちゃんと答えてよ」
「急に変なこと聞くからじゃん。何だよ改まって」
「……来週、手術、する事に決めたんだ」
ドクンと鼓動が跳ね上がる。
……手術の話は前から何度か聞いていた。ただ、それに難色を示し、ずっと延期していたのが彼女自身だった。二度。彼女はこれまで二度手術を受け、再発してしまっている。故に手術をしてつらい思いをしてもと言う気持ちがよぎり、踏ん切りがつかないまま、投薬療法で誤魔化してきている。だがそれにはやはり限界があり、もう本当にギリギリまで来てしまったのだろう。彼女の手は微かに震え、瞳がずっと揺れている。
――怖いのだ。今まで二度も失敗し、それでも受けなければ確実に期限が来てしまうから……。どちらを選んでも怖いのだ。
「……好きです」
「へっ? あ、あぁ金木犀の――」
「日向薫さん、僕は貴女のことが好きなんです」
「ファ?!」
正真正銘、産まれて初めて。異性に対して、好意ではなく、男女のそれとして告白をした。ドギマギすることもなく、まっすぐに彼女の目を見つめて。真摯に心の底から思った言葉をただストレートに彼女に伝えた。何故そこまでまっすぐ言えたのかは分からないが、今どうしても伝えないといけないと思ったから。
……だが、彼女のポカンとした後、真っ赤に染まっていく顔を見た瞬間、僕自身も耳から湯気が出ている気分がし、次いで顔が熱くなり始めたかと思うと、呼吸の仕方を忘れ、目の前がグルングルンとまわり始める。
「……っ?! ちょ、ちょっと勇次? どうしたの?」
「あ、あれ? こ呼吸、どうすれば……フゥーハァ~ヘヒッ!」
「……へ? ……ブッ! ちょ、アハ、アハハハハ!」
――ありがとう、私も勇次の事大好きだよ!
~*~*~*~*~*~*~*~
夢を見た。
広い草原の中、素足で私はその只中に立っている。見上げれば空は高く、雲は一つも見当たらない。日差しは暖かく、吹く風は穏やかで。その場で大の字になって寝転びたい程だ。身体もいつもの怠さや節々の痛みもなく、清々しいほどに晴れやかな気分。そこで大きく深呼吸をした時、不意に嗅ぎ慣れたあの、甘い香りがして、思わず周りを見渡すと、最初には見当たらなかったその木が、一人の女性とともに立っている。ふと近づこうと思い、足を動かそうとした時、頭の中に直接その声が聞こえてくる。
――ずっと貴女を見守っているわ。
貴女は誰?
――だから、あの子をお願いね。
?!
――勇次と共に『生きて』あげてね。
勇次君のお母さん!
~*~*~*~*~*~*~*~
……pipipipipipi……。
ベッドサイドのテーブルに充電しているスマホが鳴動し、朝だ朝だと五月蝿い。面倒に感じながらスマホを捕まえようと手を伸ばした途端、同じ様に別の場所から伸びてきた少し細い手を掴んでしまう。
「んう……もう朝ぁ?」
「……朝だなぁ」
気怠い声を互いに零しながら、ぼんやりとしたまま、ゆっくりと目を開けてそちらを見やると、寝間着姿で長い紺の髪を爆発させた妻が、僕に覆いかぶさった状態で、だらしなく開いた口から、粘性のあるものが垂れ始めている。
「……うわっ! ママ! よだれ!」
「うぅ……うるさいよぅ。もう少し寝かせてよぅ……」
危うく被弾するのを逃れ、スマホのタイマーを止めてベッドから這い出すと、彼女は一人、布団にくるまってそっぽを向く。やれやれと思いながらも、毎晩の授乳作業で寝不足なんだろうと思い直して「ゆっくり休んで下さい」と声だけ掛けて、部屋を出る。
橘家の家は去年、母屋部を全面改築した。所謂和モダンと呼ばれる、現代建築に昔ながらの日本建築の様式を随所に取り入れ、木の温もりが感じられる、和室のある二階建てへと様変わりしている。玄関は一階に二箇所あり、二世帯住宅になっていた。そんな二階部分のリビングのカーテンを引いて朝の日差しを眩しく受けていると、一階部分から誰かが上がってくる足音がする。
「……おはよう勇次」
「おはようございます華さん」
「薫ちゃんは?」
「さっきまでお乳を上げてたので、爆睡してます」
「あらあら。……じゃぁ龍ちゃんは」
「お腹いっぱいで熟睡中」
「残念。朝ご飯の準備、出来てるわよ」
「はい、すぐ行きます」
「……あ、あと、哲さん、今朝も朝食抜きだからよろしくね」
「……今朝は何をしでかしたんです?」
「朝の植木の水やりサボって筋トレしてたわ」
その言葉にテラス窓から庭を覗くと、散水ホースを片手に少し項垂れた感じの哲二さんが、相変わらずのタンクトップで植木に水を撒いていた。
――ただ、中央の部分には、ポッカリと剥き出しの土だけの場所がある。。
「……新しい金木犀の苗、探さないとですね」
「……そうね。……でも――。そうね、探さないとね」
僕の言葉に一瞬、彼女は視線を下げる。……その視線の先がどこを見ているのか、言われなくとも解っている。華さん、哲さん……僕ら家族にとって、あの樹がどんなモノだったのかも。あの樹は……母そのものだ。二人が彼女のために植え、母が居なくなってさえ、ずっとこの家で家族を見守るように葉を絶やさず、その季節には必ず香りを皆に届けてくれていた。
――その金木犀の樹は、あの手術の日を境に立ち枯れし、遂には根本から折れてしまった。……まるで、何かを全うしたかのように。
――あの日、僕は夢を見た。
草原の中に立つ大きな金木犀、その根本で母が眠る薫さんを膝枕していた。近づく僕に母は気づくと、微笑みながら声を掛けてきた。
勇次、貴方はこれから頑張って、薫さんと『生きなさい』病気のことは心配しないで、大丈夫。
――私はずっとアナタたちを見守って居るから。
――今も、これからも……。
それは手術が行われる正に直前の事。手術の前日は眠れずに、うつらうつらと手術室の前で、椅子に持たれてしまった一瞬の間。はたと気がついて、顔を上げた時、ドアが開いて先生たちが出てきた。次いでベッドに横たわったままの彼女が運ばれ「手術自体は上手くいきました。後は彼女の『生きる力』を信じましょう」と……。
――そうして帰宅し、ふと見た金木犀の葉が落ちていることに、初めて気がついた。
「……えぇ、次は龍の為に植えようと思います。……母がそうしてくれたように、いつか、何かがあったとしても……」
「……貴方も、夢で逢えたのね」
「……えっ?!」
その言葉に、思わず華さんの顔を見ようと振り向くと、彼女はにっこり笑って「なんでもないわ」と言って階段を降りていく。暫くの後、階下からは炊きたてのご飯と、味噌汁の香りが漂ってくる。
――もしかして、母さんは皆と……。
「華さん! すんませんっしたぁ!」
その声が聞こえた途端、なんとも言えぬ苦笑いが出てしまったけれど、その場で大きく伸びをして、僕は小さくつぶやいた。
――ありがとう、母さん。次は僕らが背負う番、だからもうゆっくり、休んでください。
そう呟いた時、微かにあの甘い香りがまた、漂って来た気がした。
~終~
金木犀の香る頃 Re トム @tompsun50
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