第五章      叁

 





 地宵郷ちしょうごうはこの世で最も深いとされた深淵を離れ、本拠地を変えることになった。


 翌日に行われた葬送儀礼は非常に簡素で小規模なものだった。柔らかな褥も温かな食事もない中、人々は水害で犠牲となった者たちの魂を手厚く慰め、魄を力強い歌で送り届けた。終始凄まじい悲壮感が立ち込めていたが、最後まで惜しまず祈りを捧げた邑人たちの姿は敬意に溢れていた。


 宗主の夫である暮鷹ムーインに至っては、新たに作られた棺に収められ仮埋葬まで行った。その先を済ませるのは本拠地まで移動してからになる。墓地への道も閉ざされてしまったからだ。


 儀礼の一貫で暮鷹の魂を呼び寄せてみても、彼が生き返ることはなかった。誰も期待してなどいなかったが、暁蕾は遣る瀬無い気持ちでいっぱいだった。もう一度家族で向き合う時が来ればどんなによかったことだろう。淵は父の本心を訊く機会を永遠に失ったのだ。


 泥に支配され息子を傷つけなければならなかった彼の心情は到底推し量れるものではない。正気であったにしろなかったにしろ、本意でなかったのは間違いないのだから。

 正常な状態で暴力に走る性格でないのは暁蕾の記憶とも一致する。彼は穏やかで、物静かな人だったのだ。


 儀式後の決議により、ここから一番近いそう郡に救援を要請することになった。集団で登山をして拠点を目指すよりも、海岸まで来てもらい十分な食糧を得てから移動した方が危険が少なく、安全だろうという結論だった。


 船に来てもらうにはまず郡に報せなければならない。だが木簡を作って文を刻めたとしても運ぶ手段がない。霊符も水で駄目になっている。


流蝶リウディエ様の精霊は?」

「私の力じゃとても。目の届かないところまで制御できる自信はないわ」


 それなら、と暁蕾は符籙に挟んでいた霊符を取り出した。符籙そのものは保護の呪禁が記されているため水による被害はない。念を込めるように霊符を見つめて、一音一音はっきりと唱えた。


「『雲鳳ユンファン』」


 白い雲が蜃気楼のように広がり激しく羽ばたく。突然現れた巨大な鳥に一同は喚きながら後ずさった。翼だけで暁蕾を覆い隠す大きさである。


「ああ! もう少し小さく、小さくなって。お願いだから」


 暁蕾も不意を突かれ急いで指示をすると、鳥は白い息を吐いて憤慨を示し、鷲ほどに縮まった。

 彼女もまさか呼べるとは思っていなかった。天帝から頂いた霊符とは別に、暁蕾はこの癖のある精霊の招来も苦心していたのである。以前は使えていたが地上に来てから応じてもらえなくなり、自信喪失の一因となっていたが、今は不機嫌そうではあるものの問題なく動いてくれている。


「この子は気難しい子なんですけどある程度自立してくれるので、任せられると思います。皁の郡守に届ければいいんですよね?」

「足をつつかれているけど大丈夫か? 穴が空きそうな勢いだぞ」


 淵は鳥の奇行に若干引いていた。


「助かるわ、暁蕾。今すぐ文を書かせるから」

「それと、やっぱり宮廷にも状況を知らせておいた方がいいと思います。できればそれを簡単にまとめてもらえませんか。あたしが町に行って清書します」

「もちろん共有するのも大事なことではあるけど、急ぐことはないわ。まず船を待ってからよ」

「そうなんですけど、船が来たらそのまま羅瓣郷らべんごうに行こうと思ってるんです」


 本当は彼らが無事に拠点に着き、正式に葬送の儀式を終えるところまで見届けたかったが、かと言って暁蕾は長く留まるつもりもなかった。


 使者は次の災禍の種を、芽が出る前に摘みに行くのだ。


「宛てはあるのか」


 淵は出口に通じる通路の石筍を背にして地べたに座った。


「ううん。皁郡にある神聖な場所で宣託を待つか、占いでもしてみようと思う。もうここで受け取れるものはないみたいだから。使者を探すのも手だよね。郡守に聞けばすぐに会えるかもしれない」


 暁蕾は鳥を羽交い締めにして木簡を雲の腹に詰め込むと、出口に向かって放り投げる。


 雲鳳は白い霧の尾をなびかせて外へ飛んで行った。


「淵は一緒に来る?」

「連れて行ってくれると言ったのは暁蕾だろ」

「でも、地帝のおかげでみんなの泥も抜けていたし、たぶん外も幽鬼はいないよ。あなたは好きな時に出られるようになった。それでも行くの?」

「気を使ってくれてるんだろ。これでも昨日から色々と考えていたんだ。正直なところ、俺は使者がどういうものなのかまだよくわかっていない。地帝がいなければ救済は叶わなかったし、俺自身は成長せず未熟なままで、使者としての自覚もなければ霊力もない」


 淵は膝に腕を乗せて頬杖をつく。


「唯一手に入れたのは、生きていく意義だけだ。水の下は全部奈落なんだと思っていたけど、実際は廟の周りや邑の一部のみだっただろ。水のなくなった岩場を歩いてみたら、変な話、やっと地に足をつけた気分になった。水が張っている時には何となく出られる気がしなかったのに、急に外の世界が現実味を帯びたんだ」


 視線の先は、暮鷹と月娟ユエジュアンが並んで伏していた場所である。


「未練はあるんだろうと思う。でもそれは旅に出るのをやめるほどの強いものではないんだ」

「本当に、行ってしまうの」


 流蝶が奥から現れた。会議が一段落ついたのだろう。淵は淡い笑みで顎を引く。


「母上は健康状態は悪くなさそうだけどずっとぼうっとしているだろ。一度いい医師に診てもらわないとな。あっちで探して来るよ」

「帰って来るつもりはないのね」


 しばらくは、と淵は下を向く。流蝶は腕を抱える。


「どうして。お母様が完全に回復するまで傍にいないの? 子墨ズーモウは遺体も見つからず行方不明になってしまって、お父様は亡くなって、それなのにあなたまで離れようとするの」

ラン家は生き残っている人もいるだろ。俺が加わらなくてもどうにかなる」

「そうじゃないわ」

「何か宣託を受け取ることがあればすぐに知らせる。役目を放棄するつもりはないから」

「そういうことじゃない」


 流蝶は何度も首を振る。


「たった二人の姉弟なのよ。これからお互いに助け合って、家を支えて、お母様と食卓を囲んで、同じ屋根の下で暮らして、そうやって少しずつやり直していけるはずでしょう。もう誰もあなたを拒絶できないわ。一緒にいられなかった分、いろんなことをあなたと共にしていきたいの。それすらできずにお別れしてしまったら……寂しいでしょう?」


 淵は感傷的にゆっくり頷く。

「寂しい、か。それは、よくわかる」


 彼はそう言うものの、二人の抱える寂しさというのはまったく形の異なるものであり、互いを埋められるものでは決してないのだろうと暁蕾は思った。


 流蝶が次期宗主としての孤独を感じている時、淵は家族に馴染めない疎外感からくる孤独を感じている。潜在的な孤独を持つ淵には特に決議の際の気まずい空気は堪らなかっただろう。似た性質の感情であっても環境や立場が違えばそれらは別物だ。寄り添えたとしても理解には及ばず、空いた溝は同じ形で埋まることはない。


「少し前まではそうだった。俺も甘えてたんだ。今日も明日も誰かが俺を気にかけてくれるんじゃないかって期待して待ってた。でも、たぶん長く待ち過ぎたんだろうな。姉上は今を積み上げて行くので精一杯だろ。俺もそうなんだ。過去に置いた小さな石は大きなものに変えられない。目の前のものをおざなりにしたら切り捨てる意味がない。だから、寂しいは、もう終わりだ」


 淵はわざとわからない風に言っている。


「待つことをやめる。自分でやれることを見つけられたから、それを目指してみるよ。姉上も、これからも地宵郷のみんなを守ってくれ。地帝は大地ならどこへでも平等に加護を与えてくれるはずだ」


 流蝶は言葉を尽くそうと何度か口を動かした。だがついには喉から何も出てこなかった。

 淵はかつて地下室でそうしていたように背中を丸め、出口をじっと見つめていた。

 岩場をいくつか登った先にある景色はどんなものなのか。彼はおそらくそんな想像をしている。


 しがらみを取り払い、彼は深い巣穴から大きく飛躍するのだ。


 流蝶は洞窟の中に身を引いた。それが姉弟の最後の会話となった。



 ◐ ◐ ◐



 旅立ちのためにまとめる荷物はない。携帯するのは山で採った少しの非常食と清浄な水、それから符籙に挟んだ霊符だけである。


 潮風が冷たく吹き荒ぶ。地上はもうすぐ冬の気配が漂いつつある。雲が薄く太陽を覆い、ぼんやりと砂浜を照らしている。


 水際に盛り上がる岩石の上から、淵は竹を半分に割って作った小舟をそっと流した。中には木の人形と花が入っている。寄せては返し、少しずつ舟は岩から離れて行く。


「これが灯籠の代わり?」

「祭りは最後までできなかったしな。火をつけたかったけど、この風だと消されるだろうから、形だけでも」


 人形は暮鷹を模したものなのか、それとも邑人なのか。淵にとってはどちらでもあるのかもしれない。暁蕾は隣で舟が小さくなるまで見送った。


「淵様、暁蕾様」

 肌寒そうに腕を摩りながらやって来たのは、バイである。彼は背後をしきりに気にしながらひょこひょこと岩場を上がる。


「食糧はもう運び終えたのか?」

「いいや、まだだ。それよりこれを、な。内緒だぞ。船に乗ってから食べなさい」


 近づくや否や懐から到着したばかりの包みを二人に押し付ける。


「多すぎるって。駄目だろ師匠、盗みなんてしたら。邑人に平等に配ってやれ」

「お二人も食べる権利はあるだろう。いいから受け取るんだ」

「白さん、あたしたちはこれだけでいいから。白さんも奥さんもしっかり食べて元気出してね」


 与えた食糧のほとんどを突き返され、白は大袈裟に悲しそうな目をする。


「全て運び終えたら行ってしまうんだろ? わしはちょっとでも長く話をしたいんだ」


 淵はむず痒そうに肩を竦める。しかし嫌な気分ではないらしい。


「そうだな。師匠には世話になりっぱなしだったし、特に俺は指導がなければ道術も体術も身に付かなかった。普通の人間になれたのは、師匠のおかげだよ。これまでありがとう」

「淵様は元々好奇心を持ち合わせていた。それが幸いしただけのことで、身についたの間違いなく淵様のお力だ。あなたは立派な道士であり、使者だ。わしの一生の誇りだ」


 元気でな、と肩を強く叩かれ、淵は屈託なく笑う。なんて嬉しそうなのだろう。


「暁蕾様も。このことは一生かけて、わしらが語り継ぐからな」

「わぁ!」


 暁蕾も同じ強さで肩を叩かれる。

 白は食糧を置いて両手を差し出す。


「ありがとう。きっと、また会おう」


 暁蕾と淵は、白の手を硬く握った。

 語り継がれなくても、語り継がれてもその先の未来で途絶え、誰もが忘れてしまったとしても、暁蕾は構わなかった。


 大衆にとってのかけがえのない存在になれば、己の欠けた部分が補われる。完全体となることが叶暁蕾イェシャオレイとしての在り方なのだという考えは、幼少期から抱いていた甘い幻想でしかなかった。暁蕾という個は人のためにあるのではなく、彼女自身のためにあるものなのだから。流行りの装いをしようとした時のように、どんな自分でありたいか、どうなりたいか、彼女が目指す自分を認めてあげられたらそれでよかったのだ。


 二人の乗った船が動き始めた。

 邑人たちが荷物を下ろし、足を止めて手を振る。

 潮騒よりも大きく、暖かな別れの言葉が花弁と共に贈られる。

 暁蕾と淵は、彼らが小さくなるまで手を振り続けた。

 さようなら、地宵郷。

 





                  第一幕 了

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