第36話 悪役貴族、従者と心を通わせる
エリスを見送った後、俺はようやく一息ついてベッドに横になった。
丸一日以上眠りこけていたらしいが、まだ疲労が残っている。早く全快して日常に戻れるよう、休息に努めることにしよう。
ベッドの中で丸くなり、久々に安らかな休息を得る。
思えば、前世の記憶を取り戻して以来、ずっとこういう平和な一日を望んでいたのだ。
のどかに
重たいまぶたを開くと、ベッドのそばにサディアが立っていた。
彼女も医務室で療養しているらしく、生地の薄い入院着のような服を着ている。
窓から差し込む昼の日差しの中で、彼女は今にも消え入りそうなほど暗い顔をしていた。
俺はベッドの上で身体を起こすと、彼女に話しかけた。
「サディア、君もここで休んでたのか」
「……はい」
「君も病み上がりなんだろ? そんなところに立ってないで、座って話さないか?」
「……はい」
サディアは暗い表情を浮かべたまま、ベッド横の椅子に腰を下ろす。
いつもより一層無口なサディアに戸惑っていると、彼女は迷子の子どものようにか細い声で言った。
「ゼオン様、『
「いや、君を奴隷にしたことがそもそも間違いだったんだ。これからは君も自分の人生を生きてくれ。故郷に戻りたいなら、俺の従者を辞めても構わない。もちろん――」
学院に残ってくれるなら大歓迎だが――と言い終える前に。
サディアの目からぼろぼろと涙がこぼれ出して、俺は絶句した。
どれだけ
いや、違う。俺の従者という地獄の生活を乗り越えて、ようやく手に入れた自由を喜んでいるのだ。
俺は胸がちくりと痛むのを感じたが、それをぐっと堪えた。
「……君が望むなら、君が新しい生活を送れるように手配する。だから、何でも遠慮なく言ってくれ」
俺が無理に笑いかけると、サディアはまだ涙を流し続けながら、感情を押し殺した声音で言ってくる。
「……本当に申し訳ありません、ゼオン様。ハガンと戦った時、あんな大口を叩いたのに……カティナ相手に手も足も出せず、完全に足手まといになってしまいました」
「ん? いや、カティナは普通に相手が悪すぎたからな……仮にジークやロレインが一緒にいたとしても、たぶん君と同じだったと思うぞ」
「ですが……」
サディアは一瞬だけ言い
「ゼオン様は……私が不要になったから、『隷呪の首輪』を解呪したのでは?」
……………………は?
とんでもない誤解に、俺はあごが外れるほどぽかんと口を開けていた。
事の流れを冷静に振り返ってみる。
ハガンとの戦いで―――サディア曰く――大口を叩いた後、
意識を失っている内にカティナは倒されており、目が覚めてすぐに『隷呪の首輪』を解呪された。
そして今、
…………確かに、誤解されても仕方がないかもな。
俺は苦笑してから、サディアの頭に手を置いた。彼女の頭をぽんぽんと叩きながら、俺はなるべく優しい声音で告げる。
「君との奴隷契約を破棄するのは、そんな理由じゃないよ。前にも話した通り、君に自由を返すべきだと思っているからだ。それに……」
「……他にも何か理由があるんですか?」
すがるような上目遣いで問われ、俺は気恥ずかしさを感じながら答える。
「俺は、君と対等でいたいんだよ」
サディアが「わけがわからない」といった顔をするので、俺は顔が熱くなるのを自覚しながら続ける。
「奴隷契約なんかで、君がそばにいることを強要するんじゃなくて……君に望まれて、そばにいてもらえるような人間でありたいんだ」
正直な思いを伝えると、徐々にサディアの顔に血の気が戻ってきた。
頬がほんのりと朱に染まり、すがるように向けてきていた視線が動揺したように泳ぎ出す。
本音をぶちまけたせいで、俺も羞恥でサディアのことを正視できなくなってきた。
彼女の頭から手を下ろすと、視線を
「ま、まぁそういうわけだから、君は今後の身の振り方を時間を取ってちゃんと考えてくれ。君がどういう選択をしても、俺はそれを全力で応援するから」
「……あの。もうひとつ、言いたいことがあるんですが」
呼び止められ、俺は恐る恐る彼女に視線を戻す。
サディアは泣いて赤くなった目でじっと俺を見つめながら、いつものように感情の
「エリスから聞きました。私が心配停止状態になった時、ゼオン様が真っ先に応急処置をしてくれたと」
「あ、あぁ……それがどうした?」
「それはつまり……ゼオン様は、意識がない私から、強引に唇を奪ったということですね?」
「そっ、それは……そうなんだが。さすがに人聞きが悪くないか?」
「いえ。うら若き乙女の唇を了承なく奪ったのですから、相応の報いは受けていただきます。これでも、ファーストキスだったんですから」
サディアは眼光を鋭くして、持ち上げた右手をぐっと握りしめて見せる。
…………まぁ確かに、サディアみたいな美少女のファーストキスを奪ったんだから、グーで殴られるくらい安いものか。
俺は内心で嘆息をもらしながら、拳の痛みに備えるために目を閉じ――
――次の瞬間、唇を襲う甘く柔らかな感触に、目を見開いた。
目を開けると、鼻息を感じられるほど近い距離に、目を閉じたサディアの顔があった。
唇に感じる、とろけるようなサディアの唇を味わう余裕もなく、俺は脳天を貫くような甘い
永遠にも感じる長い数秒の後、サディアは何事もなかったかのように立ち上がると、俺に背を向けた。
「用事はすみました。では、私はまた回復に努めさせていただきます」
一人呆然としている俺を残して、サディアはそそくさとパーティションの向こうの自分のベッドへ戻ろうとする。
…………え? あんなことをしておいて、そんなドライなの? エルフってそういう文化なわけ?
俺は困惑しながらサディアの背中を見送り――彼女の長く尖った耳を見て、ようやく気づいた。
彼女の耳は、火がついたように真っ赤になっていた。どうやら、動揺しているのは彼女も同じだったようだ。
唇に残った感触と、バクバクと鳴って
悪役貴族に転生したけど、今度こそ平穏に生きたい〜戦乱に巻き込まれたくないので、主人公の太鼓持ちになる予定だったのに〜 森野一葉 @bookmountain
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