閑話 なにゆえ陰陽頭は孤独の毒に侵されるに至ったか
陰陽頭は、やんごとない貴族の生まれである。ただし、とうの昔に没落した、というただし書きが冒頭につくのであるが。
時は神代の終わり、かつて蝦夷を征服せし化け物じみた将軍たちがこの世を去ろうという頃であった。隆盛した剣の栄光は陰りをみせ始めている。
そんななか、貴族の姫でありながら陰陽頭は呪術に尽きぬ興味をもった。
陰陽術。それは大陸から伝わりし呪とこの国の太古の術を混ぜた雑多の技である。仏教から真言、神道からは神祇を、あまりにも見境がない。
そんな陰陽術を、陰陽頭はすばらしいと思った。
細かく織られた呪の美しさに涙を流し、僧の地に響くような真言の力強さに憧れ、陰陽頭はいつしか陰陽道の虜となる。
陰陽頭は家族を捨てた。友も捨てた。
陰陽道は真なる強さへとつながるただひとつの道と信じて、山奥にこもって術を極める。神道や仏教の伝統に囚われない陰陽頭はやがてまったく新しい術を生んだ。
のちにその数々の呪が陰陽道の礎となるのだが、陰陽頭はそれだけでは飽き足らなかった。術を盗みとられようとどうでもよかった。
さらに奥の技があるに違いない。
陰陽頭がさらに強力な術を編みだすに従って、さらに剣と陰陽道との優劣の境はぼやけていく。陰陽頭にその怨みが集まった。
剣を握って、幾多の人々が陰陽頭を殺そうとする。そのことごとくを陰陽頭が殺したことによって、陰陽道はさらに力を増した。
陰陽頭が時の優れた剣術家を殺しつくし、陰陽道の繁栄は幕を開けた。
己がこよなく愛する陰陽道が最も優れたる技として賛辞されるとも、陰陽頭の心はどんどんと彩りを失っていく。
そこらの陰陽師の呪もつまりは陰陽頭の呪のまね。なにも新しいことはない。
まだ剣の人々と殺しあいをしていた時のほうがはるかに楽しかった。己の知らない術は陰陽頭にとって鮮やかで陰陽の学びへの衝動を生みだしていたからだ。
だが、もう今となっては殺しにくる陰陽師の誰もがおなじにみえる。
つまり、陰陽頭は飽きていた。誰も陰陽頭ほど呪を知らず、ただひとりくるとも知れない強者を待つのに心がすり減っていたのだ。
そして、それは天文道を編みだしてからもっと酷くなった。
初め術を考えついた時、陰陽頭はいつものように歓喜に酔った。思わず都の優れた陰陽師をみな殺しにしてしまったほどである。
だが、人々は違った。
密かに暗殺の試みをしていた最高峰の陰陽師たちを、有無も言わせずに肉片とした天文道。もはや神をも超えたとまで語られた術に誰も挑もうとは思わなくなった。
陰陽頭は戸惑う。
なぜ人が己を殺しにこないのか、陰陽頭は嘆いた。めぼしい陰陽師にこちらからでむいて殺しあいを願ったことすらある。
だが、誰も陰陽頭を殺しにこない。
やがて死にたがりの仏僧やら権力争いに負けた貴族やらが襲いかかってくるに至って、陰陽頭は己がどう人々に思われてしまったのか悟った。
陰陽頭は、この世のものではなくなったのである。
誰にも殺せぬ、誰にも触れられぬ、そんな化け物になってしまった陰陽頭に機嫌よく勝負を挑んでくれる者など、誰もいなかった。
陰陽頭は己の暮らす山奥で陰陽道を熱心に教えた。いつの日か教え子の誰かが陰陽頭すら殺しうる才を秘めていることを願ってのことだった。
やがて朱塗りの屋敷が建ち、気の遠くなるような歳月が過ぎていく。
己が築いた陰陽寮、その鐘楼で濁った瞳の陰陽頭は腐っていった。陰陽道の学びもうまくいかない、誰も己を殺そうとしてこない地獄に静かに気が狂っていった。
それから千年もの時がたち。
この世の人をひとりずつ殺してまわれば、いつしか己を殺しうる人間が現れるのではないか。そんな妄執にとりつかれかけた陰陽頭は剣の修羅と会った。
あの殺しあいからしばらくして、夏は盛りをむかえている。
陰陽頭は未だ剣の修羅の言葉がよくわからなかった。気がつけば運命を斬るなどという技を身につけた、その訳がわからない。
なぜ弱き者との戦いに気をむけなければならないのか。
すべての殺しあいに感謝すると語った剣の修羅の心こそが、陰陽頭にとってもっとも難解であった。負けたこともあってその言葉を斬って捨てることもできない。
千年ものあいだ身を蝕んだ殺しあいへの渇望はすっかり鳴りを潜めている。そのかわりに陰陽頭は剣の修羅の言葉で頭をいっぱいにしていた。
それでもなんとかして知らなければならない。
剣の修羅はなにかを知ったのだ、だから運命を斬るという絶技に至った。ならば、陰陽頭もそのなにかを知って至らなければならない。
久しぶりに、陰陽頭は誰かの技から学ぶということを思いだした。
いまだ知らぬことに胸が躍り瞳が輝く、そんな瞬間は数千年ぶりなのだ。陰陽頭は思わず胸をおさえた。
「わしは、喜んでいるのか。」
殺しあう敵のいない地獄のような日は過ぎ去った。あの剣の修羅ならばいつでも声をかければ殺しあいをしてくれるだろう。
だからこそ、陰陽頭はこの一瞬が楽しくてしかたがないことに気がついた。
誰かを憧憬し、誰かから学ぶ。そんな久しぶりの、ほかの誰もがいつもしているようなことに陰陽頭は笑顔が止まなかった。
剣の修羅の言葉の意味がすこしわかった気がする。
夏のあいだのみ都との道が開ける陰陽寮では、学生たちがわずかほどとはいえ家族と顔をあわせるのを楽しみにしていた。牛車に乗った生徒たちは湖へと消えていく。
陰陽頭はその光景を鐘楼のうえからながめていた。
ふと、あの剣の修羅の姿が目に入る。殺しあってからどこか柔らかい雰囲気になったあの少年は、遠くにいるはずの陰陽頭に頭をさげてから牛車に乗っていった。
ああもう己はひとりではないのだ、殺しあうことのできる友がいるのだ。そんな暖かい気持ちでいっぱいになった陰陽頭は手をふった。
だが、その瞬間に顔が歪む。
剣の修羅のそばにあの貴族の姫がひかえていた。あの日、剣の修羅になにやら吹きこんで己との戦いの邪魔をした者だ。
そんな姫が剣の修羅と楽しげに語りあっている。なんだ、あいつは。
気づかず己の呪が暴れ狂う。剣の修羅と己とはこの世でふたりだけ、心が通っているはずだ、あんなよそ者の入る間などどこにもない。
憎しみ、怒りが陰陽頭のなかで渦巻いていた。そもそもあの女が語っていたことも陰陽頭にとっては馬鹿馬鹿しいだけであった。
なにが、剣の道にうちこむだ。剣の修羅にいわれるのならまだしも、あんなくだらない呪ごときで得意がっている女に弱者への畏敬を説かれるなど。
「お主、邪魔じゃな。」
ざわりと呪が騒ぐ。太陽の光に隠された空の星々がガタガタと音をたてて動きだし、女に避けられぬ死の運命を贈ろうとする。
あの女さえいなければ、この世には剣の修羅と己のふたりのみ。誰も邪魔に入ろうとはしないだろう。陰陽頭は激情のまま女を殺そうとして。
「いや、べつに問題ではないか。わしと剣の修羅、この心はあの女とて裂くことはできまいて。」
天文道を閉じた。湖のむこうに消えていく牛車をみつめながら、陰陽頭は嘲け笑う。
「あの女は人の道に剣の修羅をもどした、かような夢幻に酔っておるのかもしれぬな。愚かなことよ、修羅の辿る道などひとつというのに。」
そう、剣の修羅は人の道にもどったのではない。さらに剣の道の深淵へと潜ったがゆえにかえって人のようにみえているだけだ。
やがてはおなじように修羅の道を歩む陰陽頭のもとに帰ってくるに違いない。あの女は人の道にいる限り、こちらにくることはできない。
「わしと剣の修羅とは、いつまでもおなじだ。そう、永久にのう。」
陰陽頭は、恍惚とした笑顔で呟いた。
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悪役貴族に剣の修羅を放りこんでみたらまわりの人々の瞳がドロドロに濁ってしまった話 雨雲ばいう @amagumo_baiu
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