第5話



「……これは?」


 その書類には『誓約書』と言う文言が大きく印字され、続く文章は細かくびっしりと箇条書きにされている。その横に振られた番号は優に二十を超え、最下段には父のフルネームと捺印がされている。しかもその書類は一枚ではなく、続く二枚目や三枚目には似たような文章が綴られており、下段には父と継母、そして何故か片桐先生の名が書き込まれていた。


「……今から話すことは君にとって、もしかすると嬉しくない話かもしれない。でも、やり直すチャンスだと思って聞いてほしいんだ」



~*~*~*~*~*~*~*~



 興奮した勇次くんの父、木下隆二をなんとか宥めて病室から引っ張り出す。そのまま二人で両脇を抱えるように、ナースステーションへと連れ込む事にした。勇次君は別の医師と看護師に処置を任せて、僕と看護師長は、そのまま彼と話をする事にする。ナースステーションの奥にある、休憩室へと連れてくる頃には、興奮はしているが、暴れる気はなくなったのか「話は聞くから腕を離せ」と言ってきた。



「木下さん、なんでいきなりあんな酷いことを? 流石に怪我を負わせるような暴力は看過できません」

「何をいう! コレは家庭の問題だ! あんたら医者が口を挟む様な事じゃないでしょう?!」

「……何を言ってるんですか! いくら家族であっても、私達の目の前であんな事をすれば暴行に決まっているでしょう!」

「……っ!」


 流石の彼も「暴行」と言う言葉に驚いたのか、気勢を削がれ、そこにあった椅子に乱暴に腰を下ろすと、不貞腐れたような態度を見せながら、こちらを睨んで聞いてくる。


「……で? どうするって言うんだ?! 警察でも呼ぶのか?」

「……事と次第に拠っては私達には通報義務がありますので」


 ……厳密に言えば、それは方便だ。医師が行う通報義務とは、本来使い方が違う。だが、少なく見てもあの時彼が負った怪我は、かなりのものだった。何しろこの筋骨隆々とした太い腕に、無防備なまま思い切り殴られていたのだ。背にしたベッドにそのまま昏倒し、思わず彼を見た時にはベッドに鮮血が散っていた。確実に鼻骨は折れていただろう。そんな怪我をさせる事ができる人間を、あの場に居させる訳にはいかない。そんな中、日向さんまで乱入し、あろう事か、火に油を注ぐような言い方で怒鳴りつけていた。そんな中で取れる最善策は彼を半ば脅すような形になったとしても、まずは冷静に話ができる状態に、持って行かなければならないのだから。


 最後に放った「通報義務」が決め手になった様子で、流石にそれ以上は不味いと思ったのか「……通報、義務……申し訳なかった」と俯いて、謝罪の言葉を口にする。それは勇次君にするべき事だと喉元までせり上がったが、蒸し返した所で、話が進まなくなるのは本末転倒だと思い、飲み込んだ。


「……いえ、落ち着いて頂いたければそれで」

「先生?!」


 そこで言い募ろうとしてきた山崎さんを「良いから! まずは話をしよう、ね師長」と無理やり抑え、ギリと歯噛みするような仕草を見せる彼女の肩を叩いて一呼吸する。心情的には大いに同意するところだが、考えように拠っては、今がチャンスなのかも知れないと思っていた。


 ――勇次君のこれからを変えるきっかけを作れるかも知れない。



 あれは香りの話をしていた時。僕と看護師長が金木犀の香りから脱線し始めた時、彼に聞いた何気ない会話の一つ。


「ほら、お爺ちゃん家は「線香」の匂いがする。とか、なかった?」

「……幼稚園に通っていた頃なので、覚えていないですね」

「くぅ~、「核家族化」の波は津波ですねぇ山崎さん」


 あの時聞いたその家は、彼の母方の実家だと教えてもらった。……その後、彼のお母様は病気となり、実家に通うことも無くなって……そのまま疎遠になってしまったと。……ただ、幸いなことに、木下隆二氏に詳しく聞いたところ、年賀状のやり取りだけはしていたらしく、全ての縁が切れたわけではなかった。


「……では、今も尚、彼の実母のご実家とは連絡が取れると?」

「……えぇ、私の会社が危うかった時に、支援をして下さった御恩はありますから」


 ……なるほどとそこで幾つかのことが腑に落ちた。つまりはそう言うことなのだ。彼、隆二氏は若い頃に奥様と出逢い結婚したが、金銭的には会社独立なども有り、苦労していたのだろう。だがそこを奥様の実家が支援してくれた事で脱する事ができた……が、心労が祟った奥様が病気になり、そのまま亡くなってしまうと言う、不幸な結果に陥ってしまった。それでなくとも迷惑をかけた彼女のご両親に、流石の彼も合わせる顔がなかったのだろう。……だから、せめて息子だけはと思い、色々考えて……全部すれ違ってしまったと。


 ――互いの気持ちのすれ違いで、それをずっと続けた結果、気付いた時にはもう引き返せなくなってしまっていたのだ。


 ……歪に歪んだ愛情表現が、何時しかそれはもう、お互いを憎んでしまうほどに。


「木下さん、まずは彼、勇次君がどうして命を捨てようとしてしまったか。まずはその原因をお教えしましょう――」



「……そんな事、一言も聞いていな――」

「言える状況でしたか。……いえ、環境でしたか?」


 全ての説明を聞いた彼は俯き、大きかったはずの体は、小さく見えるほどに肩をすぼめて項垂れている。発する言葉は途切れ途切れになり、目は一点だけを見つめて、今にも何かが零れそうになっている。


「……木下さん。酷な言い方だとは思いますが、多分……些細なすれ違いだった想いはもう……埋められないほどに大きな溝になっていると私は感じま――」

「そんな! あれは、唯のワガママなだけ――」

「そんな訳無いでしょう! 貴方はあの傷を見たことがありますか?! 躊躇い傷もなく、ただ一息で! 骨に達するまで腕を斬っているんですよ?! そんな事、木下さん、貴方に出来ますか?!」

「――っ!」

「そこまで! そこまで彼は追い詰められていたんです! 虐められて、その苦しみから開放されたいんじゃなく!『生きたくない』と泣きながら私に打ち明けた、彼の心の内を貴方は理解しているんですか?!」


 思わず僕は彼を怒鳴りつけてしまっていた。


 いつまでも現実を受け入れず、相手を子供だと侮り続けるその態度に、さすがの僕も我慢の限界だった。


「いい加減、現実を受け入れて下さい。彼は確かにまだ十六歳と若い。……でもだからといって常識や理屈、社会の通りを知らない子供ではない! いやそう出来なくなっていたんです。……もう分かりますよね、彼が何故そうなってしまったか」


 その言葉がトドメの一撃になってしまったのか、僕を見上げる彼の大きく見開いた双眸から、ボロボロと大粒の雫がとめどなく溢れ、声を殺して肩を震わせ始めた。


「……クソ……俺なりに考えて、精一杯……あいつの為になると思って……なのに、クソッ」

「……そうかも知れません。……良かれと思ってした事が、裏目に出るなんて事は、まま有る事です。彼が本当に欲しかったものは、彼のお母さんと貴方との「三人の時間」だったんでしょう。……それこそは「子どものワガママ」と言えます。……けれど、それが二度と取り戻せないと理解っていたら……。彼にとってそれはトラウマと呼べるほど辛い経験になったんだろうと思います。そしてそれは」


 ――木下隆二さん、貴方にも言える事なんでしょう。


 その言葉を聞いた彼は遂に慟哭した。大の大人で、僕たち人目の前であるにも関わらず。椅子から転がるように地に手をつき、ただただ全てを吐き出すかのように。何時しか声が掠れ、鼻を啜る音がし始めると、ゆっくりとした口調で話し始める。



「……前妻の葬儀場で、あいつが初めて、俺に掴みかかって喚きながら怒ったんです。「お父さんは、僕やお母さんが嫌いなの?!」って。妻が苦しんでいる時に、どうして傍に付いていなかったんだと攻め立ててきたんです。……静まり返った葬儀場の真ん中で、俺は何も答えなかった。……いや、応えられなかった。……あいつ、勇次の真っ直ぐな目を見ていると、何を言った所で、全てが嘘になってしまいそうだったから。……だから多分、その時から。俺はまるで『蓋』をするように、アイツと正面から向き合えなくなったんだと思います。仕事に逃げ、『母親』をあてがい、家族を作って良い学校に通わせてやれば、本人も納得するんじゃないかって」


 

 まるで懺悔の言葉のように。


 紡ぐ言葉はゆっくりと。だが、そこに込められた一言ずつには全て、後悔の『重さ』が感じ取れた。



「……俺は、最初から間違えてしまってたんですね」


 言いながら上げた顔はまるで、何かを悟り、憑き物が取れたかの様に達観していた。……もちろん全てを納得し、理解し肯定しているのではないと思う。そうではなく、ただ勇次君を相対する一人の人として認識し、結果、自分の思っていた彼の行く末とは違う結末を、息子が選んだのだと思い知らされたのだ。……歪んでしまったけれど、彼は彼なりに勇次くんを思った末の行動だったはずなのに、それが徒労に終わったと悟るのは、『親』として、辛いのだろうと同情はできる……が、賛同は出来なかった。


「……そうですね。きつい言い方だとは思いますが、こうなってしまった以上『今の家庭環境』に彼を戻すのは難しいと考えます。そこで――」

「乃秋の実家……ですか」


 まぁ、最初に言い始めた伏線だ。彼も薄々は感じていただろうし、最後の文言で察しはついたのだろう。そこで看護師長に目線を送ると、彼女は一旦部屋を出ていき、暫く後にファイルを持って戻ってきた。



~*~*~*~*~*~*~*~



「……この書類は一応形式的なもので、「拘束力」を持っているわけじゃない。……それに、僕が渡した書類は一番上の一枚だけだったんだ。それ以外の書類は、お父さんが自分自身で追加し、昨日のうちに君のお母さんの実家にも行って、話をして来たそうだ。……お父さんは「覚悟」をしたそうだよ」



 ――君はどうだい?


 ――『生きる』ためにもう一度、覚悟を決めて、努力出来るかい?



 手が、体が……心の真ん中の、何かが大きく震えた。一瞬で目の間が滲んでしまい、喉の奥がすごく痛い。溢れ、零れるものを止められず、終いにはうーうーと声を上げてしまった。ベッドに蹲り、只々泣き崩れていると、ふわりと優しく包むように覆いかぶさってくる物。それは同じ様に涙声をしながら「良かったね、これから頑張ろうね」と優しく頭を撫でながら、いつまでも優しく、金木犀の香りと共に、声を掛け続けてくれる。



 ――日向先輩……貴女も母と同じ香りがするんですね。





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