霧の館
棚霧書生
霧の館
1
目を開けるとちょうど着替え中の半裸の男がいた。こちらに背を向けていて、頭から腰まで通った骨は浮き立っている。細くてあまり筋肉のついていない体は不健康そうに見えた。
横たわったまま寝起きの頭でぼんやりと彼の着替えを見つめているとその視線に気がついたのか彼が振り返った。透きとおるような生白い肌を土台に、男にしては丸くてパッチリとした目と小さくて筋が真っ直ぐに通った鼻がバランスよくついている。ドール職人が技術をこめて作ったような整った顔だった。
「あぁ、起きたの?」
彼は艶のある濡烏色の髪を耳にかけながら、ベッドに乗り上げて猫みたいに俺の顔を覗き込んできた。じっと見つめてくる目は蜂蜜みたいな金色だ。
親しげに話しかけてきた彼に、俺はまともに返事をすることができなかった。なにを言ったらいいのか、わからなかったのだ。
「なんだい、その顔は。私になにか文句でもあるのかな?」
袖を通しただけで前を留めていないシャツの間から厚みのない胸や腹が見えている。なんだか見てはいけないものを見ているような気がして目が泳いでしまう。
「……いや」
俺は非常に困惑していた。この美しい男相手に自分は文句があったのかどうかすらもわからない。俺は意を決して口を開いた。
「アンタ、誰だ……?」
「……………………はぁ?」
たっぷりと間をおいて、反応が返ってくる。男の眉間にはこれでもかとしわが寄っている。ふざけているとでも思われたか。
「いや、本当にわからなくて……。アンタのことも……」
のろのろと体を起こし、額に手をやってみる。寝起きの重怠い感覚があるだけで頭痛は特にしない。酒を飲んで記憶が飛んだわけではないのだろうか。ダメだ、眠る前のことがなにひとつ思い出せない。
「も、ってことはもしかして自分自身のことも覚えてないわけ?」
黙って頷く。男の推測は正しいものだったからだ。
「まあ、昨日は激しかったからね」
「へえ、そう、なんだな……?」
なにが激しかったのだろうか。聞くのが少し怖い。でも、聞いておかないと男のことも自分のこともわからないままだ。
「あの……俺とアンタって……」
「アンタじゃない。私はニコラスだ」
「ニコラス……」
俺がニコラスの名前を口にすると彼はたちまち目を丸くした。まるで変なものを見たみたいに。
「君が私の名前を呼び捨てにするなんて、とても新鮮だね」
「そうなのか……? 俺はなんて呼んでたんだ?」
「知りたい?」
ニコラスはニヤニヤと口角を上げて聞いてくる。きっとこいつは俺をからかおうとしているに違いないと妙なセンサーのようなものが働いた。
「とりあえず、ニコラスさんにしとく。敬称つきなら一番無難な呼び方だろうし。元の呼び方を思い出したら、そのとき戻せばいい」
「ええー、つまんない……」
ニコラスは不満そうにつぶやいた。随分と幼い表情をすると思った。年齢は三十代前半くらいに見えるが唇を尖らせる姿はティーンのようだ。
ニコラスは俺から興味を失ったようにベッドから離れ、部屋の端にある鏡台の前に座った。
「レオ、なにをしてるんだ?」
ニコラスはイスに座ったまま鏡越しに、おそらく俺に向かってそう言った。レオというのが俺の名前なのか。
「……えっと」
ベッドから下りて、床に立ってみると俺自身はかなり体が大きい人間なのだと気づいた。単純に背が高いうえに肉体は筋肉の鎧をまとっている。ニコラスと比べたら二回りは違うだろう。自分が着たまま寝ていたらしいシャツには無数のしわがついており、下はパンツだけを身につけていた。ニコラスのすぐ隣に立つと鏡台に自分自身が写った。黒と銀が混じった短い髪に褐色の肌、瞳は茶赤っぽい。顔面には右の額から頬にかけて縦方向の傷痕があった。それなりの大怪我であっただろうそれは昨日今日ついたものではなさそうだ。自分の姿なのにまったくそういう気がしなくて、他人の体を勝手に使っているような奇妙な居心地の悪さを感じた。
ニコラスから無言で櫛を渡され、どうしていいのかわからずに突っ立っていると彼は苦笑いをした。
「本当に忘れてるのか」
再び、ニコラスが尋ねてきた。
「だから、そう言ってるだろ……」
「ふぅむ……」
ニコラスは首を傾げ、俺が着ているシャツの裾を引っ張る。そして、上目遣いになりながら俺を睨めつけると
「レオ、お座り」
と言った。
俺は途端に姿勢を保てなくなって、床に膝をついた。ニコラスに頭を垂れる形になり、彼は俺の頭を大型犬のそれのようにわしゃわしゃと撫で回した。
「いい子いい子〜。記憶はなくしても命令はちゃんと聞けるんだね」
「……なんだこれ?」
体が勝手に動いた。ニコラスに従うか頭が考える前に、体が反応してしまった。混乱している最中にニコラスに顎をすくい上げられる。俺の疑問には彼が答えてくれた。
「君は犬だ。主人は私。わかったね?」
「……そう……なのか?」
ニコラスは面倒そうにため息をつく。
「せっかく地道なしつけを重ねてきたのに、あの僧侶のせいでぜんぶパーだ!」
「僧侶に、俺はなにかされたのか?」
俺が記憶をなくしたのは僧侶が原因なのか。全容がわからない。ちゃんと筋道立てて話してくれないだろうか。
「なあ、ニコラスさん」
「可哀想なレオ! 自分のことも、大好きだった私のことも忘れてしまうなんて!」
俺がニコラスのことを好きだったのかは覚えていないが、その芝居がかった言い方が嘘くさいと思った。
「安心したまえ、レオ。私は自分の犬が記憶喪失になったくらいでは手放したりはしないよ」
「はぁ……」
記憶がないというのは心細いものだ。明らかに胡散臭い相手の言うことをとりあえずは信じていかないと頼るものがなにもない。俺はいくら怪しいと思っても、今のところは俺の主人を名乗るニコラスにくっついていくしかなかった。
「いつもやっていたことをすれば記憶が戻るかもしれない。さあ、髪を梳かしてくれ。君は私の髪をセットするのが毎朝の日課だったんだよ」
「あぁ……わかった……」
俺はニコラスの髪に櫛を入れていく。彼の髪質は柔らかくて女の人のそれみたいだった。他人の髪のセットなんて上手くできないと思ったが、手は迷うことなく動いた。仕上げの段階でみつあみを自然と編んでいると
「なんだ、もう思い出したのかい?」
とニコラスに聞かれたが、なにも思い出してはいないので首を横に振るしかなかった。
「口を出さずともいつもどおりの髪型にセットしてくれるから、記憶があるように思えてしまうね」
ニコラスが俺と親しい間柄なのは間違いない。一緒の部屋で過ごした痕跡があり、日常的に髪に触れていた。ニコラスは俺のことを犬だと言ったが、それはつまり従者とか家臣という意味だろうか。
鏡越しにニコラスと目が合う。
「こうしているといつもと変わらない朝だ。でも、いつにも増して君は無口で……それが少し寂しいね」
「俺は無口なやつだったのか?」
「君は私のことをおしゃべりだと評していたから、私と比較するならば無口だったろうね」
俺とニコラスはどんなことを話していたのだろう。彼の髪は滑らかで指通りがよく、引っかかりがない。みつあみを編む手が段々と遅くなっていく。ひとかけらでも思い出せることがないか、頭の中を探してみるのだが、これといってなにもない。
ただ、なんだか俺はニコラスのことを大事に思っていたんじゃないかとは思った。
2
ニコラスと自分自身の身支度を整え終わったところで、ニコラスが朝食にしようと言って部屋を出た。俺もあとに続くと扉の先は茶色い絨毯がしかれた廊下になっていた。どうやら俺は洋館の一室にいたらしい。部屋と反対側には上げ下げ窓が等間隔に並んでいて、朝日が差し込んでいる。
「中庭があるのか?」
窓の外には花壇と少し先の壁沿いにフランス窓が見えた。あそこから外に出て、日の光をいっぱいに浴びたら気持ちよさそうだ。
「あとで散歩でもするかい? 君専用のお昼寝スポットもあるよ」
「俺専用なのか?」
「私は寝るならベッドの上がいい」
「なるほど」
この館には俺とニコラス以外はいないのだろうか。結構、広いし部屋数もあるように見受けられる。さっきまでいた部屋と廊下しか見ていないがきちんと掃除もされているようだった。
「俺たちはここに住んでいるのか? 別の住人は? 掃除や食事の準備は誰がしている?」
「質問責めだね。私たちはここに住んでるか、イエスだ。もうかれこれ百年ほどは同じ建物を使っている。基本的に私とレオしかいないよ、たまに客人が来るけどね。掃除や食事は私が用意している」
これは意外だ。ニコラスが掃除をしたり、食事を作ったりするところは想像がつかない。俺にやらせていたと返ってきたほうがまだわかる。
「ニコラスさんは料理ができるのか?」
「できないよ?」
「……うん?」
「なに言ってるの?」
話が噛み合わない。どういうことだ。食事の用意はするのに、料理はできないのか。
「出来合いのものを買ってきているということか?」
「はあ…………? あっ、わかった! レオは食事のことも忘れてるんだね!!」
首を右に左に傾げていたニコラスが突如として声を上げる。謎は解けたとスッキリした顔で、先に歩いていってしまう。俺は慌てて追いかける。といっても歩幅が俺のほうが広いので、ニコラスに追いつくために急ぐのは二三歩で十分だった。
「食事のことも忘れてるってなんだよ。ちゃんと教えてくれ」
「お腹が空けば思い出すんじゃない?」
いたずらっ子みたいに微笑むニコラスにはちょっとムカついたが、これから朝食を食べると言っていたから、どうせそのときになればわかるということだろう。
3
「おやおや、これはこれは」
廊下を進んでいくと開けた場所に出た。玄関ホールのようだ。そこに見知らぬ……まあ、今の俺は知り合いにあっても見知らぬ人としか認識できないのだが、ニコラスの表情を見るに、おそらく俺たちの知人ではないだろう人物が三人いた。
金髪の男女が二人、おそらく兄妹なのだろう、顔が似ている。男のほうが背に血まみれの中年の男をおぶっており、女は気を失っているらしいその男にしきりに話しかけている、だが応答はないようだ。
「誰です、あなたたち?」
ニコラスが眉をひそめて、不機嫌を隠そうともしない声色で尋ねる。俺が犬で、ニコラスが主人かつ、この館の住人が俺たちのみという言葉を信じるのならば、この館の主人はニコラスだろう。勝手に自分の敷地に立ち入られたら気分を害すのも当然だろう。
しかも、なにやら訳ありそうな雰囲気がしている。なにせ、一人は血まみれなのだ。
ニコラスと俺の姿に気がついた金髪の男は怪我人を背負ったままで居住まいを正す。
「この家の方ですか。許可も得ず中に入ってしまって申し訳ない。俺の仲間が大変な怪我をしているのです。どうか助けていただけないでしょうか」
碧い瞳は責任感に満ちていた。顔はどこにでもいそうな造形をしていたが、危機に直面しているからか精悍な顔つきに見える。
「助けるとは、具体的に?」
「休める場所を貸していただきたい」
「それは構わないが……君たちは代わりになにを支払ってくれるの?」
「俺たちに払えるものならば、なんでも用意しましょう。今は一刻も早く仲間の治療がしたい」
「仕方ないな。レオ、あの方たちを客室に案内して、ついでに清潔なお湯とタオルを……ってそうだ、今は……」
流れるように俺に指示を出そうとしたニコラスが、口をつぐむ。もしかしたら俺はこういうときに来客対応をする役目を担っていたのかもしれない。しかし、中庭があることも忘れていた俺はもちろん館の中のことも全然覚えていない。つまり仕事がまったくできないのだ。
「なんか悪いな……」
「君のせいではないよ」
ニコラスは自分で客人を案内をすることにし、俺にはおつかいを頼んだ。メモと財布を渡され、文字は読めるか金勘定の仕方は忘れていないかを聞かれたので、大丈夫だと答えた。
館の外に出ると濃い霧が出ていた。館は森の中にあったようで周囲は幹が太くて背の高い木が林立している。道なりに進めば大通りに出るとニコラスから聞いていたので、そのとおりに歩いた。少しでも道をそれたら方向感覚を失ってしまいそうなほど辺りが霞んでいる。これは行きはよりも帰りが怖いかもしれない。
市場で買い物を済ませて、森の入口に立ったとき行きでした心配はまったく杞憂であったことに気がついた。行きにはなかった印が帰り道にはあったのだ。俺がニコラスの待つ館に帰るにはそれをたどるだけでよかった。
4
俺が館に戻るとニコラスではなく金髪の女が驚きに満ちた表情で出迎えてくれた。
「わあ、すごいです! 本当にあの霧の中を行き来できるなんて!」
女は目を爛々と輝かせ、尊敬の眼差しでこちらを見てくる。
「えっと……アンタは」
「私、ミシェルです。ミシェル・シーカー。先ほどはご挨拶もせずに失礼しました」
「ミシェルさんね、俺は……」
そういえば、ニコラスから自分の名前はレオとしか聞いていない。俺のファミリーネームは一体なんだろう。
「レオと呼んでくれ」
ニコラスの従者の、とか執事の、なんて肩書きをつけたほうがいいのか一瞬迷ったが、俺はまだ自分でもニコラスとの関係性を理解していない。犬だとは言われたが、まさかそれを今日知り合った他人にそのまま伝えるわけにもいかない。
「はい、レオさん! よろしくお願いします!」
「できれば、お兄さんのほうにも挨拶しておきたいんだが……」
「兄ならニコラスさまと一緒にゼスターさまの様子を見ています。あっ、ゼスターさまというのは怪我をしている私たちの仲間です」
ニコラスも一緒にいるならちょうどいい。買ってきたものをどこに置いたらいいか聞きにいこう。
「買い物袋、預かりますよ! 私、ニコラスさまに夕飯の準備をするように言われているので」
「えっ、そうなのか?」
「キッチンの場所もさっき教えてもらいました。任せてください!」
「じゃあ、よろしく頼む……」
ミシェルさんに食材の入った買い物袋を渡す。俺だってまだキッチンの場所は知らないのに。なんとも言えない妙な悔しさが心ににじむ。ニコラスがミシェルさんに料理を頼んだところもちょっと納得がいかない。
いやいや、料理は記憶があった頃も俺の領分ではなかったようだし、気にするところではないか。頭を振って、ニコラスのいる部屋に向かう。
5
扉を叩いて返事を待ってから中に入る。一歩踏み込むと紙の匂いが鼻腔を刺激した。部屋の壁際がすべて本棚になっていて、扉から入って右側に書見台が、中央からやや奥にかけて大きな天板の机が置いてある。
「レオ、おかえり」
「あれ? お客人は?」
「彼らには二つ隣の部屋を貸したよ」
「一応、挨拶しとこうと思ったんだが、部屋を間違えたな。ニコラスさんが一緒にいるとミシェルから聞いたから、てっきりここかと」
「君、記憶が戻ったの?」
「いいや、全然」
「なぜここが私の部屋だとわかった。まだ教えてなかったはずだ」
ニコラスがわかりきったことを尋ねてきたので、俺はオーバーに肩を竦めてみせる。
「霧の中から館に戻るよりも簡単にわかるぞ」
ニコラスは、あぁ……と息を漏らして、肩口に顔を近づけ自らの体臭を嗅いだ。
「そんなにわかりやすいか?」
「十分」
「犬の嗅覚はすごいね」
「そりゃ、どうも」
俺について一つ思い出したというか、わかったことはとても鼻が利くってこと。そして、一番嗅ぎ分けやすいのがニコラスの匂いのようだ。濃い霧の中でもニコラスの匂いをたどれば、視界に頼らずとも館まで戻るのは容易かったし、館の中でニコラスがいる部屋を当てるのは問題にすらならない。
部屋の中にミシェルが作っているであろう料理の匂いが漂ってきた。
「おっと、まだ正解を言うなよ。これなら私もわかる。トマトの香りだ!」
「そんな得意げに言われてもな……。ニコラスさんが買い物リストを書いたんだから、あらかじめ答えを知っているようなものじゃないか?」
「それもそうだ!」
あはははは、とニコラスは屈託なく笑った。
6
夕方にはまだなりきっていない中途半端な時間にテーブルに並べられた料理はトマトと豆のスープ、白身魚のムニエル、パンとチーズ、それにぶどう酒がついてきた。
ニコラスの隣に俺が座り、向かいにはシーカー兄妹が腰を下ろした。怪我をしていたゼスターはまだ目覚めていないらしいので、この場にはいない。
「さあ、召し上がってください!」
「寝床だけでなく、食事までいただいてしまって、すみません。ありがとうございます」
「いえ、うちは食材を提供しただけで作ったのはミシェルさんですから。そう、かしこまらずに気楽に食べてください」
「美味そう…………だ?」
なんだろうかこの違和感。朝からなにも食べていないから腹は空いているはずなのに、あまり食べたくない。食欲がわかない。
「どうしました、レオさん? もしかして、苦手なものがありましたか? それなら私が代わりに食べますよ!」
「ふふ、うちのレオは偏食家なんです。肉ばかり食べるんですよ」
「お肉が好きなんですね、ごめんなさい、お肉はなくて」
「用意させた食材に肉は入れませんでしたから、ミシェルさんが謝ることではないですよ。レオはたまには野菜や魚も食べたほうがいい」
俺は肉が好きなのか。だから、この肉のないメニューにあまりそそられないのだろうか。なんだか腑に落ちない。
「ニコラスさん……俺は」
やっぱり食欲がない。今は食べたくないから、作ってくれたミシェルさんには悪いがあとでいただくことにしよう。
「待て、レオ。食べ始めてしまえば気にならなくなるさ。そうだなぁ……誰かの顔を見ながら食べると美味しく感じるって言うだろ?」
ニコラスが俺の顔を見て、トマトスープを口に含んだ。
「ニコラスさまの言うとおりですよ、レオさん! ご飯はみんなで食べるとより美味しくなります! 少しだけでもいいので、食べてもらえませんか……?」
ミシェルの後押しもあって、俺はスプーンを手にとった。トマトと豆のスープをくるくると回してみる。酸っぱい匂いと潰れた豆が気持ち悪く感じてしまう。俺は、食事に難を抱えていたのだろうか。肉ならば、こんなにも拒絶の感情を持たずに普通に食事ができたのか。
わからない、普段の俺がどんな食事をしていたのか。もし、食事に難があったのならば、ニコラスは俺が記憶喪失になったのを機に食生活を改善させようとしているのだろうか。
しかし、それなら前もって説明しておいてほしかった。いや、こういうのは精神的なものの影響が大きいからあえて言わなかったのか。ああああああ、肉が、喰いたい。
「レオさん……あの、私……気に障ることを言ってしまったでしょうか……」
「えっ……?」
ハッとして正面に座るミシェルを見た。彼女はとても気まずそうにしていた。食事の手も止まってしまっている。
「ああ、いや。俺側の問題なので、気にしないでください」
なんて言っても彼女は気にするのだろう。ほんの短い時間しか一緒に過ごしていないが、彼女が他人を気遣う性質なのはすでにわかっている。
俺はスプーンでほんの少量のスープを掬って、のろのろと口に運んだ。舌で豆が潰れるくらい柔らかく煮込んである。トマトの味がしみていて、不味くはない。たぶん、一般的に言って美味いと分類してもいい味だと思う。俺の舌にはしっくりこないというだけで、トマトも豆ももちろん作ってくれたミシェルも悪くない。
「どうですか……?」
恐る恐るといった体でミシェルが尋ねてくる。俺は、ああ、美味しいですよ、と無難なことを言ってやるつもりだった。
顔をあげると口の中でじわっとよだれが出てきた。猛烈に腹が減る。なにかスイッチでも入ったみたいに食べたくて食べたくて堪らなくなる。
きゅーくるくるー……
「あはは、なんだレオ。やっとお腹が空いてきたか?」
俺の腹の音を聞いて、ニコラスが笑い、気まずそうにしていたシーカー兄妹の顔にも明るい表情が戻ってくる。
「今日は朝からなにも食べていなかったから……」
腹の音に対する言い訳を並べながら、俺はトマトと豆のスープを一気に口へと流し込んだ。
7
遅くなった昼食を食べ終えたあと、ニコラスがシーカー兄妹にシャワーを勧めた。血まみれのゼスターを背負っていた兄のほうは食事前に服だけは取り替えていたが、二人とも森の中を歩いてきたわけだから汗を流したいだろうとニコラスが気遣ったのだ。
「レオ、タオルを……おっとまたやってしまった。なんでもない、君は座っていてくれ」
ニコラスは浴室まで二人を案内するために席を立った。三人で食堂から出て、ニコラスと兄のほうが戻ってくる。ミシェルが先にシャワーを浴びることにしたのだろう。
シーカー兄はゼスターの様子を見るといって、食堂を出ていった。二人きりになったところでニコラスがリラックスした調子で口を開く。
「レオ、紅茶を…………飲むかい?」
また俺に指示を出しそうになったのか。ニコラスの言葉には妙な間が空いた。俺は頷き、ニコラスのあとについていく。キッチンは端にコンロが三つ、中央に調理台が設置されている。
ニコラスがコンロの一つにケトルを置き、火にかける。
「昔は火を起こすのも大変だったけど、良い世の中になったよね」
「ああ……」
同意を求められたが昔を思い出せないので生返事になる。
「コンロの使い方は覚えてるの? そもそもコンロの存在は忘れてない?」
「大丈夫だ。火を起こす装置だろ」
「なにをどこまで教え直したらいいのか、指針がほしいな。記憶の消え方に法則性とかないの?」
「生活に使う道具や技術は忘れていない。だが、自分自身がどこでなにをしてきたのかは綺麗さっぱり真っ白だ。今朝、言葉や常識を持ったままアンタの隣で生まれてきたみたいな感覚だな」
「まあ、私が昨夜……君を生みなおしたようなものだから……」
「なんの話だ?」
ニコラスは話の流れを切って、戸棚から紅茶の葉が入った容器を取り出した。蓋を開け、茶葉を目分量でティーポットに入れていく。芳醇ないい香りがふわりと漂った。
「君は大怪我をして、死にかけてたんだよ」
ニコラスが小さな声で告げる。
「はあ?」
「まあ、忘れちゃっただろうけどね。治したのは私。恩義を感じてくれて構わないよ?」
「助けてくれてありがとう……?」
ニコラスはふふふと妖しげに笑い、俺との距離を詰める。
「素直になったね、レオ」
頭を撫でられた。褒められているのだろうか。けれど、ニコラスの目は笑っていない。たぶん、悲しんでいる。俺が記憶をなくして、変わってしまったことに。このまま続けさせるか、振り払うか、言葉でやめろというか。昨日までの俺ならどれを選んだのだろう。素直じゃなかったのなら、撫でられることは嫌がるのかもしれない。
結局、俺は動けなくて、撫でられるままになっていた。ケトルの湯が沸騰する音を合図にニコラスの手が引っ込んだ。
「私はこれでも愛犬家なんだよ」
二つ並べたティーカップにニコラスはお湯を注いでいく。それは紅茶を美味しく飲むために、先にカップを温めておく必要があるからだと俺は知っている。紅茶の淹れ方は思い出せるのに、ニコラスのことはちっとも思い出せない。俺の主人らしいが、いつから一緒にいるのか、普段はなにをしているのか、きっと長い時間を共にしたはずなのに一切の思い出がない。
「ニコラス……」
言葉が見つからなくて、首に手をやる。首筋に爪を立てて、痛みを発生させた。この場の空気から気をそらすなにかがほしくなったのだ。
「その癖は前のままだ」
「どれのことだ?」
「首に爪を立ててる」
「……俺は俺ってことだ」
ニコラスは静かに微笑む。今度は目までちゃんと笑ってた。
「記憶が戻っても戻らなくても、私はレオを飼い続けるよ」
「それは、ありがたい。ほっぽり出されたら、途方に暮れちまうだろうから」
トレーにティーポットとお湯を捨てた空のカップを乗せたところで、ニコラスが動きを止めた。
「食堂に戻る前に話しておきたいことがある」
ニコラスの雰囲気が突然、変わった。彼はゾッとするほど冷たい目をしている。
「なんだ?」
「ゼスターのことだ」
ゼスターはこの館に運び込まれてから一度も目を覚ましていない。寝ていただけのはずだ。それなのに、ニコラスはゼスターの名を忌々しいもののように呼ぶ。
「あいつは昨日、君を殺そうとした張本人なんだ」
「なんだって……?」
俺は思わず身震いした。
8
ラザロ・シーカーは妹のミシェルと共に祓魔師をしていた。祓魔師の道を目指したきっかけは彼らがほんの幼い頃、悪魔に取り憑かれた母親が父親を刺し殺したことだった。投獄された母親はろくに話すこともできなくなり、数年のうちに亡くなった。
両親がいなくなった彼らを育ててくれたのは高名な僧侶が経営する児童養護施設だった。ラザロもミシェルも物覚えがよく運動神経も悪くなかった。祓魔師に必要な知識と技術を習得しても、危険な仕事に従事する覚悟が決まらず別の道に行く者もいるが彼らは初志貫徹、祓魔師を仕事にした。それは母や父の弔いであり、自分たちのような不運に見舞われる子どもが二度と出ないようにと思ってのことだった。
成長して力をつけた二人は、ある高名な僧侶、ゼスター・ラマニエの祓魔に同行させてもらえることになった。ここで経験を積み、祓魔界で名をあげれば、祓魔師としてのキャリアをアップできるとラザロとミシェルは考えていた。
しかし、現実はそう甘くない。祓うはずの悪魔がいる森の中で、濃霧が発生し兄妹は僧侶とはぐれてしまったのだ。
霧が出るなんて、運が悪い。兄妹はそう思った。だが、焦ってはいなかった。森の中での野宿は初めてではないし、お互いがいる。交代で睡眠を取れば、見張りをつけて周囲を警戒することもできるのだ。一つ気がかりだったのが、一人になってしまったゼスター僧侶のことだが、彼はシーカー兄妹よりもずっと実力があり、祓魔の経験も豊富だった。数年前には国から表彰も受けている。それほどの人物だから、無理をして霧の中を歩き回るよりも、シーカー兄妹は自分たちの身の安全を優先したのだ。
だが、ラザロとミシェルはこの選択をひどく後悔することになる。
翌朝、霧はまだ晴れていなかったが二人はゼスター僧侶の捜索を始めた。二十分もしないうちに、ある一箇所に動物や虫が集まっているのを発見する。最初は鹿かなにかが息絶えているのだと思った。しかし、それが身にまとっている装束には見覚えがある。ラザロは慌てて、動物たちを追い払った。
ゼスター僧侶の体のあちこちには鋭い牙で噛まれたような痕があった。皮膚が破れ、肉がえぐられ……指は四本なくなっていた。
死んでいてもおかしくない傷なのに、まだ息があった。止血をしたあとに、どうやって霧の中をこの怪我人を連れて下山するかで頭を悩ませていたところ、奇跡が起きる。古びた洋館が近くにあるのをミシェルが見つけてきたのだ。
ラザロはゼスター僧侶を背負い、洋館の扉を叩いた。反応がなかったので鍵を壊して、中に入った。謝罪ならあとでいくらでもするつもりだった。そのときはゼスター僧侶をまともな寝台に寝かせてやりたい一心で行動していた。
ラザロがなにかが変だと思ったのは洋館の住人が顔を見せたときだった。貴族風の細身の男とそのおつきのものと見られる筋骨隆々の大男。その二人しか館にはいなかった。細身の男が館の主人でニコラスと名乗った。大男のほうはレオというらしい。
いや、怪しいにしてもそれだけならばラザロは彼らのことを人嫌いの隠居貴族とその従者としか思わなかっただろう。しかし、ラザロが観察したところ、館の二人はどこか変なのだ。従者の大男がまったく仕事をしている素振りがない。部屋の案内も、備品の取り出しも、すべて主人のニコラスがやっていた。そんなことをわざわざ館の主人がするだろうか。
ゼスター僧侶のために駆け込んだ館だが、これはひょっとするとまずいことになったかもしれない。
館の主人ニコラスと従者のレオは人間ではない可能性がある、とラザロは考えていた。
元々、依頼では森の中に悪魔が住んでいるとあったのだ。この洋館自体が十分怪しい。もしかしたら、あの二人組はこの洋館を根城にしている悪魔なのではないか。そんな憶測がラザロの頭の中に組み上がっていく。
昨夜、ゼスター僧侶を襲ったなにかがまだ近くにいるかもしれない。警戒しなくてはいけないことがたくさんだ。
ラザロは食事のあと、ニコラスにシャワーを浴びることを勧められたが、応じるフリをしてやり過ごすことにした。妹のミシェルにも、体を濡れたタオルで拭くだけにしろと言っておく。いつでも臨戦態勢をとれるようにしておけと、しつこく何度も繰り返した。ミシェルはどうにも人が優しいところがあり、ニコラスとレオのことをあまり疑っていないようなのだ。ラザロが濡れたタオルで体を拭くだけにしろと言ったときにはミシェルにひどいしかめっ面をされたが、油断すればゼスター僧侶のように命の危険があるのだ。警戒してなにもなければそれでいい。杞憂だったとあとから笑えばいいのだから。
ラザロは意識の戻らないゼスター僧侶の横で武器の手入れをする。
丁寧な手つきで銀色の銃を分解し、掃除をし、油をさしていく。大事な場面できちんと使えるように、祈りを込めて銀弾を装填する。
ゼスター僧侶の意識が戻らなければ、応援を呼ぼう。もう自分たちの手に負える範囲を超えている。ラザロはゼスター僧侶の横顔を眺めた。顔についた傷を覆う包帯がより痛々しさを増幅させていた。
ラザロはゼスター僧侶の固く閉ざされたまぶたを見ていた。それがなんの前触れもなくふるふると震え、次の瞬間にはカッと目が見開かれる。視線だけを動かしたゼスター僧侶がラザロの姿を見つける。
ラザロは無意識に緊張した。ゼスター僧侶の目がなにかを訴えようとしていたからだ。顔から目玉が浮き上がっているような迫力がある。伝えるべきことを持った瞳はあまりにも強く、圧倒される。
「おお……おお……」
ゼスター僧侶が呻く。喉がカラカラに渇いて、声が出しにくいのだろう。ラザロはハッとして水を差し出すが、それは無視された。
「きゅう……と、が……い……る。逃げ……なさい」
「なんですか、一体なにがいるんです!?」
ラザロはゼスター僧侶の口元に思いきり耳を寄せ全神経を集中させるがどうしても内容が聞き取れない。
「ガぁっ…………」
「ゼスターさま?」
唐突に文章が終わる。ラザロがゼスター僧侶を見ると事切れていた。
「ゼスターさま、ダメです、ゼスターさま!」
ラザロには打つ手がなかった。その事実を拒絶するようにラザロは何度もゼスター僧侶に呼びかける。
ちょうどそのときだった、妹のミシェルの悲鳴が聞こえたのは。
9
ラザロは全力で走った。心臓がバクバクと鳴っている。頭の中はシッチャカメッチャカだ。
ゼスター僧侶に続けて、たった一人の妹にもなにかあったら、ラザロは壊れてしまう。
「ミシェル! どこだ、ミシェル!!」
ミシェルの姿を最後に見た、浴室までたどり着く。辺りを見回すが誰もいない。
ラザロは腰に下げた銃に触れた。ホルスターが抜き出し、安全装置を外して、構える。
ラザロは慎重に来た道を戻り、ニコラスとレオを探した。ミシェルだけでなく二人の姿も見えないのはいよいよおかしい。
廊下をそっと進んでいく。どこだ、どこに行った。
焦る気持ちはあるがラザロはなるべく音を立てないように歩いた。ミシェル以外の者が目に入ったら問答無用で撃ってやろうと脳内でシュミレーションする。
玄関ホールに出ると明かりがついていなかった。窓の外の日は暮れ始めている。明かりを探そうか思案していると目の端でなにかが走っていくのが見えた。
「ッ……」
ラザロの目が捉えたのは人間の形をしていなかった。四つ足の獣、それもとても大きな体をしており、すべての足を地につけた状態でも軽く三メートルほどはありそうだった。
獣は廊下の先に行ってしまい、姿を見失う。あれは悪魔の類に違いないとラザロは思った。やはりこの館が悪魔の根城になっていたのだ。ニコラスとレオはあれの存在を知っていながら、手負いの者を抱えた自分たちを受け入れた。なんのために。
ラザロの頭には嫌な想像が広がっていく。ミシェルがあの獣に捕まったのなら、まだ無事でいるのかわからない。
ラザロは震える足を拳で殴りつけてから、獣のあとを追った。廊下に並んだ部屋の扉はこれ見よがしに一つだけ全開にしてある。誘われているのだ。
自分の命を考えるのならば、部屋には入らず引き返すべきだ。ふと窓の外を見る、霧が立ち込めていた。森で迷って街までたどり着くのは至難の業かもしれない。しかし、レオは日の高いうちとはいえ、街に行き、この館までなんなく帰ってきた。なにかやつらにしか知らされていない目印のようなものがあるのではないか。そちらを見つけられることに賭けたほうがまだ生存の確率が高いのではなかろうか。
ラザロはぐるぐるぐるぐると二択を考え続けた。獣を追い怪しげな部屋に入るか、それとも一人で尻尾を巻いて逃げるか。どちらも命の保証はない。
手にじんわりと汗をかく。ラザロは握り込んでいた銀色の銃を持ち替え、手のひらを乱雑に服で拭う。再び、銃を利き手で握ってしばし考えた。
俺はなんのために祓魔師になったのか、と。
ラザロは深く息を吸い、吐き切ると部屋に入った。銃口を右に左に向ける。しかし、撃つべき対象はいなかった。その部屋は本がたくさん置いてあり、壁の全面が本で埋め尽くされている。紙の匂いが鼻についた。中央には書き物をするための机があり、その裏を確認するためにラザロは近づいていく。
あった、地下への道だ。机の下に位置する床には隠し扉がつけられていた。ご丁寧にこれもまた開きっぱなしである。覗き込むと下の方まで続いており、薄らぼんやりと明るい。下には光源があるようだ。
扉の入口はそれほど大きくなく、下までははしごになっている。ここをさっきの四つ足の獣が通れたとは思えなかった。
獣は別の場所に向かったのか。しかし、こんなあからさまな誘導をされているのだから、この隠し扉の中に来いということなのだろう。
ラザロは銃を持ったまま、はしごをゆっくりと下りていく。まるで怪物の口の中に飛び込んでいくような心持ちだった。
ドックン、ドックン、ドックン、ドックン……
自分の心臓の音をこれほどはっきりと意識するのは初めてかもしれない。ラザロは必ずミシェルを連れてこの館を出ることを心に決めた。
10
俺はゼスターにやられて、大怪我を負った際に記憶もなくしてしまったらしい。
ニコラスが言うにはだが、俺は人間ではない。そんなこと言われても姿形はしっかりと人間なのだから、いまいちピンとこない。
長話をしてしまったから、ニコラスが淹れた紅茶は冷め始めているだろう。
「忘れん坊のワンちゃんだね」
流し台にもたれていたニコラスが、体のバネを使い俺に急接近して、鼻先をツンっとつついてくる。
「俺は犬なのか?」
四足歩行でもないし、体毛も犬ほど生えていないのだが。
「君の真の姿はかっこいいモフモフちゃんだよ」
「ワードセンスが悪いと言われないか?」
「まさか! 私の発する言葉はいつも素晴らしいと絶賛の嵐だよ!」
それは一体、誰からの評価なんだ? まさか昔の俺か? と思いはしたが、黙っておく。今はそれよりも優先して話さなければいけないことがある。
「なぜゼスター一行を受け入れたんだ?」
「逃げた獲物が自分から戻ってきたんだ、そりゃ受け入れるだろう」
「ゼスターが獲物?」
「別にゼスターに限らないけどね」
ニコラスが俺の腰に腕を回してくる。俺の肩に頭をもたせ、ふふふ、と笑う。
「あー……ニコラスさん……?」
急なハグにドギマギしてしまう。さらにニコラスは俺の首筋にキスをした。
ニコラスと俺はかなり仲良しだったとはなんとなく察していたが、やはり直接そういうことをされるとどう反応していいのか迷ってしまう。突き飛ばすほどでもないが、むずがゆい。
「あっ」
「えっ、なにして」
ガブッ……!
「イッタ……!?」
ニコラスが俺の首に噛みつきやがった。ニコラスはちゅぷちゅぷと吸いつき、俺の血液を、ゴクッ……と飲み込んだ。
「お、アンタッ、なに!?」
「か〜わいい。初々しい反応だね。これはいいものが見られた。案外、記憶をなくしてよかったかも?」
「よくない!!」
「おっと」
俺はニコラスを振り払った。首に手をやるとぬるりとした血液が指についた。血の匂いが鼻から脳へ抜けていく。物凄くイライラした。
「アンタにとってはいつもやってることかもしれねえが、俺は今日知り合ったやつに首を噛まれたんだ!」
「興奮してるね、血の匂いを嗅いだからか?」
ニコラスはニヤニヤして、右手を前に伸ばした。
「お座りだ、レオ」
「ギィイッ……ウガッ!」
意地でも従いたくなくて膝をつかないように抵抗しようとするも、自分の体ではないみたいに勝手に膝が折れる。
「ごめんね、レオ。昨日も今日も食べていないからお腹が空いているんだよね」
ニコラスはしゃがんで、俺の顔を覗き込み、髪をくしゃくしゃに撫でる。
口元に白くて細い指がきて、俺の腹はきゅーくるくると切ない音を立てた。よだれが出てくる。
「ガウッ!」
「つッ……」
口の中に血の匂いがぶわっと広がる。それは奇妙な味がした、よく血は鉄に例えられるけれど、ニコラスの血は煮詰めた蜂蜜に唐辛子を入れたような……とにかく激甘なのに激辛で、ひどい味なのだ。
「お゙え゙え゙え゙え゙ぇ……!!!!」
自然と涙がこぼれてくる。こんなにも不味いものは生まれて初めてだ。
「んっふっふっ……私を食べても美味しくないよ」
舌を手のひらで拭う。ニコラスが紅茶を渡してきたので、カップの中身を一気に飲み干した。
「おかわり」
「はいはい」
もう一杯飲み干して、ようやく不味さが遠ざかっていく。
「はあはあ……」
「不味すぎる、間違っても二度と噛まねえ、って言ってたけど忘れるもんだね~」
ニコラスはケラケラと笑い声をあげている。随分と楽しそうだ。
「アンタ、わざと……」
「え〜〜? ひど〜い、レオが噛んだくせに、私のせいにするの?」
「……噛んだのは悪かった」
噛んでしまったニコラスの手をとると、傷がどこにもなかった。
「反対だったか……?」
反対の手も確認するが、すべすべした肌には歯形もついていない。
「ん?」
どういうことだろう、血が出るほど噛んでしまったはずなのに。ニコラスの手をくるくると返して、手のひらと手の甲を交互に見る。
「面白いね~、子犬がじゃれてるみたい」
「ふざけたこと言ってないで、教えてくれ。一体どういうトリックなんだ?」
「もう一回噛んでみたら?」
「絶対に嫌だ」
ニコラスがまた俺を撫でる。耳元に口を寄せ内緒話を打ち明けるようにささやいた。
「私も人間じゃないってこと」
その話はなんだか、スッと信じられた。ニコラスは浮世離れしている雰囲気がある。人間臭くないのだ。
人間ではないニコラスと俺。霧の出る森の中にある館には二人しか住んでいない。そして、推測するに昨夜は俺とゼスターがやりあって、相打ちになった。ニコラスは俺が僧侶に殺されかけたと言っていた。
ゼスターは僧侶で魔を祓うために森に入ってきたってことか。シーカー兄妹は助手かなにかだろう。
ゼスターが重傷を負ってしまい、近くにあったこの館へとシーカー兄妹が運び込んだ。けれど、そこに住んでいる俺たちがその祓うべき化け物だとは兄妹はまだ気づいていない。
きゅーくるくる……
頭を使ったらますます腹が空いてきた。血の滴る新鮮な肉が喰いたい。たくさん、たくさん食べたい。
「口直ししたいでしょ?」
微笑みかけるニコラスはまるでバーに誘うような気軽さで俺の手を引いた。
11
シャワーの音はしていない。時折、水が流れる音が途切れ途切れにしていた。
「シャワーは浴びてないみたい」
ニコラスは片眉をあげた。
「警戒されてるかもしれない。でも、ゼスターならともかく、あの兄妹は雑魚だから気にすることもないよ。行こう、レオ」
「ああ……」
「もうまだ躊躇してるの?」
俺はニコラスに連れられて、シャワー室の前に来ていた。婦女の入浴を覗こうとしている不届き者のようで良い気がしない。
「空腹もいい加減、限界でしょ。昨日やられた傷の回復のため、かなりエネルギー使ってるだろうし」
ニコラスはシャワー室につながる扉の横の壁にもたれた。俺に向かってひょいひょいと片手を振る。待っているから、早くやってこいということらしい。
俺は扉を叩こうとして、そんな必要もないかと思い直し、無言で扉を開ける。
「キャッ……! レオさん……? わあ、びっくりしました」
ミシェルが鏡の前で顔をタオルで拭っていた。服は着ている。俺はなにも答えずに彼女に近づいていく。
「あ、あのッ、レオさん……?」
ミシェルが後ずさりをする。顔はなんとか笑みの形を保っているが少し引きつっていた。
こんな大男が勝手に脱衣場に入ってきたうえに無言で近づいてきたら、女性は恐怖を感じるだろうなと他人事に思う。
「出ていってくれませんか……?」
「できない相談だ」
「大声を出しますよ!」
声は震えているが、毅然とした態度で彼女は言った。その勇気をくじくように扉の向こうからひょこっとニコラスが顔を出した。
「いくらでも、どうぞ~」
「ニコラスさま!?」
「意外と目立ちたがりだな」
「すぐ終わると思ったのに、なかなか出てこないんだもん」
「そこまで待たせてないだろ?」
「食べ方も忘れちゃって困ってるのかなと思って」
「あ、あなたたち、さっきからなにを言っているの!?」
ミシェルの怯えきった顔を見ていると、きゅーくるくる、とまた腹が鳴った。やっぱりトマトや豆ではダメなのだ。肉だ。
俺は肉が食べたい。
ガァルアアアアア……!!!!
「ひっ!? おっ、狼……!?」
「かわいいでしょう? うちのワンちゃん、体が大きくてよく食べるので、食事を用意してやるのが大変なんですよ」
体が巨大化していき、同時に人間の姿から四つ足の狼へと形が変わっていく。すべてのものが相対的に小さく見える。ニコラスの頭の天辺が真下にあった。顔を近づけると鼻面を撫でられる。なるほど、たしかに俺は犬だな、と思った。
「イヤッこんなところで死ぬのは、イヤッ……!!」
グルル……ガァアアアアア!!
「きゃあああああああ!!」
ニコラスから館の中を血で汚すなと前もって言われていたので、俺はミシェルを頭から丸呑みにしていった。
俺は久しぶりの肉の味にとても感動した。こんなに美味いものは他にない。
12
「んふふ、美味しいね」
「アンタの牙、痛いんだから噛み直さないでくれ、一発で決めろ」
俺の首にかじりついて、ちゅっ、ちゅうと何度も血を吸ってくるニコラスに苦言を呈する。手のひらで顔を押しても、ぐぐぐと押し返してきて、また結局噛まれるので、もうされるがままになっている。
「どこまで思い出してくれたの、ダーリン?」
「アンタがふざけた性格だってことと、肉は美味いってこと」
「その言い方だと記憶が戻ってるのか、わかりづらいんだけど?」
「戻ってないよ、相変わらず今朝あったやつに首を噛まれてる気分だ」
「よく受け入れてるね?」
「断っても、無駄だろ」
「よくわかっていらっしゃる。賢いね~」
頬をツンツンつつかれて、若干ムカつくが、いちいち腹を立ててもキリがない、と俺の直感が告げているので放置する。
「それよりも兄貴のほう、遅くないか」
俺たちはニコラスの書斎の隠し扉から秘密の地下室に下りてきていた。はしごを下りて、一本道を歩いていくとソファと小さなサイドテーブルだけが置いてある殺風景な広場に出た。薄暗くてほこりっぽく、床には魔法陣らしきものがチョークで描かれており、床や壁のところどころには血痕のような染みがついている。
「逃げたかな」
「妹を置いて?」
「そのほうが合理的だよ」
「そういうタイプには見えなかったけどな。ゼスターをなんとか助けようとしてたし、面倒見が良さそうだ」
「館に着いた直後は私たちの正体に気がついていなかったみたいだけど、違和感は持っていたようだしミシェルの悲鳴で自分がまずい状況にいることは彼も気づいているだろうさ」
ソファに座った俺の腿に乗って、血をすすっていたニコラスはシーカー兄のことにはあまり興味がなさそうだった。
「喰ってすぐに血肉になるわけじゃねえんだ、そんなに吸うな、貧血になるだろ」
ニコラスがキッと目を吊り上げる。
「私だってお腹が空いてるんだよ! 君を復活させるのに、どれだけの力を注いでやったと思ってるんだ!!」
「わかった……そんな怒んなよ……」
俺はもしかしたらニコラスの尻に敷かれていたのだろうか。なんだか思い出したくなくなってきた。
「なにをしている……?」
ニコラスに怒られて、気落ちしているところにシーカー兄がやってきた。困惑した様子だったが、こちらにはしっかりと銃口を向けている。
「おや、覗きかい?」
からかうようにニコラスが問いかける。
「あなたたちのことはいい……。ミシェルを知らないか? どこにも姿が見えないんだ」
「そろそろ、消えちゃったんじゃない?」
冗談めかしてニコラスが俺の顔を見ながら、腹をさすってくる。
「それはさすがに早すぎる」
二人でクスクスと笑みをこぼす。
いやしかし、狼の姿から人間に戻ったのに胃袋が破裂したりはしないから、俺は消化が物凄く早かったりするのだろうか。
ガンッ!
俺たちの足元に小さな穴が開く。発砲されたらしい。
「笑うな! ミシェルはどこだ、答えろ!!」
妹を心配する兄は真剣な眼差しでこちらを睨みつける。だから、俺も正直に答えることにする。
「喰った」
「は…………」
男はぽかんと間抜けに口を開けている。
「は……ハハッ……。なら、死ね」
ガンッ! ガンッ!
銃口から銀の弾丸が発射される。俺はニコラスを抱えて、ソファの後ろに隠れた。
「私も血を吸うから、丸呑みはなしで、半殺しね」
「了解」
俺は大狼に姿を変え、ソファの後ろから飛び出し、前足で男の体を壁に叩きつける。メキッと骨の折れる音がした。ぐしゃりと床に落ちた男はうめき声すらあげられない。
「瞬ッ殺〜」
ソファの後ろから、服のほこりをはたきながらニコラスがこちらに向かってくる。
「床が汚れちゃった。まあ、地下室にしといて正解か」
床には男から流れ出た血液がべっとりとついてしまっている。
ニコラスは腕まくりをして、両手を突き出した。俺にはさっぱり聞きとれない呪文のようなものをニコラスが口にすると死にかけの男の体が宙に浮かんだ。
ギュルンッ……
ニコラスがレモンを搾るように手を握り込むのに合わせて、男の体から血液が飛び出し、本体の方はミイラのように干からびた。
血液が重力に逆らって、ニコラスの手元に球体状に集まっていく。ニコラスはそれに口づけると喉をコクンコクンと動かした。
俺の血を散々飲んだくせに、ニコラスはあっという間に男から搾った血も飲み干してしまう。
「食欲旺盛だな」
「普段はこんなに飲まないよ。昨日誰かさんのせいで消耗しちゃったから、補給してるの」
「へえ……」
「そこの死体、食べていいよ」
俺は死体を一旦くわえて真上に放り上げ、落ちてきた干物のようなそれを一口に飲み込んだ。
「不味い……」
さっき誤って口にしてしまったニコラスの血に比べれば全然マシだが、パサパサとしていて味気ない。あと、なんとなくこれは残飯処理をさせられているような気持ちになる。前にもこんな気持ちになったことがある。
「うん……?」
なにか思い出せそうだ。
「上に戻って、ゼスターも食べよう。……どうした、レオ?」
「ゼスターはきっと美味いよな……」
「高名な僧侶だからね。少し歳がいってるけど、さっきの二人よりは上等な食材のはずだよ」
「俺とアンタどっちが食べる……?」
「それはまず、私が先に食べて、あとからレオが」
「俺が先に喰いたい」
「レオ、犬は主人を優先するものだよ?」
「そうか……?」
腑に落ちないまま、地下室を出て、ゼスターを寝かせていた部屋に行く。
「なんだ、もう死んでるじゃないか」
「虫の息だったからな」
ゼスターはベッドの上で絶命していた。ニコラスは生き血を抜くのが一番美味しいのにとぼやいている。
「さて、じゃあさっそく」
ニコラスは再び腕まくりをする。さっき地下室でやったのと同じことをやるつもりなのだろう。
「待て」
俺はニコラスの細い腕を掴んだ。
「なに?」
「アンタが先に手をつけるのはズルい、半分にしろ。俺は血が滴る肉が好きだ」
ニコラスがつまらなさそうな顔をする。大きくため息をつき、俺を言い負かすために開こうとした口を……唇で塞ぐ。
「ンッ!?」
「うるせえ口は塞いじまうぞ」
ニコラスがめちゃくちゃに腕を振り回して、距離を作る。
「犬のくせに生意気な!」
「なぁーにが犬だ、嘘つきやがって、ぜんぶ思い出したぞ」
「記憶が戻ったの!? 今のキスで!?」
「ロマンチックだろ」
フンッと鼻を鳴らす。
「君ねぇ、いつから思い出してたの!?」
「さあ、忘れた」
ニコラスがバシバシと足を蹴ってくる。大して痛くない。
「ゼスターは君を殺そうとした張本人なんだ……って、俺を殺しかけたのはニック、アンタじゃねえか」
「あはは、本当に思い出してる。ごめん、ごめん、手が滑っちゃって」
「本気で死ぬかと思ったんだぞ」
昨夜、俺たちはゼスターに遭遇したが、戦闘らしい戦闘にはなっていない。俺がゼスターを半殺しにして、いざ食べようとなったときにニコラスと揉めたのだ。
「俺が喰ったあとに、アンタが俺の血を飲めばいい」
「いつもレオの血ばかり飲んでいると飽きるんだよ。たまには人間から直接搾った血が飲みたい」
といったやりとりがあり、俺が先にゼスターを喰ってしまおうとしたところでニコラスの攻撃をもろに受けてしまったのだ。
「地獄が見えたぜ」
「レオが勝手に食べようとしなければいいだけなんだよね」
ニコラスは不満そうだが、一応殺しかけた罪悪感はあるのか、語気は強くない。
「俺が先に喰っていいだろ、ハニー?」
「君みたいなののパートナーになった覚えはないね」
ニコラスは面白くなさそうに視線を下に落とした。踵を返すとさっさと部屋を出ていこうとする。
「おい……」
「先に寝室に戻ってる」
それはあとで寝室に来いということか。
「難しいやつだねえ……」
俺は狼の姿になって、ゼスターを喰った。
13
ベッドでニコラスの気の済むまで、血を吸わせてやり、一息ついたところで俺はある疑問を彼にぶつけた。
「なんで俺が人狼で、アンタが吸血鬼だって、すぐに教えてくれなかったんだ?」
「うーん……」
眠そうな声でニコラスは言う。
「記憶喪失のレオがかわいかったから」
「はあ?」
もう話は終わったとでもいうようにニコラスは目をつぶってしまう。
「まあ、いいか……」
過ぎたことだ。気にしていても仕方ない。
俺は、明日もその先もこのいい加減な吸血鬼と一緒に、霧の立ち込める森の奥深くで、ひっそりと暮らしていくだけだ。
終わり
霧の館 棚霧書生 @katagiri_8
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