第6話




 ……pipipipipi……。


 枕元に置いたスマホが、定期的なアラームで現在時刻を教えてくる。既にスヌーズを押して二度目だなと、ぼんやりしたままサイドボタンを押そうと布団から手を出すと、冷たいものを掴まされて、一瞬のうちに覚醒した僕はつい「冷てっ!」と叫んで、飛び起きる。


「おはよう勇ちゃん。目、覚めた?」


 ここは八畳間の和室。部屋の入口は襖で間仕切られているだけで、勿論、鍵などは付いて居ない。そんな部屋で無防備に寝ていれば当然、こんな事が起こっても仕方が無いと言うものだ。


 目の前には今僕が掴んだ、冷やしタオルをブラブラと見せつけ、ニッコリと笑顔でこちらを見下ろしている初老の男性。十一月も半ばを過ぎ、朝霜が庭の草花を濡らす季節だというのに、その人は未だアンダーアーマーのタンクトップを着こなし、バギータイプのスウェットパンツを履いている。……確か年齢は既に還暦を超えたと聞いたはずなのに、その容姿は現役世代と遜色なく、浅黒い肌に白い歯がコレでもかと輝いている。そんな僕の祖父が、いたずらに成功したと言わんばかりに満面の笑みで話を続ける。


「朝の体操を始めるぞ。飯は華さんが作ってくれてるから、まずは顔を洗っておいで」

「……ハァ――っ! うぎゃぁぁ! じいちゃん、冷たいって!」

「ウハハハハ! まだ寝ぼけているのか? 誰がジジイだ?! 「父ちゃん」と呼べと言ってるだろ!」


 寝ぼけ眼で適当に返事をした瞬間、冷やしタオルが僕の顔面を拭き上げる。つい叫んで祖父に「じいちゃん」と声を掛けると、声だけ笑いながら、その均整の取れた肉体で、軽く僕を羽交い締めにして、冷たいタオルで顔と言わず、服をまくられ、そこらじゅうを責めてきた。


「ちょ! ぎゃあ! じ……「とうちゃ」……やめ! うひゃぁぁぁぁ!」



◇  ◇  ◇  ◇



 台所に設置された、小さめの四人がけのテーブルの上には、炊きたてご飯がお茶碗いっぱいに盛られ、隣には湯気を上げる豆腐の味噌汁。塩鮭の乗った長方形の皿には厚焼き玉子が二切れと、ほうれん草のおひたしが添えられている。テーブルの中央には幾つかの惣菜が置かれ、漬物鉢には沢山の種類の漬物が入っている。僕の席の隣にはテキパキと食卓の準備を終えた華さんが座り「さぁ、勇、ご飯食べよ」と優しい笑顔で言ってくれる。


 ――あのぉ、華さん。……もしもーし。


「いただきます」


 彼女に返事の代わりにそう言って、箸置きに置かれた黒壇の塗箸を手に取ると「おあがり」と華さんも笑顔で、茶色に桜模様の螺鈿細工が綺麗な箸を、持ち上げる。


「ねぇ、華さ――」

「勇、今日は病院だっけ?」

「はい。リハビリと……先輩の方にも少し」

「……薫ちゃんの所? なら、持っていって欲しいものが有るんだけど」

「良いで――」

「華さん!! 私のご飯が見当たらないんですが!」


 流石に我慢できなくなったのか、僕たちの対面に座った哲司さんが、そう言って空のお茶碗を、華さんに見せつけている。塩鮭の皿にはほうれん草のおひたしが、茎の部分だけ二本置かれ、何故かめざしが一匹。厚焼き玉子も置かれていなかった。味噌汁には何も浮かんでおらず、ただの汁になっている。


「……確か、ダイエット習慣がどうのと聞いた気がします。ので、炭水化物は排除していますよ」

「いつ!? 俺何時そんな事いったの?! 言って無いですよね! ね勇次! 朝からハードな運動して、マジお腹ぺっこぺこなんすよ?! それをめざしで過ごせと?! あと、あの具だくさんみそ汁の鍋からどうやって汁だけ掬ったの?! ……はっ!? コレもしかして上澄み? 若干味噌の色も薄い感じが――」

「朝からよく回る舌ですねぇ。……それだけくっちゃべられるなら、今日はお昼もいらないか――」

「すんませんっしたぁぁぁ! ほんとマジすんませんっしたぁ!」


「……フフ。朝から二人とも元気ですねぇ」


 

 ――僕は病院を退院して、その足で父と二人で母の実家である、この橘家へ引っ越すことになった。十年以上ぶりの再会となるが、僕は幼稚園時代の頃を、あまり良く覚えていない。その為、ほぼ初対面の感覚で二人と逢ったのだが、当初は酷く驚いた。


 何しろ、僕にとって二人は「祖父母」である。……年齢も還暦を過ぎていると聞いていた。そんなだったから、僕のイメージではシワの多い、腰の悪い老人が頭の中の祖父母だったのだ。実家に着いた時も、純日本家屋で、平屋。玄関は引き戸になっており、当に田舎のおじいちゃん家のイメージ然としていた。


 ――その引き戸が開かれる瞬間までは。


 扉を開けて出てきた二人は、どう見ても僕の親と遜色なく、同年代に見えてしまう。祖父である哲司さんは、父と同じ様な体躯をひと回り小さくしたような感じ。所謂細マッチョ。祖母であるはずの華さんに至っては既に死語となった『美魔女』を体現している。……当然、実年齢は怖くていまだに聞いていない。ピラティス? とヨガのインストラクターをしているそうで、とても女性らしい綺麗な人だった。そんな二人は僕たちを笑顔で迎え入れ、部屋に案内された所で父が「……この度は本当にご迷惑を――」と言いかけた所で哲司さんの拳骨が父の頭に直撃していた。驚いて僕が硬直していると、ふわと頭を撫でられ、振り返った先にはニッコリと笑う華さんが「勇はこっちへおいで」と僕の新しい部屋へと案内してくれる。


「……この部屋は元々乃秋、勇のお母さんが使ってた部屋だよ。荷物はそこに纏めてあるから、ゆっくり解きなさい。私達はお父さんと話してくるから」

「……はい」


 その言葉に少し萎縮しながらも、部屋の中を見回していると、あの甘い香りが今も漂うような気がして、つい深呼吸のような事をしてしまう。


「――これからは、ここが勇の部屋で、私達が「親」だと思えば良いんだよ」


 そんな優しい言葉で頭をゆっくりと撫でてくれる。……あぁ、僕はココから、また始められるんだと少し目の前が滲みはじめた。




 ――そんな出逢いから一月も過ぎたこの頃、目の前でこの老? 夫婦のコントのようなやり取りを見ていると、驚きはとうに通り過ぎて、今は呆れとともに感情の起伏が激しくなってしまっていた。……まぁ、主に口角が上がる方向にだが。哲司さんがモキュモキュと、寂しそうに目の輝きをなくしたまま、めざしを噛み砕いているのを横目に、具沢山の味噌汁をずずっと啜ってほっこりすると、自分に出された食器の中身が空になったのを満足気に眺める。それらを纏めてシンクにおいて水をかけ、柱に掛かった時計をチラと見てそろそろ出かける準備をと思い、二人に声を掛ける。


「……じゃあ、行ってきます」


 ――いってらっしゃい!




~*~*~*~*~*~*~*~



「はい、じゃぁもう少し前傾してみよう」

「……はいっ……ック」

「もう少し! 頑張って!」


 病院に併設されたリハビリセンターで、僕は左腕のトレーニングを行っていた。二ヶ月近くもの間、肘部から下を完全固定され、力を入れることはおろか、肩を上げ下げする事でさえ制限されて居た。ギプスに変わって少しの動作は解禁されたが、それでも肘から先はごっそりと筋肉が無くなり、筋張った骨と皮だけの、枯れ木のような腕になっていた。今は見た目にはかなり改善されているが、それでも握力は右手の半分にも至らず、特に手首を切っているので、その周辺の筋を動かすたびに、チリチリと痛みが奔るのが辛い。幸い痺れにまではなっていないので、神経圧迫などの炎症も起きてはいないようで、そう言ったことを確認するのを兼ねたこのリハビリは僕には大変ありがたかった。


「勇! もっと腰を踏ん張っていけぇ!」


 ……座った状態で、理学療法士の先生と共に腕のトレーニングをしている。と言うのに、日向薫先輩はそんな意味のわからない応援で、僕の直ぐ側でニコニコしている。


「……先輩、盲目にでもなったんですか?」

「なにをぅ?! 私の視力は左右共に0.9だぞ!」

「結構悪いな」

「なにぃ!? 普通はどうなの? 渡辺ちゃん」

「――1.2くらいかな」

「なん……だ――」


 相変わらず高いテンションで、周りにいる皆を巻き込んで、彼女は楽しそうに笑っている。



 ――命の期限が迫っているのを振り払うかのように。



◇  ◇  ◇  ◇



「これ、華さんから」

「ん? あぁ!? 華さん覚えててくれたんだ! 嬉しい!」


 リハビリセンターから移動し、病院の施設内にある談話室のような場所で、僕が預かっていた小さな紙袋を彼女に渡すと、その中を覗き込んだ彼女が、大きな声を上げてその袋を抱えて喜んだ。中を見てはいないので、それが何なのかは知らないが、どうやら前からの約束でもしていたものなんだろう。


「……良かったですね。でもまさか、先輩が母の実家のご近所さんだったとは」




 退院して最初の通院日、僕は祖母である華さんと病院に訪れた。先輩とは既(強引)にスマホで連絡先を交換していたので、予約時間に診察を受けて出てくる頃には、看護師と一緒に彼女が待合スペースに居た。


「お!? 勇次、診察はおわ……オバサン?!」

「――ん? 誰? 勇の友達?」

「えぇ、入院してた時にお世話にな――」

「私です! 薫です、オバサン。 金木犀の木の家のオバサンですよね?!」

「金木犀って……かお……り。――薫ちゃん?!」


 僕と付き添いの看護師はポカンとした表情で、その場に立ち尽くす。片や「美魔女」の祖母、それに抱きついているのは「薄幸の美少女」な二人。それがまるで何かの映画のワンシーンかと思わせるほど、絵になる光景でそのスペースで喜びを分かち合っている。なんだなんだとすぐに野次馬が集まり、その場はもう僕と看護師の居られる場所は存在しなくなっていた。二人でスススと野次馬に混ざり「あの二人、知り合いだったんですね」と僕が看護師に聞くと「……私に聞いてどうするの」と当然の返事が返ってきて、自分がどれだけ混乱しているかを理解した。


「……あれ? 勇、アンタ何隠れてんの?」


 ひとしきり再会を喜んだ二人が、周りの状況に気が付き、にこやかに会釈しながらこちらを見つけると、近づいてそんな事を言ってくる。「いや、何だか恐れ多くて」と混乱した状態で変な返しをしていると「……あ、もしかして勇、忘れてるんじゃない?」と先輩が嫌な笑みを見せながら話しかけて来たのだった。






「フフフ。それにしてもまさか、あの時私の手を引いてくれたのが勇だったなんてねぇ」



 ――その言葉を聞いて初めて、あれは夢や僕の勝手な妄想ではなく、目の前でふわりと優しい笑顔を見せてくれる、薫先輩だったのだと思い出した。

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