第4話
――その人はずっと真っ暗な中に居た。……黙って俯いたまま、何も語らず。瞳は濁ったガラス玉のように見えて、その中には何も映り込んでいない。
……ただ路の端にぽつんと立ち尽くし、ややもすると、そのまま景色の中に溶けていってしまいそうで、ボクは気づけば声を掛けていた。
――こんちわ!
ふと顔の中心部に痛みを感じ、お陰で意識が覚醒すると、包帯の巻かれていない方の瞼に日の熱を感じて、朝の訪れに気がついた。ゆっくりと重い瞼を持ち上げると、ぼんやりとした意識の向こうで、白いものが動いているのが視界に入り、その輪郭がはっきりする頃、それが看護師であると認識できた。
「おはよう、勇次くん。気分はどう? まだ少し痛むと思うけど、包帯の交換させてね」
カーテンを開き、朝の新鮮な空気を取り込むために、少し窓を開けたのか、途端甘い香りが、白い部屋にオレンジの色を滲ませてくる。若い看護師さんが、起きた僕に気がついたのか、そう言いながら、ワゴンを傍に引き寄せると「じゃあ、ちょっとだけ我慢してねぇ」とポケットから小さなハサミを取り出して、顔に巻かれた包帯を外し始めた。……作業中、彼女は昨日の事を一切話そうとはしない。僕に気を使っているわけではなく、ただそういう暗黙のルールなのだろう。ここは病院と言う、ある意味で公の施設だ。昨日のあれは言わば「家庭の事情」と言うもので、無闇に話す様なことではない。だけど、事情については公然の秘密と言う、ちょっと変わった感覚に、思わず僕がクスリと口を歪ませると、痛がったと勘違いした看護師さんは「痛かった?」とわざわざ手を止めて聴いて来てくれる。
「……いえ、色々考えてたら、少し笑えてしまって」
「えぇ、なになに。なにか面白い事あったの?」
「――少し、変だなって」
「何が? 何が変なの?」
「……昨日の事です、この怪我の原因。事情についてはこの階の人達、看護師さん達なら全員知っているでしょう? 僕が父に殴られたって。……自分の息子に一週間の怪我を負わせるって、酷い親です。そんなことの原因や事情も知って居るのに、途中退場した僕には、何もなかったように接してくれる看護師さん。だけど、確かに考えてみれば、それは僕の家の勝手な事情で、簡単に他人に話すような内容じゃなくて……でも内情どころか全てを事細かに知っている……そう思ったらなんか変だなぁって思えて来て」
「……あぁ。……確かに。……フフフ確かにそうかもね。でも私達は患者さん達のお手伝いは出来るけど、その手助けまでは出来ないからね。……特にそう言う親子関係とかには」
僕の話にそう返して包帯を巻き終えると、いつもの検温をして「……でもこれだけは言っておくね。勇次君は一人じゃないよ」と笑顔で部屋を出ていった。
……何故だろう。今までこんな風に自然に話すなんて事、僕にはあり得ないことだった。いや、別に無言でやり過ごすなんて事はしない。質疑応答はきちんとするし、挨拶にしたって確かに小声ではあるけれど、ちゃんとする。人見知りはあれど、社会的な道理は弁えている。……ただそれらが受動的なだけであって、自分から能動的に、声を掛けるなんて事をしてこなかったはず――?!
彼女がドアの向こうに消える時、僕はふと、さっきまで見ていた夢を思い出していた。
~*~*~*~*~*~*~*~
「チェック終わりましたぁ」
ナースステーションに戻った彼女がそう声を掛けると「ご苦労さま」と誰からともなく返答が返ってくる。ワゴンに纏めた廃棄物を処理して、備品のチェックと補充を行い、書き込んだファイルボードを片手に中央のテーブルで患者毎の分別を行おうとした所で背後から山崎看護師長の声が掛かる。
「勇次君、どうだった?」
彼女はこの階の患者全てを一通り把握している。そんな中で、病状の気になることもそうだが、事、患者の内面、所謂メンタルには特に敏感だと思う。この階には病気入院している人は少ない。……ざっくり言えば、怪我や整形外科、又は皮膚疾患などと言った、所謂外傷的な入院が主になっている。故に、その対応範囲も広く、専門医もそれに合わせて多く出入りしている。……ただそれらの患者に共通して起きる悩みの一つに『外見』が有る。例えば、事故により指などが欠損した場合、現物が形を残しており、且つ、適切に保存された場合などは再建術式などが行われるが、それでも元通りとは言えない。縫合部は肉が盛り上がり、数年経っても一目で分かる。機能についても同じで、どれだけリハビリしようとも、そう言ったものには必ずと言っていいほどに可動限界が変わってしまう。また別の症例では火傷により、皮膚がケロイド現象に陥ってしまった場合など、規模や場所などに拠ってその対処は様々だが、特に皮膚移植などを行えば、それは顕著に現れてしまう。化粧などで誤魔化せる場合もあるが、やはりどうしても筋繊維自体が違ったりするので、「引き攣り」など、別の悩みが生まれることもある。……そう言った事から。この階に入院する患者の多くはそう言った「外的要因」のメンタルが非常に弱くなってしまう一面を持っている。逆に言えばそれだけ、『命の危機』からはまだ離れている分、そのケアを十分に行ってあげれば、患者自身が自立しやすいと言う面もあるのだが。
そんな中、山崎看護師長は他の看護師と違い、他階の患者ともかなり接触機会が多かったため、そう言った細かい部分の難しい機微にも聡くなっている。
「……体調の方は芳しくなかったですね。微熱も有りましたし、まだ腫れも引いておらず、鼻腔部からはまだ出血がありました」
「……そう」
「――あ、でも」
「なに?」
「……なんて言えばいいか。……今朝はかなり……お喋りだったような」
「お喋り?」
「えぇ。包帯交換の時、昨日の事とか――」
◇ ◇ ◇ ◇
「……ねぇ母さん、僕はこの先どうしたら良いと思う?」
今朝の朝ご飯を半分以上残して下げてもらった後、窓辺の椅子に腰掛けた母に何となく声を掛けてみる。彼女は寂しそうな笑顔をこちらに向けて、小さく頭を振るだけ。勿論返答が声で聴こえるなどとは思っていない。そんな事は重々承知している。……にも関わらず、思わず声に出してしまったのは、多分今朝の夢のせいだろう。
――あれは一体誰なのか? 僕が作った夢の中の産物か……それとも遠い昔の忘れてしまった記憶なんだろうか……。
ぼんやりと窓の方を眺めていると、母が不意に扉を見やる。釣られて僕も振り返ると同時、ノックの音と共に返事も待たずに開かれた。
「……お、おはよう、勇次君!」
僕と目が合ったことに一瞬の戸惑いを見せた後、言葉尻に行くほどその声は大きくなっていく。最後に僕の名前の部分の所では、ほぼ部屋中に響くほどになっていて、思わず僕は顔をしかめる。
「……病院ではお静かにして下さい、日向先輩」
「アハハ! ごめんごめん。まさか扉を開けた途端に、勇次君と目が合うとは思っていなかったからさ。お姉さん、ちょっとドキッとしたよ」
そんな事を言いながら、羞恥で少し頬を赤らめた彼女だが、態度は変わらずズカズカと、まるで自分の部屋かの様に僕が入っているベッドに腰掛ける。「コレ、お見舞いね」と床頭台に炭酸飲料のペットボトルをコトンと置くと、窓の方に目線を送ってから、わざわざベッドの上で座り直してこちらを向く。
「顔の方、痛い?」
それまでの話し方と全く違う口調で、抑えたトーンで少し上目遣いでこちらを覗き込んで来る。……まさかそんなしおらしい態度を見せられるとは思っていなかった僕は、その容姿も相まって、思わずドキリとしてしまい、動悸を抑えて「い、いきなりどうしたんですか?!」と誤魔化すように身じろいだ。
「……何言ってるの。怪我人には優しくするのが当然でしょ」
僕がそう言って後退る、彼女がズイと顔を寄せる。後退る、ズイ……結局ベッドの端にまで追いやられ、顔を横に反らせた途端、彼女が僕の真っ赤になった耳を見つけた。
「……ん? なんで耳が真っ赤に……あ!? もしかして照れてるの?」
「……っ!」
顔の半分以上が包帯に巻かれていたお陰で、顔の赤さは気にならなかったが、耳にはその羞恥がはっきり現れていた。
「だ、……急にそんな……」
「何ゴニョゴニョ言ってるの? ってか、ほんとに照れてたんだ! ヌフフフ! そうであろう、そうであろう。このお姉さんの美貌に、やっと気付いたかぁ」
その表情を表現するなら間違いなく『ニヨニヨ』だろう。目尻を下げ、口元をだらしなく開きながら眉をハの字にさせて、小首をかしげる様に僕の顔を覗き込む。そんなだらしのない顔を見ていると、流石に鼓動も落ち着きを取り戻し、深呼吸を一つしてから彼女の顔面にボフッと枕を押し付けた。
「ふが?!」
「あのですね、考えても見て下さい。僕は確かに怪我をしていますが、普通に男です。お恥ずかしい話ですが、女性とのお付き合いした経験はありません。なので、流石に先輩でも『女子』に分類されるんです。そんな人がいきなり近距離に来たら、いくら僕でもこうなります」
「にゃにおう?!」
照れ隠しと素直な気持ちがごっちゃになって、言ってから自分でも「何言ってんだ?」状態になり、先輩の妙な言い回しをスルーしていると、言われた彼女も、僕の発言に気がついたのか、持ち上げた枕をそのままぎゅっと抱きかかえて、「……ふんっ」とそっぽを向く。
――甘酸っぱいですねぇ。
「「わ(きゃ)あぁぁぁぁ!」」
気まずい空気が流れ、一瞬ふわりと甘い香りがした途端、ドアの隙間に顔だけを出した片桐先生が、ニコニコとしながらそんな事を言うものだから、僕らは同時に肩を跳ね上げて振り向いた。
◇ ◇ ◇
「いやぁ、ちゃんとノックしたんだよ。……でも二人の距離間を見てたらとても入りづらくて――」
言い訳を話しながらも、ずっと笑顔のまま先生は部屋に入ってくる。なにかの書類を床頭台に置いて話を続けようとした所で、先輩も流石にその場では恥ずかしかったのか、ベッドから降りて先生から距離を置くように椅子を引きずって離れた位置で腰を下ろした。
「あらら、なんでそんなに離れるのかな」
「デリカシーのない男性は嫌いです」
ぷっくりと頬を膨らませた先輩が、睨むように先生を咎めるが、赤く染まっている所為で、全くと言っていい程、言葉に覇気はない。「あはは、ごめんよ」と困り眉をしながらも、ついと言った感じで、笑ってしまいながら謝る先生に「もう回診ですか?」と僕が切り出すと、こちらを向いた先生は、小さく咳払いを一つ。
「……実は昨日、君のお父さんと別室できちんと話をしてね」
――勇次君。君、あの家を出たいかい?
まっすぐにこちらを見た先生が、そう言って僕にその書類を手渡してきた。
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