第五章      贰




 ◐ ◐ ◐



 誰だ?

 ユェンは目を開いた。それから彼は思う。なぜ目が開けられるのか。息も苦しくない。とても暗いが、体感は広々としていて静かだ。


 淵は既視感を覚えた。この景色を彼は知っている。つい先程通交で水底へと落ち、体が圧迫されるほど深くまで沈んで地帝の座す底を目指していたのだ。だがその時は声など聞こえなかった。


 泳ぎも知らない彼は池から沈んだ後も流れに従って落ちていくだけだった。景色に変化がないからか、落ちる時間が異様に長く感じられた。大きな陰の幕が見えたが、触れるだけでも意識が飛びそうなほど強大で、下に向かうほど強くなっているようだった。

 真っ黒な底から何かが呼んでいた。

 淵は応えようと耳を傾けた。だがどうしても聞き取れない。

 情けをかけてか細かな泡が彼の顔や首を通り過ぎる。


 唐突に四角い石板が目の前に浮上した。

 これ見よがしに古めかしい文字が並んでいた。淵は惹かれるように指先でなぞった。

 

 すると、石板に亀裂が入る。薄く剥がれていくつも上へと登っていってしまう。そのうちの一枚が、霊符の形に綺麗に切り取られて彼の手のひらに収まった。


 そう。一枚だけ手に入れた後に波に攫われ、気づけば洞窟に浮上していたのだった。


『今代の使者はなんと手間のかかることよ』


 淵は我に返って暁蕾シャオレイを探すと、彼女は案外近くにいた。淵と同じように逆さまになって下へ落ちている。だが目は覚めていない。


「暁蕾」

 自分の出した声に驚く。くぐもって聞こえるが難なく発声できている。水が口の中に入ることもない。表現し難い不可思議な感覚だ。


『愚鈍な其方そちの念を拾う力もないと見て、天師の霊力を借りておる。余の陰の氣が陽の氣を包んでしまったばかりに、さすがの陽の目も瞬きできないようだがの』


 太鼓を思わせるような声だ。発する度に水が振動して内臓まで痺れさせる。威厳が波紋の形をとったと言ってもいい。姿が見えなくとも淵をまとう水が、大地そのものが畏れ多くも我々人間に言を授けている。遥かに大きな存在がすぐそこにいることに、淵は遅れて恐縮する。


『なぜ、何も言わぬ。使者ともあろう者が余の大悲に拝謝せんとは何事だ』


 淵は慌てて水を掻いた。


「あ、わ、悪い。いや、大変っ、失礼しました。ご無礼をお許しください。我らの偉大なる大地、荘厳なる地府、消長の果てに還る深淵……地帝よ。直に御言葉を頂けるとは身に余る光栄です」


 ここに地面があれば跪座して額を擦り付けていたことだろう。だが思うように動けない今、彼は精一杯の拝礼で感謝を示すしかなかった。こんなことがあるなら礼儀を学んでおくべきだったと後悔する。


 しかし地帝は大層愉快そうに笑った。


『ははハははははハァ! 下手くそめ。格好のつかん男だ』


 戸惑っていると、勢いよく目に何かが張り付いた。

 淵は今度こそ溺れそうになる。四肢をばたつかせて剥がすと、それはあの時取り損ねたもう一枚の霊符だった。


『哀れなほど拙い術で余を求めるものだから、見かねて儀礼も介さず霊符を与えてやったというのに、それすらも満足にできぬとは、嬰児に劣る脆弱な氣よ』

「俺を、使者と認めてくれるのか……ですか」


 緊張しながら、淵はやっとの思いで底に向かって言う。

 

『俗世に余の真の意を汲み取れる者はそうおらんだろう。我々が告げる使者の誕生は、天変地異の再来の報せに等しく、使者は生まれながらに使者であり、仙人となる定めを持って仙郷を目指し、世を祓禳ふつじょうするのだ。其方が霊符を手にした時、其方は太極を成す使命を司る』


 端的なようで遠回しな言い方である。つまりわかりづらい。淵はどうにか解釈しようと頭を捻る。


「あー、つまり、その。俺は最初から使者であって、霊符は乱れた気流を整えるために必要だったってことだよな。暁蕾も役目として地宵郷を救おうとしていたし」


 あ、と淵は泡を吐く。


「地帝、こんなところでお願い申し上げるのは無礼なのは承知の上だけど、聞いてくれ」


 早口な上に敬語はめちゃくちゃだった。だがのんびりと揺蕩っている場合ではない。


『地宵郷は、いずれにしろ海となるのだ』

「知ってるのか」

『余を何だと心得る。大地の全ては余の目の内よ』

「だったら助けてくれ。まだ生きている人がいる。何でもするから手を貸して欲しいんだ」


 波紋の余韻が収まるまで、静かになった。


『わかっておらぬ。わかっておらぬぞ』

「何、が?」


『余は死を司る者であり、死者を正しく導けど生に干渉することはない。ましてや死の運命に逆らおうなど笑止千万。しかし天帝に願ったとて同じこと。生者を正しく導けど死に関わることはできぬのだ』


 地帝は冥界で魄を、天帝は天界で魂を管理しており、肉体から解き放たれた後に悪鬼に堕ちることのないよう請われれば道を指し示し、衆人を助けてくれる。だがそれは人間にとって現世の救いであっても、二帝はあくまで魂魄の迷いを防いでいるに過ぎず、人間が選択を誤れば徳は減り、最悪の結果を招くこともある。


 地帝の言っていることはそれほど難しくはない。祖はこれまでの功徳に従って魄を迎え入れるだけであり、本来現世に干渉する気はないのだ。

 

 淵は突き放されたように感じ、血の気が引いた。

「理、だからか?」

『然り、然り』


 尊大な相槌に、淵は怖気付いた。大きな流れの中では人間はただの礫でしかなく、矮小な存在は洗い流されたとしても、偉大なる祖にとっては果てしない時代の些事でしかないのだ。


 それが自然なことであるなら尚更、淵の主張は地帝にとって幼児の我が儘や癇癪のようなものなのだ。


 陰陽五行の理屈を淵は理解している。人も例外なく消長の輪にいる。的外れであるのはわかっていたが、心のどこかでやはり救いを求める気持ちがあった。

 想像を超える超常的な力で何とかしてくれるのではないか。どこかで読んだ物語のように何もかも元通りにしてくれるのではないか。

 所詮それらは叶わぬ希望でしかなかったのだ。


 淵は苦しそうに言う。


「通交の時に見せてくれたよな。俺たちは、藍家は妖に侵されて本来の生を奪われた。理に反して枯らされていく命に正しい死なんてあったのか? 天災は、使者の俺が止めるべきものだったんじゃないのか。霊符はそのためにあるんじゃなかったのか。俺が必要なかったなら何のために使者はいるんだ。意味がないのにどうして今さら渡した!」


 淵の叫びは振動で打ち消される。


『其方が望んだことだ』

「せめて師匠だけでも救ってくれ!」

『惑うな。其方の使命は何だ』


 終わりのない水底へ彼らは沈む。

 淵は重々しい氣に耐えながら、新しい言葉を覚える赤子の如く呟く。


「し、めい」


 また流されてしまいそうだ。水が冷たい。肌が細かな針に刺されているかのように痛む。


『其方の道は定まっておる。故に迷うことはない。現に絆されるな』


 使者とは何か。

 二帝五麟に遣わされた、三國郷を束ねる気流を守護する者。

 気流の乱れは秩序を乱し、幽鬼を狂気に陥らせる。

 混沌を防ぎ悪鬼を討ち滅ぼすのは、若くして仙術を会得した彼らの、使命。


 使命。

 使命とは。何だ。

 そんなもの。

 流れが強くなる。落ちる速度が増す。


「俺は、まともに道術も扱えない。道士ですら、ない!」


 霊符を握りしめ、離れないよう暁蕾の腕を掴む。


『戯け! 何故余を求め、使者となり、法器なる霊符を得た!』

 誇り高い志などなくとも、願いはある。

「救いたい人がいる!」

『ならば!』


 闇が晴れる。

 青銅の鐘がどこからか鳴り響く。波動が輪となって通り抜ける。思わず腕で顔を守った。

 水圧が消え、ふっと体が軽くなり、波が緩やかになる。

 腕を下ろすと、海を呑むほど巨大な門扉が底に鎮座していた。数多の生物が中央に顔を向ける姿が刻まれている。


開龕かいがんの儀を』


 その向こうには、気流の源の一つ、陰の氣の中枢たる地帝がいる。


『地師となりし愛しき我が子よ。使命を遂げたくば余を解き放ち、希うがよい』


 現世の救済こそ使者の領分。

 淵にできること。彼にしかできないこと。


『混沌に翻弄された憐れな其方は、余の大慈を受けるに相応しい』


 淵は僅かな隙間に指をかけ、力を込めて引く。

 扉がわななく。大粒の泡が溢れる。

 地帝はその腕を大きく広げ、彼を歓迎する。


「力を、貸してくれ」

『唱えよ』

 淵は霊符を構えた。


「『空陰寵招くういんちょうしょう』」


 扉の奥にある空間が割れ、虚な穴が開眼する。

 淵たちは泡と共に押し上げられた。


 上昇する中、もう一枚の霊符が黒い砂と化して瓢箪形に変形した。それも潰れた菱形を組み合わせたような特異な形である。淵が操らずともみるみるうちに大きくなり、人を超え、人家を超え、廟を超え、ついに水面に飲み口が突き出る。

 巨大な瓢箪と一緒に二人は宙へ放たれた。


 目覚めた暁蕾と淵は目撃する。

 瓢箪は上下に傾きながら円を描き、洞窟を蹂躙していた大量の水を吸い上げていった。虚空が高く展開し、蔓延る邪気を竜巻き状に取り込んでいく。天地開闢に引けを取らない、大規模な神話の一幕のような、強烈な光景だった。

 瓢箪は縮まりながら穴を通り抜け、邑の方でも一滴も残さず吸い尽くすと、大地の割れ目へと入り、堅牢な岩石と化して水の流れを止めたのだった。


 ──地帝が我々をお救いくださったぞ!


 間も無く、邑は歓喜の声で満たされた。



 ◐ ◐ ◐



 小さな瓢箪がどこからか転がり落ちて、霊符に戻り淵の手元に帰った。

 暁蕾は込み上げるものをぶつけようと彼の方を向いた。

 しかし、淵は暗い顔をして出口へ走った。

 屋敷の裏へ周り、石柱の立つ幅の広い坂を登る。

 波が届かなかったであろう高さまで来ると、弱々しい蛍火が一人の後ろ姿と、二つの伏した影を浮かび上がらせていた。


 振り向いた流蝶は、頬に涙の跡をつけていた。

 息を整えて、淵は言う。


「父上は」


 流蝶は僅かに目を開き涙を零す。

 彼女は俯いて、首を振った。


 泥から解放された暮鷹ムーインは、その後指先のひとつも動かさず死んだかのように思われた。だが体に貼った霊符の効能によって氣が恢復し、暁蕾たちの知らぬ間に動き出していたのである。


 流蝶は認めた瞬間愕然とした。泥から守るべく彼の側についたが、暮鷹は一切の言葉も紡がず呼びかけにも答えなかった。屋敷へ上がり込む姿は今にも崩れそうな衰弱ぶりだったというのに、足取りは確かな目的を持っているかのように迷いがなかった。


 暮鷹は物置きの布を破り、札に包まれた月娟ユエジュアンを呆気なく運び出した。

 狼狽する流蝶に構わず、水の侵食に抗い暮鷹は屋敷から一番近い出口を目指す。途中から流蝶は意志を汲み取って彼を手伝った。

 

 そして、ここまで登ると膝から崩れ落ち、息を引き取ったという。

 

 暮鷹の肌には潤いがなく、足も濡れていただろうに乾いてひび割れができていた。泥や服で隠れていた一部は土になって地面に落ちている。

 彼の左手は月娟の首の裏に、右手は腹の辺りで拳を握っている。その格好は月娟に貼っていた札を剥がしたかように暁蕾は見えた。


 腹を中心に札はところどころ捲れ上がり、月娟の顔半分が露わになっていた。

 危機的状況だったとは言い難い張りのある健康的な肌である。しわひとつなく、地面に広がった黒髪も乱れてはいるが艶があって綺麗だ。昨日眠りについたと言っても何も違和感がない。掘り出したばかりの鉱石のような神秘的な美しさすら感じる。


 暁蕾は札に書かれた文字をざっくりと読む。どんな力が刻まれていたのか解読はできない。だが、月娟の肉体は長い月日を経ても衰えていない。一体どんな霊符を作ればこのようになるのか。


 流蝶は泣き止んではまた泣き、淵はその場に立ち尽くしたまま茫然としていた。どのくらいそうしていたかはわからない。夜を越え、日が昇っていたとしても洞窟の中では誰も気づけはしなかっただろう。


 ひゅう、と細い穴に空気が通る奇妙な音がした。三人は月娟に注目する。

 蛹の羽化か蕾の開花か、彼女を覆っていた札は霊力を発動し肌に溶け、あるいは効力を失ってばらばらに剥がれ落ちた。

 

 淵はいち早く彼女の頭の傍で膝をつく。

 彼女は、瞼を開いた。


「母上」


 ぼんやりとした漆黒の瞳は淵を捉える。

 意識も朧げなまま、彼女はほんの僅かに、口端を上げた。

 その笑みは、いつか聞いた、月からやって来た不老不死の仙人を思わせた。



 ◐ ◐ ◐




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