第四話 冬を抱く
「わたし、セカンドオピニオンに行ってみようと思うの」
柊華がそう言ったのは、お墓参りに行ってから一週間が経とうとしていたころだった。ベッドに寝ころんだまま起き抜けにそう言った彼女は、体勢に似合わぬ真っ直ぐな目で僕を見る。
「……そっか」
不意をつかれて出てきたのは、なんとも間抜けな返事だった。意見を求められてるのではない。決意表明のような言葉だと思った。レースのカーテンを刺して日の光が部屋にそそいでいる。
「うん。そうするの」
「僕も一緒にいくよ」
「知ってるよ。病めるときも健やかなるときも一緒だもんね?」
彼女が柔らかく笑ってそう言うから、変わらぬ日常が新婚生活と名のつくものになったことを感じてなんだかこそばゆくなった。
夏のいちばん暑い時期はもう過ぎて、暑い日と涼しい日が気まぐれに訪れる。どうやら今日は暑い日の方のようだった。
川西先生はセカンドオピニオンを受けたいから相談させてほしいと連絡すると、快諾しすぐに日を設けてくれた。
「どうして急に、セカンドオピニオン行きたいって思ったの?」
「うーん。べつに急に思ったって訳じゃないんだけどさ」
病院へ向かうタクシーの中はエアコンが効いてひんやりとしている。耳をすませば微かに聞こえるエンジン音が沈黙を刻む。今を逃せば、この話をできるのはセカンドオピニオンを受けた後になってしまうかもしれない。そうなれば、柊華の本音は聞けない気がした。だから僕は、柊華が口を開くのを静かに待った。赤信号で止まっていた車が動き出して、柊華はひとつひとつ正しい言葉を探すように、考えながら話し始めた。
「起きてからずっとさ、このままでいいとか、しょうがないとか、コールドスリープまでしてよく頑張ったほうじゃないかって思ってたんだ。というか、思い込もうとしてた」
思い込もうとしてた――。無防備だった僕の心のかさぶたが剥がされていく。忘れてはいけないのに忘れようとしていた罪悪感が瞬く間に広がり纏わりついてくる。
楽観するのは難しい未来が待っている。欲しい言葉はきっともらえない。そんなことはわかっていて、それでも希望を求めるのはきっと間違っていない。柊華は間違っていない。
それなら、僕がコールドスリープを研究したことは、柊華を被験者にしてしまったことは、間違っていなかったのだろうか。いや、間違っていたのだろう。柊華が希望を求めるのと僕が希望を求めたのは違う。僕のは単なるエゴだった。柊華を救えると思っていたのは僕の単なる傲慢で、結果は彼女の人生を引っ掻き回しただけだった。
「でもね、ちょっと欲張りたくなっちゃったの」
すっと耳に入ってくる声だった。溺れかけた僕は引っ張り上げられて、彼女の目を見る。柊華は湿っぽい空気を消し去るようにからっと笑った。涼し気な目元が優しく細められる。
「誰かさんと過ごす未来が少しでも長く続いて欲しいって願ってしまったんですよ」
敵わないなと思った。
彼女にそう言ってもらえる資格はきっと僕にはない。彼女にそう言ってもらえることがどれだけ幸せか、僕は知っている。
「ありがとう」
この時間がずっと続けばいい。前の検査の結果が間違っていて、川西先生が間違っていて、ちゃんと治りますよと言ってくれたらいい。窓の外の移り行く景色の中で、ニゲラの花屋を通り過ぎる。店先に並べられた色とりどりの花の中に水色の花を見つけた気がした。
病院に着き受付を済ませるとすぐに呼ばれた。心の準備もまだのまま、呼ばれた部屋に向かう。柊華の様子を伺えば口を真一文字に結んで眉間にしわが寄っている。緊張しているときの顔は四十年前と変わらないな、なんて場に似合わないことが頭をよぎる。そっと柊華の手を握れば、強く握り返された。
「ご連絡ありがとうございました。お待ちしておりました。暑い中大変だったでしょう」
川西先生は部屋の扉を自ら開けて待っていてくれた。促されて椅子に座ると川西先生も斜め前の椅子に座った。
「退院してから一週間ほど経ちましたが、どうですか」
「体調は安定しています。ときどき息苦しくなりますが少しすれば落ち着きます。それで……あの、セカンドオピニオンについてお願いがあって」
川西先生は頷きながら続きを促す。
「今更かもしれないんですけど、わたし、セカンドオピニオン受けたいです」
「もちろんですよ」
川西先生の声には、病院特有の白く清潔感がある空間に張り詰めた緊張感が和らぐ不思議な安心感があった。
「ご希望の先生はいらっしゃいますか」
「調べてみたのですが中々わからなくて……。よければ川西先生から紹介していただけませんか?」
「わかりました。それでしたら知り合いの大阪の先生に声をかけてみてもよろしいでしょうか。多くない疾患ですので、専門家も少ないもので……」
「はい。よろしくお願いします」
川西先生はその場で電話をしてくれて、日にちと時間も決めてくれた。セカンドオピニオンは事前に検査結果等を送っておいてオンライン会議で行うという。
「大阪旅行できるかと思って期待しちゃったよ」
病院を出ると緊張が一気に解けたようで、ふうっと息を吐いてからふわりと笑って柊華が言った。
「まあついでの大阪旅行も楽しいと思うけどさ、行きたかったらちゃんと計画して今度行こうよ」
なんて、希望にも似た実現できるかもわからない言葉を僕は吐く。どうか彼女と一緒に行かせて欲しい。大阪にでも、北海道にでも、沖縄にだって、海外にだって。
「行けたらいいね」
柊華の返事は夏の暑さに溶かされていくみたいに消えていき、僕はその切実な声に頷くことしかできなかった。
セカンドオピニオンに行く日の前日は、なかなか眠れなかった。夜が冷えたのもあるかもしれないが、これからの行く先がまた一つ限られていくのだと思うとそわそわして目が冴えてしまったのだ。隣で横になる柊華も起きていたのには気づいていた。それでもふたりとも寝たふりをしていたのは、きっとお互いのためと自分のためだった。弱い気持ちをぶつけてしまうのが怖かった。一番怖くてたまらないのは柊華のはずなのに、話をしてしまえば彼女の怖さを一緒に背負うどころか、余計なものを背負わせてしまいそうで怖かった。
「おはよう、柊華」
いつ眠ったのかわからないまま目覚ましが鳴って朝が来て、いつものように、横を向いてサメに向かって言う。
「おはよ、一稀くん」
変わらぬ返事が返ってきて、ほっとしたような緊張感が増したような不思議な感じがした。
「一気に寒くなったね。早く秋服と冬服着たくて、毎日天気予報楽しみに見てたからうれしい」
外に出て開口一番そう言った柊華は、少し厚めのカーディガンを羽織っていた。自然な笑顔を見せる彼女が愛おしくて仕方がない。季節は未だ夏と秋の間。それでも九月に足を踏み入れたからか、気温は一気に下がっていた。明日はまた暑くなる予報だったが。
病院には約束の時間より少し早く着いてしまった。それでも川西先生は受付を済ませるとすぐに来てくれて、部屋に案内してくれた。
「約束の時間まで少しありますけど、飲み物買ったりとか、お手洗い行ったりとか大丈夫ですか」
部屋は説明するときに使われる、机と椅子があるだけの小さめの部屋で、用意されていたのは昔ながらのディスプレイのあるパソコンだった。
「今さっきテストをしていて、無事に繋がっていることが確認できましたので、おふたりが大丈夫でしたらいつでも始められますから準備ができたら言ってくださいね」
「もう始めてもらって大丈夫です。心の準備、してきたので」
静かに答えた柊華は、落ち着いた様子でこちら側のカメラをオンにする。
「こんにちは。聞こえていますか?」
「はい、聞こえています。こちらの声は聞こえていますか?」
「聞こえています。はじめまして。膠原病内科医の
丁寧に画面の向こうで頭を下げた希嶋先生は川西先生より少し若そうな女性の先生だった。
「磯原柊華と申します」
「秋山一稀と申します」
「本日はセカンドオピニオンをよろしくお願いします」
鼓動が速くなるのが聞こえてくる。心臓がうるさかった。
「柊華さんのカルテ、見させてもらいました。そうですね……。わたしも柊華さんが治療を受け、日常生活に無事に復帰できる確率は限りなく低いと思います」
あんなにうるさかった心臓が止まった気がした。頭が真っ白になって、音がなくなる。だから。
「ただ、この病気は治療法ができた今でもまだまだわかっていないことが多いですし、柊華さんが目を覚ましてからのこの三か月弱、病状が安定していることも考えますと、分の悪い勝負に賭けてみるのも決して否定できる選択肢ではないのではないかと思います」
その後に続けられた希嶋先生の言葉がすぐには理解できなかった。
「それはつまりどういう」
「柊華さんが、おふたりが治療を望むのなら、僅かな望みに賭けてみる価値はあるのではないでしょうか」
戸惑う僕たちに、希嶋先生は静かにゆっくりと言った。それは決して希望にあふれた言葉ではなくて。それでも。それでも僕たちが縋らずにはいられない言葉だった。
「もちろん、これから話す悪い話も十分に聞いて理解した上でおふたりに決めて欲しいと思っています。説明をさせていただいてもよろしいですか」
希嶋先生の説明は、大方、川西先生にしてもらったものと変わりはなかった。唯一の新たな条件は柊華が目を覚ましてから病状があまり悪化しなかったことくらいで、分の悪さは全くと言っていいほど変わっていない。
「今ここで決めてもらわなくても大丈夫ですので、一度おふたりで話し合って決めてもらえますか? もちろん、治療を希望するということになりましたら、僕の方でも希嶋の方でもできる限り力にならせていただきます。こちらで治療を受けて頂いても構いませんし、大阪の希嶋の方で受けて頂いても構いません」
一週間を目安に心が決まり次第連絡をする約束を川西先生として僕たちは病院を出た。冷たい空気が頬を叩く。希嶋先生の話がまだ消化できていなかった。
「一稀くん、一緒に来てくれてありがとう」
沈黙を破ったのは柊華で、彼女は間髪入れずに言葉を繋いだ。
「もう一か所だけ一緒に来て欲しい場所があるんだけど、来てくれる?」
柊華は、タクシーは要らないと言った。
「どこに行くの?」
「公園」
「なんで?」
「紅葉、見れるかもしれないでしょ?」
手を繋ぎ、僕を引くように柊華は少し先を歩いていく。柊華の負担にならないように、慌てて彼女の横に並んで訊ねれば思いもしない答えが返ってきた。
「もしも紅葉が見れたら治療を受ける。見れなかったら受けない」
「そんなんで決めちゃっていいの?」
「そんなんで決めたいの。どっちを選んでも、後悔しないってことはきっとないから。なにかのせいにさせて欲しいの」
寂しそうな、吹っ切れたような顔をして柊華が僕の方を見た。
「それにさ、秋が短くなった今、わずかな紅葉を見れた者には小さな幸せが訪れるっていうじゃない? だからそれでいいんだよ」
公園は病院から歩いて二十分ほどのところだった。途中、休憩も挟まず歩き続けたものだから柊華の息が少し上がっていた。
「大丈夫? 休む?」
僕の言葉に首を振って、柊華が指を指す。
「ねえ、見て」
ほとんど緑の中に、黄色がきらりと光を受けていた。吸い寄せられるようにその木の根元まで近づくと、黄色く紅葉している葉がよく見えた。
「別にさ、治るよって言われたわけじゃないんだよね」
視線は黄色の葉に向けたまま、柊華がぽつりと言った。
「うん。そうだね」
一、二、三枚。見つけられたのはそれだけだった。それでも。
「でもさ、賭けてみたいって思っちゃってる自分がいるの」
柊華が真っすぐに僕を見る。
「もう少しだけ一緒に闘ってくれませんか」
「ほんの僅かでも、どんなことでも君の力になれるのなら、なんだってするよ」
九月下旬。柊華の入院生活が始まる頃には、秋は終わろうとしていた。
もうすぐ長い冬が始まる。何年続くかわからない。それでも柊華は、僕たちは、長い冬の中から春を掬える日がいつか来ること信じることに決めた。長い冬を
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