第六章 滅亡

六章

 陶羽は朝霧が視界をさえぎる中を北に向かっていた。

 彼は李敬健の魂が自分に乗り移っているような錯覚に襲われる時がある。それは陶雄元の部下であった兵を秘かに集め説得した時や、こうして黙々と馬車を御している時に起こる。

「将軍の部下を説得した時の陶羽さまの姿、お父上にお見せしたかったものです」

 陶羽の従者である二十歳の白救が手綱を交代しながら言った。 雄元の新鋭として常にその戦場に供した五千の兵は、初め陶羽が雄元のいるであろう哲郡に行くので付いて来いという言葉を信じなかった。それもそのはず、陶羽は陶勝林の息子であり、何度も雄元をいさめていたのだから。

「信用ならない。騙して目障りな俺たちを消すつもりなのだろう」

 呂雲に並ぶ陶雄元の片腕として知られる、黒充夏という男がと顎をしゃくって言った。

「騙してなどいない。李敬健殿が王に殺された。平邑に向かった将軍に寧に駐屯している興軍を送ったことが知られたからだ」

 陶羽は怒るでも感情的になるでもなく、それはまるで李敬健が乗り移ったように答えた。

 以前の陶羽ならば、そういう切り返しは出来なかった。だが、李敬健の死によって、ふつふつと溜まっていた鬱憤が、潮がひいてくように消え去っていき、代わりに冴えた知覚と冷静な思考に心に満ち始めていた。

「興国のために今まで命をかけて戦って来た将軍をこの国から追放したのは他でもない興王だ。俺は興にはつかない。親父を裏切ってでも天命ある将軍につく」

 陶羽の言葉に場が静まり返った。

「今夜出発する。俺は一人でも平邑へ行く。李敬健殿は死の間際に『私は興の臣ではなく、陶雄元の臣である』と言った。俺もそれにならいたい」

 確信に満ちた声は自信にあふれ揺らぎなかった。黒充夏の心を動かしたのは、陶羽の言葉以上にその態度だったかもしれない。

「白救、あとどれぐらいで着けるのか」

「通常ならあと十日ほどは掛かります。ですが、ここにいるのは陶雄元将軍の精鋭ばかり。昼夜なしでいけば七日で行けましょう」

「いや、六日だ」

 陶羽と白救の後ろから夜の闇と同じ色をした馬とともに黒充夏が現れた。

「将軍は供を三人しか連れいていない。しかも女連れだ。一刻も早く、我らは将軍に追いつかねばならない。六日で行く」

 陶羽は『無理だ』と言いそうになった口をつぐんだ。黒充夏がやると言えば、この男は死人を一人や二人だしても強行軍を強いて目的を達成する。陶雄元の臣とはそういうものだ。

「充夏、では指揮はしばらくお前に任せよう。俺は着いて行くだけでも足手まといになりそうだからな」

 白救が目を広げてこちらを見た。常に先陣を切りたがるような性格の陶羽が、指揮を黒充夏に任せたのが意外だったのだろう。

「そんな顔で見るなよ」

「しかし、黒充夏にお任せになってよろしいので?」

「ああ。場数が違う。任せておけば間違いない。俺が指揮して八日掛かるよりいいだろ?」

「大人になられましたなぁ」

 白救が目頭を押さえたのを陶羽は頭を掻いて笑った。

「あとは雨になって河の流れが速まらないこと天に祈るだけだな」

 陶羽は空を見上げた。そして九つの太陽の巫覡である玉兔を想った。天帝の子であり、陶雄元の想い人でもある。そんな女のことを考えるだけで罪なことかもしれない。しかし、雲が空にあるのと同じだけ当たり前に、陶羽の心に玉兔は存在した。

 ――将軍もあの女も無事だといいけれど……。

 雪は深い。追っ手を恐れて山路で行った雄元たちは難儀しているはずだ。女の足では辛いはず。あと六日。いや、五日半で平邑へ行ってみせると陶羽は誓った。


*                  

「ここが平邑?」

 玉兔は初めて見る哲郡の郡都、平邑に言葉を失っていた。想像していた街とは違ったからだろう。閑散としていた他の興国領の街と比べ、その繁華な様子は異色だ。

 雄元は少し得意げに口の端を上げて笑った。

「まあまあ見られる街になったな」

 それまで商業を商うのには煩雑な郡令からの許可が必要だったのを、雄元は自分の代になってから、この平邑での商業を自由化した。北国では作物もこれといって育たない。ましてや、昔から複数の国がこの地を治め、そして滅んだためにその民族も構成も複雑なこの平邑において、商こそが命綱とも言えた。

「ここには何でもある。欲しいものがあれば言え。買ってやる」

 玉兔は馬上から市に並ぶものを見た。絽陽の女官が着ていそうな絹から、東方の真珠で出来たかんざしまである。そうかと思えば、西夷の男が好んで履くような革の靴もあった。

「最近ではここに一旦品物が集まって、それから各国に散らばると聞きました」

 商人の真似事で金を稼いでいた琥珀が言った。

「ああ、いつ興王に返せと言われるかとひやひやしたものだ」

「将軍がここにいれば武力で奪い取りに来るのは必至かと」

「そうなるかもな。だが哲郡は平邑以外は使い物にならない土地だ」

「買い物は後にいたしましょう、公主。急いで郡令を押さえねばなりません。絽陽に我らのことを告げられたら大変です」

 玉兔は琥珀に頬を膨らませて見せた。象牙でできた指甲套を見つけたからだ。

「呂雲、あれを買って来てやれ」

 雄元が腰に差していた匕首を呂雲に手渡した。物々交換しろということだ。しかし、楊琥珀がそれを見て首を振った。

「他にも公主のお召し物を買わなければなりません。私の部下をやりましょう。呂雲では公主のお気に召すものを選んではこれないでしょうから」

 砂金の袋を琥珀は懐から出した。実のところ、匕首とはいえ、将軍の使い慣れた刀を手放すのを琥珀は惜しんだのだろう。雄元は物に無頓着であるので匕首の一つや二つ気にしないが、琥珀の気遣いを黙って受けるだけの度量はあった。

「さあ急ぎましょう」

「いや、急ぐ必要はない」

 琥珀は首を傾げた。

「ここ数日寝る間も惜しみましたのに、なぜ将軍は平邑に入ってから悠々としておられるのですか」

 雄元はそれに答えなかったが、彼の疑問は直ぐにとけた。

「やっと迎えが来たようだ」

 雄元が指差した先に、転がるように馬車がこちらに向かって来たのが見えたからだ。

「陶将軍、よくぞご無事で」

 下車した郡令は雄元の衣に取り付かんばかりに喜んだ。五十を少し越えたぐらいの痩せた男で、雄元はそれに苦笑すると玉兔を馬から下ろした。

「馬車に乗せてやってくれ。疲れているのだ」

「奥方さまで?」

「まあ、そんなところだ」

「寧の公主さまです。丁重に」

 琥珀が付け加えた。

「絽陽から何か知らせはあったか」

「李敬健さまよりの使者が三日前に着きまして、将軍がこちらに向かっているとのこと、そして寧にいます四万の兵をこちらに差し向けたとのこと」

「気が利き過ぎる男だ」

 雄元は口にこそ出さなかったが、李敬健を案じていた。寧の兵を王の許可なく全て撤退させたら、どうなるか。言わずとも彼には十分想像出来た。

「寧は西夷に侵されますね」

 琥珀は寧の心配をしたが、それはどうしようもない。雄元は肩を叩いてやった。

「こちらには寧の九つの太陽がいるのだ。自ずと寧はあるべき主のもとに返ってくる」

「そうだといいのですが」

 馬車が揺れた。雄元にも楊琥珀にも心の揺れはある。しかし、その揺れに身を任せてはならない。雄元は険しい目を上げた。

「興とは戦になる。覚悟しておいてほしい」

 男たちは剣を握って雄元を見た。


*                

 一行は郡令の屋敷に滞在することになり、湯をつかった玉兔が濡れた髪のまま部屋に戻ると、雄元が迎え入れた。

「少し雪焼けしたな」

「誰のせいよ」

 頬をなぞった雄元に玉兔は冷たく言いはなった。

「えらく不機嫌だな」

「静かにして。日が沈むところなのよ」

 玉兔は窓を両手で開けた。赤い夕日が彼女の顔をそめる。細く長い指を重ねながら、玉兔は跪き、傾いた日が彼女の影を長く引きずる。

「何が視える?」

「なにも。しずかに」

 玉兔は瞳を瞑った。心の中に隷が浮かんだ。いつもなら隷の気は「静」、あるいは「清」を表している。しかし今、玉兔には彼に「動」を感じた。激しい気の動き。それは怒りだったり、欲であったりする。雄元や他の人間たちとさほどもの違わない気の色合いだ。

「隷が視える」

「……」

「何かが始まるわ」

 玉兔は隷の言葉を思い出した。『終わりは始まりへの過程だ』と彼は言っていた。隷は興を滅ぼし、何かを始めようとしている。

『隷』

 太陽の巫女は片割れとも言うべきもう一人の太陽に呼びかけた。草原を隷は馬で駆けていた。『隷』ともう一度声を掛けると、馬上の彼が空を返り見た。潮の匂い。海の近くに隷はいる。

「隷、隷。答えて、ねぇ、隷ってば」

 手を伸ばせばそこに隷がいるような感覚だった。玉兔は彼の白い髪に触れようとした。隷も玉兎の気配に気づき駒の足を止めて空を仰ぐ。玉兔はもっと彼に近づこうとしたが、西にいる玉兔より東の隷の方が早く日が沈んで、ぷつりと幻想が途絶えた。

「隷が視えた。東にいる。海の近くよ」

「金烏公子の母は東の架国というところの出だ。きっとそこの一族を 頼ったのだろう」

「隷は何を考えてるのかしら」

「たぶん、興の再興だろう」

「再興って?」

「先々王は興の王族を殺して王位についた。金烏公子は唯一の直系王族だ。先々王の作ったまやかしの興は滅びる運命にある」

「なるほどね。じゃ、隷はわたしが必要だから寧を攻めさせたのかしら」

「さあな」

「金烏宮に張られた呪縛を解くのにわたしが必要だったのよ」

「だったらなんだと言うのだ」

 雄元が玉兔の身体を寝台に倒した。彼女は悔しそうに親指を噛んだ。

「やられたわ」

 玉兔が声を立てて笑った。

「でも二度目はないわ」

 白い肢体。円みを帯びた線。雄元がそれに手を伸ばそうとすると、玉兔はするりとその腕からすり抜けて雄元をまたいで見下ろした。彼女の髪が雄元の頬に掛かった。

「もう誰にもわたしを利用させない」

 雄元が瞬きした。

「それはお前も含めてよ。陶雄元」

 玉兔の冷たい両手が雄元の首を掴んだ。雄元はにやりと笑みを洩らし、彼女を見上げた。

「ならお前が俺を利用するがいい」

「もちろんそのつもりよ」

「俺が中原の王になったら、お前を寧の公に冊封してやろう」

 玉兔の手に力が入った。

「わたしが王になり、お前を公にしてやるわ」

「お前が中原の覇になると?」

「わたし以外に誰がいると? お前? わたしは天帝の子。九つの太陽。天命はわたしにある」

 雄元は彼の首を絞めていた玉兔の腕をはらい、再びその小さな身体を組み敷いた。すると一瞬にして玉兔は、その眉に男に対する少女らしい恐れを表した。

「昼間はそれで許してやろう。だが、夜はそういうわけにはいかない。それが条件だ」


 冬も終わりに近づこうとする頃、平邑に砂塵が白く立ち上がり、待ちに待った寧からの兵が蹄をとどろかせて郡都の西門をくぐった。

 雄元は玉兔とともにその様を高楼から眺めていた。玉兔は目元の初々しさを隠すように感情を奥底に伏せ、高欄に手をのせたまま西風に身を任せていた。雄元はそれを後ろから抱いていた。

「春になる前に動けそうだな」

「悪くない風が吹いているわ」

「玉兔、寧の君主になる覚悟はできたか」

 雄元の手が玉兔の手に重なった。

「さあ、今のこのどきどきする気持ちを覚悟と言うのなら、できたわ」

 玉兔は乱れ髪を耳にはさんだ。寧の地が彼女を呼んでいるように見えた。大地に落とした涙と血が、土に返り、春を待っている。若草色がやがて深い碧の色となり、花をその枝に咲かせる季節となるのだ。

「将軍、寧より三万五千の兵が到着したとのことです」

「三万五千?」

「五千は寧を守るためにやもなく置いて来たとのことです」

 永明は音も立てずに現れると、二人の後ろに跪いて報告した。四万の計算でいたのが、五千足りずに雄元は少し眉を険しくしてどうしたものかと考え込んだ。が、金維央が息を切らせて階段を上って来た。

「将軍! 陶羽さまが絽陽より到着いたしました!」

「陶羽が何しに来たんだ。どうせ王の命で絽陽からわざわざいさめに来たのだろ? 会う時間などない」

 しかし、金維央は興奮で赤らんだ顔を横に振った。

「陶羽さまは黒充夏さまを伴って五千の陶家の兵を率いて将軍に加勢されにきたのです!」

「本当か!」

 雄元は喜色を表した。

「どうやら風向きがよくなったようね、雄元」

「そのようだ。この五千の兵は一万の力を持っている。興との戦いは厳しいものになるに違いないが、今まで生死をともにして戦って来た男たちさえいれば、未来は明るい!」

 玉兔の手首を掴むと、彼は高楼の階段を駆け下りた。風にのって玉兔の白い衣が宙に浮かぶ。寧から来た兵が、貴人に気付て慌てて道を空け、波が引くように頭を下げていった。ふたりはその黒い人垣を泳いだ。

「陶羽!」

 雄元の声が響いた。振り返った陶羽と黒充夏。二人とも無精ひげを伸ばした薄汚れた顔をしていたが、将軍の顔を見て疲れた顔をしまって、白い歯を見せた。

「よくきてくれた」

 拝手した二人の武将の肩に雄元は手を置いて言った。無表情に真面目ぶった黒充夏に対して陶羽は、よほど従軍がきつかったとらしく涙ぐんだ。

「将軍もよくぞご無事で」

「ああ」

 雄元は見慣れた自分の精鋭の兵を見回した。

「紹介しよう。我が君、寧公だ」

 玉兔は雄元の言葉に首を傾げた。そして自分のことを雄元が『寧公』と呼んだと気付いて瞳を丸めた。それは紹介された陶羽と黒充夏も同じで、二人は戸惑いで顔を見合わせたが、すぐに跪いて手を胸の前で合わせる。

「微力ではありますが、公にお仕えしたく馳せ参じた次第です」

 陶羽の言上に玉兔はなんと答えたらいいのか分からなかった。代わりに雄元が、

「公が祝宴を夜に用意してくれている。それまで休んだらいい」と二人を立たせた。

 玉兔が急に怖くなったのか、袖から手を出すと、雄元の掌を握った。彼の大きな手がそれを握り返した。

 その夜の宴席上で、寧からもたらされた黄金の寧公の冠が玉兔の小さな頭に乗せられた。龍の袍を着た少女は、長い睫毛を瞬きもせず、居並ぶ男たちに見据えていた。

 宴がたけなわになり、男たちの居住まいが崩れてもそれは変わらずに、彼女は辛抱強く与えられた役割を果たさんとしているように見えた。

「公主を公などにして、よろしかったので?」

 黒充夏が席上で雄元に小声で訊ねたが、彼は笑って答えた。

「俺はどうも二番手があっているようだ。それに寧で玉兎を殺さなかった時点でこれは決まっていたようなものさ」

 彼は興の王になる事も出来たのに、英を擁して将軍に甘んじた。玉兔をまず寧公に擁し、寧の復興を旗印に遺臣と兵を集めて興と戦い、そして後々奪った興の土地から雄元が独立して一国を治めるというのは、悪くない計画ではないだろうか。

「雪が融けたら興は大軍で押し寄せてまいりましょう。国中の兵をかき集めて五万、あるいは六万という数が平邑を目指します」

 陶羽が盃を傾けて憂慮している事実を雄元に告げた。他の重臣たちもそれに深く頷いた。

「数の上ではこちらは劣っている。しかし相手は蘇学だ。負けない戦を仕掛けてくる。それが命取りと知らずにな」

「蘇学など恐れるに足りない」

「だが西夷も黙っていますまい」

 重臣の口からさまざま言葉が飛び出したが、その中で

「西夷には使者を差し向けるべきです」

 琥珀のみが西夷を懐柔する案を声高に唱えた。しかし西夷を蛮族として見下している元興国人たちは白い目をこの寧の臣に向けた。西夷と興は長年戦いに明け暮れ、不誠実に約束事を何度も反故にされたこともあるために興国は西夷を信用しないのだ。

「しかし、寧と西夷は同盟を結び、悪い関係ではなかった。寧公の求めで兵を貸して欲しいと言えば貸してくれるでしょう」

「愚かなことだ。特に西夷から借りるぐらいなら、六万に四万の兵で戦うほうがましだな。寧の将は夜伽以外のことは何も知らない」

 陶羽が鼻で笑った。むっとした楊琥珀は、立ち上がろうと拳を握った。しかしそれは少し固くなっただけで途中で止まった。それを止めたのは雄元でも呂雲でもなく、今まで壇上の飾り人のように黙っていた玉兔の声だった。

「使者は西夷に送る。ただし、西夷だけではなく、東の隷や南の宛国や極国にも使いをやるわ」

 酒に酔った男たちの顔から酔いが一瞬にして消え、少女の顔を見た。まるで神意を伝えるようなそんな厳かな響きがその声音にあったからだ。黄金の冠が鈍い光を放った。

 雄元は玉兔を見上げた。それは九つの太陽の顔であり、寧公の顔だった。彼には玉兔の案には懸念しなければならない点は多かった。第一に、彼女が呼びかけて各国の王や公が一堂に集まるのか。特に架国にいるらしい隷は一癖も二癖もある巫覡だ。

 あの男は軍などではない不思議な力をもって興国を潰そうとしてくるに違いない。会盟などというもの無意味な気がする。しかし、玉兔がやるという限り、何か確信めいた予感があるはずだ。それが目の前にある玉兔の表情に表れている。

「我が君の仰せのままに」

 初めて雄元は玉兔に跪いた。玉兔に巫覡としての勘があるように雄元にも将軍として勘があった。それは彼女に跪くという行為によってより神聖なものになる。

「ただし時間が掛かります。同時に南下して興軍とは一戦交えなければならないでしょう」

「なら、次に月が満ちるまえに動くといいわ」

 それは完全なる天の意。琥珀が九拝した。

 次に月が満ちるまでに十日しかなかった。偵察も放たねばならない。雄元の脳が忙しく回り始めた。こんな時に李敬健がいてくれたのならと思わずにいられない。だが、彼はもうこの世にないのを既に陶羽から告げられていた。

「無礼をお詫びするようにと言付かりました」

 無礼どころか、李敬健以上に忠臣はいない。崩れ落ちそうな自分を支えるだけで雄元は精一杯だった。今、この幕閣を見回しても彼に並び立つ軍師になり得る人物はいない。陶羽は若く、呂雲は根からの武人であり、楊琥珀が頭脳に関して冴えたものを持っていたが、あざとさを拭いきれない。自分と玉兔の力を信じるしかない。

「月が満ちる前に動く」

 雄元は、決定事項を居並ぶ臣に低い声で下した。

 

 それは月が満ちる日に間に合った。旗が高々と掲げられ、四万の兵が興国に向け南下することになったのだった。

「あれはどういうことだ」

 雄元が唯一不機嫌にそう咎めたのは、玉兔の格好だった。髪を一つに束ね、白い胡服に美々しい鎧を身につけて馬に跨がっている。

 眉をキリリと描いている凛々しさは、まさに少年王の初陣のようではないか。

「あれは完全に琥珀の趣味だろう」

 雄元はため息を洩らした。彼女のために馬車を用意していたのが、不要になり空のままついて来ることになってしまった。

「お気に召しませんでしたか」

 琥珀が悠々と左右に美臣を従えて、兵車で現れると、雄元は無言で眉をひそめた。

「しかし、将軍。あれぐらいの方がいいです。男とは愚かなものだ。金や欲のためには命が惜しいが、美しいもののためなら死ねる。我が君が目の前を馬で走っただけで、その命を守ろうと心に誓った兵は何人いるでしょうか」

「しかしあれではお前好みすぎる……」

 琥珀は雄元に口を歪めて笑って見せた。車を御していた呂雲が苦笑した。

「我が君」

 雄元は玉兔に車を近づけさせると、馬車へ移るように促した。しかし、彼女は背筋を正すと馬の歩調を少し速めた。

「お前に『我が君』と呼ばれるのは気持ちが悪いわ」

「慣れてもらわねば困る」

「慣れそうにないわ」

「我が君。馬車にお移りを」

 雄元は馬車から手を伸ばした。

「嫌」

「落馬でもしたらどうするのだ」

「落馬? 私が?」

 玉兔は笑い、腕前を見せてやろうと言い出した。空は青く高い。白い雲に鳥が円を空に描いていた。玉兔は琥珀の臣が持っていた神事用の飾り弓を奪うと、雄元が止めるのも聞かずに馬を走らせた。

「やれやれ、とんだ君主さまだ」

「まあ、ご覧ください。だてに西夷の王が望まれる人ではないのですよ」

 楊琥珀はそれでも自分の部下に玉兔を追わせて、頭を抱える雄元を慰めた。

 そして玉兔は兵の列から大きく外れると、乾いた草原で手綱を放した。そして身を翻して天に向かって弓を構え、的を絞って矢を放った。空高く伸びていく一本の飾り矢。それは先ほどから空にいた一匹の鳥を射抜いて落ちた。

「ずっとあの鳥が目障りだったわ」

 息を切らせて玉兔が戻って来た。琥珀の臣が彼女が射た鳥を雄元に掲げてみせた。

「目障りで殺されたら鳥は気の毒なことだな」

「ふん。これは隷が寄越した鳥よ。私たちを監視してたの」

「偵察兵いらずとは羨ましいものだ」

 雄元は純粋に隷を羨んだ。彼は永明を二日前に偵察に向かわせていたし、捕らえられている寧の捕虜を放つように金維央に命じて寧の都へと差し向けてもある。兵はこれからも増えるとはいえ、そういう細かな仕事に雄元たちは人を使わなければならない。

「我が君にはそう言う力はないのか」

「だから我が君とは呼ばないでって言っているでしょう。それにそんなに隷がいいなら隷と組めば?」

 玉兔はへそを曲げた。気の長い雄元ではあるが、呂雲に目配せをすると、玉兔の横に車を並べ、無理矢理彼女を馬から引きずり下ろした。腕の中で暴れる玉兔の耳に雄元は閨の中でのみ分かる言葉をささやいて、それ以上の抵抗を封じると、さっさと薄絹で帳をめぐらした馬車に押し込んだ。

「将軍もそれなりに私の趣味を悪くは思ってはいないようで安心いたしましたよ」

 一段落ついたと雄元が胸を撫で下ろすと、琥珀が憎たらしい言葉を残して彼を追い越して行った。


 四万の男たちの中に紅一点とは不思議なものだが、玉兔が率いるこの軍は彼女の色に染められて、どこか明るさを伴っていた。何事にもほだされない自由な気質がそうさせるのだろう。

 それはたとえ河水の畔で雄元たちを興軍が待ち構えているという報告を永明によってもたらされても同じで、その数が六万と聞いて震え上がる兵を奮い立たせるように玉兔は鼓を打った。雄元が打つのとは違う、高い音の波長が、空気が清め、男たちの心に響き、殺伐としかけた兵の気が落ち着きを取り戻させる。

「かつて太古の昔には巫女を裸にして鼓を打たせ、邪気を払ったとか」

 黒充夏が物知り顔に言って、それを横で聞いた陶羽はさもあらんと頷いた。

「興軍との間にはまだ距離がある。河水を今日越えてこないなら、将軍は今夜は兵を休ませるだろう」

 陶羽の予測通り、雄元はその夜は早めに宿営させた。雄元に集められた陶羽、黒充夏、呂雲、楊琥珀、永明など重く用いられている臣たちはそれぞれ独自の配陣の仕方を説いたが、どれも雄元をしっくりさせるものがない。李敬健の持つ美しいまでの戦術を考え出せる人間はそうはいない。

「自分ならこうするではなく李敬健ならどうするのか、考えてみて欲しい」

 そんなこといわれてもと、皆、余計頭を抱えるばかりだ。夜遅くということもあり、疲れて顔を机につけていた玉兔が瞳だけ持ち上げた。

「そんなの無理よ。李敬健は頭が良すぎたの。お前たちがいくら馬鹿な頭数をそろえても無理なものは無理」

「なら、我が君ならどうされるのです」

 雄元は嫌味を込めて玉兔に訊ねた。文句だけ一人前なら寝ていてくれた方がましだ。

「公はお疲れなのです。御寝(ぎょしん)なりませ」

 琥珀が助け舟を出したが、玉兔は額を机に張り付けたまま動かなかった。

「玉兔、寝ろ」

 雄元が『我が君』と呼ぶのを止めて玉兔の頭に手を置いた。琥珀が言った。

「河伯の力を借りれないでしょうか」

「河伯? あの河水の神の白龍か?」

 琥珀の寧人らしい信心深さに正直雄元は同調したくなかった。

「あのなぁ……」

「将軍。助力をいただけるかはさておき、河を挟んで戦となるのです。その前に神に許しを得る神事を行うのは当然ではありませんか」

 常に死と隣り合わせにいる武人は縁起を担ぎたがるものだ。雄元は信じなくても、他の兵士たちは必要と思うだろう。雄元は琥珀に反論するのをやめた。玉兎もあえて言葉を挟まなかった。それは公としての威厳なのか、はたまた同意なのか、雄元にはわからないが、君主のあるべき姿勢だった。

「さあ、わたしは寝るわ。明日の朝、河水に行くから護衛の兵を貸して」

 玉兔はまぶたを擦りながら立ち上がった。呂雲が

「敵兵もいます。あまり河畔に近づくのはいかがなものかと」と諌言(かんげん)したが、彼女の耳には届いていそうになかった。

「ほっとけ」

 雄元は玉兔を追いかけようとした呂雲に言った。彼女一人いなくなっただけで幕内は静まり、いままで玉兔の気に染められていたのが、今度は陶雄元の雰囲気に包まれる。青く落ち着いた気の色だ。

「河伯がどうのとかは、まあ天に祈るぐらいの気持ちでいてもらいたい。戦は愚かな人間の行いだ。加護があったとしても、なかったとしても我らの手でなさねばならない」

 結局その夜はながながと幕議が行われ、呂雲が前軍、雄元が中軍、黒充夏が後軍を指揮することに落ち着いた。ただ一人、陶羽は決定に不満そうだったが、異議を唱えないだけ大人になったと言っていい。

「まずは場数を増やすことだな」

 肩を叩いた雄元に陶羽は一礼をした。興軍であれば家柄を重視し、陶羽に名前だけでも指揮させ、呂雲や黒充夏を副官に付けただろう。しかし、ここでは身分など必要ない。実戦でどれだけ成果を上げられたかが勝負だ。それは雄元の身内である陶羽も同じだった。

「陶羽、明日の朝、我が君を楊琥珀とともに護衛してもらいたい」

「畏まりました」

「このあたりは西夷もときどき現れる場所だから注意するように」

 楊琥珀は寧の臣であり、雄元の臣ではない。万一、西夷が現れたとき、親西夷の琥珀がどう出るのか雄元には予想はつかなかった。もちろん、興兵もこちらの様子をうかがいに河を渡っているだろう。憂慮すべき事柄は山のようにある。

「ゆっくり休め」

 雄元は陶羽を送り出すと、自分の営に戻らずにその足で玉兔の営に向かった。『我が君』と昼の間呼んでいても、夜は『玉兔』と呼んで誰がそれをとがめられようか。

「寝たか」

 暗闇の中で彼女の白い肢体だけが浮いていた。まだ、暦の上だけの春。冬のなごりはそこかしこにあった。抱いて眠るのにちょうど良い腰。草原をつきぬけて行く風の音が、ふたりの夜を小さく縮めた。


 翌朝――。            

「嫌だ、まだ寝ているわ」

 陶羽の朝は朝と呼ぶには早かった。

 人の声がして、夢うつつの中で少年が鞭の先で自分の額をつついていた。

「我らだけ行きましょう」

 かしこまっていた後ろの男が声をかけると、『でも』と言って少年が一層強く鞭を顔に押し付けた。陶羽はそれが煩わしくて手で払うと、鞭が空を切る音がした。

「無礼だわ」

 陶羽はそこでようやく、自分は夢の中にいるのではないことに気がついた。少年の横柄な口ぶりが誰かを思い出させたのだ。

「ぎょ、玉兔公主!」

 半身裸で寝ていたことも忘れて陶羽は飛び起きた。すでに公主ではなく、公であるというのも失念した。

「置いて行くわよ」

 くるりと身を返した玉兔は、鎧姿が既に板について、口紅と額の花鈿(かでん)がその白い顔を飾っていなければ女と分からないほどだ。しかし、そこに妖しさがある。陶羽は起こさなかった側近の白救を怒鳴りつけながら、男装の女に朝から欲情しかけた自分を否定した。

 ――何を考えているんだ、おれは。

 呟きと共に彼は鎧に袖を通した。それもこれも戦で女が他にいないからだと思うことして、白救から鞭を奪うように受け取ると、大股に大地を踏む。

「遅い」

 玉兔の機嫌はすこぶる悪い。とばっちりを受けたらしく、雄元が夜着のままで少し離れたところで腕組みをして見ていた。陶羽なしで玉兔が行こうとしたのを止めたに違いない。それは雄元が楊琥珀を信用していないあらわれでもあり、陶羽への信用の厚さでもあるから、陶羽は申し訳ない気持ちで軽く雄元に頭を下げると馬に飛び乗った。

「遅くなりました」

 既に馬を進めていた玉兔に陶羽は追いつくと詫びたが、それは無視され、代わりに琥珀から小言が飛んできた。陶羽は内心むすりとするのを止められなかった。しかし雄元から直接命じられたのに、寝過ごしたの自分だ。

「申し訳ありません。今後このようなことは二度いたしません」

「二度とないとは申されますが、これが戦なら寝過ごすなど許されませんよ」

「もういいわ、琥珀。それぐらいにしてやって」

 何かもっと言ってやらねば気がすまないといった風の琥珀を主君である寧公玉兔が止めて、陶羽に笑みを見せた。機嫌が悪くなるのも簡単だが、けろりと忘れてしまうのも彼女らしかった。

 白い馬に白い鎧。馬が土を蹴る度に彼女のまわりは香しい匂いが漂う。

「河が見えて来た」

 猿が近くにいるのか、悲しげな高い声が響く。か細い柳や葦を微かな風が動かしながら河とともに流れていく中、玉兔が馬から下りた。足下のおぼつかない主君を助けるように陶羽が手を貸し、彼らは河の水辺に近づいた。運のいいことに霧があたりを覆い、黄色い水の向こう岸からこちらを窺うことはできない。ひとまず興軍の目にふれるということはないだろう。陶羽は、祭祀を行うために火を焚かせ、道具を馬の背から下ろした。

「公主」

 しかし、その時、背後から誰かの声がした。陶羽が振り向けばそこにいるのは碧眼の男ではないか。しかも後ろに十数人の異民族の供を連れている。西夷だ! それに気づいた陶羽は剣に手をつけるも、琥珀によって押しとどめられてしまった。

「伊士羅!」

 玉兔は叫ぶと、陶羽がその手を掴む前に走り出した。殺気立つ陶羽や白救に対して、楊琥珀はわざとらしい驚きを顔に表しているだけで何もしない。陶羽はこれが彼によって計られたことだと気がついた。

「どうしてここにいるの⁈」

「あなたが公になられたと聞いたので会いに来たのです」

「興を攻めるの」

「知っています」

 西夷王は手助けしたいが、それを雄元がよしとしないだろうと告げた。

「公主姫はいまだ巫女なのでしょう」

「ええ……」

「陶雄元将軍とは面白い人のようですね。そして私も」

 やさしく微笑んだ西夷の王。思わずつられて微笑んでしまいそうな、そんな慈愛がある笑みだった。

「私はあなたがどう戦うのかここで見ていましょう」

 西夷王が陶器の壺を楊琥珀に手渡した。酷い臭いに顔を歪めた玉兔が、『それは何?』と訊ねる前に「さあ、少し歩きましょう」と西夷王がその手を引いた。


「それはなんだ」

 陶羽は臭いを放つ壺を馬に乗せた琥珀に訊ねた。

「あなたには関係ない」

 ぶっきらぼうに答えた琥珀に陶羽は腹を立てた。

「将軍から西夷に気をつけろと言付かっている。いまここで、西夷王と散策している我が君の身体を横抱きにして陣に戻っても俺はかまわないのだ」

「それは将軍もなかなか勘がいい。これは西夷王からの贈り物です。西夷で人質となっていた安敬公子の首の塩漬けと言ったらお分かり頂けますか。我が君が女の身で君主になるには、安敬公子は邪魔です。ですから、私が西夷王に首を乞うたのです」

「お、お前」

 琥珀はにやりと笑って見せた。

「西夷は安敬公子を擁して寧の君主にさせるのも可能であったのに、あっさりと首を渡した。西夷は我が君を公であると認めたのです」

 陶羽は唾を飲んだ。

「寧の正当な血筋は、我が君だけになったのですよ」

 楊琥珀とはこういう男なのだ。玉兔を君主の座に据えるためならば、旧主の血筋を断ちもする。雄元が西夷と手を組もうとしていないのに、影でこそこそと手を回し、西夷を懐柔しようとするとは大胆不敵だ。

「ほめられた行為じゃないな」

「おっしゃるとおりですね。だが心配の芽は早めに摘んでおくことが一番です」

 鈍く冷めたい光が琥珀の瞳から放たれた。

「そろそろ夜が明けます。興軍に見咎められる前に、我が君には陣に戻って頂かなければ」

 陶羽はその言葉に東を仰いだ。白々し始めている。

「戦は今日だな」

「そうなるでしょうね」

 陶羽と琥珀は河岸をあるく二人の君主を見つめた。まるで戦などそこに存在しないような穏やかな空気が漂う。柳にもたれる玉兔に何かをささやく碧眼の王。そこだけ切り取れば、ふたりは恋人同士に見える。

「将軍には報告できないな」

「別にかまいませんよ。どうせ知られることです」

「俺の首が飛ぶ」

「西夷王は八万の兵を連れて来ています。黙っていて後で将軍に知られるより、先にあなたから申し上げた方がいいでしょう」

「西夷は興と我が軍の戦いを見物しに来たのか」

「まさか。陣を敷いて興を牽制して我が君に恩を売りたいのでしょうし、戦況が将軍に分が悪いようなら我が君を奪う気でしょう」

「なるほど」

「しかし我が君は九つの太陽。決して誰のものにもならない。そこのところを実は誰も気付いていない」

 冷静沈着に『誰のものにもならない』と琥珀が言い切れるのは、彼の玉兔へ抱く気持ちが、将軍や西夷王とは別物であるからだ。陶羽は心のどこかで納得はいかずに反発したい気持ちを抱えた。

「将軍が自ら王を名乗り、九つの太陽をそれに利用しようとしたのなら、西夷は間違いなく将軍の首を狙いに来たはずです。しかし、将軍ではなく、公主が君主の地位に昇れば、西夷王は弓を引くことはできない。将軍はなかなか頭がいい」

 夜が明け始めた。朝霧が晴れてしまえば、向こう岸にいる興軍に二人の姿はやすやすと見つけられる。陶羽は馬に跨がった。西夷の臣もそれに倣って動き出した。

「さようなら」

「またお会いしましょう、公主。いや、寧公でしたね」

 二人は別れを告げた。

 西夷王は鷹を呼び寄せて、玉兔の肩に乗せた。

「あなたを私の代わりに守ってくれるでしょう」

 玉兔は北へ、西夷王は西へと馬の首を向け、それぞれの道をゆく――。


 宿営に帰れば、すでに出陣の用意が調っていた。

 陶羽は迷ったが、雄元の元にやはり報告に行くことにした。楊琥珀が言うように 後から雄元に西夷王のことが知られるよりは、自分の口から告げるのが一番だ。何よりも鷹を肩に乗せて帰った玉兔が無邪気に雄元に『伊士羅に会った』と言い出しそうだ。

「西夷が八万の兵を連れて来ております」

「知っている。物見が帰ってきたところだ」

「ご存知でしたか」

 雄元の言葉は、陶羽をひやりとさせた。もしかしたら雄元は玉兔にも物見を付けていて、逐一その行動を報告させていたかもしれない。陶羽は言葉に慎重になった。

「楊琥珀が安敬公子の首をねだったようです」

「そういう男だ」

 雄元が後ろに手を組んだ。それもまた知っていたのかもしれない。いや、雄元が裏で琥珀を操っていたのかもしれないと陶羽は感じた。

「そろそろ興軍は動く」

「はい」

「のろのろしていると背後にいる西夷が動く。時間との戦いになるぞ」

「心得ております」

「西夷が安敬公子を殺したということは寧の直系は我が君だけになったということだ。つまり我が君になにかあれば、もう遠慮はしないだろう。必ず奪いにくるはずだ。背後にも気をつけろ」

 いつの間にか風は良い追い風となっていた。「陶雄元」と書かれた旗が一陣の風にさらわれて、大きくはためいた。それはまるで出陣の合図のようで、呂雲の大きな声が前軍からもたらされた。河水に向けて動き出すのだ。そしてその向こうにある絽陽をとる!

「ゆくぞ、陶羽」

「はっ」

 これは陶羽にとっては初めての本格的な戦だった。わき起こる期待と同時に不安もある。雄元は不敗の将として知られているが、その彼でさえ、今回の戦いには慎重に慎重を重ねている様子だから、余計に身を引き締めなければならない。陶羽は後軍に配された玉兔と行動を共にするので、危険は前軍よりは少ないが、雄元のいうとおり、西夷の動きが心配だ。

「陶羽」

「はい」

「我が君をお守りしろ」

「はっ」

「西夷も付け入る隙を狙っている。何かあったらお前を殺す。これは脅しではない」

 陶羽は拝手した。雄元は普段、冗談を言える親しみを彼に与えてくれているが、戦においてそんな気配は微塵もなかった。明確に、陶羽の責務は玉兔を生きて河を渡らせることにあると雄元は言ったのだ。心のどこかで機会があれば敵将を倒し戦功を立てたいなどと思っていた陶羽の子供じみた考えは一瞬にして消え去った。

「心得ております」

 それに雄元は満足げに頷くと、兜(かぶと)を琥珀から受け取り、玉兔の小さな頭にそれを被せ紐を結んだ。彼女に寧公の黄金の冠がかぶせられたときと同じだけ、それはうつくしい光景だった。

「死ぬなよ」

「お前こそ」

 二人は睨みあったかと思うと笑った。馬上の雄元の腕がゆっくりと玉兔を引き寄せて唇が合わさる。

「ゆけ、雄元」

 玉兔の爽やかな声が邪気を払った

 蒼い空。

 赤い旗

 将軍の馬が勇ましくいななく。

「出陣!」

 鼓が鳴り、中軍が動き出した。陶羽の主君は飾り弓を琥珀から受け取ると、宙を射た。それは呪の一つ。わざと弓に鈴と赤い布切れを付け、高らかに天に戦の始まりを告げるのだ。

「戦の成果はどうのように占いに出たのでございますか」

 陶羽が玉兔に訊ねた。しかし、玉兔は笑った。

「占ってない」

「占ってないのでですか⁈」

「占ってどうするの? どうせ道は一つ。わたしたちに必要なのは進むことでしょ。天意も神意も知ったことじゃないわ」

 陶羽も晴れ晴れとした笑みを浮かべた。全くその通りだ。天は気まぐれで、地はその気分次第で右往左往するのが常だ。何か目に見えぬ力に怯えて暮らすのではなく、玉兔の言うように一度でも生死を自分の信じる方へと賭けるのも悪くはない。

「面白くなってきましたね」

 琥珀が陶羽に笑みを向けた。陶羽は、楊琥珀とはこんな風に笑う男だっただろうかと、少したじろいでから微笑み返した。寧人で寧公の寵臣であったという事実だけで、違う目で見ていたが、一緒に死んでもそれほど悪くない男かもしれないと彼は思い直し始めた。

「運命などというものはよく分からないが、少なくとも今日の風は気持ちがいい」

「全くその通りです」

「前進せよ!」

 黒充夏(こくじゅうか)の声がした。後軍もまた動き出した。


 激しく生きる。

 雄元はその言葉が好きだった。あるがままを甘受する生き方ではなく、自分に決めた方向に進んで行く。それを『激しく』と形容するのは美しい。武人の彼にはそういう生き方が特に好ましいと思う。雄元はだから興軍が動くのを待つのではなく、前軍に河を渡らせた。

 後には引けない戦いをしなければならない。嵐のように速く前に進む必要があった。

 こちらが河を渡り切りそうな頃に興軍は動き、前軍が怯み出した。雄元は自軍を叱咤するように強く鼓を打たせ、中軍を前へ前へと押し込んだ。西を見れば、丘の上で西夷の兵が悠々と戦を見物している。

 ――下衆どもがっ

 悪態を心の中で吐くと、雄元は中軍にも河を渡るように命じた。丘の上からその様子を見ていた伊士羅の目には、陶雄元の率いる兵の戦いぶりはまるで大鯨が河の中で暴れているかのように見えていたことだろう。人の濤は、対岸の興軍へと押し寄せていく。

 激しく――。

 雄元は人を斬るたびに何度も同じ言葉を呟いた。もう何人斬ったか分からない。ただ自分の前を阻むものは斬っていくのだけだ。玉兔と絽陽の王宮から逃げ出そうと手を取ったときに感じた思いをとにかく貫かねばと、唇を必死に噛む。

「くそっ」

 それでも劣勢は劣勢。歩兵の戈が雄元の腕を突いた。しかも水の中で馬を操りながら敵兵と戦うのは至難の業だ。地理的に不利であり、勢いだけが雄元の武器だった。鈍い音がして剣が折れた。慌てて、沈みかけていた誰かの槍を手に取ると、近づいてきた騎馬兵の左胸を刺す。息が切れ、後ろがどうなっているかも分からない。ただ前を突き進むしか道はなかった。

「怯むな! 進め!」

 雄元は味方に叫んだ。


「陶羽。琥珀、そろそろね」

 寧の君主が、陶羽を見た。前方にいる黒充夏が頷いて見せる。玉兔は再び飾り弓を引いた。今度は対岸の興軍へ向けて射る弓だ。女の手ではそこまでは到底届かないので、陶羽が横から手を貸した。

「届いて! お願い! そしてわたしと寧を助けて! 興軍を滅ぼして!」

 玉兎が、矢に呪を込める。興を呪い、寧の繁栄を天に祈る言霊は、必ず現実のものとなるだろう。天意は彼女にあるのだ。陶羽はふつふつと湧き上がる戦意をその弓にこめ、ギリギリまで引くと、玉兎と同時にその手を放した。

 放たれた矢。

 銀の鈴が高い音を立てた。

 そのまま天を射てしまうのでないかと思ったほど、その矢は青い空に吸い込まれ、やがて影を伴って地へと向かった。中軍も前軍も追い越して、それは興軍に届いた。興の将の一人がその不思議な矢を見上げ、そしてそのうつくしさに逃げるのを忘れた。

「いくわ!」

「はっ」

 金烏宮で行われる秘められた儀式のように、玉兔は厳かな音で鼓を打つ。黒充夏が河を渡り始めた。陶羽の馬も水に足をつける。冷たいと思ったのは一瞬のことで、すぐに体は熱気に温められた。前方で戦う将軍の熱が伝わってきたのだ。

 前軍はすでに岸に上がって、興軍を押していた。

 玉兔は『ゆけ! ゆけ!』とひたすら男たちに叫んでいた。逃げようとした自軍の兵を見つけると、左手にもった鞭で顔を打って行く。

「退くものは斬る」

 断固とした意志が、眉間の花鈿に表れていた。しかし、中軍が岸に上がり切ると、興軍は形勢を変えて玉兔たちの方へと兵を差し向けて来たではないか。前から次々に押し寄せる兵の波に身動きができない。

「我が君!」

 首級を挙げようとする敵兵の剣が玉兔の前に煌めいた。楊琥珀が一人の敵を押さえ、陶羽が短刀を投げる。剣が刺さり馬からどさりと落ちた敵将にほっとしたのもつかの間、あらたな敵が現れ、つぎつぎに玉兎の首を狙う。彼女はそれを寸でのところでかわし、研ぎすまされた剣で斬って捨てた。

「お見事です」

「見くびらないで」

 寧の君主は強がってそう答えていたが、息が上がっている彼女があとどれぐらい保つか分からない。琥珀が『中軍の方に向かってください」と叫び、陶羽と玉兔は、雄元の方へと逃げ出した。残された道は雄元と合流することだけだ。

 が、再び二人は敵に囲まれる。陶羽が三人倒し、玉兔が一人斬った。気付けば陶羽の腕には真っ赤な血がにじんでいた。案じた玉兔に陶羽は大丈夫だと笑って見せたが、そんな彼の笑みも玉兔に二人の男が襲いかかっているのを見つけると一瞬で消え、彼は馬の腹を蹴った。一人を剣で刺し殺したが、もう一人は防ぎきれない。

 ――李敬健殿!

 陶羽は天を仰いだ。

 雄元の宿命を代わりに受けた李敬健。この戦いに参加するときに、陶羽は李敬健の運命を自分が引き継ぐのだと誓った。それが今、ここにある――李敬健の運命とはなんだったのだ。

「陶羽! 陶羽!」

 気がつくと女の声がした。

 空が青かった。雲がゆっくりと東に流れて行く。

 泣きそうな顔の女。

 泣かないで欲しいと思った。

「馬鹿よ。馬鹿」

 身体に刺さったままの剣。手に黒々とした血が付いた。ああ、自分は死ぬのだと陶羽は思った。

「泥……」

「陶羽しっかりして」

「泥だ」

 彼は急におかしくなった。李敬健の運命もまた泥の上で死ぬことだったのだと思うと笑いがこぼれてくる。天の命じる宿命とはなんと皮肉なものだろうか。

「我が君。敵に首を挙げさせずにあなたがお持ち帰りください」

 それは恋の告白だった。

 誰でもなく玉兔に彼は自分の命を絶ってもらいたかった。そしてその胸に自分を抱いて泣いて欲しかった。刻まれた記憶が永遠に彼女の胸に残っても欲しかった。

 陶羽は、彼女と出会ってから素直に自分の想いというものを肯定できずにいたが、今、陶羽は恋というものに受け入れた。お前を抱きたいと告げるのと同じ感覚で、おれを殺してくれと言う。

『いやよ』と言う女の顔に陶羽は微笑みかける。ぽろりぽろりと三粒の涙が玉兔の頬をつたって、陶羽の顔に落ちた。『さあ、早く』と陶羽の指がやさしく頬を拭う。年も変わらない玉兔と陶羽。反目し合った時もある。それでも、こうして今、共にいる。

「さあ。急いでください。敵が来ます」

「陶羽……」

「さよならはいいません。またいつか逢いましょう」

「ダメよ、ダメ。諦めないで!」

「敵に捕縛されること以上の屈辱はありません。さあ。またいつかと言ってください」

 少女は涙をいっぱい溜めて悔しそうに言った。

「……またいつか。いつか必ず」

 陶羽は微笑み、そして思った。

 その時も、あなたのために死ねたらいい。

 命など惜しくはない。あなたのためになら――何度だって――おれは死ねる。

 玉兔が剣を白い空に掲げた。


「玉兔!」

「雄元!」

 雄元は玉兔の血だらけの様に一瞬、言葉を失うも、すぐに彼女を抱きしめ、「よかった」と何度もいい、疲れた顔を崩して笑った。後軍が苦戦していたのは知っている。彼女の身が危ないのを知りつつ、後ろに助けに行ける間がなかったからずっと案じていた。無事だったのはひとえに天の采配だろう。

「陶羽はどこだ! 我が君に怪我を負わせて生かしてはおかない!」

「……」

 雄元の言葉に玉兔がまつ毛をもたげると、黙って雄元に陶羽の首を渡した。決して戦場で泣いたりしない男の瞳を赤らめた。

「お前が取ってやったのか……」

「そうしてほしいって……わたしも敵に首を持っていかれたくなくて……だからわたし……」

 口ごもり、そしてひっくひっくと泣きそうなのをぐっと我慢している人を雄元は抱き寄せた。

「よくやった玉兎。あいつもそう願っていたはずだ」

「陶羽はわたしを助けてくれたのよ。庇って刺されて……」

「それが奴に与えられた任務だった」

「まだ意識があったの。それなのに……」

「戦場で放置されて一人で死を待つことより苦しいことはない。下手をすると敵に捕らえられてわざと手当されてその後拷問を受ける。俺でも首を取ってくれ頼むだろう。後悔は決してするな。それが陶羽の意思を尊重することで、戦で死ぬ男の生き様というものなんだ」

「でも――」

 玉兎が雄元の袖を引いた。彼は震える彼女の手を取って言う。

「それでも悔やまれるというのなら、陶羽という一人の勇敢な武人がいたということを忘れないでやってくれ。あいつもお前に覚えていて欲しいはずだ」

「…………」

「そしていつも会いたいと思ってやってくれ。お前の中にあいつが存在するかぎり、あいつは黄泉の国でも満たされている。そういう男だったんだ、陶羽ってやつはな――」

 陶羽は死ぬには早すぎる。しかし、彼の死は武人としては決して不幸せではない。主君を、身をていして守ったことは名誉なことであるし、女に抱きしめられて死ぬというのは戦に生きる武人ならあり得ないことだ。たいていは半死に状態で打ち捨てられ、苦しみながら空を見上げて死ぬのが運命だ。そして首だけ取られて骸は野原にうち捨てられ、ゆっくりと腐っていく。その後に誰も名前すら覚えていてはくれない。

 雄元は袖で顔を拭った。彼の瞳からはもう涙は消えていた。陶羽がそうだったように、雄元もまた自分の任務に忠実でなければならなかった。泣いている間は今はない。

「興軍を追撃する」

 全軍に告げた。

「蘇学を逃がすな!」

 一人の将が一万の兵になる。雄元は形を崩して逃げて行く興軍に向けて兵を動かした。


5

 春、絽陽の王宮で興王、英が見た光景は亡き寧公が見た光景と同じだっただろう。いや、それ以上だったに違いない。四方を囲む兵士たちが、唸り声を上げて剣で盾を叩いてひしめいていたのだから。角笛が高らかに鳴り、武人たちの鎧が黒光りしていた。寧の遺臣や、各地の反乱兵を巻き込んで、雪だるまのように膨れ上がったその数、なんと十万。

「いよいよだな」

 攻城戦は雄元の得意な戦闘だ。

 まずは蜘蛛の子一匹、城から出られないように包囲して兵糧攻めにする。そして食糧がつきて弱ってきたところに和平の使者を送り、城内を反対派と賛成派に二つに分けて内部で分裂させ、戦意をなくさせる。そして最後に本格的に軍を動かして四方から城を攻めるというものだ。

 しかし、その手は蘇学がよく知っている。

 戦意が失われる前に、絽陽の宮殿は動いた。時間がたてばたつほど不利になるのが分かっているからだ。だから決戦は雄元が計画していたよりよっぽど早く始まった。敵兵はすでに城壁で弓を構え、石を上から落とす準備を始めており、王宮の者たちは、徹底して王を守る覚悟で臨んでいた。

「食事をする余裕もなかったでしょう」

 戦場ではあまり役に立たない琥珀が、後方で飯を炊かせたおかげで、腹の虫が鳴かなくてすんだ。しかも十万の兵の兵糧をすべて琥珀が調達してきたというのだから、そういう意味では恐ろしく役に立つ男だ。

「気が利く男が一人いるのは助かるよ」

「塩と水だけで生きていけるのは、将軍とその直属の配下だけですからね」

「まったくだ」

 歩兵は疲れ切っているはずだった。

 休めると思っていたところに、また戦。それは向こうも同じだろうが、守備よりも攻める方が力がいる。戦意を常に保つには飯が一番。多少の酒を飲ませれば、臆病風を吹き飛ばし、兵士たちは勇猛に戦う。

「その他の物も用意してあります」

 大きな丸太がいくつもあった。門を破るのに必要で、矢も剣も戦場に拾わせに行き、十分に必要な数を揃えてくれてある。

「お前を抱きしめたいぐらいの気持ちだ。亡き寧公の気持ちがやっと分かったよ」

「ははは。それはまたいつかにしてください。我が君がこちらを見ています」

 雄元ははっと振り返った。そこには呂雲がいるばかりで玉兎の姿はない。担がれた! 睨みつけてやると琥珀は笑った。しかし、こういう明るい空気は悪くない。存分に食事にありつけた兵士たちも笑い合っている。

「さて行くか。とらなければならない城がある」 

 食事が終われば戦が始まる。雄元は、琥珀の肩を叩くと指揮に戻るべく、剣を持った。

「日暮れか」

 落暉が煌々と赤く空を染めていた。闇は近い。戦は夜になる。けが人は増え、戦は厳しいものになるだろう。だが雄元には夜戦の経験が何度かあり、自信があった。必ず勝って、城を落としてみせる。彼はそう誓うと剣を高々と掲げた。


「開戦! 開戦!」

 背に令の旗を背負った軍令が一迅の風を伴って駆け抜けて行った。銅鼓が高らかに鳴り、夜の闇を破る。男たちは、胸を叩いて己を鼓舞し、松明の下で戦に備えた。

「行け!」

 兵車の上で雄元は剣を抜いて言った。うおおと低く咆えながら城の四方を囲っていた全軍の兵士たちが一斉に走り出す。目指すは絽陽の都。この中原(せかい)で一番、栄えている場所だ。

 ――必ず落としてみせる。

 雄元の剣を持つ手に力が入った。ぐっと握って離せずにいると、ふいに春風のようないい香りがして振り向けば、銀の鎧を纏った玉兎がいた。

「始まったのね」

「ああ。必ず、日の出前に絽陽を落としてみせる」

 怒号、剣が合わさる高い音、叫び声が、空を切る矢が一斉に敵に向かっていった。雄元は玉兎の頬に接吻すると、その瞳に映る自分を見つめたまま言った。

「生きて帰ってくる」

「死にはしないわ。お前の星は、北辰。南から北へと攻めれば必ず勝てる」

「見ていてくれ。どう俺が戦うか。お前のためにどう命をかけるのか」

「ええ。見ている。目は決して離さない」

 玉兎は頷き、彼の懐に翡翠のかんざしを忍ばせた。何度もなくなりながらも必ず戻ってきたものだ。何よりのお守りで、雄元はそれが収められた胸をなでて見せた。

「行ってくる」

「ええ」

 彼女は天に加護を祈る呪を唱えてくれた。それを背に感じながら雄元は馬の腹を蹴って走りだす。

「中軍も動け!」

 剣が月光に白く輝き、馬は前しか見ずに駆けてめざすのは南門。甕城で落としにくいが、雄元に不可能はない。門から出てきた兵士たちの隊列を崩すべく、次々と騎兵を斬り、雑魚の歩兵は後方に任せる。

「裏切り者めが!」

 そこに蘇学が、雄元に怒鳴りながら、剣を揮ってきたではないか。酒を何度も飲んだ間柄で、父の代からの忠臣だといっていい。それでも雄元は容赦はしなかった。玉兎の視線を背後に感じたからだ。行く手を阻む者は斬らなければならない。そしてそれは相手も同じだ。

「なぜ、裏切られたのじゃ! なぜ!」

 剣が合わさり、力で押し合いながら、蘇学は言った。雄元は押し戻した。

「正しいと思う道を進んでいるだけだ」

「正しい? 主君を裏切ることが正しいことですと⁈」

「ああ。そうだ。天命のない人間は王になるべきでない。俺は不忠と言われても、戦ばかりしているこの国を変えたいと思っていた。しかし、それは内にいてはできない!」

「謀反人が! よくそんなことをほざく!」

 蘇学は確実に雄元の頭を狙って剣を掲げた。雄元は危機一髪それを避けると、斜め下から老将の脇腹を狙う。相手も年を感じない戦いぶりで、雄元の肩を剣でかすめた。

「死ね!」

 蘇学が雄元の左胸を突こうするも、彼は軽々とそれをかわし、左右を見た。石が城壁から落ちてくるというのに部下たちはひるまずに、雲梯を前へ前へと運び、城壁へ昇ろうとしている。雄元は老将と感傷に浸っている時間はなかった。

「天命は我らにある」

 その瞬間、雄元は蘇学の首を斬り、顔が血で染まったのを腕を拭くと、馬を叱咤した。

「進め! 天命は我らにある!」

 梯子が無数、城壁に並べられ、落ちても落ちても兵士たちはそれを上る。遠くから見れば、黒い塊でしかない。しかし点の一つ一つが命だ。きっと魂がなかったらなんてことないことだろう。しかし、魂はしっかり彼の中にあった。どこも怪我などしていないというのに、仲間の死と老将の死に胸が痛くてならない。

 ――玉兎、見ていてくれているか。

 雄元は死骸に突き刺されたままだった戈を馬上から拾い上げると、呂雲に斬りかかろうとした兵士の背に投げた。

「将軍!」

「門だ! 門を開け!」

「はっ!」

 丸太が門を打ち付け始め、木戸は鈍い音を立て始めた。夜明けは近い。最後のひと押しで勝敗は決まる。雄元はなんとしても勝たなければならなかった。


「神官は何と言っているのだ」

「それがなんとも……」

 興王英は、あらゆる神々に貢ぎ物を捧げ、そして亀の甲羅を焼かせて占わせたが、良い卜兆はでなかった。西からは西夷が攻めて来ており、逃げるのなら宛や極といった小国に行くことが考れられたが、臣下は離反して宮殿から逃げ出す者も出ており、城の中は騒然として王が逃げる先もなかなか決まらない。

 それでもいったん体勢を整えてから雄元と干戈を交えると決まり、戦支度をしていると陶太后が現れた。

「大王よ。逃げるのです」

「母上」

「宛に逃げてそこで再起を図るのです」

 彼女の言葉は、回りくどい神官たちの言葉より明確に未来を指し示した。英は望んで王位についたわけではない。陶雄元や母である陶太后に擁され王になり、そして殺される。 ――それはあまりに理不尽すぎる人生ではないか。やはり、母上の言うとおり、国璽とともに遠い国へ行き、再び国を興す――それこそ寡のすべきことではないか。

「ご心配あそばすな。この母がここに残ります」

「母上、しかしながら――母上もともに参りましょう」

「母は行けません。雄元は一人を殺すことで万を生かせるのなら、血縁など関係なく殺すでしょう。東門から総攻撃をかけて活路を見出す作戦を行います。その隙に逃げるのです」

 彼女は剣を王に渡した。

「お逃げなさい、大王よ」

「母上を置いてはいけません」

 英は剣の重さに戸惑いを浮かべたが、選択はなかった。冕冠をかぶった日から彼は王で、王でありながら無力であったことが罪だったのだ。これは民を一度たりとも顧みなかった罰であり、運命に従順すぎたことの報いなのだった。だから今の彼には選択は一つしかなかった。興国の王として逃げることが。たとえ卑怯と臣下と民から誹りを受けたとしても。

 月光の下、庭を見下ろすと、先王の時代には見かけなかった青い雑草が石の合間から顔を出していた。春なのだと英は思った。

 門を破ろうとする丸太の音が、残りの時を数えているように聞こえた。


 絽陽の王宮の北門扉を開いたのは、卿でも大夫でもなかった。

 二人の少女が砂塵が舞い上がる中を着飾って現れた。王が即位する際に女官が着る正装を身につけ、髪に挿した簪の数に二人の頭が悲しく傾いでいた。それは、薄汚れた両軍の兵の目には、幻の世界からやってきた仙女のように見えたかもしれない。

「申し上げます。陶太后さまは偉大なる寧の公に興の国と城、そして蔵の宝物を奉じたいと申しております」

  玉兔の前に跪いて額ずいた少女の名は香。 絹の上に書かれた興の地図を呂雲の手に渡したのは、妹の莠。二人は透き通る声で言った。

「寧公のお慈悲にすがりまして、どうか臣と民の命を、太后の血をもってあがなって下さいますようにお願い申し上げます」

 玉兔は金の冠を微動だにせず二人を見下ろした。

「あい分かった」

 玉兔は喜びも悲しみも顔に浮かべなかった。平邑を立ってはや二ヶ月。感慨の方が強かった。それでもそれがこうして現実になると、天意の力の強さというものを感じて身につまされる。天は時に残酷で、運命は無慈悲だ。嵐のような人間(じんかん)で生きぬくことは容易ではない。

「おめでとうございます」

 玉兔の足下の男たちが次々に祝いの言葉を述べた。

 一国の滅び。

 それは寧の時もそうだが、実にあっけないものかもしれない。

「大変です!」

 しかし、その喜びはすぐに早計だったことを琥珀の報告で知る。英が宮殿のどこにもおらず、東門からいつの間にか残兵に紛れて逃げていたというのだ。雄元が舌打ちした音が玉兎にも聞こえた。香と莠が現れたのは注目をそちらに向けるためのものだったのだ。

「追わなければ!」

 玉兎は言った。

 追わなければ、きっと何かが起きる。太陽の光のない夜で、しかも血に穢れた身には未来は視えなかったが、それだけは明白だった。後の憂いを残してはならない。

「追って! 雄元!」

 玉兎も馬に乗った。剣を持ち、重い鎧を着て。ただし、兜はしていなかった。いつの間にか長い髪が解けて風に靡いたが、結び直すこともなく英を捕まえるべく大地を駆ける。向こうは徒歩だ。必ず追いつける。逃げるなら同盟国の――いや、属国の宛しかない。そこへ通じる道はすぐに封鎖され、しらみつぶしに探される。

 やがて呂雲が報告に戻って来た。

「どうやらここから東に二里のところを逃亡中とのことです」

 聞けば幼い息子と妃も一緒だという。矢が飛ぶ中を逃げ回り、まだ捕まってはいないらしい。

 玉兎は馬首を横道に向けた。

 そしてどれくらい走ったことだろう。

 四方を兵士に囲まれた英がいた。玉兎の父のように冕冠に黄金の衣、宝剣を持つ代わりに歩兵の鎧にありふれた剣を持ち、麻衣に身をやつした妃と息子を守ろうとしていた。もう一人、細身の兵士の姿をしているのは公主蓮杏か――。

 玉兎は眩暈を覚える。寧が滅んだときと、まったく君主たる気概が違うのに、状況が似過ぎている。助けてやりたいと思った。せめて幼い子供だけは――。

 それは雄元とて同じことだろう。心が揺れているのが玉兎にもわかった。英の運命は離宮で手を掴まれたときから知っていたが、こんな風に自分をも追い込まれるとは玉兎も思ってもいなかった。

「息子だけは助けてほしい。奴婢でもいい。生きているだけでいいから」

「…………」

 雄元もなにも言わない。玉兎も口を開けなかった。呂雲はどうしたものかわからずにただ英に剣を向けるだけ。迷うことはつまり許すことではないだろうか。玉兎は言おうとした。「子供だけこちらに渡すように――」と。

 しかし――。

 真っ暗な闇の中から白い衣を着た一団が現れた。微笑がわずかな月明かりに照らされて玉兎に向けられる。

「公主。なりません」

 隷だった。

「その四人はこちらに渡していただきます」

 四人は雄元の親族だ。処罰するにしてもこちらで決めなければならない。玉兎は首を振る。

「だめよ」

「私は英がここを通るのを神託で知っていました。だから兵を配置したのです。すでに五千の兵がここを遠巻きにしています。渡してくれないと公主がおっしゃるなら、あなたの命もいただく他ありません」

「隷!」

 雄元があたりを見回し、隷に近づこうとした玉兎の腕を掴んだ。

「やめろ、玉兎。隷の臣下の王功ががあそこにいる。気をつけろ。公子隷ははったりをかましているんじゃない」

 小勢で来てしまった玉兎は後悔したが、もう遅い。幸運なことは隷の殺意は玉兎に向いてはいないということだけだ。

 隷はおもむろに英を見て微笑んだ。

「確か、孫のあなたも知っているはずだ。どのように先々王は王位を簒奪したか」

 英の顔が蒼白になった。

「王の再従弟でしかなかった人がなぜ、王位についたのか。正統な太子がいたにも関わらず――なぜそんな継承がされたのか――」

 隷が言葉を切って冷たい目を向けた。

「あの宴の日――新年を祝った明るい日。あなたの祖父は、酒に酔いしれる王族たちのもとに兵を差し向けた。そしてまず、太子である兄の首根っこを掴んだ。そして譲位しなければ、兄を殺すと脅した。たしか――兄はまだ十四、十五だったかと思う」

 英の側に寄ると隷は彼の子の襟を掴むと自分の方へと引き寄せた。未だに隷が自分の味方であると信じているのか、英はそれに動けずに見ていて、母親の妃だけが手を伸ばして息子を取り戻そうとしていた。

「父は玉璽を渡した。しかし、兄は一刀の下で命を奪われた――」

「だめ!」

 玉兎が言う前に隷の剣は月影に煌めき、子供を刺し殺した。どさりと地に落ちる小さな骸。玉兎の腕を雄元が更に強く掴んで離さない。

「次は誰だったか――」

 英とその妃は子供の骸を抱きしめた。「なぜだ」とか「こんな幼い子供になんの罪が」とか二人は言っていたけれど、隷の耳には届いている様子はない。声音が更に冷え冷えとするだけだ。

「次は姉だったように思います。姉は兵士に辱められたのちに殺されました」

「…………」

 英が隷を仰ぎ見た。憎しみと恐怖、そして彼を解き放ってしまった後悔がその目に見える。公主蓮杏が連れて行かれる。

「止めて、隷!」

 玉兎は兵士を止めようとその腕を掴んだが、危険すぎると判断した雄元に止められた。

「なぜ……なぜ……」

 玉兎は泣きだしてしまった。隷が振り返って悲しそうに玉兎に近づくと血で濡れた手で彼女の頬を撫でた。

「私は復讐という呪縛にはまってしまったのです。長い年月、離宮にとらわれて過ぎてしまったから」

「でも――幼子や公主蓮杏になんの罪が……」

「泣かないで、公主。あなたが泣くと雨が降るから」

「隷!」

「言ったでしょう? 隷属するのはそれを肯定しているのと同じことだと。時として弱さや愚かさも罪なのだと」

「意味がまったくわからない!」

 隷は再び悲しげに微笑み、同意を求めるように雄元を見たが、彼もなにもいわなかった。

「やめて――隷……」

 しかし、もう玉兎の言葉さえ隷には届かなかった。彼は月の光と同じくらい冷たい目で英を見ると、唇を歪めた。

「父はどう亡くなったか――ああ。私を逃がした母が殺されそうになると、母を殺してから自害しました。たしか、そんな最期でしたね。私も子供の頃のことなので記憶が曖昧ですが――」

 玉兎は身震いしたが、英は決意したかのように立ち上がると剣を握った。誰よりも天を崇めていた君主が英だった。玉兎はてっきり巫覡に自死を促されて、それに従うものだと思った。しかし、彼は抗った。「天」からの声に――。

「いええい!」

 かけ声とともに、英はこちらに駆けて来て、隷に斬り込んだのだ。しかしその前にいた王功ほか七人ほどの兵が一斉に剣を抜いて斬った。血が飛び隷の顔をもびっしょりと濡らした。

「あ、ああ……」

 苦悶の表情が英の顔に現れ、剣に串刺しにされたまま息絶えると、やがて口から血を垂らし、歩兵の姿のまま足蹴りされて地に捨てられた。

 ――ついに隷の復讐は完結したんだわ……。

 しかしその張本人はただ無表情に英の死体を見下ろしていた。

 最後に残ったのは英の妃だ。

 憎しみの瞳を隷だけでなく玉兎や雄元にも向けて見渡してから英が落とした剣を拾って自刎した。それで初めて悲しみを隷は表した。

「我が家族はこうして亡くなったのですよ、公主」

 もう玉兎から言葉は出なかった。ただ訊ねた。

「わたしたちはどうするの?」

「あなたは私を解放してくれた。ただ、あなたの運命の先になにがあるのかは、もう視えない。それはもう九つの太陽の仕事ではなく、あなた次第でしょう」

「……わたしたちを殺さないの?」

「私はこれでも巫覡だ。いらぬ殺しはしません。陶雄元のようにはね」

 戦をしている玉兎や雄元を揶揄するように隷は口の端を上げた。そうかもしれないと玉兎は思う。興国の王族を殺した隷と戦で何千という犠牲を出している玉兎たちのどちらが残酷なのか。それを比べていいものかわからない。

「では。またいつか」

 隷は剣を納めると、英の首だけ斬り落として騎乗の人となった。慌てて玉兎は蓮杏を捜したが、無残な死体が残っているだけだった。

「九つの太陽がなぜ天から落とされたのかわかったわ……」

 玉兎は朝日が昇り始めた東の地平線を見つめた。雄元がそれを抱きしめる。

「言ったじゃないか。お前は運命から逆らってでも強く生きると」

「……強く……生きるのは辛いことよ」

「だが、もう決めたことだ。後ろを振り返ることはできない。そうだろ?」

 玉兎は「運命なんて信じない」と以前のように言葉にしてみた。少し心強くなり、かつて言ったときとは違う気持ちになるから不思議だ。

「せめて、死んだ人を厚く埋葬してあげて」

 玉兎が言えるのはそれだけだった。それ以上なにが言えようか。囚われの公子だった九つの太陽が復讐を果たし、玉兎はかつての地位を取り戻した。滅びる者もいれれば栄える者もいる。寧の滅びはつい昨日のことのようなのに――。

 それから玉兎はどうやって絽陽の宮殿に戻ったのかわからない。気づいたときには着替えて化粧を老女の菜季によって施されていた。やつれた顔は化粧によってわからないように白粉をはたかれ、赤い口紅は意志の強さのように鮮やかに引かれた。

「我が君」

 玉兎たちが宮殿に戻ると、明るい顔の琥珀がいて、戦勝の宴は既に用意されており、彼女が帰ってくるのを待っていたという。賑やかな声が大広間からし、興国の宮女たちは戦々恐々と酒を運んでいる。玉兎の足が止まった。

「感傷にひたるな、玉兎」

 すると足音もせずに気配が玉兎の後ろに止まった。振り向かずともわかる。雄元だ。いつもは優しい人が厳しい声を出した。

「喜ばなければならない」

 玉兎は瞳を揺らした。

「お前は寧の君主で、我らは今日のために命をかけたのだからな」

「……わかっているわ。そんなことぐらい……」

「なら兵士たちを労い、笑顔を見せろ。苦しくてもそれが君主というものだ。これは戦勝の宴だ。いいな?」

 玉兎は泣きたくなった。

 笑えないときに笑えという雄元が、憎たらしい。

 死んでいった者たちの魂の欠片はそこかしこに浮遊して、行き場を失っているのを感じる。それを眺めながら酒を飲むなど悪趣味でしかない。

 でも――。

 玉兎は陶羽を、李敬健を、そして名も知らない兵士たちの顔を思い出した。俺たちはなんのために死んだのか。そう言われている気がして広間の中に入ると、まずは呂雲の前に立った。手には酒壺。妓女のように酌などせぬという気高い少女が彼の杯に寧のにごり酒を注いだ。あっけに取られている呂雲を横目に、彼女は臣下のひとりひとりに酒をついで回った。険しい顔はいつものことだし、ねぎらいの言葉など思い浮かびもしない。できることは無言で酒を注ぐことで、玉兎をよく知っている臣下たちはその杯に主君の精一杯を感じてくれただろう

「もう少しがんばるんだ、玉兎。そうしたらたくさん慰めてやろう」

 雄元の指先がそっと彼女の腰に伸び、やさしく労った。


「玉兔。どうした」

 絽陽の王宮の高楼で再び雄元は、玉兔の身体を抱えて、その巨大な国を望めるようになった。しかし、彼女のかんばせに明るさは戻らない。英の死にともなって、中原で王と自らを名乗る者はいなくなり、彼女は寧公から寧王と呼ばれるようになったのにだ。牢にいた陶太后の自死も影響しているかもしれない。

「玉兔?」

 それでもこうして二人きりのとき、彼女は『玉兔』だ。人がいる時は努めて、王としての威厳をその眉間にたたえているが、まわりに雄元だけになると、その不安と少女らしい尖った唇を向けた。

「寧に帰りたい」

 五千の守備兵の奮闘空しく、寧の地は西夷によって現在治められている。雄元は寧の地を他の土地との交換を西夷に申し入れようと考えているが、彼らがそれにどう反応するのか分からなかった。

「ここは名前が寧っていうだけで、寧じゃない。これは私の望んでいたのとは違う」

「すまない、玉兔。もう少し時間をくれ」

 雄元は彼女に心から詫びた。玉兔の望むことはただ一つ、あの北西の小さな国に帰ること。それは雄元にとっても同じだった。約束された彼女の心を得るには、彼はなんとしても寧を奪還しなければならない。

 軍を西夷にやろうかとも考えている。玉兔は無駄な血を流すことは好まないが、交渉が決裂すれば雄元は旗を背に戦うことも厭わない決意でいた。

「隷はどうしているかしら」

「金烏公子か」

「さあな。架国を『興国』と改名して国の再建を試みているようだが、詳細は不明だ」

 隷が率いる国はだんだんと勢力を伸ばして、周辺国と小さな衝突を東で繰り返していた。それは神秘的な力に支えられている戦だった。鑿歯(さくし)と呼ばれる伝説の悪獣を操っているともっぱらの噂で、時に幻術を使って人を狂わせ、時に悪獣や狼たちに人を喰わせて戦うという。

「心配」

「焦っているんだ」

 金烏宮に長い間住んでいた巫覡は、その身体から老いを忘れていた。そこから出れば、人の命はまたたきのように短く儚い。ひしひしと迫り来る『時』という敵から攻められている隷は、神域にいた時とは違う思考を持たねばならないのかもしれない。

 本来なら神獣たちが彼に集っても不思議でない。それなのに、悪獣を使う彼に天はいつまでその尊い天意を授けてくれるのか。

「東の空が暗闇に霞んで視える」

 雄元には隷という人が一体何を望んでいたのか全く理解出来なかった。父母を殺した者たちに対する復讐だったのはもちろんだが、その先を考えていないほどの愚かな人ではなかったはず。

「申し上げます」

「なんだ」

「西夷の使者が王に拝謁賜りたく参っております」

「分かった、今行く」

 雄元は玉兔を腕から解き放ち、一歩離れたところで拝手した。彼らはもう『玉兔』と『雄元』ではなくなり、『王』と『臣下』となったのだ。王の瞳からは甘えが消えた。背筋がすっと伸び、顎が小さく上がった。

「我が君にお約束いたしました通り、命をかけてこの雄元、寧の故地を取り戻しておみせします」

 玉兔はそれに軽く頷いて、その場を離れた。

 雄元は、彼女の背を抱きしめてやりたいのをぐっと我慢すると、異国の使者に会いに踵を返す。話は和議の件だ。玉兎は戦ではなく、話し合いで領土問題やその他、各国の問題を決めたいと思っている。それは決して容易いことではないが、試す価値はある。各国も寧の脅威にビクビクと亀のようにいつまでも首をつぼめているわけにはいかないだろう。必ず招聘に応じる。

「上手くいけばいいんだがな」

「御意」

 呂雲が横でうなずき、雄元は腕の見せどころに息を大きく吐く。玉兎の描く国は美しい。それを抱けるのは玉兎しかおらず、成し得るのは雄元しかいない。必ず成功させなければならなかった。

 ――待っていてくれ、玉兎……。

 そして長い論議と折衝の末、西夷と寧が会盟をすると決まった。

 絽陽より南の地、花冠という地が選ばれた。興国の古都だ。水が南北に流れ、秋になれば肥沃な大地に稲が金色の穂を垂れる。最も美しい春に行おうという返答に雄元は胸を撫で下ろした。

「何があるか分かりません。兵を連れて行くべきです」

 琥珀の進言を入れて、花冠には一万の兵を雄元はともなうことにした。西夷や他の諸候も同じように兵を連れてくるだろう。

「寧国は豊かな土地です。簡単に西夷は諦めるでしょうか」

「諦めてもらわねば困る」

「金烏公子も現れるかもしれません。我らも巫覡を沢山連れて行った方がよろしいのではありませんか」

 雄元は琥珀が勧めることは大抵頷いて見せるが、巫覡を花冠に連れて行くことには首を横に振った。巫覡を何人も連れて行ってもあの公子の前には何の役にも立たないだろうことは、目にみえている。

「会盟の日の吉凶はいかがでしたか」

「占っていない」

「また占ってないのですか。ここのところ我が君は卜占を疎かにしている」

「我が君は天の意向は必要ないとおっしゃっている。地は人の治める場所である。天がその吉凶を決めるべきではない」

 寧人の琥珀は誰よりも天に忠実だ。しかし、先の河水での戦いでも見たように、玉兔は神権政治から脱することを強く望んでいた。人は人の法で国を治めたいという雄元の意向でもあった。琥珀はその意義の重要性を十分理解はしてくれていたが、心のどこかに不安も持っているようだった。人間は天の絶対的な支配から脱せられるのか。

「案ずるな。我が君は九つの太陽。天帝の御子である」

「はい」

 隷と玉兔は実に対照的な巫覡であると、雄元は思った。一方は、実に強く神や天の力をその国を築くのに用い、もう一方は吉凶さえ占いもしない。

「将軍」

「なんだ」

「王が、巫女でなくなるような時が来るなどいうことは起きますまいな」

 玉兔が巫女でなくなることなど簡単なことだ。雄元がそれを望みさえすればいい。一つの床に寝起きする二人がそうならない方が不思議なのだから。

「それこそ天のみぞ知るだ」

 雄元がこういう時ばかり『天』という言葉を使って誤摩化したことに、琥珀は腹を立てた。雄元は、だからむすりとした顔を上げた琥珀に、そういう日はきっと来るさと笑みを浮かべてみせてやった。すると琥珀がため息を大げさに吐く。

「それでは我らはこれから何を信じればよろしいのですか」

「お前はお前を信じればいい」

 琥珀の目が上向いた。

「そして我が君を信じていればいい。巫女でなくともあの人はよき君主であり続けるだろう。それをお前も知っているはずだ、琥珀」

 寧という国は九つの太陽の力をもってしても一度滅んでいる。興も二人も天帝の子を捕まえながら、砂城のように風の流れとともに崩れていった。

「私は、寧の城が燃え上がり、九天に煙が上って行くのを見たとき、天を恨みましたよ。寧はどの国よりも天を祀ることを疎かにはしなかったのに、なぜだと叫んだものです」 

「天は我らに時代を変えさせたのだ」

「人が人を信じる時代ですか」

「天に支配されず、己を信じて生きていく時代だ」

 雄元は琥珀の肩に手を置いた。

「我が君は千年と名を刻む名君とおなりになるだろう」

「御意」

 顔を上げた琥珀の顔にもう迷いはなかった。

 そして、雄元は一人になり、書類に目を落とした。玉兎が王だが、彼女は実務というものに長けていない。どうしても彼が代わりにやらなければならないことは多かった。軍事的なこと、内政、外交。どれも今までになく複雑で煩雑であるのに、人の数がたりない。しかし琥珀の「巫女でなくなるような時は」という言葉を思い出すと、忙しい手が必然的に止まる。

「どうしたものか」

 毎夜のように二人は危うい間にいて互いに情欲を満たしている。巫女であることを失うこと以外は雄元はもうしているから、天罰が下ってもおかしくはない。それでも二人は止められることができず、昨夜も雄元は危うく玉兎を巫覡からただ人にしてしまうところだった。

「もっと、して」

 雄元は昨夜の玉兎を思い出して唇に触れた。昼間の彼女はつれないが、夜の玉兎は艶がある。白い肢体は神々しいまでに美しく曲線を描いており、唇はうっすらと開いたまま接吻をねだる。そんなことをされれば男はすべてを与えてしまいたくなるものだ。

「なにをニタニタしているの」

 声がして見れば玉兎だった。雄元は苦笑した。

「玉兎のことを考えていた」

「気持ち悪いわ」

 あからさまな嫌な顔。

「もっとやさしくしてくれてもいいだろう? 昨日の夜のように」

 彼女はフンと鼻を鳴らした。そして「そんなことより」という。彼女は会盟のことを切り出した。会盟とは覇者が諸侯を招いて盟約を結ぶ場であり、諸侯が出席して覇者と認められ、また各国に影響力を持つ。呼びかけて誰も集まらないではそれこそ恥だ。なんとしても集めなければならない。

「どうなったの?」

「西夷からは既に出席すると返事があった。西夷王も寧の土地のことで話さなければならないから必ず来るだろう。あと小国も来るという返答があった」

「そう。隷は?」

「公子隷のいる新しい興国は、国自体が安定していないから難しいかもしれないな」

 玉兎が肩を落とした。彼女は隷を嫌っているのに、どこかで隷を半身のように思っている。それは九つの太陽という深い繋がりのせいかもしれなかった。だだそれは雄元の嫉妬を誘って、彼は玉兎の腕を掴んだと思うと自分の胸の中に押し込めた。

「他の男のことを考えるな」

「横暴ね」

「俺はお前の男だ。そして必ず、その心を貰って夫となる」

 言霊にして成さなかったことは雄元には一度もない。彼は椅子に座ったまま少女を抱きしめた。彼女は「ばかな男」と耳元で呟いたけれど、その首に接吻をする「ばかな男」を拒否しはしなかった。

「会盟は必ず成功させる。そして寧の故地は取り返し、お前の領土にしてみせる」

「雄元……」

「だから、だからそれまでは他の男のことを考えるな」

 玉兎はなにも言わなかった。その代わり、口づけをした。深い口付けでそれはあたかも「お願い。あなたの妻にして」と言っているようでもあり「できるものならやってみなさい」と言っているようでもある。雄元は男としてこればかりはなし得なければならないと心に誓い、女の肢体を自分の膝の上に載せた。

「愛している、玉兎」

 彼は今夜もまた苦しい夜を迎える。

 花冠の会盟へと向かう玉兔の衣は紫だった。鳳凰が刺繍されたそれに金の簪は映えている。雄元はそれを眩しく見た。

「それは琥珀が選んだ衣だろう」

「そうだけど?」

 雄元は微笑んだ。以前は巫女姫らしく白ばかりを玉兔に着せていた琥珀が、ここのところ紫や黄を彼女に着せるのは、人の目に映る王の印象を変える目的があるからだ。特に今日のこれは、華やかでいて品があり、そして威厳があった。

「だんだん奴は俺の趣味を理解してきたようだ」

「お前の趣味など関係ないわ」

「それにしても未だにその翠玉の簪をしているのだな」

 雄元が彼女の髪に触れると、顔を逸らして

「お前には関係ないわ」と言った。彼女の口ぐせで、それを言われる度に雄元は苦笑しながら、彼女を抱きしめてやりたくなる。

「花冠は美しいところだろ?」

「そうね」

 雄元に身体を包まれて馬に相乗りしている彼女が目を細めて田園を見た。

「とても穏やかだわ」

「今年は雨も多い。昨年のような飢饉もないだろう。お前の雨のおかげだ」

「やっとわたしの国だという気がしてきた」

「そう言うと思って、会盟の場所を花冠にしたんだ」

 しかし、雄元はすぐに明るい顔をしまった。丘の上に白い一団がいたのだ。

「公子隷か」

「会盟に来たのかしら」

「違うだろう。参加はせずと回答があった」

 玉兔はそれを聞くと雄元から手綱を奪った。後ろにいた兵が共に動き出そうとしたのを雄元は制して、二人だけで丘を登る。

「隷!」

 もう一度『隷』と声と声をかけようとした玉兔の声が止まった。白髪の巫覡の顔が酷く疲れて見えた。急に年を二十は急に加えたようにやつれ、よく見ると、彼に片手がない。

「玉兔公主」

「一体その腕はどうしたのよ」

「犬に噛まれたのです」

 そう言って微かに隷は唇を緩めてみたが、実のところは犬ではなく、 悪獣の鑿歯に噛まれたのだという。神獣はその神聖さゆえに戦などでは扱いが難しく、隷は悪獣を操って、周辺の民族などと戦っていたが、彼が自分の気の色が悪くなったのに気付いて祓おうとすると、彼の腕を噛みちぎったという。

「巫覡のあなたが穢れにまみれるからよ」

「そうかもしれません」

「戻って来る気はないの?」

 玉兎の言うとおり、金烏宮へ行けば、彼は穏やかに暮らせる。しかし、彼は首を横に振った。

「東で興を立て直すつもりです」

「そう。もしかしたらあなたに会える気がしてたの。興の宝を持っていくといいわ」

 雄元はただでくれてやる必要などないと言いたかったが、あえて玉兔の意に反しはしなかった。その代わりずっと心に引っかかっていたことを尋ねた。

「公子隷。本当のところあなたの望みは何だったのですか?」

 彼は、寧を滅ぼし、そして興を滅ぼした。しかしいつわりの国を潰して正統な興国を興すというには、人らしい欲望や人格を欠落しているように雄元には思われてならない。

「そうですね――」

 足を止めた隷。

「玉兔公主の言葉を借りるならば、私もただ自由になりたかったのかもれません。復讐はその過程にしか過ぎなかった――」

 振り返った隷の顔に、雄元は彼の未来を視た。玉兎と繋いだ手から雄元の脳裏に漏れ入ってきたのだ。それは静かな山の中で芳しい草花が咲く桃源郷だった。はらはらと落ちていく花弁。良田に満ちる水。巫覡たちが何かを恐れずに暮らしていける場所だ。金烏宮の偽りの静寂ではなく、本当の意味で幽閑とした場所が、彼の抱く未来だった。

「いつかあなたの国を見せて欲しいわ」

「ええ。そのためにはもう少しがんばらねばなりませんが」

 雄元と玉兔は隷の去って行く姿をずっと見ていた。彼の理想には、巫覡としての犠牲を必要としている。隷の命がそれまで持つのだろうか。彼の背は「それでもやらなければならないのですよ」と言っているように小さくなった。


 草原の上に台(うてな)があった。

 風が草をなぎ倒していく。雄元は玉兎の手を取って、その階段を上った。髪が風に連れ去られ、玉兔が足を止めた。瞳を上げたそこに碧眼の男、伊士羅がいた。

「やっとまた会えましたね」

 彼が玉兎に目を細ると、鷹が彼の腕から玉兎の肩へと乗り移った。鋭い爪が愛おしい人の肩の肉を刺したが、玉兔は嘴をやさしく撫で、雄元に「可愛いでしょ」とまるで子猫でも肩に乗っているようにいう。

「鷹が好きなのか」

「この子はとても利口なのよ」

 甘やかされた公主さまだが、彼女は自然児でもある。西夷王が望むのも不思議ではない。伊士羅が雄元にも小さな会釈を送った。敵意はなく、自然な笑みだ。雄元は敵にするには惜しいと思った。おおらかで判断力もあり、そして懐も大きい。しかも同じ女に価値をみいだしているという不思議な共通点もある。できればいがみ合いたくはない相手だ。

「皆そろっている。おすわりになられよ、寧王、哲公」

 すでに他の小国、諸候が顔を揃えていた。それに加え、玉兔から哲公の爵位を与えられている陶雄元がその場に揃い、台の上に、七人の男と一人の女が初めて同じ席についた。

「西夷は我が国の領土を返して欲しい」

 やはりいちばんの議題は寧の地のこと。玉兎の悲願であり、雄元の今日、ここに来た目的でもある。それに対して、西夷王は顔を崩すことなく、西方三郡と交換してもよいと答えた。

「三郡もは無理」

 雄元はそれを飲んでもよいとさえ思ったが、彼が頷く前に玉兔は首を振った。

「一郡ならいいわ」

 伊士羅が玉兔の図々しさに笑った。しかし玉兎とはこういう人なのだ。一筋縄ではいかず、自分の思ったことは全部通ると思っているふしがある。我が強いから、交渉に関しては雄元さえ難しい。伊士羅もそんな彼女の性格は分かっていたから、思わず笑ったに違いない。

「寧王。それは少し要求が過ぎるというものです」

 西夷の王は、口元を引き締めた。

「一郡で話を飲んでちょうだい」

 譲らぬ玉兔に西夷王は挑発的な目を向ける。

「では条件があります。瑶凛姫が私の妻になってくださるというのなら、西偉は喜んで寧の故地をお返ししましょう」

 諸候はざわめきを見せ、雄元は『無礼な』と立ち上がった。しかし、伊士羅と玉兔だけはその瞳を合わせたまま動かなかった。唇をその沈黙から先に開いたのは玉兔だった。

「伊士羅、わたしがあなたの妻になれないのは知っていることじゃない」

「なぜです? 国は哲公にお譲りになればいい」

「これはわたしの国。それを捨てて西偉には行けない」

 王としてではなく、そのとき彼女は瑶凛だった。昔の恋人に諭す、そんな口ぶりで草原の記憶がそっと二人の頬を風と共に撫でていくようだった。

「でも」

「でも?」

「でも、寧は西偉の妻になるわ」

 玉兔の言葉に伊士羅は瞬きを忘れ、雄元は言葉を失った。かつて国同士が兄弟や親子の盃を交わした例はある。しかし、寧の王は西偉に夫婦の盃を交わそう言ったのだ。もちろん、中原の国々が西の蛮族と見下してきた西夷を夫として敬うと意味だ。

「西偉が病になれば、寧は看病をし、西偉が喉が渇いたといえば、寧が酒を注ぐわ。二つの国が夫婦となって、共に栄えるのが、私たちにとって一番の道ではない?」

 伊士羅は玉兔の提案にどう答えたらいいのか分からない様子だった。このままでは必ず西夷は寧と領土で争い犠牲を払うことになる。だが、彼女の案を受け入れれば、彼は中原においてどの国よりも優位に立つことになり、旧寧の土地を失ったぐらいでは得られぬ地位を築けるのだ。

「寧が我が妻になってくれるというのですか」

「そうよ」

「それはあなたのように手を焼く妻になりましょう」

「それを扱い切っての男というものじゃない」

 それはまるで挑戦だった。中原の覇である寧をお前は扱えるほどの男であるかと、問われて西夷の王は笑った。否とは言えない。

「せいぜい尻に引かれぬ夫にならなければなりませんね」

 伊士羅の視線が雄元に移った。

「ただ一つ。我が妻は瑶凛と決めていたのです。かつての寧の地を『瑶凛』と名付けてください。寧は大きくなりすぎた。紛らわしい」

「いいだろう」

「哲公、ご同情申し上げるよ」

 伊士羅は玉兔にしてやられたという思いからか、笑い出した。

『いや、申し訳ない』といいながら、伊士羅は笑い続ける。いつしか、それにつられたように玉兔の声が加わった。

「では夏にお返ししよう」

「ありがとう、伊士羅。そう言ってくれると思っていたわ」

 玉兔は伊士羅に凛とした礼を捧げた。


 西偉との約束の夏。

 雄元は玉兔と軍を率いて北西に向かった。かつて彼女を捕らえて旅した道を今度は反対へと騎馬で進む。乾いた土や草原は、同じ光景であるはずなのに、どれもあのとき見たのとは全く違って見えるから不思議だ。

「約束は憶えているか」

「なんの約束?」

 忘れたふりをした玉兔に雄元は鳥かごを見せた。

「お前、まさか!」

「そのまさかだ」

 雄元はあの誓いの白い鳩を捕まえていたのだ。玉兔は別の白鳩ではないかと籠に張り付いて見入ったが、確かにあのとき二人の誓いの紙が変化した鳥だと分かると驚愕に目を丸めた。

「どうして? どうやって?!」

「俺に不可能はない」

「それにしたって!」

 離宮のまわりの鳩を捕まえさせるぐらい、陶雄元には雑作もないことのように言ったが、実のところ、戦場でさえ弱音を吐かない呂雲が『一体この世に何万羽の鳥がいるとお思いか! お諦めください』と涙眼で進言したほど苦労した。しかし、それを知らない玉兔は用意周到な雄元に憎らしそうに顔を向ける。

「それほど嫌か」

「別に」

 雄元は苦笑した。夏空に無防備にさらされた玉兔の耳朶(じだ)をつまんだ。不機嫌そうな顔を作っているけれど、それは嬉しいときの裏返しの顔であるのを雄元はよく知っている。彼女は、ただどう自分の気持ちを表せばいいのか分からないだけなのだ。玉兎は大切にしている翡翠のかんざしを頭に挿した。あの日よりずっと碧く見えるから不思議で、空の青とは違う涼やかな色をしている。

「李敬建や、陶羽にも寧を見せてあげたかったわ……」

「特に陶羽は見たかっただろう。出兵もしたいと言っていたのに結局一度も来ることはかなわなかった」

「あの男ならいいそうね」

「でも李敬建は寧の美しさを知っていたよ。宮殿の建築の珍しさも、民の純朴さもその歴史さえも旅の途中によく話して聞かせてくれたものだ」

 玉兎が鼻をすすった。そしていつものように鼻をツンとさせ、口をへの字にして涙に耐えたかと思うと、雄元から顔を背けた。そして乾いた土がやがて緑の草となれば、涙を見られまいとする少女は、馬の腹を突然蹴った。走り出す駿馬を雄元は慌てて追いかける。夏の日差しは風にゆるみ、汗がさっと引いた。

「玉兎!」

 陶元は西偉王ではないけれど、馬には自信がある。倒れた木の幹を軽々と飛び越え、自分の馬を彼女の馬に併走させれば、赤い衣を翻す人にすぐに追いついた。

「玉兎、こっちを向け、玉兎」

 玉兎は人前では泣いたりしない。しかし悲しいのは同じ。

 彼女は彼の案じる声に馬脚を緩めた。

「玉兎」

 彼は愛する人の名を呼んだ。彼女は顔をそむけたまま馬上から手を差し伸べ、二人は指を絡ませて繋ぐ。

「わたし、大切な人がこれ以上死ぬのは嫌なの」

「知っている」

「戦も嫌い」

「知っている」

 玉兎がまっすぐに陶元を見た。大きな瞳に自分が映る。

「だからそういう国でなければならないのよ、寧は――」

「分かっているよ、玉兎」

 雄元は身を乗り出して玉兎の唇に接吻をした。後ろには数万の兵士がいるけれど、そんなことはどうでもいい。はやし立てる声もするのさえ、どうだっていい。今は誓いの鳩ではなく口づけがふさわしい。

 雄元は玉兎の描く未来を実現することが天命で、玉兎はその美しい理想を雄元に示し続けるのが天に課せられた命なのだ。それが生き残った者の務めである。玉兎の視線が丘の向こうへと向いた。見れば、陽炎の中から陶羽がにこやかに手をこちらに振っているではないか。その横には李敬建。後ろ手で微笑み、少しお辞儀をする。そして雄元も知らぬ名も無き兵士たちが何万と並び立ち、笑顔で旗を振っていた。

「視える?」

「ああ……視える。視えるよ、玉兎……」

「みんな、ずっと待っていたの。ここでずっと」

「ああ。手を振っている……」

 雄元も袖を大きく振るわせて手を振った。今度は雄元が鼻をすする番だった。戦場でも決して見せない涙が溢れ出てくる。つぎからつぎへとぽろぽろと――。

「みなの期待を裏切ってはならないわ」

「ああ。すべてをみんなが見ている」

 離合は儚いものだけれど、また逢える日は必ずくる。一人、また一人と夏の陽の中に消えていき、最後に残っていた李敬建さえ拝手を最後に光の中に吸い込まれていけば、ただの野原となった。そこはかつて寧と雄元が死闘を繰り返した野で、今も雨ざらしの骨たちが弔いを待っている場所だった――。

「魂を慰めてやらなければな」

「神事を行うわ」

「ああ。寧軍も興軍もここで多くを失った。失いすぎた」

 雄元はほほを肘で拭うと、むりやり白い歯を見せる。

「行こう、寧が俺たちを待っている!」

「ええ」

 玉兎も涙を溜めた瞳のまま言う。そしてもう一人手を振る人がいた。

「王! 『瑶凛』が見えてきました!」

 明るい顔の琥珀だ。丘の上を見やれば、燃え落ちたはずの寧の宮殿の屋根が見えた。伊士羅が妻である寧への贈り物として急ぎ造らせたのだ。雄元はその粋な計らいを鼻で笑ったが、瞳はやわらかだった。

「玉兔、約束は約束だ。心をくれるのだろう?」

「さあ。わたしの心はもうとっくにわたしのものじゃない。気づいていないの?」

 玉兔はそう言い残すと、馬の尻に鞭を打ち、宮殿へと馬を走らせた。しかしその頬が髪に飾られている紅玉の簪と同じぐらい赤かったのを雄元が見逃すはずはない。「待て!」と叫ぶ声がそれを追いかける。

 夏――。

 馬が踏みしめる草の匂い。

 草原の匂いとはこのことをいうのかもしれない。

        了  










  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

太陽の姫と落陽の国 朝田小夏 @coconut1111

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画