5

 ぴたりと笑うのをやめて、私はその場で足を止める。

 静かだった。走り回った後のように弾んだ己の息が、妙に耳につく。

 私の神を苦しませるものは、もういない。用済みになった包丁を放り投げ、私は暁斗に近づいていく。


「どうして……」


 呆然と問いかけられて、首を傾げる。

 私の気持ちは、誰より暁斗が分かるはずだ。叔父に激昂した暁斗は、兄さんにまで、と口を滑らせていた。それは、私の地獄と暁斗の地獄が近しいものであった事実を示す言葉に他ならない。

 己だけなら堪えられた。けれど暁斗が、私の神が害されることには、堪えられない。

 

「もともと、みんな殺してやろうと思ってたんだ。暁斗には、先を越されちゃったな」


 苦笑しながら答えを返せば、暁斗は呆然と私を見つめてきた。


「俺……俺、は」

「大丈夫だよ、暁斗。これは、私がやったことだ。始めたのは暁斗かもしれないけど、皆を殺したのは私だ。暁斗は悪くない」

「違う。止水じゃない。俺がやった。全部、全部……!」

「なら、私たちは共犯だ。暁斗も私も、ひとりじゃない。そうしよう。な?」


 自分よりも頭ひとつ大きな体を、背伸びをしながら抱きしめる。ゆっくりと頭を撫でるにつれて、しだいに暁斗の震えはおさまっていった。周囲の光景から隔離するように強く暁斗を抱きしめて、私は暁斗の耳元で、内緒話をするように囁く。


「覚えてるかな? 十年前、暁斗は私を助けてくれた。暗い座敷牢から、出してくれたんだよ。あの日も雪が降っていた」

「……忘れるはずがない。俺には兄がいると、使用人たちが話しているのを聞いたんだ。不治の病にかかっていて、誰にも会えない場所にいるのだと。なら、俺の力があれば助けられるんじゃないかと思った。忍び込んだら、止水がいた」

「そうか。……そうだったのか。兄弟だって知ってたなら、もっと早く言ってくれたら良かったのに」


 苦笑しながらぼやけば、決まり悪そうに暁斗は目を伏せる。


「言えなかった。きっと受け入れてもらえないと思ったら……怖かった」


 おかしなところで暁斗は臆病だ。気にしすぎだよ、と私は笑い飛ばした。


「神と付き人。教師と生徒。兄と弟。私たちを繋いでくれる絆が、ひとつ増えるだけじゃないか」

「兄さんは、分かってない」


 唇を噛んだ暁斗は、苦しげに顔を歪めると、そろりと唇を合わせてきた。


「俺は止水と、こういうことがしたいんだ。それでも、同じことが言えるのか?」

「今まで散々しておいて、今さら何だって言うんだ」

「止水は……兄さんは、気持ち悪くないのか。俺は兄さんの弟で、……どうしようもない人殺しなのに」


 涙に濡れた瞳を、愛おしいと思った。私だけを映す瞳をうっとりと眺めて、宥めるように口付けを返す。

 私に自由をくれた暁斗は、私の神様だ。誰も教えてくれなかった愛情を、暁斗だけが私に教えてくれた。弟だろうが大量殺人犯だろうが、構いやしない。

 暁斗のそばにいられるのは私だけ。罪を共に背負えるのも、私だけだ。


「私の地獄はあの座敷牢だったけれど、暁斗の地獄は、この村そのものだったんだろう? なら、いいじゃないか。暁斗は私を救ってくれた。私も暁斗を救いたかった。それだけだ」

「でも」

「気が咎めるというのなら、ふたりで墓穴を掘ろう。焼けた者たち皆の死体を土に還して、供養しよう。……大丈夫だよ、暁斗。大丈夫だ。私がいる。ずっと、そばにいる。暁斗をひとりには、させないよ」


 物言わず涙を流す弟の手を引いて、私は炎の中を歩いた。

 赤黒い炎が、村と死体のことごとくを飲み込んで燃え上がる。生まれ育った村の最期を見届けた後で、私は唯一炎に巻かれなかった控え小屋に暁斗を導いた。

 ふたりで身を寄せ合って、凍える夜をひっそりと過ごす。やがて、青紫色に揺らめく払暁の空を、眩い朝日が切り裂いていった。


 

 冬の日の朝、ひとつの村が消えた。

 病を癒やす神々が住まう地と謳われたその場所は、時とともに人々の記憶から忘れ去られていった。

 奇跡の担い手たちの行方を知るものは、誰もいない。

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地獄で望む払暁 あかいあとり @atori_akai

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