第8話 距離
紫乃は、窓に貼られた新聞紙の隙間から差し込む、朝の光で目を覚ました。
(あれ?ここは、自分の部屋じゃない)
昨夜のことは、ちゃんと覚えている。誰かが、石を投げてガラスを割った。怖くて仕方がなかった。伊庭のそばを離れられなかった。それから…
ハッとして、身を起こした。
…ここは、伊庭の部屋、彼のベッドだ。伊庭はどこだろう?
「…起きたか?」
声が、自分の背中から聞こえて、ギョッとした。同じベッドに、背中合わせに寝ていたのだ。
「あの、昨日はありがとうございました。何から何まで、やってもらちゃって」
ベッドの中で、紫乃の方に向き直る。
「災難だったな。朝飯を食べたら、警察に行く。この間の件もある。ちゃんと調べた方がいい」
起き上がって、紫乃を、じっと見る。
「大丈夫か?バイトはどうする?」
…昨夜、この腕に抱き締められた…と思うと、恥ずかしくなってきた。紫乃は、それを誤魔化すように、
「もちろん、行きます。たくさん人がいる所にいた方が、安心できます」
と、きっぱり言った。
「それもそうだ。じゃあ、送って行く。帰りも迎えに行く」
ずいぶん、過保護だな…と思ったが、今日はその方がありがたい。一人でこの家に居たくなかった。
「ほーん…そりゃ、大変だったねー」
マスターに事情を話した。編集長が、コーヒーを飲みに降りてきたタイミングで。
「あの辺りって、そんな物騒な場所だったっけ?」
大垣が、心配そうに尋ねる。
「まあ、最近では、空き家が増えてきたので、何かと不安要素はありますね」
「伊庭が居て、よかったな。で、心当たりは?」
「…ありません」
その時、紫乃のスマホに着信があった。
樹だった。
「突然、すみません。県南医療センターで研修があって、その帰りなんです。早く、原稿を見てもらいたかったから。締め切りが迫るのって、ドキドキして焦りますよね」
紫乃が、樹にコーヒーを差し出しながら、
「分かります。落ち着かないんですよ」
と、相槌を打つ。
それから、向かいの席に腰を下ろして、原稿と睨み合う。
30分程、二人して原稿に向き合った。
「じゃあ、こんな感じで、進めてみます。できたら、また見てください。お願いします」
「分かりました。頑張ってください」
原稿をバッグにしまいながら、樹が紫乃に話し掛ける。
「今日は、伊庭さんは一緒じゃないんですか?」
「いつも一緒にいるわけないですよ」
樹が、じっと紫乃を見る。
「恋人同士なんでしょ?」
「そんなことありえません。無関係な他人です」
同居人では、ある。そのことには触れたくない。
樹の顔が、パッと輝く。
「そうなんだ。距離感が近いなって感じたから…てっきり…」
僅かに、首を傾げながら、紫乃を見詰める。
「じゃあ、お世話になっているお礼に、食事に誘っても、問題はありませんね」
(えっ…と…。)
急な展開に、戸惑う。返事に窮する。
樹は、紫乃より3つも年下だ。そう構える必要はないだろう。食事といっても、高級ホテルのディナーであるはずがない。伊庭には、釘を刺されているが、自分に対して下心を抱くとは思えない。これだけのイケメンだもの。女なんて、より取り見取りだろう。
伊庭に対する反発も、頭を
今度の休みに、会う約束をした。
夕食後のキッチンで、紫乃が皿を洗っている。
伊庭が、コップを渡す。その時、互いの指先が触れた。紫乃が反射的に手を引っ込めた。
「ガシャン!」
派手な音と共に、床でガラスが砕け散る。
「あ、ごめんなさい」
慌てて、破片を拾おうとする。
「痛っ!」
紫乃の指先から、鮮血が滴り落ちる。
「俺が片付ける。手当てしてろ」
ダイニングの椅子に腰を下ろして、指に傷バンを巻く。割れたコップを片付けている、伊庭の背中を眺める。
この間から、あまり会話していない。それだけでなく、二人の間に、何となく緊張感のようなものが漂っている。
それと言うのも、先日、樹が『那須華』に尋ねて来た事がきっかけだ。
樹と食事の約束をした事を、帰り道の車の中で、伊庭に話した。
「軽率だな」
一刀両断だ。
「この前、何かあるから気をつけろ、と言ったばかりだよな」
確かに言われた。散々脅された。
「イケメンにコロッと転がされて、利用される。甘いんだよ」
さすがに、腹が立ってきた。
「真っ昼間、ランチに行くだけです。何かあるわけないじゃないですか!」
「…あいつ、嘘をついてる」
「えっ…」
「あいつは『陽だまり園』の出身なんだ」
「それって…」
「おかしいと思わないか?やましいことがなかったら、話の流れで、そのことに触れるはずだ」
紫乃は少しムキになる。
「知られたくなかったんじゃないですか?色眼鏡で見る人もいるから」
「隠したい過去が、あるからだろ」
「…伊庭さん!それは偏見です」
今度は、伊庭がムッとした。
いろんな思惑が、紫乃の頭を駆け巡る。偏見だと決め付けたが、伊庭の言う事も尤もだ。急に、何も考え無しだった自分が、愚かに思えてくる。
おそらく、樹は自分から情報を引き出したいのだ。それにまんまと乗ってしまったと言うわけか…。
重たい沈黙が、車内に満ちていた。
それから、ずっと、伊庭とは気まずいままなのだ。
コップの片付けを終えた伊庭が、紫乃を振り返る。
「この前は、悪かった」
「…えっ」
「お前を脅して、怖がらせた。そして、あいつとの事を、頭ごなしに否定した」
紫乃は、無言のまま、伊庭を見つめる。
「お前は、大人なんだから、その意志を尊重すべきだよな。俺はお前の保護者でも何でもないんだから。心配しても始まらない」
突き放されてる感じがする。
「相手は若いし、イケメンだ。話も合うだろう。恋愛を経験するまたとないチャンスだ」
口角を上げて、皮肉にニッと笑う。
「気を付けろと言ったり、煽るような事を言ったり…。一体どっちなんですか」
少し横を向いて、紫乃を見遣る。
「どっちでもいいさ。好きにすればいい」
「…ただ、そんな風に意識されると、一緒にいて気詰まりなんだ」
伊庭が、ふっとため息を吐く。
「安心しろ。俺が、お前に手を出すことは、絶対に無い。約束するよ」
同居してから、もう2週間が経つ。
伊庭の、髪に手をやる仕草に、ドキッとする。
ペンを持つ、大きな力強い手に見入ってしまう。
意識するなと、言う方が無理だ。
意識させるような事をしておいて、紫乃の反応を拒絶し厭わしく思う。そんな勝手な伊庭の思惑に、振り回されている気がする。
伊庭との距離が何とも心地悪い。
お互いに歩み寄ること無く、週末を迎えた。
伊庭は、所用がある、と朝から都内に出かけた。
紫乃は、樹と食事の約束がある。
約束まで余裕があるので、『那須華』でコーヒーを飲みながら、時間を潰していた。
その時、店の扉が開いた。千隼が顔を輝かせて、入って来た。
「紫乃、やっと会えた。心配した。ずっと既読が付かなかったから」
しまった!、と思った。都合のいい日を教える約束だった。
「ごめんなさい…。いろいろあって…」
「いいよ。今日、これから出かけないか?天気もいいし、車を取って来るからさ」
紫乃の表情が、申し訳なさそうに、歪んだ。
「ごめんなさい…。今日、この後、約束があるの…」
言われて、彼は気が付いた。紫乃がスカートを履いていることに。いつもは、束ねているだけの髪が、綺麗に編み込んである。ほんのり化粧もしている。
「…誰に、会うの?」
紫乃は、なんと言おうか、迷ってしまった。嘘は吐きたくないが、深読みされて誤解されるのも困る。
「取材で知り合った人に、誘われて、食事をするの。お世話になったお礼だって言うから…」
言葉を、上手く繋げる事ができない。言い淀んでしまう。
「…男の人?」
千隼が、紫乃を見詰める。眼差しがきつい。
「男の子かな。年下だから…。ゴメン、もう行かないと…」
千隼の横を、すり抜けて、店を出る。
千隼は、思わず、後を追おうとした。
「行かない方がいいよ」
突然、カウンターの中から、滝澤が声を掛ける。
千隼の足が止まる。
滝澤の意外な言葉に、驚いて振り向く。
「止めるだけ、無駄だよ。余計気持ちが離れる」
千隼が、目を剥く。
「どう言う意味ですか?」
「今は、君に関心が向いてないってこと。追いかければ、逆効果でしょ」
千隼が、カウンターに座る。
「…じゃあ、どうすりゃいいんですか?」
「待つしかないでしょ。ホントに好きなら」
千隼が、滝澤を睨む。
「…別に、好きなわけじゃ…。幼馴染として、心配なだけですよ」
「今日の相手は、アイドル並みのイケメンだよ」
千隼が、思わず椅子から腰を浮かす。
「ほら、その反応。好きなんでしょ。紫乃ちゃんが。それなのに、どっち付かずの態度で、あやふやにしているから、横から他の奴に攫われるんだ」
「…紫乃が頼れるのは、俺だけなんだ…」
浮かしかけた腰を、席に下す。
「もう、そうじゃない」
その言葉に、千隼は、正面から滝澤を見た。
こんなに饒舌に話す人だったろうか?という、気持ちが湧き上がる。
滝澤は、そのまま黙ってコーヒーを淹れている。
沈黙の時間が過ぎていく。
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