執行猶予の向こう側

並木空

執行猶予の向こう側

 それから逃避行するのは、いつだってこんな言葉からだった。


「かったるーい。

 ね、ケースケ。どっか行こ」


 幼なじみのチルハの口癖だった。

 ケースケの3倍ほど高性能なチルハは、当然、テストの結果も3倍も良かった。

 幼稚園のころからの事実だったし、ケースケもそれに慣れていた。

 が、この時期になれば、どうしたって状況は変わってくる。

 出来の良すぎる幼なじみに、苛立ちを感じることが増えてきていた。

「どっかって、どこに行くんだよ」

 ケースケは世界史の参考書をめくる。

 社会科の教師の趣味なのか、ヨーロッパ史が全滅なのだ。授業時間の削減は変なところにしわ寄せが来る。

 完全、週休二日制って失敗なんじゃないか、とケースケは思ったりもする。

 土曜日にこうして勉強してるんだったら、授業を受けたほうが100倍ぐらいマシなような気がする。

「とりあえず、どっか」

 参考書の上に載せられていた赤い下敷きを、チルハの白い手が取り上げる。

 目隠しをされていた要チェックな文字列たちが鮮やかに浮かび上がる。

 しぶしぶ、ケースケは顔を上げた。

「わけわかんねぇーよ。それじゃ」

「だって暇じゃん。

 暇すぎて、死にそー」

 予備校の空き教室に、チルハのわがままがこだまする。

 あいにく自習室は埋まっていてたし、チルハがいるなら空き教室のほうが都合が良かった。

 幼なじみのおしゃべりは遠慮という単語が欠落している。

 ケースケの隣の机の上に腰掛けたチルハは、スカートの下の長い脚を小さな子どものようにぷらぷらさせていた。

 長袖のブラウスに、膝が見える程度のプリーツスカートというのは、チルハを構成する記号のようなものだった。

 学校のないときでも、チルハは制服のような格好をしていた。生まれたときから幼なじみをしているが、チルハがこれ以外の姿をしているのは、ピアノの発表会と正月と体育の授業のときだけだ。

「そんなことぐらいじゃ、人間は死にません」

 ケースケはチルハから赤い下敷きを取り返す。

 歴史的で、多くの人間の人生を変えた過去の出来事も、今のケースケにとっては、パズルの中の1ピースにしかすぎない。

 パサパサに乾いた無味無臭なものを無理やり飲み込むように、ケースケは文字列を頭の中に叩き込む。

「当たり前のこと言わないで。ツマンナイ」

 チルハはすぐにツマンナイという。

 飽きるのも早ければ、興味が移るのも早い。

 何かに熱中していても、一秒後にはツマンナイと言い出すことだってある。

 ケースケの日常の大部分は、チルハの気まぐれに振り回されることで占められていた。

「暇なら勉強すれば、一応受験生になったじゃん」

「イチオーだよ。

 推薦、受けるし」

「小論文だけは練習すれば?」

「今から?」

 そんなことをする必要なんてないって顔をして、チルハは聞き返す。

「今から。

 新聞も読んどけば? 暇はつぶれるし」

「そんなの一月前から始めれば、ヨーユーっしょ」

 受験生とは思えない発言をする。

 不安や心配というものが、チルハには薄かった。

 サランラップ並みの薄さに違いない、とケースケは変な確信を持っていた。

「チルハ様様だな。

 俺、マジでキレそう」

「ケースケが?

 似合ってないよ。キャラ」

「受験勉強してるんだから、邪魔しないでください。

 チルハ様」

 暴君に仕える不運な家臣のように、ケースケは芝居がかった口調で言う。

「こんなことしても意味ないよ。

 効率良い?」

 チルハは机からすべりおりると、ケースケの参考書を取り上げる。

 辞典並みの厚さのそれは、ケースケの片手にちょうど良かったけれども、チルハの両手には重かったようだ。

 ニュートンのリンゴのように、参考書は床と正面からキスしようとする。

 それをチルハの両手が危なげに阻止した。

「チルハが話しかけてくるから、半減」

 半減どころか、チルハが来てから全滅だった。全然、ページが進んでいない。タイムリミットは明確に提示されているのだから、無駄にできる時間は全くといって良いほどないのに。

 返して、とケースケは手で示す。

「だよねー。

 どっか、遊びに行こ」

 チルハは背中に参考書を隠す。

 返す気はない、ということだった。

 立ち上がって強引に取り返したら、チルハはキンキン声でわめくだろうし、全力で抵抗するだろう。

 ビジュアル的に好ましくない状況に陥るのはわかっている。

 チルハの興味が他に移るまで、ケースケは耐え忍ぶしかない。

「一人で行けば?」

「寂しいじゃん」

「お友だちと行けば?」

「いないもん」

 チルハは即答する。

 いつも一緒にいるチルハの友だちの顔を、ケースケは必死に思い出す。

 クラス替えがあったばかりとはいえ、同じ学校に三年もいれば、それなりに名前を覚える。

 ケースケは顔と苗字を一致させることに成功した。

「……北村とか長谷川と仲良いじゃん。

 友だちじゃないわけ?」

「ケースケ、意外にチェックしてるんだね。

 隅に置けないなー。

 キタちゃんはマイハニーで、かわっちはマイスウィート」

「違いがわからない」

 ケースケは正直に言う。

 捕虜に成り下がった参考書に比べたら、どうでもいいようなことだった。

 クラスの女子の可愛さに多少の興味はあったが、誰それが一番と順位をつけるほど、ケースケはがっついてはいなかった。

 どうせ卒業と同時に別れ話が出るような、気軽なお付き合いというものに時間を割いている余裕はない。

 チルハで手一杯だ。

「ほら、どっちもタイプが違うじゃん。

 両手に花をするんだったら、やっぱタイプが違うほうがオトコのロマンじゃありませんか」

「いや、女に男の浪漫を語られても……微妙なんっすけど」

 クラスのヤツらに見せてやりたい、とケースケは思った。

 3倍高性能な幼なじみは、猫の被り方もケースケの3倍は上手だった。

 学校推薦枠を見事に勝ち取ってみせたのだから、内申書はまずまずのことが書いてあるのだろう。

 羨ましいかぎりだ。

 チルハは「人生得して生きる」というフレーズを体現しているように思えた。

「ケースケは細かいこと気にしすぎ」

 ケタケタとチルハは笑う。

「両手に花で、どっか行けば良いでねーの」

 粒ぞろいの良い女子高生が3人で街まで出れば、軽くて適当な男が釣れるだろう。

 そいつらに飯をおごらせて、遊び代も持ってもらって、飽きたところで理由をつけて逃げてくれば、一日ぐらいの時間は潰せるはずだ。タダで遊べて、良い事尽くめだろう、とケースケは思っていた。

 逆がないのが、性差というものなのだろう。理不尽さを感じなくなかったが、ぐだぐだ言っても意味のないところだ。

 とにかく、ケースケの受験勉強のためにも、チルハには適当な場所へ行ってもらわなければならない。

「目の前にケースケがいるから、誘ったんだけど」

 チルハは上機嫌に言った。

「マジで。それは俺も気がつかなかった。

 誘われていたんだ。

 てっきり嫌がらせに来たのかと思ってたよ」

「ね、どっか行こ」

 チルハが言う。

 こうなると、幼なじみのしつこさは、髪についたチューインガムだった。

 へばりついて取れない。覚悟を決めて切ってしまうか、油を用意するしかなかった。

「これから、どこに行くんだよ」

 ケースケは念のために訊いた。

 答えはわかっている。

 でも、違う回答がいつか返ってくるんじゃないかと思って、尋ねてしまう。


「とりあえずここじゃない、どっか」


    ◇◆◇◆◇


 一路、南を目指して。

 目的地は気が向いた方向だ。チルハが右といえば右折して、左といえば左折する。

 自転車の荷台に乗ったチルハは、また少し軽くなっていた。

 腰に回された腕も細くなったような気がする。

「朝起きたら、0.5キロも重くなってたんだよ。

 チョー、ショック」

 背中にチルハの頬や胸の柔らかさを感じる。

 モデル並みのボディの細さ、は褒め言葉ではない。小学生のころから変わっていない肉感には、新鮮さやときめきといった恋に重要そうな条件が見事に欠けていた。

 だからこそ、ケースケは変な意識をせずに、チルハと一緒にいられるのだろう。

「どうせ夜食に菓子とか食べてんだろ」

 ケースケは混ぜっ返す。

 チルハはそのうち風船にでもなるんじゃないか、と思う。

 体感できないような風にゆらゆらと頼りげなく揺れて、ふとした瞬間にぷっつりと糸が切れて、どっかに行ってしまう。

 そんな、胃がずっしりと重くなっていくような予感がしていた。

「男は良いよねー。

 体重とか気にしなくって良いから」

「なわけないじゃん。

 デブとか、『キモーイ』とか言ってんのどこの誰だよ」

「あはは。

 だって、ホントのことじゃん」

 背中越しに聞くチルハの声は、いつだって陽気なものだ。

 カラッとしていて、湿度というものがなく、悪意を感じなかった。

「キモイとか言うほうが、よっぽど気持ち悪いけどな」

「ケースケは真面目だね。

 イジメられるよ」

「チルハ様にすでにいたぶられてますから」

「マジでー。それってサイアクー」

 軽快なラ音のチルハの笑い声。

 思い悩むという言葉がこれほど不釣合い声もないだろう。

 深刻なチルハ、というものがネタのような気がしてくる。

「桜、散っちゃったね」

 6枚切りの食パンに塗るカロリーオフのマーガリンよりも、軽くチルハが言う。

「……これ以上、プレッシャーかけないでくれる?」

「受験なんて先だよ。

 一年ってスッゴイ先じゃない?

 もう先すぎて想像つかないんだけど」

 悠長なことをチルハは言う。

「みんなが想像してる先だよ」

 ケースケは言った。

 模試の結果はいつもB判定。なかなかAが出ない。進路指導の教員も渋い顔をしてた。

 受験はリアルなことで、試験日までのスケジュールには逃げ場がない。

「大学に行ったって、どうせ同じだよ。

 勉強して、遊んで、ご飯食べて、それハイセツして。

 ビョーインとかあわてて行ったりするんだよ。

 気がついたらパパにされちゃうよ、ケースケなんて」

 チルハの明るい声が不安を誘うようなことを言う。

「俺の夢、壊すなよ。

 どっかにシャイな女の子がいるはずだって信じてるんだから」

「女なんて、どれもイッショだって。

 幻想抱いてると、後がツライよ」

 女のチルハがいうと違和感のある言葉だった。

 事実だとしても正直すぎる。仮にも異性であるケースケに言うようなセリフではない。

 規格外なのが幼なじみの特性とはいえ、ルールを逸脱しすぎているような気がした。

「チルハもその一端かよ」

 ケースケは突っ込みを入れた。

 それを華麗にスルーして、チルハが口を開く。

「何か、生きてんのダルイなぁ。

 面白いことない?」

「受験生にはありません」

「ネタぐらい仕込んどきなよ」

「お笑い芸人じゃあるまいし。

 その辺の高校生に求めるもんじゃないっしょ」

「ケースケのクオリティ、低すぎー。

 ね、どこまで行くの?」

「チルハが飽きるまで」

「付き合い良いね」

「何せ、チルハと幼なじみをやってるぐらいですから」

「そのチルハってヤツ、サイアクだねー」

 他人事のようにチルハが笑う。

 すでに葉桜の桜並木を横切り、タンポポに縁取られた田舎道を走る。コンクリの建物がまばらになり、やがて消え、菜の花が視界の両端を流れていく。それでもケースケはペダルをこぐ。

 行き場所がチルハ任せなら、終着点もチルハ任せだった。

 止まれ、といわれるまでこぎ続けるのだ。

 濃厚な春の香り。むせかえるほど、どぎつい香りが停滞している。

 見渡す必要がないほどの群生。

 けたたましいほどの一面の菜の花。

 チルハの笑い声のような、明るい黄色が続いていく。

 菜種油の素が終わりなんか知らないように、広がっている。

 そ知らぬ顔をした真昼の月が、やはり一面の菜の花だった。

「ケースケはどこ行くの?」

「だからチルハに今日は付き合うって」

「違ーう。大学」

「一応、東京のどっか」

「何それー。志、低くない?」

 チルハが担任教師と同じようなことを言う。

「ここが田舎すぎるし」

 空気がきれいぐらいしか、褒めることがない田舎だった。

 ここにはたくさんの田んぼと畑と、少しばかりの民家しかない。

 勤め先もろくな場所がなく、縁故もなくホワイトカラーになろうと思ったら越境するしかない。

「トーキョー行ったって、何にも変わんないよ。

 それとも大学デビュー、キメちゃうの?」

「そういうチルハこそ、どこの大学行くんだよ」

「ケースケじゃ、これないとこ」

 投げやりな調子でチルハが答える。

「馬鹿にしてるなぁ。

 こう見えても、この間の模試で」

「だって、女子大だよ」

 プッと噴き出して、チルハは言う。

 ケースケでは逆立ちしたって行けない大学だった。

「ハーレム計画なわけ? 上の学校に行っても」

 照れ隠しに、ケースケは尋ねた。

 チルハには自分の顔を見ることができなくって良かった、と思った。

 今の自分は、間の抜けた顔をさらしているに違いない。

「見渡す限りにお花ちゃんたちだよ。

 羨ましいだろー」

「いや、ちっとも」

「まああの人の母校だからさ。

 とりあえず、行っとけってことらしいよ」

 チルハは実の母親を「あの人」と呼んでいた。

 母の日になると毎年、赤いカーネーションを買っていて、外では「お母さん」と呼んでいるのに、冷たい距離が横たわっていた。

 ケースケも父親をアイツと呼んでいるのだから、五十歩百歩ということでお互いにふれることはない。

「なんで、高校から行かなかったのさ」

 東京の女子大なら付属高校を持つところも多い。

 高校三年間は長い。人生を変えるような出来事が待っている。そんな可能性に賭けてみるのも悪くはないはずだ。

「ケースケと遊べなくなるじゃん。

 三年間も」

 世間の一般的な常識を語るように、チルハは言った。

「……俺の学園生活が」

「楽しく彩られたでしょ。

 感謝したまえ」

「マジでチルハ様だな」

 ケースケはためいきをついた。

 目的地のない自転車旅行。ときおり、目の前を通り過ぎていく小さな蝶の群れのほうが、よぽっど意味のある行動をしていることだろう。

 菜の花畑では忙しそうに、虫たちが己の職分を果たしている。

 ケースケたちに比べてると、信じられないほど短い人生を懸命に生きている。

「次に生まれ変わるなら、アゲハヒメバチになりたいなー」

 唐突にチルハが言う。

 名前からすると可愛いハチだったが、生まれ変わって虫になるというのはあまり良い人生ではない気がする。

「何それ?」

「アゲハ蝶とかに寄生するハチ。

 蝶が幼虫のころにその体にもぐりこんで、栄養を奪い取るんだ。

 で、蝶がサナギになったとこで、体を食い破って生まれてくんの」

 楽しげにチルハが言う。

 ケースケは質問したことを後悔した。

 ハンドルを握っているから、耳をふさぐこともできない。

「げ。蝶がかわいそうだな。

 アゲハって、黒くて大きいヤツだろ?」

 ケースケは昆虫にあまり興味のない少年だったので、あれこれと名前を挙げることはできなかったが、それでもアゲハ蝶ぐらいはわかった。

「蝶がキレイなのって一瞬だよ。

 大人になったときだけ」

 菜の花畑でひらひらしている白っぽい小さな蝶を馬鹿にするように、チルハは言う。

 春から夏にかけてずっと飛んでいる蝶は、それなりにキレイだとケースケは思っていた。

 それに寄生する虫というのは想像するだけでも、背筋がぞわぞわする。

「つーか、寄生虫じたいが気持ち悪いだろ」

「ツマンナイ発想ー。

 ケースケが考えている以上に、自然はシューアクだったりするんだよ」

「っていうか、蝶々を見て、それに寄生する虫になりたいって考えるチルハがシュールすぎんだけど」

 ケースケはこれ以上、チルハから詳しい虫の生態を聞きたくなかったので、無理やり話を変えた。

「非現実なのはケースケの頭の中だよ。

 チョー、日常でしょ。退屈だもん」

「飽きたなら帰るか?」

「どこへ?」

「家、だろ」

 チルハの質問に、ケースケは当たり前のことを返した。

「まだ飽きたなんて言ってないから」

 暴君はぴしゃりと言葉を投げつける。

「そうでしたね」

 ケースケはペダルを踏み込んだ。

 この先は上り坂になっている。

 腹に力を入れてなければ、二人乗りでは上りきれないだろう。

 ケースケは息を思い切り吸い込んだ。

 菜の花の香りに混じって、チルハの制汗のスプレーの香りがした。



 チルハは「どっか」を探していた。

 空いた時間はいつでも「どっか」探しの自転車旅行だった。

 荷台に乗せるチルハの体重に、頼りなく思っていた。

 終わりなんて言い出せないまま、ペダルをこぎ続けていた。

 本当に、チルハを「どっか」に連れて行けるような気がしていた。



 今日の終着地点は、県境の広い道路だった。

 境といってもあやふやな、車通りも少ない道で、ケースケは夕日を見た。

 グレープフルーツのルビーの果汁をぶちまけたような夕焼けだった。

 山のラインを確かめるように、太陽が沈んでいく。

「なんで、ジンセイってこんなにツマンナイんだろーね」

 荷台から降りたチルハがぶっきらぼうに言う。

「平均寿命の半分も終わってないじゃん。

 決めつけだろ」

 受験勉強の息抜きになったかもしれない。

 と、ケースケは自分を説得するのに忙しかった。

「もう大人になんだよ。

 ありえなーい」

 チルハの茶色の革靴がアスファルトに書かれた白いラインを几帳面に踏んでいく。

「自由になれるんだから、良いじゃんか」

 ここからどうやって帰ろうか、とリュックに突っ込んである地図を引っ張り出す。

 帰りは最短のルートが良いと思い、ケースケが地図を持ち歩くようになったのは、自然の成り行きだった。

「そ? 大人って不自由そうに見えるけど?」

「酒もタバコも、ギャンブルも好きなだけやれて」

「今も変わんないって」

 チルハは言う。

「好きなときに、好きなヤツと、好きなだけ、好きな場所へ行けるんだ」

「あー、それは魅力的かも。

 そんでだらだらすんの、サイコーかもね」

「まあ、今と変わんないかもしれないけどさ」

 ケースケは言った。

 執行猶予は2年。

 今が一番、中途半端な年齢なのかもしれない。

 責任もあるが、未成年だと言い逃れもできる年だ。

「車あると、酒飲めないから。

 電車で行こ。そんときは」

 ラインを踏んでいたチルハの足が止まる。

 ケースケは幼なじみの顔を見た。

「どこまで?」

「どっか、まで」

 決まりきったことのように、チルハは言った。


   ◇◆◇◆◇


 チルハが探していた「どっか」は見つかっていない。

 ケースケも、もう「どっか」を探していない。

 大人になった。ということだった。


「ケースケ。

 芦野湖の桜、咲くって。

 次の日曜日、空けといて」


 チルハは「どっか」に行きたいと言わなくなった。

「芦野湖って、どこ?」

 ケースケは尋ねた。

 同じ東京にいるんだから、というとんでもない論法で、チルハに呼び出されるのは珍しいことではなかった。

 終電や始発じゃ飽きたらずにタクシーまで駆使して、チルハの選んだテキトーな時間に二人は会っていた。

 学生時代のように無理がきくはずもないのだが、幼なじみはいつだって明るかった。

「青森」

 長袖のシャツに、ミニスカート姿のチルハが言う。

 茶色の革靴は華奢なヒールの靴に変わったし、靴下はストッキングに変わったが、チルハは大きく変わったようには見えない。

 ケースケの自転車の荷台に乗っていたときと変わらない。

「遠いって」

 ケースケは言う。

「羽田から飛行機で1時間ちょっと。

 近所だよ」

「飛行機を使った時点で、近所じゃないって」

「新幹線使っても4時間ぐらいだって。

 十分、近いから」

 チルハは陽気に笑う。

 久しぶりの仕事がない日も暴君によって潰されることになったわけだ。

 青森の土産は何が良いんだろうか。家に帰ったら、路線の検索ついでに調べておこう、とケースケは胸のうちでためいきをついた。

 職場では、ケースケの趣味は旅行ということになっている。

 一月に一度は旅行の土産を持っていっているのだから、当然の帰結なのかもしれない。

「マジでチルハ様だな」

「今さらでしょ」

「そうでしたね」

 ケースケも笑った。

 それでも、とりあえずは……。

 見つからない「どっか」を探しているときよりも、ずっと良いことだけはわかったりした。

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