第9話 過去

 先日、『那須華』を訪れた時には、スーツ姿だったが、休日の今日は、ラフな私服だった。その余りのイケメン振りに、道行く女子が振り返る。

「こんにちは。お待たせしました」

 紫乃が、改札口から走り寄る。

「待ってないですよ。今来たところですから」

 ふんわりと、笑顔を向ける。

「この先に、カジュアルなフレンチの店があるんです。前に、職場の人と来て、美味かったから、そこにお誘いしようと思って」

 並んで、歩く。樹の方がいくぶん背が高い。

(どう見ても、姉弟だよね。カップルには見えないだろうな)

 通りを歩きながら、そんな事を考えた。


 向かい合って、コース料理を食べた。気取った感じはなくて、肩が凝らない雰囲気が心地よかった。

「あの後、手直しして無事入稿できました。仲介した上司に恥をかかせないで済みました。紫乃さんのお陰です。ありがとうございました」

「お役に立ててよかったです」

 たわいもない話をしながら、食事を終えた。

 帰ろうとする紫乃を、

「ちょっと、カロリー消費のために、散歩しませんか?」

と、近くの自然公園に誘った。


 木立の間を、二人でぶらぶら歩いた。紫乃は、どうしても樹に聞きたいことがあった。


「樹くん、『陽だまり園』にいたの?」

 少し前を歩いていた樹が、振り返る。今までの穏やかな表情は、消えていた。

「やっぱりね。伊庭さんが調べたんでしょ。あの人、何者?」

 瞳がギラついている。好青年のマスクを外し、本来の顔が現れていた。

「…元県警の刑事」

 目が鋭く光る。

「ふーん…。じゃあ、どこまで調べたの?中学卒業して、都心に出て、工場に就職したのに、傷害事件を起こして、少年刑務所に入ってた事は?その後、赤坂のホストクラブで、散々女に貢がせてた事も?あの人、どこまで、君に教えたのかな?そこまで分かってて、何で君を俺の元に、送り出したのかな?まだ、俺から情報を絞れると思ってんの?」

 一気に捲し立てる。

 紫乃は、衝撃のあまり、言葉が出なかった。

「驚いた?施設出なんて、そんなに恵まれた将来が、待ってるわけないじゃん。俺ら、親に捨てられたんだぜ。スタートからして、悲惨なもんさ」

 少しずつ、落ち着いてきた。紫乃はしばらく考えて、

「でも、今は、立派にやってるじゃない。努力したからでしょ」

と言った。

「…まあね。刑務官の先生が、いい人だった。『お前は頭がいいんだから、勉強しろ』って言って励ましてくれた。収監中に大検に合格したよ」

 樹は、ただのイケメンじゃなかった。その人生は、紆余曲折、波乱万丈、紫乃の生きてきた世界とは、遠く隔たっていた。長い睫毛に縁取られた、美しい瞳の奥に、虐げられてきた暗い恨みを抱えて生きてきたのだ。


「…で、どうするの?俺のこと、記事にして、世間に晒すの?面白がって、周囲を煽って、俺を潰すのが目的?」

 紫乃に、顔を近づける。目に唯ならぬ敵意が宿っている。思わず、紫乃は後ずさる。銀杏の大木が、背中に当たる。迫ってくる樹を見上げる。

「そんな事、する訳ない。それに、伊庭さんから聞いたのは、あなたが『陽だまり園』にいた、ということだけだった」


 樹は、目を見開いた。そして、高らかに笑った。

「じゃあ、何?俺、勝手に墓穴掘っちゃったの?元刑事って言葉に、過剰反応しちゃったわけ?救い難いバカじゃん!」

 可笑しそうに、体を揺すって笑った。

「あーあ、馬鹿らしい。どこまで、知ってるのか、探ってやろうとしたのに、これじゃあ、元も子もないね。…で、どうなの?俺の事、怖くなったんじゃない」

 紫乃は、肩の力がスーと抜けた。素の樹は、傷ついた子供の自分を心の中に抱えた、年相応の青年だ。怖いことはなかった。


「そんな事、あるわけないじゃない」


 樹は、包み込むように自分を見る紫乃を見つめて、ふっと表情を緩めた。


 自然公園のベンチに腰掛け、樹は紫乃を相手に、ポツポツと言葉を紡いでいく。

「ホストをしてたのは、手っ取り早く、金を稼ぐためさ」

「何で、赤坂?」

「太客が多い。ム所の先輩に誘われた。稼いだ金を、学費に当てた。最終学歴が欲しかった。中卒じゃ、何処に行ってもいい職がない。医療系の技師なら、収入がいいから。でも…」

 紫乃を見ていた目を、前に向ける。行き交う人を見る。

「でも、やっぱり、もっと上に行きたい。技師なんて、医者から見れば、道具みたいなもんさ。人の部類にも入らない」

 樹が、紫乃を見る。その目には、強い光が宿っていた。

「だから、俺は医者になりたい。そのために、また金を貯めて大学に入る」

「何年もかかるわよ」

 紫乃の問いに、薄く笑う。

「分かってるさ。手っ取り早いのは、年上で収入の高い女を見つけて、結婚すること。養ってもらって、学費も出して貰う」

 さすが、元ホスト。ちゃんと、自分の価値を理解している。

 この顔と、手練手管に参らない女はいないだろう。でも…と、紫乃は考える。

「その代わり、自由に生きる権利を手放すことになるんじゃない?」

 樹の目が、すっと冷める。

「そんなもの、余裕のある人生を送って来た奴だけの特権さ。最初から、何にもない俺らは、自由だって売り物にしてきた」

 紫乃を見て、呟く。

「アンタには、想像もつかない生き方だろうね」

「そうかもね…」

 ふっと、あの編集者の言葉を思い出す。


『喜怒哀楽、いろんな感情を味わって、自分の血肉とする。人としての深みがないと、小説は書けないよ』


 …そうかも知れない。自分は、薄っぺらなのだ。

 安全に守られて、汚いモノ、怖いモノを遠ざけて、見ないように、傷つかないように生きてきた。

 空想の世界に遊んで、生身の人間と向き合って来なかった。踏み込まれるのが怖いから、自分から壁を作って遠ざかる。本気で人を好きになったこともない。自分の心を、体を、他人に差し出すことなんか、怖くてできなかった。その結果、自分が変わってしまうのが嫌だった。

 頑なな子供のままだった。


「いつまでも、自分の殻に閉じこもっては、いられない…」

 声に出して、言ってみた。


「えっ?」

 樹が、目を丸くして、紫乃を見る。

「ううん、別に。このところ、人と上手くいかないことがあって…」


「…伊庭さんのこと?」

 驚いて、樹を見る。

「水商売が長かったからね。女の感情を読むことには、自信がある」

 にやッと笑った。

「あの人と、どういう関係?」

「…一緒に住んでる」

 樹が、意外そうな顔をした。

「へえー、そういう関係には見えなかった。距離は近いけど、生々しさを感じなかったから」

「そういう関係じゃないから」

 紫乃が、きっぱりと言った。


「何、それ?逆に歪んでるよ。…じゃあ、俺にも、望みはあるってことか」

「…私に、営業トーク使っても、金持ちじゃないから、無駄よ」

 樹が、穏やかに微笑む。引き込まれてしまう笑顔だ。

「アンタと話してると、楽なんだ。妙に構えなくて済む。だから…」


「紫乃、また会ってよ」

「…呼び捨てかよ」


 樹が、楽しそうに、破顔した。



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