最終話 春を掬う

 柊華は治療を開始してから、一年四か月生きた。

 治療の効果がなかったとは言えないが、寛解することも最後までなかった。


 冬ごもりプロジェクトの被験者十人のうち僕と柊華を除く八人は、三人が寛解し、一人が寛解後に自殺未遂をし、二人が治療拒否をし、二人が治療不適応だった。


 僕が行ったことは間違っていたのだろうかと考えない日はない。


 いっそコールドスリープなんて開発しない方がよかったのではないか。愛する人と一緒にいられれば怖くないと思っていた。どんなことでも乗り越えられる。ふたりでこれからもたくさんの想いを共有していくことが僕らの幸せで、それさえあればいいと思っていた。だから一緒に眠りについたはずなのに。


 愛する人はもういない。

 僕は彼女を救えなかった。


 僕らの研究を信じて時間を捨てた九人のうち、いったい何人を救うことができたのだろう。いったい何人を絶望させたのだろう。冬ごもりプロジェクトなんてものがなかったのなら、コールドスリープを開発なんてしていなければ、もっと穏やかで納得のできる最期を迎えることが出来た人が何人もいたのではないか。


 多くの人を救いたくて研究医になった。たった一つの発見が、現在いまだけでなく明日みらいを生きる数えきれないほどの人々を救う可能性があるのが、希望だった。それなのに、僕は何人を救えたというのだろう。


 目を覚ました日に旧友に訊ねられたことを今でも鮮明に思い出す。コールドスリープしたことを後悔していないか? あの頃の僕は動揺しなかがらも後悔していないと答えた。今の僕は気持ちを押し込んでも同じ答えを返すことはきっとできない。


 冬ごもりプロジェクトは十人の結果を受け、無期限で凍結となった。表向きは人員不足となっているが、その結果に希望を抱けなくなったことが原因なのは誰の目にも明らかだった。


 僕は今、目を覚ましてからずっと住んでいる家と研究所を往復する日々を過ごしている。柊華が亡くなってから、もうすぐ二か月が経つ。これまでの実験データや実験試料をまとめる作業に終わりがなかなか終わらないことが悔しくもあり、救いでもあった。いつか未来の誰かが僕たちの失敗を乗り越えていくときのために、研究結果をまとめておくことは僕らの贖罪で責任だった。


 ある日、いつものように研究所で作業をしていると、後からやってきた後輩が怪訝そうな顔で僕を呼んだ。


「秋山さん宛てにお手紙が届いていたのですが」

「僕宛てに? 誰から?」

「それが、あの」


 口ごもる後輩は申し訳なさそうに手紙を僕に差し出した。


「差出人が柊華さんになってて……」


 秋山一稀さま

 磯原柊華より


 そこに書いてあったのは見慣れた少し角ばった文字――。


「質の悪いいたずらですよね、たぶん」


 慌てて手紙を引っ込めようとする後輩の手を思わず掴んだ。


「ごめん。これたぶん本当に柊華からだ」


 切手の横にタイムカプセル郵便というハンコが押してあるのを見つけた。聞いたことはなかったが、未来に手紙を出せるサービスがあって、柊華がそれを利用したとしてもおかしくはなかった。


「ゆっくり読んできてください。僕はここで作業しておくので」



 手紙は柊華からのもので間違いなかった。研究室の空き部屋にひとりで入って震える手で封を切った。見慣れた彼女の字がそこにある。



秋山一稀さま

 お元気ですか?

 この手紙を読んでいるということは、わたしがもう生きていないか、わたしが生きているのにへまをしてこの手紙を回収しそびれたかの二択でしょう。前者でないことを願うなんて、変だよね。

 一稀くんの今をあてます。

 きっとうじうじ悩んで研究所にこもってるんじゃないんですか?

 一稀くんは冬ごもりプロジェクトを、コールドスリープの研究を後悔している。

 間違っていないと思います。だって、一稀くんはずっと後悔していたから。

 後悔しないで、というのは無責任だと思うので言いません。冬ごもりプロジェクトがなければもっと違う生き方があった被験者は絶対にいると思う。わたしもそう。

 でもね、わたしは後悔していません。

 病気になってよかった、なんてことは絶対に言えないけれど、冬ごもりプロジェクトに参加して後悔していないということは間違いなく言える。

 一稀くんはわかっていないかもしれないけれど、君はわたしたちに選択肢をくれたんですよ。わたしたち九人はコールドスリープ前、みんな治療法がなかった。ただ死を待つだけでした。一稀くんのおかげで、わたしたちは闘うという選択肢を得ることができた。治療を拒否した二人も、命を捨てようとした一人も、違う世界で生きる覚悟をした三人も、みんな自分の人生を自分で決めることができた。わたしを含め、治療不適応となった二人も同じです。僅かな可能性に賭けてみるか、残された時間を大切に過ごすか。自分で最期を決めることができた。

 だれがなんと言おうとわたしは一稀くんに伝えたい。

 わたしたちに決める力を与えてくれてありがとう。

 一緒に闘ってくれてありがとう。

 最期まで一稀くんといれて幸せでした。

 辛いことはたくさんあったけれど、一稀くんとの大切な時間も確かにありました。

 わたしは確かに一稀くんとともに生きていました。あの時間はきらめいていました。

 一稀くんと過ごした時間を絶対にわたしは忘れない。

 ずっとずっと大好きでした。

 四十三年、寝ていたのはあっという間でしたね。

 もう四十年くらい、先に向こうに行って寝て待っていようと思います。たくさん寝ておくので急がなくていいよ。

磯原柊華


 どうしようもなく涙が溢れてきて止まらなかった。公園に行きたくなった。柊華と紅葉に賭けたあの公園に行こうと思った。柊華のいた場所に行きたかった。


 止まらぬ涙をぬぐいながら、久しぶりに研究所と家との間の道以外を歩いた。柊華の手紙を持ちながら公園まで歩いてるうちに、気づけば走っていた。冷たい空気で涙が乾く。外が寒いとはいえ、ヒートテックにセーターで走ったら熱くなる。次第に汗ばんできて、息も上がってきて、ペースが落ちる。僕は下を向きながらただ公園を目指して歩いた。柊華に手を引かれて歩いたことを思い出した。柊華の真っすぐに僕を見る眼差しを思い出した。柊華に会いたかった。横に君がいないことがたまらなく悔しかった。


 ふっ、と手のひらに小さな感触があった。涙でぼやけた目で見れば、風に吹かれた桜の花びらが手のひらに引っかかっていた。


 どこから飛んできたのだろうと顔を上げ、いつの間にか桜がすっかり咲き誇っていることに気がつく。


 ひとしきり泣いて涙も枯れた。冷えた汗が体温を奪っていく。手のひらに降り立った桜の花びらは握られてくしゃっとなって僕の手のひらにいる。


 長い冬から春を捕まえられるのは、君がいるからだと思っていた。君がいなくても春が来るなんてずっと知らないままでいたかった。それでも僕は。


 君のいない春を、生きていく。

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冬を抱く。春を掬う。 霜月はつ果 @natsumatsuri

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