ガラスの思い出

🔨大木 げん

ガラスの思い出


「お前とはもう終わりにしたい」


 突然、彼がそんな事を言い出した。


 近頃はラインの返信も遅く、愛情にかげりが見え始めたと思ったらこれだ。美大を卒業してすぐに付き合った彼氏だったので、七年の付き合いになる。それだけ付き合えば薄々は彼の気持ちが離れかけていたのを感じていた。私は今でも彼の事が好きだし、このままいつかは結婚するものだと思っていた。彼からのプロポーズをずっと待っていたのだ。


 私は今29歳だ。女の盛りを全てこの男に捧げたということだ。こいつはその事をわかっているのか? わかっていないのだろうな。そういう奴だというのも私は知っている。悔しい。どうしようもなく感情が溢れてくるが、こいつにその事を悟られるのは余計に腹立たしい。


「あっそう。わかった。二度と連絡してこないで」


 私はそう言い放って、財布から自分の分の料金をテーブルに置き席を立つと、彼の方を振り返らずに離れて行った。溢れてくる涙を彼には見られたくない。店の外に出ると親友に電話をした。私の涙声にすぐさま異変を感じた親友は今すぐ家に来いと誘ってくれた。その言葉に甘えて私は親友の家に行き一晩中泣いた。



 

 あれから一年以上が過ぎた。


 彼の事を忘れるべく、仕事のガラスアートやとんぼ玉の制作に今まで以上に熱中した。休日は一人で各地の美術館・博物館巡りを頻繁に行い目を養っていく。その甲斐があってか元々及第点をもらっていた制作の方も、師匠の元を離れて独立してもこの先食べて行けるだろうと、太鼓判を押してもらえた。

 

 いずれは独立するべく開業資金を少しずつ貯めてはいたものの、目標額にはまだまだ遠い。今のペースではだめだと判断した私は、友人の紹介もあり稼げる仕事として、夜にキャバクラでキャバ嬢として週二回アルバイトをする事にした。最初はお水の世界に少し抵抗があったが、性を売るわけではないしすぐに慣れた。


 慣れてきた私が、もう一日二日増やそうかと繁華街の求人募集を見ていると金額が魅力的なちょうどいいアルバイトが見つかった。募集年齢は三十歳以上五十歳未満という『熟女バー』だ。世間の認識では、私はすでに熟女!? その扱いに信じられない思いをしつつ、元カレへの怒りが再燃した。


 昼の仕事と週四回のアルバイトをこなしていたある日、キャバクラの方に三十五歳位と二十五歳位の二人組がやってきた。会社の先輩と後輩の間柄らしい。このセンパイはかなりのセクハラ野郎で、事あるごとにボディータッチをしてくる。やんわりといなしていると、胸まで揉んできやがった。ムカついたので手をつねりあげ高いお酒を注文してやった。うちはおさわり禁止だっつーの。


 それを見ていたコウハイ君は苦笑しながらこっそりと謝ってきた。「うちの先輩がすみませんね、後で言っておきます」そう言う彼の横顔がなんとも小動物的でかわいかったので、胸のムカつきがスッとした。不思議なものだ。


 私達が談笑していると、反対隣の嬢と話していたセンパイがこちらの雰囲気に気付き声をかけてくる。「おぉ、いい雰囲気だなお前ら。ちょっとリエちゃん、そいつ1年以上前に女に振られてから、まだずっとメソメソしてるから慰めてやってよ」


 『リエ』というのは私の源氏名だ。そうか、そうなのか。このコウハイ君は私と同じなんだな。親近感がわくよ。じゃあお姉さんとして、優しく慰めてあげよう。




 その次の週にもあの二人組はやってきた。二人は左官屋さんで、出張でここ小田原に来ているんだそうだ。私も知っている有名な大きなお寺の工事で半年はいるらしい。コウハイ君は伊豆出身で、『伊豆の長八』の鏝絵こてえに感銘を受けて左官屋になったそうだ。


 彼も博物館や美術館巡りが趣味らしく、話が盛り上がって箱根のガラスの森美術館に一緒に行く約束をしてしまった。お客さんと店外で会う約束をするなど初めてのことだった。やってしまった感がある。今更冗談で済ますのはかわいそうだし、こっそりと連絡先を交換した。




 次の日曜日、小田原駅前で待っているとコウハイ君が車で迎えに来てくれたので、箱根のガラスの森美術館へと向かう。


「コウハイ君、車出してくれてありがとね」


「コウハイ君はやめてくださいよ、リエさん。僕の名前は光一こういちって言うんですよ、この間教えたでしょう」


「そうだったね。じゃあ、めんどいからコウ君ね」


「めんどいって、ひどいなぁ」


「明るい時間に会うのは初めてだから、私に幻滅したりしなかった?」


「いやいや、夜の蝶は昼間でもお綺麗ですよ。僕はリエさんの今の薄めの化粧の方が好きですよ」


「薄くはないけどね。夜は薄暗いからラメ入れまくったりして濃くしてるからね。それと外では結依ゆいって呼んでね。地元だから知り合いに会った時に源氏名で呼ばれる方が困るかな」


「わかりました、結依さん。」


 そんな事を話しながら箱根のガラスの森美術館に着き、よく来る私が案内する形で色々な話をしながら美術館を楽しんだ。そして家路につく為に小田原駅で降ろしてもらおうと思ったら······間違って、ロータリーの進入禁止の部分に入ってしまい、目ざとく現れた警察官により違反切符を切られてしまった。


 彼のしょんぼりとした横顔を見ると罪悪感にさいなまれてしまう。もう少し早くそっちじゃない、と言ってあげれば良かったのだけれど気付いた時にはもう進入禁止に入り込んでいたからだ。楽しい思い出として今日を終わらせたかったのだが、これじゃあ締まりが悪い。なんとかしてあげたくなって、思いついたある提案をする。


「今日はまだ時間ある?」


「時間は大丈夫ですよ、大丈夫じゃないのは財布です」


「じゃあもうちょっと時間頂戴ね。一旦駅前から離れて海の方に向かってもらっていい?」


「わかりました」


 私の案内で海辺のパーキングに停めてもらうと、先程考えた提案を切り出す。 


「さて、コウ君。お店で聞かされた君の失恋話なんだけど、今でも元カノさんの事好きなんでしょ?」


「そうですね。振られた直後はマジで死んでしまいたいくらい好きでしたし、今も忘れたくても忘れられません」


「そっか。前にちらっと話したけど、私もなんだ。軽く男性不信だし。しかも一向にふっ切れる気配が有りません。······そこで提案です。似た者同士、私とリハビリしませんか?」


「はい?」


「だからリハビリです。今のままでは二人共失恋の傷は一生治りそうにないから荒療治です。リハビリ期間は君の小田原出張が終わるまで。途中で気になるお相手が見つかったらお互いに束縛しないでフェードアウトする。良く言えばリハビリ。契約恋人? みたいな感じ。悪く言えば負け犬同士の傷のなめあい」


 照れ隠しもあり、早口にまくし立てる私に、コウ君はぽかんとした顔のまま言った。


「えっと、なんで僕なんですか?」


「君の事がほっとけないと思ったからかな。君は······そう、君は私なの」


「······そうですか。僕もいい加減前に進みたいとは思っているんですよ。でも良いんですかね、そういう関係で」


「良いんじゃない? お互い大人なんだし」


「そうですね。それじゃあリハビリ・・・・よろしくお願いします」


「ん。お互いに頑張らないように、気楽にいきましょう。これは契約の証ね」


 そう言って、私は彼の首と頬に手を添えてキスをした。


 その日はそのまま自宅付近まで送ってもらってわかれた。


 それからは二週間に一度くらいの間隔でデートをする事になった。近隣の博物館や美術館に行ったり、公園で並んで写生したりしたが、彼は本格的なデッサンを習ったことがなく、自己流なので私が教えてあげる事にした。


 私の自宅で静物のデッサンをした日には、そのまま最後の一線も越えた。それからは室内でデッサンをしたり、お互いにガラスのとんぼ玉作りや、鏝絵こてえを教え合うことが増えた。ガラスの加工や絵を描く技術という、今後忘れえないモノを彼の中に染み込ませていくその時間が、私にはたまらなく心地よかった。二人の傷のなめあいはどこまでも甘美だった。


 


 楽しい時はあっという間に過ぎてしまった。


 ついに六ヶ月経って彼の仕事も終わり、出張も終わった。

 今日は最後のお別れの日だ。

 彼は寂しげな表情で口を開く。


「向こうに戻っても連絡するからね」


 泣けることを言ってくれるじゃないの。でも私は今日きちんと決めてからここに来ている。


「それはやめておいた方がお互いの為だよ。きちんと約束通りに終わりにしたほうが、ちゃんと前に進めると私は思う」


「無理して約束を守る必要なんかなくない?」


 首を振り、私は答える。


「私のケジメなんだよ。縁があればまた会えるよ。そうじゃなければ······結婚が決まった時だけ連絡して、私もするから」


「······そっか、わかったよ」


「一つだけ聞かせて。どう? 失恋の傷は癒えた?」


「わからないな。でも心がずっとその事に支配されることはなくなったよ。結依さんのおかげでね」


「それは良かった。お互い様ね。それじゃあ名残り惜しいけど、ばいばい」


「うん、じゃあね」


 車に乗り込み走り去る彼を見送る。ふと上を見ると公園の五分咲きの桜から、ひらひらと花びらが落ちてきた。春は出会いと別れの季節だと言うけれど、私はここのところ別ればかりだな。


 早くも失敗したかな、などと弱気な心がわいてくるが、これでいいのだ。このまま彼を繋ぎ止めるのはなんだか最初に騙したみたいで、この先ずっと気持ちが悪いじゃないか。でもやっぱり泣けてきて、また親友のお世話になった。





 あれから二年が過ぎた。

 今日は実に珍しい人からラインで連絡がきた。


『今年の六月に結婚します。その節は本当にお世話になりました。お陰様できちんと向き合える人と出会えました』

 

 なるほど、実にめでたい。

 約束を覚えていてくれたのね。先を越されたな。返事を書かないと。




『報告ありがとうございます。先を越されたましたね。ガラス工房は無事に開業できました。

 そして······私も今年の十二月に結婚します。君のおかげです。ありがとう』


  

   ――了――

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