第7話 警鐘

 帰りの車の中で、伊庭がポツッと言った。

「お前も、普通の女なんだな」

 紫乃が、ギョッとして聞き返す。

「どう言う意味ですか?」

「あのイケメンに簡単に絆された」

 あの後、樹と連絡先を交換した。また近々会うことを約束した。

「それは…困ってるって言うから…」

 伊庭が、ハハっと笑う。

「まあ、あれだけのイケメンに擦り寄られりゃ、断れないわな」

 ちょっと、ムッとした。バカにされてると感じた。


 紫乃が黙っていると、

「男に興味は無いと思ってた」

と、ちらっとこちらを見ながら言う。

 ムッとしたまま答える。

「どうしてそう思ったんですか?」

「そう言う意識があれば、赤の他人の男と、一つ屋根の下で暮らそうとは、思わないだろう?当然予想される事態があるんだから」

 ドキンッと心臓が跳ねた。今まで、そこに言及されたことはなかった。あからさまに話題にされると、言葉に窮する。


「俺は、そんなに安全な男じゃない。そう見えたとしたら、心外だね」


 その言葉を聞いて、さらに心臓の鼓動が大きくなる。頬に血が上って来るのが分かる。

 紫乃は、やっとのことで言葉を絞り出した。

「……大垣編集長が、伊庭さんは真面目な人だって言ってました。編集長の、人を見る目は確かです。信頼できるから…」

 家の前に到着した。車が止まる。


「大垣を信頼してるんだ。俺を信じてるってわけじゃないんだな」

 助手席にいる紫乃に体を向ける。覆い被さるように、顔を近づけてくる。

「えっ…」

 目の前に、伊庭の瞳がある。いつもとは違う、凶暴な色を湛えている。

「じゃあ、もっと警戒した方がよかったな」

「…!」

 紫乃は、思わず目を瞑った。息を止める。


 数秒が過ぎた。何も起こらない。

 

 紫乃は、そっと片目だけ開けてみた。

 目の前に、いたずらな子供のような表情の、伊庭の顔があった。

 その顔が、次の瞬間、プッと吹き出した。

(…完全に揶揄われている…)


「ハハっ!安心しろ。バージンに手を出すのは何かと面倒だ。俺は、そこまでの覚悟はない」

 紫乃は、耳の先まで真っ赤になった。

「…何で、バージンだって分かるんですか!」

「大垣から、お前の経歴を聞いている。落選記録更新中ってことも。大体、想像つくよ」


 少し真顔に戻って、紫乃を見る。

「免疫がないってことは、男の思惑に気付かないってことだ。あの男だって、単に困ってるから、お前に頼んでいる訳じゃない。どう考えても、お前より俺の方が、経験があって頼りになるのに、敢えてお前に声を掛けたって事は、何か目的があるからだ。油断するなよ」

 紫乃は、何か、反撃したい気になってきた。

「それは、ただ伊庭さんが、取っ付き難かったからじゃないんですか。仏頂面してるから」

 伊庭は、フンっと鼻で笑って、

「まあいい。あの男については、まだ完全に信じた訳じゃない。引き続き調べるつもりだ。そっちも、分かったことがあったら、教えてくれ」

と言った。車を降りて、玄関に向かう。

 紫乃も慌てて、後を追う。


 突然、伊庭が振り向いた。勢い余って、紫乃が、その体にぶつかる。


「庭の大根、もらうぞ。おでんにする」


 夕食後、伊庭は1階の自室に引き揚げた。

 紫乃は、一人になって、先程のことを、思い返していた。


『俺は、そんなに安全な男じゃない』


 あの時の、伊庭の言葉と表情を思い出すだけでも、ドキドキしてくる。


 …こちらは免疫が無いんだから、あんな顔で迫られると、頭が真っ白になる。たとえ、揶揄われているとしても。


 編集長が、太鼓判を押すくらいだから、自分に手を出すことは無いだろう、とタカを括っていた所はある。無防備に振る舞い過ぎた、と反省する。

 伊庭は、そんな紫乃を戒めたのだ。自分に対するように、他の男を簡単に信用して、付け入るスキを見せる紫乃に、苛立ったのだろう。

『男が、普通、同じ空間に同居していて、何もせずにいるものか。自分が特別なのであって、他の男もそうだと思うなよ』

というメッセージなのだろう。


 伊庭は、体格に恵まれており、鍛えていることが一目で分かる体付きだ。力で捩じ伏せられたら、敵わない。その気になれば、いつでも紫乃を思い通りにできるだろう。でも、絶対そんなことはしない。それどころか、紫乃を保護している。危険が及ばないように。

(それから、飢えないように…)

 甘え過ぎた…、と思う。

(もっとしっかりしなければ…)


 それにしても…

『バージンに手を出すのは何かと面倒だ。俺は、そこまでの覚悟はない』

…ということは、つまり、紫乃は伊庭にとって、『女』の括りにも入らないってことになる。いささか、ショックだった。


(じゃあ、バージンで無くなれば、手を出す可能性が出てくるってことだろうか)

などと、少々危険な発想も湧いてくる。


(もう、考えるの、止めよう。お風呂に入って、小説の構想を練ろう)



 風呂から上がって、体を拭いていた時だった。

 ガシャーン!!と、大きな音がした。

 振り向くと、脱衣所の小窓のガラスが割れていた。外の冷気が流れ込んでくる。驚きのあまり、動けなかった。


「おい!大丈夫か!」

 伊庭が、脱衣所に飛び込んで来た。

 慌てて、裸の体をタオルで隠す。

「動くな!ガラスの破片で怪我をする!」

 紫乃の体を抱え上げる。そのまま、自室のベッドの上に運ぶ。部屋は、ストーブのおかげで暖かかったが、震えが止まらない紫乃を毛布でくるむと、

「ちょっと、見てくる。ここに居ろ」

と、部屋を出て行った。


 しばらくすると、伊庭が、紫乃の服とスリッパを持って入って来た。

「誰かが、外から石を投げたらしい。小さい窓なので、そこから侵入を図るとは思えない。イタズラか、嫌がらせだろう。片付けてくるから、服を着ろ」


 やがて、ガラスを片付け、窓を塞いだ伊庭が戻ってきた。

 紫乃は、服を着て、毛布を体に巻き付け、ストーブの近くにいるが、震えが止まらない。

「…大丈夫か?怪我は?」

 やっとのことで、口を開く。

「……怪我はないです。驚いているだけ…」

 …一体、誰だろう。この間の自転車の件といい、明らかに誰かが故意に仕掛けている。怖くて仕方がない。

 そう思うと、震えが止まらなくなるのだ。人の悪意を、こんな風に身に浴びた経験がなかった。


「…大丈夫だ。ここにいるから」

 伊庭が後ろから、そっと抱き締める。

 温かく、力強い。少しずつ、震えが収まってくる。

 怯えた心が静まって、落ち着いてくる。


 …この腕の中にいれば、安全だ…何も怖いことは無い。



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