イチカ

@sakamono

第1話

 目を覚ましたという感覚はあっても、今の状況をすぐに理解できるはずもなく、イチカは、しばらくぼんやりと天井を見上げていた。体の節々が痛む。どのくらい眠っていたのだろう。一週間? 一ヵ月? それとも半年?

 半身を起こして、自分がほこりくさい古びた毛布にくるまっていたことを知る。目をしばたたいて辺りを見回す。壁際にいくつものダンボール箱や一斗缶が積み上げられ、くわやシャベルが立てかけられている。留め金に吊り下げられた荒縄や鎌、斧、ノコギリ。小さい粗末な、物置小屋のようなところで眠っていたらしい。

 薄暗い。窓はなく、外の様子は分からなかった。

 板壁のすき間から差し込む弱々しい光は、朝のものか夕方のものか。どちらにしても、さほど寒さは感じない。半年や一年も、眠っていたということはなさそうだった。

 少しずつ意識がはっきりしてくる。夏のだるような暑さからようやく解放され、山の上では秋の気配が感じられ始めた頃だった。私は山を下りたのだ。イチカは曖昧な記憶の糸をたどる。なぜ山を下りたのだっけ?

 冬ごもりの支度には、まだ早い時期だった。眠りにつく前に海に行こうと誘われた。いや、違う。海を見たいから連れていってくれと頼まれたのだ。誰に? 山間の小さな村で、人づき合いの苦手なイチカに、そんなことを頼む人間は限られる。

 そうだ、ミノリだ。「海を見たい」と、ピクニックにでも行くように明るく楽しそうに言った。イチカが時々こっそり村を抜け出して、一人で海まで行っていることを知っていたのだ。知っていたことは、おくびにも出さなかった。

 海までは歩いて山を越え、一日がかりだ。いつもイチカは、テントとシュラフを詰め込んだリュックを背負しょって山を越え、海辺の廃市で一泊して帰ってくる。あの時、頼み込むミノリの後ろには、コウが所在なげに立っていた。

 意識がはっきりするにつれ、イチカはひどい空腹を感じて思考が止まる。どのくらいの期間か分からないけれど、ずい分と長いこと何も口にしていないことは確からしい。

 イチカは立ち上がろうとするが足に力が入らない。両ひざに手をついて、腕を支えに無理やり立ち上がる。壁に手をついてよろけながら小屋の中を物色する。ダンボール箱の中に、芋でも玉ねぎでも、何か口にできるものがないだろうか。手近なダンボール箱から一つ一つ開けていく。軍手や針金、ゲンノウ、釘、ねじ回し。細々した工具や資材ばかりが入っている。それでも丹念に見ていくうちに、イチカはその中に広口の瓶を見つける。大振りのその瓶は、まん丸の赤い実とあざやかな赤い液体に満たされていた。

 ヤマモモ酒……。

 イチカはぼそっとつぶやいた。ひさしぶりに出した声は、うまく言葉にならなかった。その場にぺたりと座り込んで蓋に手をかける。

 固く締められた蓋を開けることは、今のイチカには困難な作業だった。何度も手を止めて休みながらゆっくりと、根気よく時間をかけてどうにか蓋を開けた。アルコールと甘い匂いが立ちのぼる。

 持ち上げるには重たい広口瓶の縁に、イチカはそっと口をつけ、少しずつヤマモモ酒をすすった。そして口を離すと瓶に手を突っ込んで中の実を取り出した。ふやけて少しだけやわらかくなったヤマモモにかじりつく。ゆっくり咀嚼して飲み込む。そんなことを何度も繰り返したけれど、あまり飲み食いしたという実感がない。代わりに、身体全体にアルコールが沁み渡る感覚がして目まいを覚える。

 これからどうしよう。イチカは考える。

 私はミノリとコウに置いていかれたのだ。

 認めたくはないけれど、そう思って悲しくなった。

 このお酒を飲んだら、また眠ってしまおうか。来年の春まで眠っていたら、ミノリとコウがここへ迎えに来てくれるかもしれない。

 イチカは立ち上がってゆっくりと、覚束ない足取りで小屋の入り口へ向かう。板戸のすき間から漏れる光の中に、自分のたてたほこりが舞う。引き戸に手をかけると、きしむ音をたてながらも意外にすんなり板戸は動いた。

 正面に見上げる山の斜面には杉林が広がる。整然と並んだ杉は枝打ちもされておらず、幹のあちこちから枯れ枝が突き出している。高いところの枝には濃い緑の葉が生い茂り、イチカの背中からの日差しが、細い光の帯となって淡くその底を照らす。薄暗い底の山肌は背の低い草木も生えず、土がむき出しの荒れたままで、植林したものの、もう長いこと手入れをされていないことが分かる。

 この山から盛んに木が切り出されていたのは、百年か二百年か、そのくらい昔のことだとイチカも聞いたことがあった。だから小屋の前を左右にのびる巻き道は、獣道けものみちと見まがうほどのわずかな人通りの痕跡で、今は使う者もなく、廃市となった海沿いの街まで時折イチカが歩くくらいだった。イチカにとってこの道は、閉塞した村から一時いっとき解放される、廃市への秘密の抜け道だった。その秘密をミノリとコウには教えてあげたのに。

 イチカは一つ小さなため息をついた。背中にあたる日差しが暖かい。

 小屋の裏手に回ると崖の上から南に眺望が開けた。東の山の端から日が差す。朝日が昇るところだった。深く切れ込んだ入江の周りの、今は廃市となった街にも朝日が差す。東の山並みの突端の岬を回り込めば、まだ人の住む街に抜けられる。ミノリとコウは、そこで新しい暮らしを始めるつもりなのか。

 イチカはようやく思い至る。

 ミノリは、コウの子を宿していたのだ。きっと……たぶん?

 そうであったなら、冬ごもりの必要のなくなったミノリは、村で暮らしにくくなるだろう。コウは元々、村の外の人間なのだ。この私をだましてまで、ミノリはコウを選んだのだ。イチカはまた悲しくなった。

 私はこれからどうすればよいのだろう。今から村へ帰れば、夕方には着けるはず。村のみんなは、何事もなかったように私を迎え入れてくれるだろう。それともここで、もう一度眠ってしまおうか。今度は春まで。

 それが無理なことは分かっている。冬には、まだだいぶ間がありそうだ。

 それに一人寝はやっぱりさびしい。

 イチカは村に帰ることに決めた。

 でも、もう少し体を休めてからにしよう。

 しばらく海を眺めてから、イチカは小屋に入ってほこりくさい毛布にくるまった。

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