第11話 覚醒
学区というものがある。
それは貴族に生まれた将来を期待される子供達が、基礎的な教養を学ぶために送られる 教育機関。
俺はかつてそこの生徒の一人だった。
「レンジのやつ、またテスト学年一位だってよ」
「それもぶっちぎりだ。全科目満点なんて、考えらんないよ」
そんな噂話が聞こえてきても、俺は大して驚かなかった。
なぜなら、それは俺にとって息をするように容易いことだったから。
覚えているのだ。
教科書に載っている内容。教師が発した言葉。一言一句、写真を撮ったり録音するみたいに覚えてる。
テストなんて、その覚えてる情報から必要なものを書き出せばいいだけだった。
「僕、勉強は苦手だから、レンジはすごいと思うよ」
クラスメイトにそう言われたことがあった。
確かに、分野の一つとして苦手という人はいるのかもしれない。
だけど俺は、頭の中から情報を一つ一つ抜き出して、それを絵を描くみたいに繋ぎ合わせる作業が心地よく感じた。
勉強は得意だった。
でも、それ以上の感情をそれに対して抱いていることにその内気づいた。
俺は、勉強が好きだった。
だからだろうか。
今もずっと気になっている。
あの本に描かれた、幾何学的な紋章。
あれは、何を意味しているのだろうか。
頭が忘れてくれない。
忘れようとしても、まるで写真を撮ったみたいに鮮明に思い出せる。
気づけば図書室に足が向いていた。
「……失礼します、掃除に来ました」
あくまでも掃除に来たという体で、館の扉をくぐる。
たちまち本棚の立ち並ぶ本館が目についた。
やっぱり、室内にはたくさんの学徒がいた。
「先生の難問」とやらに頭を悩まされているらしい。
学徒たちは資料や書物に齧り付いて夢中になっている。
——気になる。
側から俺は目を泳がせて好奇心に抗った。
いや、覗き見は良くないだろう。
欲と良心がぶつかり合う。
しかし、最後に勝利を収めたのは知識欲だった。
俺はさりげなくその横を通り過ぎながら、ちらっと資料に目をやった。
「魔術」「魔力」「術式」。そんな単語が目につく。
それから、必ず横には図形や紋章が描かれていた。
どうやら魔術というものは、幾何学的な観念が元にあると考えられる。
次に、学徒たちの声に耳を傾けてみる。
「ねえ、この魔術式ならどう?」
「——ダメだ、これじゃあ術式が矛盾する」
「それなら、この定理を当てはめれば……」
矛盾、つまり齟齬。
詰まるところ、魔術は何か筋の通ったことを証明するのが最終目的なのだろうか。
そして、その道筋でいくつかの定理を当てはめる、あるいは重ね合わせると予測できる。
端から端へ、俺は全ての声と文章に注力した。
無論、手元の箒は適当に動かしながらである。
しばらくして長居になりかけたところで、俺は図書室を後にした。
次の日、俺は全く同じことを繰り返した。
図書室を飛び交う言葉。
目に付く文字。そして図形。
存在する知識を全て取り込み、頭の中でまとめ上げる。
『魔術』という存在を未知と仮定して、それを帰納していく。
段々とパズルのピースを埋めていくみたいに、全体像を掴んでいく。
次の日も、そのまた次の日も。
俺は知識を取り入れ、まとめ上げた。
「——ダメだ、何も思いつかねえ」
「一旦休憩、一旦休憩……」
やがてある日、図書室に行くと、学徒たちは死んだ魚のような目で立ち上がって、ふらふらと出口へ歩いていくのが見えた。
机の上には資料が乱雑に置かれていて、ここ最近いかに切羽詰まっていたかがわかる。
隣には、杖があった。
誰かが置いて行ったのだろう。
ちょうど手で握って振り回せるくらいのサイズだ。
しんとした室内で、俺は惹かれるように杖と見つめ合う。
——手に取った。
瞬間、体内から杖に向かって何かが蠢くのを感じた。
「うっ!」
気持ち悪くなって、思わず杖を机に落とす。
今、闘気を持って行かれたのか?
いや、違う。闘気になる前の何かを持っていかれたのだ。
——お前は、魔力を闘気に変換している。
いつか、爺さんに言われたことを思い出した。
その言葉の正しさが、だんだんと体の中で実感を持つ。
もう一度。
杖を持ち上げた。
今度は力を吸い取られる感覚に慣れた。
——予測するに、魔術とは何かの矛盾を省いた果てに、事象を証明し顕現させるもの。
だからきっと、まずはイメージから始める。
術式と呼ばれる魔術の証明。それを頭の中に思い描く。
そしてそれを、イメージから現実、脳内から手元の法器へと移行する。
何となく、カチッとハマるような感覚が返ってきた。
あとは、移行した術式の中に力を流すだけ。
完全な想像と同時に呪文を唱えた時——
『
魔術は、顕現する。
宙に火の粉が舞った。
炎が迸って、熱気が頬に触れた。
俺は、魔術を知った。
魔術を体感した。
パズルのピースが、ハマった。
瞬間、脳内を駆け抜ける快感。
全身をめぐる興奮。
知識が知恵として開花した感覚に、脳が焼かれるようだった。
ガタン、とその時入口の方から音が鳴った。
「——っ!」
咄嗟に杖を元の位置に置いて、俺は本棚の隅に隠れた。
箒を握りしめて、呼吸を整える。
俺は何となく確信した。
今体感したものは、もう自分の中にある何かを変えてしまったのだと。
=====
鍋をかき回す。
中の具材が、食欲をそそるように踊った。
後ろには、今日の夕飯を待ち望む学徒たちがいた。
最初は爺さんと付き人のためだけに作っていた飯も、噂が広がるに連れて大勢に振る舞うようになった。
丸い鍋の中身を、ただかき回す。
丸い鍋。丸い、丸い、丸い——魔法陣……。
俺は我に返って頭を振った。
何を考えているんだ、今は料理に集中しろ。
そう言い聞かせても、次の瞬間には魔術のことが頭を支配していた。
「なあ、クロム。あいつ、最近意識が上の空になっておらんか?」
「確かに、言われてみるとそうですね」
後ろ側から噂話が聞こえてくる。
でも、そんなことに意識を割いている余裕はない。
もう頭の中は、魔術のことで夢中だった。
最初はほんの好奇心だった。
でも、今はこの奇術に魅了されている。
「——レンジよ、一つ頼まれてくれんか?」
食卓に食事が並んでみんなが食べ始めると、爺さんがそんなことを言ってきた。
俺はぼーっとしている間にフォークから落ちかけた肉を慌てて皿に戻して、爺さんを振り返った。
「な、なんだ?」
「明日、生徒たちに講義を行わなければならなくてな」
「ああ、難問を出したとか言ってたか?」
「よく知っておるな。明日はその答え合わせじゃ」
なるほど。確かにあれから十日経ったか。
俺の二週間の雑用ももうすぐ終わりだ。
「——そこで、講義室の掃除を頼みたい」
講義室といえば、この爺さんが直々に学徒たちに勉強を教える部屋だ。
今まで一度も入れてくれなかったが、気が変わったらしい。
「俺が入ってもいいのか?」
「別に、あそこに入室の制限をかけているわけではない。ただ生徒が入り浸っているだけだからな。しかし、それのせいで部屋が酷く散らかっておってな」
確かに、あの節制のない学徒たちなら物の管理もままならないだろう。
明日の講義にはスッキリした状態にさせたいということか。
「わかったよ。ちゃんと綺麗にしておく」
俺は特に迷うこともなく承諾した。
断る理由がなかったという以上に、頭の中を整理する時間が欲しかった。
——外に出ると、肌寒い冷気が触れた。
思わず肩をすくめて体を縮こまらせる。
もう、こんな季節か。
夜の風がまた吹いてきたので、俺は早々に建物の中に駆け込んだ。
講義室は乱雑に散らかっていた。
紙とか、筆とか、訳のわからない測量機とか、そのほか色々だ。
「さて、片付けるとするか……」
何となく、手当たり次第に積み上がっている紙類に手をかける。
見たところ同類に分類できるものは分類しておく。そのほかは知らない。
すると、一冊の本が地面に落ちた。
どすんと思い音が空気を伝播する。
俺はそれを拾い上げて、上から見つめた。
『魔術論』と簡素な文字が革製の表紙に彫られている。
「これ、教科書か……」
ぱらっと中身をめくると、魔術の解析がわかりやすく綴られていた。
どうやらあの爺さんが直接書いたものらしい。綺麗な筆記体で文章が書かれている。
「魔術とは、世界の解明である……」
書き出しは、そんな一言で始まっていた。
炎で燃やし、水で潤し、風で揺らし、氷で冷やす。この世の事象を解き明かし、同時に自分の手で作り出す。
「言わば魔術とは、手のひらの幻想である」
反芻するように読む。
顔を上げた。俺はそれと目があった。
まっすぐ、先。通路の正面に位置する黒板。
陽の光はとうに消え、真っ暗になった部屋で、ただそこだけが月明かりに照らされていた。
難解で、複雑で、それでも一律の法則の内に存在するその紋章。
俺はその術式と、間違いなく目が合った。
運命にも思えた。
恐る恐る足を進めて、教壇に近づく。
まるで聖域にでも足を踏み入れるかのように、教壇の上に登った。
黒板の術式と対面して、息を呑む。
一眼見てわかった。
これは俺が今まで見てきた何よりも難解だ。
でも、同時に理解した。
これは必ず、正解が存在する。
証明できる術式だと。
震える手で白墨に触れた。
腕を上げて、欠如した術式に手を加える。
線が一本、つながった。
あと、これを何回繰り返せばこれは完成するのだろうか。
百回、千回……いや、それ以上かもしれない。
でも、その道のりを前に俺はまるで恐怖を感じなかった。
それどころか、期待と胸騒ぎさえ覚えた。
これを、解明したい。
この先にある正解の景色を見てみたい。
その想いだけが逸って、思考の中は目の前のことで夢中になった。
もっと正確に、もっと繊細に、それでいてもっと自由に。
想像力を巡らせて、それに発想を掛け合わせる。
さらなる思考の深みに、俺は足を取られるように溺れた。
時が進む。
線が引かれる。
秒針がカチカチと鳴って、時間の経過を知らせる。
外の世界が白み始めた頃。
俺は、最後の線を繋げた。
=====
目が覚めると、ほんのりと明るい日が差し込んだ。
早朝だ。
あくびをして、起き上がると冷たい空気が薄い布団の中に入ってきた。
最近歳を重ねたせいか、随分と起きるのが早くなって気がする。
ルネは軽く支度をすると、早々に部屋を出た。
今日は十日前に出した、一つの問題の答え合わせをしなければならない。
『姿隠し』術式。結局色々考えてみたが、今の生徒たちの実力では少し難しすぎたかもしれない。
無茶振りをふっかけてしまったか。
自分の中でほんの少し後悔が芽生えた。
しかし、一方で誰かに解いてほしいとも思った。
生徒の中でも特に優秀なものならあるいは。そんな可能性にすがる思いだった。
講義室に入る。
中は昨日雑用に頼んだ通り、綺麗にものがまとめられていた。
机の間を縫って、教壇へと進む。
いつものように用具を棚から取り出し、いつものように教科書を備える。
教科書にはあらかじめ付箋が貼られて、説明が滞りないようにしている。
いつものように紙を取り出して、いつものように今日の講義のあらすじを復習する。
いつも通りだった。
想像のする通りだった。
でも、その時その老爺は黒板に向き直った。
向き直って、疑念を覚えた。
それは、想像の範囲を超えた光景があったから。
一瞬虚を突かれたように息を呑んで、見間違いかと目を瞬かせる。
一眼見た時、綺麗だと思った。
欠如も、違和感もない、完全に整然とした魔法陣。
五年前のものだったはずの術式は、一晩のうちに現代に伝わるものへと変えられていた。
「誰だ……」
最初に出てきた言葉はそれだった。
一体、誰がこの術式を証明した?
昨日の夜から、ここに立ち入った生徒は一人もいないはず。
ならば、理論的に考えれば生徒によって手を加えることは不可能。
つまり、これは生徒以外の誰かによるものだ。
「誰か、そこにいるのか……!」
物音がした。
倉庫の方からだ。
講義室から直通している倉庫室は、立ったドア一枚で隔てられていて、その向こうから音が聞こえた。
微かにだが、人の気配がある。
ルネは恐る恐る手をかけて、ドアノブを回した。
そして、静かに戸を開け放つ。
「……っ!」
そこにいたのは、生徒でも、騎士団の人間でも、魔術師ですらなかった。
白髪の少年は、あたりのものをひっくり返して、知識の海に溺れていた。
手に持つのは、どこかから探し出した一本の杖。その先からは、ジリジリと電気が発生し、あるいは水が生成された。
「なあ、爺さん……」
少年は、レンジ・ベリオスは振り返った。
ルネは彼の目を見て、後退りした。
「魔術って、楽しいな……!」
どこまでも無邪気に魔術に取り憑かれたその様相は、かつて天才と呼ばれた老爺にすら戦慄させた。
幻想使いの成り上がり ないと @naitoo
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