スカー
真花
スカー
女の裸で溢れていた。温泉は狭くて、のんびりするとか、ひと息つくとか、そう言うことをする隙間もない。お湯よりも肌色の方が多くてパン屋の陳列みたいだし、しかもどのグループも周囲のことなんか気にしないでおしゃべりに興じていて、小さな楽団が何個も乱立しているようにうるさい。空間を占拠しているのが温泉由来の湯気なのか、人間由来の汗と熱気なのか分からないが、浴場に入った途端に眩暈がした。こんなところにいたくない。最低限のことと挨拶をしたらさっさと帰らせて貰おう。
都会の秘境に今から行こうと
もう帰りたい私は肌色の群れの中から篠田さんと奥村さんを探す。見付からず、とりあえず体を洗って湯船にスペースを見付けて入ろうとしたら、
「今日は混んでいるわね」
「そうみたいね」
篠田さんは少し詰まったように、だがすぐにその引っ掛かりを乗り越えるように言葉を放つ。
「ねえ、田上さん。傷、見て」
私は全身にガラスが走ったかのように硬直する。どうして見せようと思うのだ。私は見たくない。どうして見たくないのだろう。人の痛みの証拠だからだろうか。病気の証だからだろうか。気持ち悪いのだろうか。不安になるのだろうか。分からないが、見たくない。
「いやよ」
「そんなこと言わずに。そのための裸なんだから」
そのためだったのか。私はもう一度、いや、と言ったが、篠田さんには届かない。この押し問答は私が折れるまで永久に続くだろう。早くここを出たい。息苦しい。
「分かった。見る。でも見るだけよ」
篠田さんは、ありがとう、と微笑む。その柔和さを真っ直ぐに受け止められない。私は首を折って、乳房を見る。左の乳房の上に親指くらいの傷があった。乳首は残っていたし、傷も大きくはなくて、想像上の術後とは違った。よかった。思いがポッとシャボン玉のように胸の中に浮かんだ。だが同時に見たくないものを見せられた泥のような感覚もあって、私は口を噤んだ。篠田さんが私の目を見る。
「どう?」
私は言葉を慎重に選ぶ。私達は関係性が崩壊する可能性のあるやり取りを今している。
「思ったより、小さかった」
「傷はもう痛くはないの。腕は上がりづらいけどね」
私達はそのまま少し黙った。裸で向かい合って立ったおばちゃんが二人、真剣な面持ちで見つめ合っているのを、他の人はどう見るだろうか。いや、自分達のこと以外関心はないだろう。おしゃべりは止まないし、誰も温泉から出ない。私は眩暈の予感がした。
「ちょっと体調がおかしいから、もう出て、先に帰るね」
篠田さんは、残念ね、と全く残念そうではない声を出した。目的は済んだのだろう。私は篠田さんを置いて温泉を出る。出がけに奥村さんを見付けて、事情を説明した。奥村さんは本当に残念そうな声を出した。
私は体を拭いて服を着て、温泉を出る。
電車に乗り、温泉から安全な距離が出来たとき、胸の中が沸々として来た。どうして傷を見せられたのだろう。見たくなかった。もう見なかったことには出来ない。私の中に傷が刻まれてしまった。疑問はまるで炎で焼かれるように怒りに成って、このまま自分で持っているとおかしくなりそうだった。だが、この怒りの正体が分からない。よかった、と確かに思ったのに、それはもう弾けてしまった。このままではいけない。私は、親友に助けを求めることにした。駅で降りて、電話をかける。すぐに出てくれた。
「……と言うことで、今、怒ってるんだけど、どうしてだろう」
親友は、はは、と笑うと、それは簡単なことだよ、と言った。
「その人が抱え切れない、不安とか痛みとか、多分、怒りもふんだんに、を押し付けられたんだよ。傷を見せることで、君にも傷を付けた。それが通り道になってたっぷりの負の感情とちょっぴりの『よかった』が流れ込んで来たんだ」
「じゃあ、私はどうすればいいの?」
「半分は自然に消えるのを待てばいいし、もう半分は僕に話せばいい。どぶさらいをするようなものだからね。いずれ傷自体も忘れるよ。大丈夫」
電話を切ったら、胸の怒りは半分以下になっていた。だがまだ半分弱残っている。私には親友がいるが、篠田さんにはそう言う人がいないのかも知れない。それで、私を選んで、ひとりで抱え切れないものをぶつけたのだ。空が夜に染まろうとしている。私は、しょうがないね、と呟いて帰路に就いた。そう言うと、少し赦せそうな気がした。だが、家に着くと服を脱いで、鏡の前で何度も乳房に傷がないかを確かめずにはいられなかった。
(了)
スカー 真花 @kawapsyc
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