スカー

真花

スカー

 女の裸で溢れていた。温泉は狭くて、のんびりするとか、ひと息つくとか、そう言うことをする隙間もない。お湯よりも肌色の方が多くてパン屋の陳列みたいだし、しかもどのグループも周囲のことなんか気にしないでおしゃべりに興じていて、小さな楽団が何個も乱立しているようにうるさい。空間を占拠しているのが温泉由来の湯気なのか、人間由来の汗と熱気なのか分からないが、浴場に入った途端に眩暈がした。こんなところにいたくない。最低限のことと挨拶をしたらさっさと帰らせて貰おう。

 都会の秘境に今から行こうと篠田しのださんに仕事の終わりに誘われて、正直乗り気ではなかった。奥村おくむらさんも行くから、三人で久し振りに羽を伸ばそうよ、と篠田さんはいつになく積極的だった。だが温泉に行くと言うことは裸を見ると言うことだ。本人は気にしていないのかも知れないが、私はそれが気になってしまった。篠田さんは乳がんの手術を受けて、まだ後遺症で腕が上がりづらいと、二週間前に電話で話したばかりだった。だがこうも温泉に行きたがるのだから、そう言う複雑なところは脇に置いておけるような気持ちに篠田さんはなっているのかも知れない。私は見たくなければ見なければいいだけの話だ。篠田さんの言うとおり、三人でつるんで何かをするなんて何十年ぶりのことだし、たまにはそう言う日があってもいいのかも知れない。私は首を縦に振った。とっておきの温泉に連れて行ってくれるそうだ。

 もう帰りたい私は肌色の群れの中から篠田さんと奥村さんを探す。見付からず、とりあえず体を洗って湯船にスペースを見付けて入ろうとしたら、田上たがみさん、と声をかけられた。篠田さんの声で、私は胸の傷を見ないように注意しながら、振り返る。案の定、タオルで隠したりはしていなかった。私はまるで首が下に曲がらないロボットのように篠田さんの顔だけを見る。篠田さんが半歩近付く。

「今日は混んでいるわね」

「そうみたいね」

 篠田さんは少し詰まったように、だがすぐにその引っ掛かりを乗り越えるように言葉を放つ。

「ねえ、田上さん。傷、見て」

 私は全身にガラスが走ったかのように硬直する。どうして見せようと思うのだ。私は見たくない。どうして見たくないのだろう。人の痛みの証拠だからだろうか。病気の証だからだろうか。気持ち悪いのだろうか。不安になるのだろうか。分からないが、見たくない。

「いやよ」

「そんなこと言わずに。そのための裸なんだから」

 そのためだったのか。私はもう一度、いや、と言ったが、篠田さんには届かない。この押し問答は私が折れるまで永久に続くだろう。早くここを出たい。息苦しい。

「分かった。見る。でも見るだけよ」

 篠田さんは、ありがとう、と微笑む。その柔和さを真っ直ぐに受け止められない。私は首を折って、乳房を見る。左の乳房の上に親指くらいの傷があった。乳首は残っていたし、傷も大きくはなくて、想像上の術後とは違った。よかった。思いがポッとシャボン玉のように胸の中に浮かんだ。だが同時に見たくないものを見せられた泥のような感覚もあって、私は口を噤んだ。篠田さんが私の目を見る。

「どう?」

 私は言葉を慎重に選ぶ。私達は関係性が崩壊する可能性のあるやり取りを今している。

「思ったより、小さかった」

「傷はもう痛くはないの。腕は上がりづらいけどね」

 私達はそのまま少し黙った。裸で向かい合って立ったおばちゃんが二人、真剣な面持ちで見つめ合っているのを、他の人はどう見るだろうか。いや、自分達のこと以外関心はないだろう。おしゃべりは止まないし、誰も温泉から出ない。私は眩暈の予感がした。

「ちょっと体調がおかしいから、もう出て、先に帰るね」

 篠田さんは、残念ね、と全く残念そうではない声を出した。目的は済んだのだろう。私は篠田さんを置いて温泉を出る。出がけに奥村さんを見付けて、事情を説明した。奥村さんは本当に残念そうな声を出した。

 私は体を拭いて服を着て、温泉を出る。

 電車に乗り、温泉から安全な距離が出来たとき、胸の中が沸々として来た。どうして傷を見せられたのだろう。見たくなかった。もう見なかったことには出来ない。私の中に傷が刻まれてしまった。疑問はまるで炎で焼かれるように怒りに成って、このまま自分で持っているとおかしくなりそうだった。だが、この怒りの正体が分からない。よかった、と確かに思ったのに、それはもう弾けてしまった。このままではいけない。私は、親友に助けを求めることにした。駅で降りて、電話をかける。すぐに出てくれた。

「……と言うことで、今、怒ってるんだけど、どうしてだろう」

 親友は、はは、と笑うと、それは簡単なことだよ、と言った。

「その人が抱え切れない、不安とか痛みとか、多分、怒りもふんだんに、を押し付けられたんだよ。傷を見せることで、君にも傷を付けた。それが通り道になってたっぷりの負の感情とちょっぴりの『よかった』が流れ込んで来たんだ」

「じゃあ、私はどうすればいいの?」

「半分は自然に消えるのを待てばいいし、もう半分は僕に話せばいい。どぶさらいをするようなものだからね。いずれ傷自体も忘れるよ。大丈夫」

 電話を切ったら、胸の怒りは半分以下になっていた。だがまだ半分弱残っている。私には親友がいるが、篠田さんにはそう言う人がいないのかも知れない。それで、私を選んで、ひとりで抱え切れないものをぶつけたのだ。空が夜に染まろうとしている。私は、しょうがないね、と呟いて帰路に就いた。そう言うと、少し赦せそうな気がした。だが、家に着くと服を脱いで、鏡の前で何度も乳房に傷がないかを確かめずにはいられなかった。


(了)

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