コウテイペンギンのヒナはまだ海を知らない
坂水
×
×
──ハロー、ハロー、私の声が聞こえますか?
×
今日の海は穏やかだ。
朝からずっと波打ち際を歩いている。どれだけ長い時間過ごしていても見飽きない。
海は刻々と色を変え、ゆるやかに形を変え、私の心にふれてくる。
時折、遥か遠くから汽笛が聴こえる。海鳥の啼き声、子どものはしゃぎ声、野球スタジアムの歓声、駅のホームのざわめき、病院の待合室のアナウンス、食器の触れ合う音と他愛ない会話……海はいくらでも奏でてくれる。
だが、いっぺん機嫌を損ねると大変だ。嵐は容赦なく人の心に杭を打ち込み、鋸を曳き、鉛玉を撃ち放つ。
今日の海は穏やかだ。ひとつ波立つごとに、ゆっくり表情を変える。
銀鼠色から灰色、薄紅、茄子紺。青斑が浮かび、藍色に染まって、緑青、苔色、萌葱色、梔色の雨上がりは鬱金色……
歩きながら、私の心持ちも塗り替えられる。
もうすぐ日が沈む。長い夜が来る。少し不安だ。夜の海は見えないが、潮騒が止むことはない。
銀の飛沫と緑色した夕日を浴びながら思う。
──エマ、いつか君とこの海を眺めたい。
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この間の海は最高だった。まさか鮫が出てくるなんて。
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いっそもう、殺してほしい。
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今日は最高の日だ。君に会えてうれしい。
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今日は最悪の日だ。君に会えてつらい。
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ファーストは元気かい? セカンドとサードの守備は好調かい?
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……誰かいないのか。返事をしてくれ、頼むから!
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さみしい思いをさせてすまない。
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──ハロー、ハロー、私の声が聞こえますか?
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コウテイペンギンの子育ては、地球上で最も過酷だ。
体長は100~130センチ、最大のペンギンであり、冬の南極大陸で過酷な寒さに耐え、繁殖を行う唯一の生物。巣は作らず、定着氷の上に
卵を持つ両手のない彼らの受け渡しはひどく危なっかしい。なんとか受け渡しに成功すると、雌は卵を雄に任せ、すぐさま
冬の南極、極寒マイナス六十度。雄は、雌が帰るまで約九週間、直立したまま卵を温め続ける。来る日も来る日も、ブリザード吹き荒れる中、父親同士、身を寄せ合うことだけをよすがとして(鳥類にしては珍しく、彼らには縄張り意識がないのだ)。
奮闘のかいあり、ヒナが孵化したら一安心……とはいかない。もしも雌が餌を持ち(呑み?)帰る前に孵化したら、雄は〝ペンギン・ミルク〟と呼ばれる分泌物を吐き出してヒナに与える。これは消化器官の組織が剥離したものので、タンパク質を豊富に含む。雄は最終的に約十五週間に渡って絶食して3分の2まで体重が減少――かよう、コウテイペンギンの父親は、文字通り、身を削って子育てをするのだ。
「ちょっと待って」
エマは自室の隅にあった原寸大コウテイペンギンのぬいぐるみが唐突に話し出した時、慌てず、騒がず、話を遮らなかった。でも、このくだりはいけない。
「なんで急に父親呼び」
〔……え、チチオヤなんて言ったか? いや、ゆってない、聞き違いだ、〕
「言ったよ、再生しようか。やたら〝雄〟に肩入れし過ぎ、偏向モード入ってない?」
コウテイペンギンのぬいぐるみは
「そもそも、なんでそんな海から離れた場所にコロニー作るの? そのホーム設定がまずおかしい」
〔それは外敵がいない場所を選んだ結果であって〕
「ほどがあるでしょ。ちゃんと雌の意見取り入れた? 勝手に決めて、あとで陽当たりとかご近所付き合いとかスーパーまでの距離で喧嘩するやつじゃない? 大体、留守にしている間に何か起きたらどうするつもり」
エマの言葉にペンギンのぬいぐるみは押し黙る。ネットに海に潜って、最適な回答を探しているのだろう。
ペンギンの〈ワンズペディア〉――さしずめ〝ペンディア〟か。
〈ワンズペディア〉は
選択授業の課題は自分で選んだ動物の生態についてのレポートで、そのチョイスからプレゼンしなくてはならない。
エマはテーマをコウテイペンギンと決めていたわけでなかった。たしかに、ずっと昔から我が家に居座るこのぬいぐるみが頭の片隅にあってペンギンにしようかなとは漠然と考えていたけど、個人的にはうつろな瞳のアデリーペンギンの方が好みだ。体長70センチとさほど部屋を圧迫しないし。
だのに、〈ワンズペディア〉を起動させてペンギンの生態を命じたとところ、一方的に、コウテイペンギンについて話し始めた。まあ、提出期限まで時間もないしコウテイペンギンでも構わないのだけれど。
ワンズペディアにより
「でも、父親はちょっとね。別の切り口考えないと受け悪いかも」
〔……君に父親がいないからか?〕
「まあ、それもあるけど。もしかしてアップデートされてない?」
父親がいないのは自分だけではない。今更、そんなことでセンチメンタルにはならない。自分が危惧するのはもっと実利的な――と。
〔……すまない、音声がうまく拾えない。波が……凪に入ったらしい。そろそろ時間切れだ。レポートの締め切りはいつ――別の切り口を考えてくる〕
途切れ途切れの声に提出期限を告げると、ペンディアはただのぬいぐるみに戻った。それからずっと。
締め切りが過ぎても原寸大コウテイペンギンのぬいぐるみが喋り出すことはなく、すっかり忘れていたエマは未提出者として仮想教室の掲示板に名前をさらされた。
×
……君たちとの繋がりは、私という存在の錨そのものだった。断ち切ってしまったことに深い悔恨を覚える。
×
……見捨てたから、見捨てられた?
×
……親権は諦める。面会は、したくてもできないな、しばらく。
×
〔色々考えたのだが、やはりコウテイペンギンは父親抜きに語れない〕
エマは勉強部屋の隅に佇む原寸大コウテイペンギンのぬいぐるみが唐突に話し出した時、慌てず、騒がず、けれど話を遮った。
そんなことより、と。
「ペンギンさんが、まいにち、なにをしているかおしえて」
〔……普通、海に潜って魚を獲ってるんじゃないかな〕
あなたも? エマは訊ねる。
「……いや。おと――私は魚は獲らない。毎日、海を見てる」
どんな? エマはさらに訊ねる。
〔……不思議な海だ。銀鼠色から灰色、薄紅、茄子紺。青斑が浮かび、藍色に染まって、緑青、苔色、萌葱色、梔色の雨上がりは鬱金色……波がうねるたびに変化する。どれだけ眺めていても見飽きない〕
エマはぬいぐるみのガラスボタンの瞳をじっと見つめる。
〔たまに物音や声も聴こえてくる。最初は幻聴だと思ってた。さびしさのあまり声をかけたら返事がして驚いた。いよいよおかしくなったのかと不安になった。でも、幻でも構わないと話し続けた〕
「幻じゃないよ。あなたの声、届いてる」
エマは耳をそばだてる。嗚咽と鼻を啜る音、そしてこれは……潮騒?
少し間が空いて、躊躇いがちに、彼は訊ねてくる。
〔……君のお母さんは元気かい?〕
「おかあさんはいないよ。ファースト、セカンド、サードは元気」
〔野球チームにでも入ったのか?〕
意外そうなニュアンス。それも楽しそうだけど、エマは答える。
「わたし、うまく説明できないかもだけど。おかあさんもおとうさんも廃止されて〝シンケン〟は3つにわかれたの。もっと正しくいえば、〝シンケン〟は〝シンギ〟に変わったの。けんりじゃなくて、ぎむ。子どものぜったいてき、さいぜんの、りえきを守るため。なんでかっていうと、たくさんの子どもが死んだから。192人の子どもが、あつくてくるしくてこわいおもいをしたの。手や足をもっていかれた子もいた」
しばらくの絶句の後、這うような声が届く。
〔……君は無事だったのか?〕
「わたしはだいじょうぶ。ファーストもセカンドもサードも守ってくれている。みんなやさしい。ひどいことがあったのはもうずっと昔、ナキノウタ事件、三十年前のこと。だから国はわかれたの」
そんな、という呟きは掠れている。ショックを受けている彼に告げるのはひどいと思うけれど、誰かが言わなくちゃならない。たまたま、おはちが回ってきただけ。それでね、とエマは続けた。
「あなたの国はもうない。だれも迎えにいけないし、帰ってこられない。ごめんね」
×
……おまえたちも、さみしいと思ってくれているのだろう?
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『ファーストペンギン』という言葉がある。
集団行動するペンギンの中で、多くの敵が潜む海に最初に飛び込み、仲間たちを先導する「勇気ある一羽目のペンギン」を指す。つまりは開拓者、先駆者のような意味合いだろう(ビジネス書で度々見かけるワードであり、油分多めな中高年男性が好むとは、個人的な偏見である)。
星々の大海に飛び込んだ彼はなるほど、『ファーストペンギン』と呼べるのかもしれない。彼の経歴や発言、行動などを検証するに、そう呼ばれたがっていたのは読み取れる。
けれど、真実、彼は『ファーストペンギン』足りえたのか。
旧国で、その計画は〈第一次星征〉と呼ばれていた。
気候変動、自然災害、大気汚染、環境破壊、資源高騰、食料不足……旧国は行き詰まり、活路を宇宙に見出した。
危険を顧みず、国の未来のために、引いては子どものために、その身を捧げる。
子ども──そう、彼には一歳七ヶ月になる娘がいた。つまり彼は今で言うところのファーストであり、セカンドであった。
もうひとりのファーストでありセカンドであった人物──私たちがよく知るアイザワ・リン、すなわちファースト・リン──は、彼の〈第一次星征〉への賛同と開拓士志願に激しく反対した。結局、〈第一次星征〉が開始される直前、彼らは婚姻関係を解消し、子の親権者はリンとなった。
なぜ、リンは〈第一次星征〉に反対したのか。夫婦の両親はすでに亡く、配偶者の長期に亘る不在に、子育てへの不安を抱いたかもしれない。彼女の反対は、国の発展、将来に対する備えという大局的な観点と比べてあまりに矮小、愚かであったか。もしもあなたが是とするならば、子育てについて楽観的に過ぎると指摘せざるを得ないが、リンの真意は子育てだけではなかった。彼女は気付いていたのだ。〈第一次星征〉が欺瞞に塗り固められた計画だということに。
旧国の宇宙開発は世界的に見て後進であり、当時、圧倒的にリードしていたのはアフリカ大陸の国々だった。二十一世紀半ばまで続いた植民地支配の影響から困難と苦労を重ねて脱した諸国は、次の世紀ではその活力を宇宙開発に注いだ。彼らは地道な根気強い探査の末、植民可能ないくつかの小惑星を発見する。
旧国は、その地道さ、根気強さ、タフさを見習って、〈第一次星征〉に漕ぎ出したのか──
否。彼らが目指したのはすでに発見された小惑星だ。大国や過去のODAをかさに(あるいは言外の命により)横取り──いや、直截に言って侵略を目論んでいた。
私たちは原寸大のコウテイペンギンのぬいぐるみを時に抱き締め、時に殴りつけ、時に新しい本棚が置けないと愚痴をこぼし、時に耳を澄ませて潮騒を聴く。そして考える。考え続けている。
この打ち込みを読むあなた──次のエマも、きっと考えるのだろう。
果たして、彼──アイザワ・マキオは。〈第一次星征〉の真実を知っていたのか?
×
どうして理解できない。俺が征くのはエマのためでもある。よしんば、君の言うことが真実だとしても。
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-6年 第三次カブラギ内閣成立
-4年 〈第一次星征〉開拓士1名を乗せた小型探査船が太陽フレアの影響と思われる事故により行方不明
憲法・民法改正案に大規模デモ、機動隊が出動、民間人2名死亡
-2年 〈第一次星征〉ガーナ開発区小惑星トータチス到着
ナキノウタ事件192人の乳幼児が死亡
-1年 カブラギ首相刺殺
小惑星トータチス暴動勃発
第二政党が民法大改正案を提出
〈第二次星征〉延期を発表
元年 国民投票により東西国家分裂、第一政党率いる東方と第二政党率いる西方に別れる、西方元年
2年 西方にて初の女性総理が就任、三審義制始まる
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……殴るつもりはなかった。信じてくれ。
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ペンディアのログに残っていた履歴から、さらにコウテイペンギンの子育てについて調べてみた。
孵化したヒナは45~50日間、両親の足上で育てられる。
雌が戻ると、雄は交代してようやく採餌のため海へ向かう。絶食状態で体重は三分の二まで減少。そんな身体で
両親の足上でぬくぬく育っていたヒナは、その後、他のヒナと集まって、クレイシと呼ばれる集団をつくり、親が餌を持ち帰るのを待つ。
ふわふわ銀色毛並みのヒナは愛らしい。次第に毛がそちこち抜け、風にさらわれ、孵化後約150日後、ヒナは巣立ちの時を迎える。といっても、コウテイペンギンは巣を作らない──ならば、巣立ちとは。
有り体に言って、ヒナは置き去りにされるのだ。
まあ、これは人間の見方で、もしかしたら、親子間で
しかし、ある日を境に親が帰ってこなくなるというのは、ヒナたちにとって相当なストレスだろう。氷の上で途方に暮れる幼子は、想像するだに物悲しい。
やがてヒナたちは空腹に耐えかねて歩き出す。周囲の大人たちを真似るのか、本能なのか、それとも親の言い聞かせがあったのか。
よちよちのおぼつかない足取りで、銀色産毛を巻き散らし、右も左もわかってないふうで、遥か遥か、まだ見たことのない海へ──
×
……今日は、波間にコウテイペンギンのヒナが氷崖に向かう隊列が見えた。園児のお散歩みたいでとてもかわいい。同時に、あぶなっかしくて目が離せない。
ヒナたちは初めて見る海に尻込みしていながらも興味深々。きゅわきゅわ啼きながら押し合い圧し合い崖の下を覗き込む。
その度に、「ああっ!」「「前見て前!」「押すなよ押すなよ押しちゃ駄目!」と叫んでしまう。そして少し怒れた。
どうして、コウテイペンギンの親たちは、ヒナたちが無事海まで辿り着き、泳ぎを覚え、餌を獲れるようになるようまで、寄り添わないのか。どうして、こんな可愛い生き物たちを置き去りにできたのか──
あ、と声が漏れた。本当にどうして。俯き、口元を押さえた手が震える。
ほんの一瞬目を離した隙、ばしゃん、と水音が鳴った。
顔を上げれば、ヒナたちが次々と海に飛び込んでいく。いや、こぼれ落ちるといった方が正しいか。
ヒナたちは泳ぎ出す。かつて水族館で観た水中を飛ぶような姿ではなく、ばしゃばしゃぱしゃぱしゃ不器用に。入り乱れて、どの個体が
危なっかしくも広い広い海に漕ぎ出すヒナたちを眺め、安堵すると同時に、胸がすうすうした。
なんだかやるせない。頬が懐かしい指先に触れられたようにくすぐったく、濡れているのに気付く。起きて、と耳元にささやかれた悪甘さと毛布のぬくもりを思い出す。今はもう遥か彼方、届かないそれら。
そうして気付く──自分は、ただ必要とされていたかったのかもしれないと。
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……ひとつだけ頼みがある。最後に贈り物をしたい。俺からだとは伝えなくていい。でも、これだけは捨てずにあの子の勉強部屋の片隅にでも置いてほしい──
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西方初代内閣総理大臣にして旧(〝旧〟とは東西分割前の国を指す)・東・西のいずれにおいても初の女性総理となったアイザワ・リンは、就任前から一貫して侵略に当たる違憲行為として〈星征〉に反対していた。その独善性、支配欲、想像力の欠如が、無辜の子どもらの命を奪ったナキノウタ事件に発展したのだと。
そしてリンは、〈第一次星征〉帰還者の入国──帰国というべきか──を拒否する。
国のため、未来のため、過酷な任務に従事した者に、あまりに非道な仕打ち──これには家族が分断される例もあり東西国内外で大きな波紋を呼んだ。
後に〈第一次星征〉はアフリカ諸国から宇宙司法裁判所に提訴され、東方でも支持を失い、〈第二次星征〉は永久凍結とされた。
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先行探査中、突発的な事故で制御・通信不能、星征母船からはぐれた。
宇宙漂流して数日、突如とてつもない振動、重力負荷、光に襲われ――一気付けば、この銀色波打つ海に浮かんでいた。
神隠しならぬ、宇宙人隠しにでも遭ったのか。それとも未来人? 古い小説や映画よろしく五次元の誰かがワームホールを置いたなんて、まさか。
どれだけ時間が経過しているのかもわからない。
さして空腹は感じず、日がな一日、海を眺める。
不可思議な景観や音は、幻影なのだろう。もしかしたらこれも古い小説や映画に出てきていた〈客〉というやつなのかもしれない。そもそも、とっくの昔に自分は死んでいる……?
ハロー、ハロー、呼び声が聞こえる。
幻でもいい。幽霊でもいい。嫌われていてもいい、会えないよりずっといい。
──ハロー、ハロー、私の声が聞こえますか?
今日も耳をそばだて、海へ向かって波に語らう。
×
──ハロー、ハロー、こちらエマ。私の声が聞こえますか?
ぬいぐるみを前にヘッドフォンを装着し、呼びかける。
今、私がいるのは〈エマの勉強部屋〉だ。
我が家に代々伝わる部屋で、勉強するかどうかはさておき、原寸大コウテイペンギンのぬいぐるみがある。このぬいぐるみこそが、この部屋を〈エマの勉強部屋〉たらしめ、踏み込んだ者を〝エマ〟たらしめる
ぬいぐるみの贈り主は、アイザワ・マキオ。〈第一次星征〉に出立する前、一歳七カ月の娘に贈ったものであり、綿に埋もれて
協議離婚であり、父娘の交流に制限はなく、別段、隠す理由はなかったはずだった。
幼い娘を楽しませたいという遊び心があったのかもしれない。あるいは、マキオ自身に父として会う後ろめたさがあったのか(離婚成立直前、リンには頭部裂傷の診断書が出ているが因果は不明)。
もっとも、巨大ぬいぐるみの仕掛けについては、リンも気付いていただろう。彼女は職業柄、盗撮・盗聴器の類は必ず調べさせていたから。
これは推測だが……マキオは娘が困った時に颯爽と現れるヒーローを演じたかったのではないか。あるいは願いを叶える魔法使いになりたかったか。実際のところ、できることは
しかし、その機能を使用する前に、〈第一次星征〉の任務中、彼は行方不明となった。今日まで宇宙で消息を絶った者が戻ってきた例はない。それすなわち〝死〟──そう処理された。
だが、ある日、コウテイペンギンのぬいぐるみは話し出す。アイザワ・マキオが行方不明になった十二年後――
控えめなノックの後、細身の老婦人が入室してきた。またここにいたのね、と呆れたふうな言葉に言い返す。
「今日こそ応答があるかもしれないでしょう、セカンド」
彼女は三審義制の
──ハロー、ハロー、こちらエマ。私の声が聞こえますか?
コウテイペンギンのぬいぐるみ──初代エマがペンディアと名付けた──と双方向通信ができたのはわずか数回。それ以外は断片的な独り言が押し寄せるのみ。時系列も狂っているようで、間隔もバラバラだ。十年以上音信不通だったこともある。
これは本人の精神に問題があるのか、他に原因があるのか判別がつかず、そもそも情報が送られてくるプロセスも不明。
わかっているのは、今、彼がいる場所には奇妙な銀色の海が広がっており、彼は波間に向かって話しかけ、こちらの声も波間から聞こえてくるらしいということ。
……本来ならば、これは大発見なのかもしれない。
だが、初めてペンディアが話し出した時、東西情勢は不安定であり、また西方の立場として〈第一次星征〉帰還者を受け入れるわけにもいかず、余裕もなく――結果、この狭苦しい勉強部屋の秘密となった。
「リンは
「でも
置き去りにされた報復なのか、置き去りにした贖罪なのか、わからねど。
「聡明な曾々……おばあちゃんが、いつかペンディアと積極的に通信しようとする物好きな曾々……孫が現れるってぐらい覚悟していたと思うけど」
ね、おばあちゃんと呼び掛ければ、セカンド──祖母は柳眉をひそめ、嘆息した。
「あなたは偉大なるリン首相の六代孫、つまりは〝
勝手は許しません、そうピシャリと言い放って。
「……専門家に相談してみましょう。ちょうど今年で退任する大学教授の知り合いがいますから」
セカンド──祖母──そして、四代目エマは微笑んだ。
×
会えないなら、死んだも同じ。帰れないなら、無いも同じ。ならばいっそ――
小型探査船の通信機器がやられ、色々試しているうちにふと思い出した、ぬいぐるみに仕込んだ通信機器を。あの時はテンパってしまって、コウテイペンギンの父親について講釈を垂れて嫌がられた。今ではそれも幻聴だったのではと思う。
──ハロー、ハロー、私の声が聞こえますか?
──ハロー、ハロー、こちらエマ。
──ハロー、ハロー、私の声が聞こえますか?
海に踏み出し、肩まで浸かったところで、いつもの声に引き留められる。波間に潜ったところで、その主の元へは泳ぎ着かないというのに。
進むべきか、退くべきか、途方に暮れる。それでも潮騒にまぎれて掻き消されそうな声にしがみついて生きている。
×
──ハロー、ハロー、こちらエマ。私の声が聞こえますか?
遥か遥か、まだ見ぬ星にいるであろう彼にコウテイペンギンのぬいぐるみを通して呼び掛ける。
太陽系内にいるのか、それともオールトの雲の向こう側か、あるいは私たちとは違う次元にいるのか、そもそも生きているかどうかすら定かでない。
〝お父さん〟と呼ばないのは、この国では廃れた呼称であり、エマでありながら、あなたが望むエマではないから。この事実を知らされた
わかってながら呼び掛け続けるのはエゴに違いないけれど、オバアチャンだけでなく、オジイチャンも孫には甘いと聞くから。
──ハロー、ハロー、こちらエマ。私の声が聞こえますか?
あなたにはたくさん訊きたいことがある。
海の色、音、匂い、風、不可思議な現象のすべて。何を視て、何を感じ、何を考えていたの? リンのこと恨んでいる? エマのこと覚えている? 私たちのこと怒っている? それとも自分を責めている? 〈第一次星征〉に志願したのはなぜ? どうやってその星に辿り着いたの? 帰ってきたら何をしたい、誰に会いたい、食べたいものある、そもそもどこへ帰りたい?
きっと呼び掛けは、次のエマにも引き継がれる。
コウテイペンギンのヒナが、いつか海を知る日まで。【了】
コウテイペンギンのヒナはまだ海を知らない 坂水 @sakamizu
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