第五章 雪の旅路

五章

 興国は二つに割れた。

 正しくは陶一族が二つに割れたと言ってもよかった。王を押す陶太后に叔父である陶勝林の王派。そして絽陽にいる陶雄元の二派である。雄元は一時は離宮で王を幽閉するのに成功したものの、すぐに王は禁軍によって助け出され、離宮は王派に占拠された。

 雄元は絽陽にある軍の大部分を握っていたが、大義名分がない分、文官たちを丸め込む手だては少ない。

 一方、金烏宮にいる王派は、王に非礼を続ける雄元を討伐せよと皆息巻いていたが、陶勝林の臣である蘇学は未だ西方で西夷にあたっており、禁軍では数が少なく、現実に雄元に兵を向けるだけの力がない。

 必然的に刺客が雄元の元に飛ばされるようになった。

 ときどき雄元の枕元が騒がしくなり、それ以来、彼は玉兔をかたわらにおいて眠るようになった。

 横で寝ていた玉兔が先に殺気を感じて雄元を揺すぶって起こし、呂雲が王宮をしらみつぶしにする。

 食べ物にも細心の注意を払い、次第に忍び寄る敵に備えた。

 かといって、雄元がそんな状況に手をこまねいていたわけでもなく、湖に浮かぶ金烏宮への食の運搬を断たせていた。あとはどちらが先に耐えきれなくなるのか、我慢比べと言ってもいい。

「将軍、そろそろ和議を結んだらいかがですか」

 そう離宮よりやってきた陶羽は遠慮なく言った。雄元の代わりに李敬健が

「そちらが先に謝罪されれば考えましょう」と答えたのは当然のことだった。

「金烏公子が和解の仲裁を申し出てくれております。大王がお立場上将軍に謝罪できないのは、李敬健さまがよく分かっていらっしゃることでしょう」

 公子隷が離宮でのさばっている姿が雄元には目に浮かんでくる。善人面した恐ろしい男こそがあの巫覡なのだ。

「大王は兵に食物を譲り、一日一食しかお召し上がりになりません。冬が深まり、完全に西夷も引き、蘇学は帰国いたします。そうなれば立場は逆転します。私は王派に属してはおりますが、これは将軍のために申し上げているのです」

 雄元は陶羽の言葉を長椅子に横たわったまま聞いていた。年が改まるまでには蘇学は帰国するだろう。だが、それまで王は持つのだろうか。王が一日一食しか召し上がらないということは、かなり離宮内での米の備蓄が減っていることを表すし、同時にそれも厭わずに長期戦に備えているという態度のようにもみえる。

「近々、大王は金烏公子をこちらに差し向けることでしょう」

「金の足枷を外して、あの公子を自由にするというのか。愚かなことだ」

「では誰の言葉なら将軍は耳を傾けて下さるのですか。私とは面会してくださいますが、相手にして下さっているようには見えません」

 雄元は目を瞑った。夜よく眠れない。玉兔の寝息を聞いて心地よくはなっても、深い眠りにつくことはなかった。常に左に玉兔を抱きに右に剣を抱いていた。

 そして最近では、夢心地の中で寧の春に玉兔と花を愛でることや、草原を馬で駆けることを思い描くのが唯一の楽しみとなっている。それは玉兔が語る寧の世界であり、現実ではありえなかった。彼女の語る寧の宮殿は、既になく、灰にならずに残った柱だけがいくつか残っているだけだったし、彼女が馬を駆けた草原は、忘れ去れた兵の屍骸が野ざらしにされ、異臭を放っているだろう。

「正直、俺はもうこの国がどうなろうとどうでもいい」

「将軍」

「西夷がここを欲しいならくれてやれ。農民は反乱を繰り返し、王は臣を信用しない」

 李敬健が陶羽に『将軍はお疲れなのです。もうよろしいでしょう』と退席を促した。彼はため息を大きく一つついてから、立ち上がった。

「李敬健どの。将軍の説得を出来るのはあなただけだ。どうぞ、女一人のためにこのような愚かな対立を長引かせるようなこと止めて頂きたい」

「お父上にはよろしくお伝え下さいますよう」

「ではこれで失礼します」

 見送りに殿の外に出た李敬健に謝辞を述べると、陶羽は踵を返した。

 玉兎が「伊士羅の声がしない!」と言い出したのはその夜のことだ。西夷が、兵を引いて国に帰ったのだということは容易に想像できた雄元はすぐに軍師を呼んだ。

「お呼びとうかがいました」

「ああ。西夷が引いた」

「それは確かなことで?」

「さあ。それはお前が調べろ。玉兔の勘だ」

「いかがなさるおつもりで」

「和解する以外はないだろう」

「西夷が引いたと知らせが離宮になされる前に終わらせなければなりません」

 絽陽に王は御還し、雄元は軍の実権を失う可能性は高かった。

「お訊ねしてもよろしいですか」

「なんだ」

「王は和睦の証しとして蓮杏さまをお寄越しになるでしょう。お受け取りには?」

「致し方ない」

「では代わりに玉兔公主を王にお預けになれますか」

 人質の交換は絶対に必要なことだ。特に今回の亀裂が表面上、玉兔が原因であることを考えれば、雄元に選択の余地はない。渋っている間に蘇学が帰京すれば、困るのは雄元だ。

「あれは巫女だ。王に九つの太陽は渡せない。それぐらいなら西夷にくれてやる。一人の女に二十万も兵士を動かした西夷の方が誠実というものだ」

「……将軍、巫女ではやれぬと言うのなら、純潔を汚し普通の女にしてから王に渡せばよろしいでしょう。それならば、王に巨大な力をやらずにすみます」

 雄元は悩んだ。

 人間は全て望んだものを得られるとは限らない。時には妥協しなければならないものだ。今、雄元に求められているものは、まさにそれだった。

「私にとって将軍のお命こそ、最優先に考えねばならぬことです。忠実な臣として時には命令に背いてでも、将軍を守らねばなりません」

 李敬健は剣を抜いた。それを合図に彼の配下が部屋になだれ込んだ。

「敬健。お前は何をしているのか分かっているのか」

「どうか、将軍。私めに玉兔公主をお預け下さい。王との交渉はきっとそれで上手く行きます」

「これは裏切りだ、敬健」

「お怒りは最もです。ですが、これは興国のためであり、将軍の御立場のためなのです」

「お前は何も見えてはいない」

「一夜だけ時間を差し上げましょう。どうぞ巫女を人にしてやってください。明日には私が離宮に連れて行きます」

 男たちの激しい足音とともに、

「離せ! 無礼者!」という女の声が聞こえた。

「玉兔……」

 雄元は怒りで震え拳を握った。

「一体これはどういうことよ!」

「知るかっ!」

 雄元の袖を掴んだ玉兔を振るい払って、彼は閉じ込められた暗い室内を歩き出した。

 確かに李敬健の言うことは筋が通っている。王や太后は必ず雄元の忠誠の証しとして必ず玉兔を要求する。保身には必要な犠牲だ。冷静になればなるほど、彼の脳裏は冴えたが、彼にとって玉兔はもう半身のようなものだ。肉を割いて渡せと言われているに等しかった。

「心配するな。呂雲がそのうち動くだろう」

 それは楽観でしかなかった。

 だが、そう思い込むことにした。雄元は長椅子に座ると飲みかけていた酒を飲んだ。  そして日が落ちて窓の隙間からでさえ、光がもれなくなると、室外が騒いだが、それはやがて収まり、また沈黙のみが監禁されている二人に戻ってきた。呂雲が将軍奪回に失敗したのだろうと雄元は見当を付けて舌打ちしするも、どうすることも出来ない。朝になれば、李敬健は玉兔を王のもとに連れて行く。

 雄元は迷った。

 視線を上げれば、そこに玉兔がいる。後れ毛を気にしながら、肘掛けに身をもたれている姿は艶があり、これが、この女を抱ける最後の機会かもしれない迷いも起きる。

「玉兔。俺は迷っている。占って欲しい」

「無理よ。こんな真っ暗なところでは。月明かりさえ見えないわ」

「何か方法はないのか」

「何か捧げものが必要ね」

 雄元は『なんだそんなことか』と立ち上がると机の中から小刀を取り出した。

「なっ、何をする気よ!」

「目をえぐる」

 玉兔は顔を青ざめ慌てて腕にしがみついてそれを止めた。

「お前は馬鹿だわ」

「目はいい。二つある。一つなくても困らない」

「止めてよ、そんなこと。血が出るわ。私、血は嫌いなの」

「ではどうしろというんだ」

 玉兔は取り上げた小刀を握ったまま少し考えると、頭に付けた簪を雄元に手渡した。さらりと崩れ落ちる髪。夜の闇の中でさえ、それは光を放っている。

「玉兔、お前」

「髪はいい。伸びる。なくても困らない」

 雄元の口調を真似て彼女は長く伸びた髪を肩のあたりで切り落とした。後には

黒い房のような髪と、幼子のような断髪の玉兔があった。


「何をお前は占いたいというの」

 玉兔は雄元を見上げた。

「お前を今、抱くべきか否か」

 九つの太陽の巫女はその占いの理由を尋ねはしなかった。ただ、窓から一本だけ伸びる月明かりを見つけると、そこに髪の束を置いた。占いに必要な火もなく、焼く骨もない。

 それでも月に祈りを込める。

 床に跪いた玉兔の花鈿に月光の線が当たり、彼女の力を支えた。

「さあ、お前はどちらを選ぶ? 一つにだけ神意が入ってる。神意が入っている方を選べば、それは諾を意味する」

 玉兔の掌が二つが雄元の前に置かれた。

 彼は彼女の手に視線を落とし、そして玉兔のかんばせを見た。巫女の視線が静かにそっとに向かい合っている。白い手。黒い髪。雄元は選ばなかった。

「お前を王には渡すことはできない。そこまでして望む保身などない」

 そして玉兔の手首を掴むと、共に跪いたまま、彼はその白い手に唇を当てた。

「俺は激しく生きたい」

 美しい双眸が雄元を映した。

「北辰さえも俺の生き方にきっと動くだろう」

「雄元……」

「ついてきてくれないか」

「…………」

「ついて来てくれ、玉兎」

 玉兎はしばらく黙ってこちらを見ていたが、おもむろに頷いた。それで十分だ。他になにを求めるという? 雄元は希望が足元から湧いて出て来るのを感じると立ち上がった。

「どうするの?」

「逃げる」

「どうやって?」

 玉兔の問いに雄元は笑った。そしてその答えるより先に戸を蹴り倒した。兵が慌てて飛び入って来たのを彼は素早くかわすと、腰の剣を瞬く間に奪って相手の喉元を裂く。飛び散った血の量におののいた兵たちを雄元は次々に切り倒した。

「さあ、早く来い」

 差し出したのは真っ赤な血のついた手だった。

 巫女なら悲鳴を上げて逃げ出す死の穢れだ。しかし彼女はそれを迷わずとった。重なった掌は、指と指とが絡まる。それが玉兎の答えだった。雄元はこの状況でも頬を緩めた。

「しょせん李敬健の兵だ。体では戦わず頭を使おうとする。それがヤツの弱点だ」

 背中合わせに呼吸を合わせた時に雄元が言った。


「将軍っ! なにをなさっているのですか!」

 そしてすぐに李敬建が騒ぎを聞きつけて現れた。雄元と玉兔を囲う兵。死体が円を作って、兵がじりじりと遠巻きにしている。それは玉兔をかつて寧の宮殿で見つけたときのようだったが、今日は彼女は雄元と剣をともに手にしている。

「正気ですかっ!」

「ああ、俺はいたって正気だ、敬健」

 雄元は笑って言った。晴れやかな笑みで。

「俺の要求は二つだけだ。一つは呂雲。もうひとつは馬を三頭」

「将軍!」

「あとはお前の好きにしろ」

「将軍! またそれをここでおっしゃるのですか⁈」

 李敬健は唖然としていたが、やがて声を出して笑い出した。『お前の好きにしろ』と言いつつ、後始末の全てを雄元が押しつけるのは、いつものことだからだ。

「将軍、あなたには負けましたよ」

「何がおかしい」

「せいぜい時間稼ぎをいたしましょう」

 李敬健は兵に剣を下ろさせた。そして雄元と玉兎の二人を兵に囲ませたまま宮外に出した。

 雄元が要求したのは呂雲一人だったが、他に二名が宮門前で雄元を待っていた。李敬建の裏切りは、すべては雄元のためで、情も忠心もあるのはわかっている。食糧も馬に積まれているのを見ると、雄元の胸が熱くなった。しかし、もう引き返すつもりはない。

「落とし物ですよ」

 見送りに出た李敬健が、そう言って玉兔に翠玉のかんざしを差し出した。

「髪がこんなだから必要ないわ」

「でもこれはあなたが持っているといい。草原であなたのかんざしを拾ったのは私ですから、ずっと持っていって欲しいのです」

「ありがとう、李敬建」

 あの時は玉兔は礼を言わなかった。しかし、今はそれを口にする。月の影が注ぐように自然に。

「大王に対する不敬の罪で陶雄元を追放する。絽陽に再び姿を現せば、極刑に処せられるだろう」

 李敬健の声は高らかと五人の馬の背に響き、彼との別れが雄元は苦しくてならなかった。

       

「どこにいくの?」

「さあ、どこに行こう」

 絽陽の城門まで駆け、追っ手が来ないのを確認すると、五人は馬脚を緩めた。とりあえず西へと駒を進めてみたが、雄元は行き先まで考えていなかった。玉兔が肩を落とす。呂雲が代わりに言った。

「将軍、宛国はいかがですか」

「南東は星のめぐりが悪いわ、寧がいい」

「寧はダメだ。俺が何人寧人を殺したと思っているのだ。のこのここんな少人数で行ったら殺されるのがおちだ」

「じゃ、どこがいいっていうのよ」

「北へ行く」

「北へ?」

 玉兔と呂雲は顔を見合わせた。この寒空の中、北は厳しい。

「俺は俺の星を北辰と決めた。北へ行く」

 呂雲も玉兔も雄元の根拠のない確信に何か言おうとしていた。が、玉兔は北に悪い気を感じないと言い出し、呂雲は、北東に王より賜った領地があることを思い出したのか、頷いた。

「李敬健は大丈夫かしら」

「あいつの名はもう言うな」

「でも」

「あれは俺を裏切った。それだけだ」

 玉兔は懐からかんざしを取り出してそれを握りしめた。そして呂雲に問いかける視線を送ったが、もちろん首を振っただけで答えない。玉兔の後ろからついて来る二人の臣も同様で、彼女の視線から逃げるように顔を伏せた。

「寒くなりそうね」

「せめて雪が降らないように祈ってくれ」

 雄元が馬を玉兔の方へ寄せて手を伸ばしたが、玉兔はそれを無視して馬の歩調を速めた。呂雲たちが苦笑を浮かべる。玉兔のそうした態度は、どこかこの暗い一団を和ませる。泣いたり、怯えたりされるより、よっぽどいい。

「お前たち遅いわ」

 まるで自分がここにいる男四人の主人のように彼女は振り返る。

「惚れた弱みとは恐ろしいものですね」

「黙れ、呂雲」

 笑いが洩れた。

 雄元はひと時笑うと、この場に李敬健がいればと思った。辛辣な嫌味は呂雲よりも敬健の方がうまい。

 ――馬鹿な男だ。

 悪役を結局引き受けてくれた李敬健のことを天に祈ってやらずにはいられなかった。頭のいい男だからそう簡単にやられることはないだろう。しかし、興国の未来は必ずしも明るくない。

「結局のところ一国の存亡を捨てて、一人の女をとったことになるのかな? でもまあ、人生なんてそんなものだろう」

「え? 何か言った?」

「なんでない」

「変なひとり言なんて言わないで。気持ち悪い」

 肩をすくめた雄元に、後ろの三人の男が笑った。そして『黙れ』と雄元が怒鳴り、再び失笑をかう。それが、旅の始まり。月が満ちて道を開く頃のことだった――。


 冬の旅は厳しい。

 年を越し、雪が深くなると彼らはなかなか思うように前には進めなくなった。そのうえ馬が一頭雪の中で動かなくなり、雄元は玉兔を馬から下ろすと自分と相乗りさせ、彼女の馬を臣下に与えた。

「腹が減ったか」

 空腹に耐えられずに、腹を鳴らした公主に雄元は訊ね、呂雲から尽きかけている食料を出させたが、玉兔は頭を振った。

「いらない」

「気にするな。あの三人は十日は食べずとも塩と水だけで生きていけるように出来ている」

「いらないと言っているの」

 生まれてこのかた空腹など一度も経験のないはずの玉兔が辛抱強く言った。過酷な旅のせいで、もともと細かった彼女の身体は次第に細くなっていくのを、雄元が気付かないはずはない。

「今日はもう休もう。呂雲、屋根のあるところを探せ」

「はっ」

 このまま旅を強行してもいずれ玉兔は病になる。雄元は焦る気持ちを抑えて、その夜の仮の宿を求めた。

 しかし、このあたりは昨年農民の反乱があった場所だ。雄元が『皆殺しにせよ』と命じたとおり、人の姿はなかった。もちろん全ての人が戦で死んだわけではなく、飢饉の酷さに耐えられずに南下した者や、戦火を恐れて山に隠れた者も多い。

 そのため、空き家を探すことはそれほど困りはしなかったが、食料は殆ど手に入れることは難しかった。時折、市をのぞいてみるも、犬の肉と偽って人肉などが秤の上に乗っているばかりで、玉兔に食べさせられるものはない。

 自然、弓の名手である呂雲やもう二人の臣、永明(えいめい)と金維央(きんいおう)が釣りや狩りに出てその日の糧をえた。

「しばらくあのあばら屋でお待ちください」

「ああ」

 雄元は玉兔を馬から下し、永明に頷いた。呂雲は玉兔と将軍の護衛に残るらしく、形ばかり屋根のある小屋に馬を繋いだ。

「お疲れのようですね……」

 足下のおぼつかない玉兔を見て、呂雲は小声で雄元に囁いた。

「ああ……公子隷に預けて来ればよかったかもしれない」

「この雪です。数日ここに留まるのがいいかもしれません」

「治安が心配だ。夜盗なども多い」

「公主は少しばかりの膳もいつも残されます」

「あれは寧の宮廷作法だ。少し多めに皿に食べ物をのせてやれ」

「畏まりました」

 呂雲が頭を下げた。雄元は頷くと、玉兔の方へと歩き出したが、彼女は雄元がその腕をとってやる前に雪に滑って転んだ。

「大丈夫か。手をかせ」

「お前の手など借りたくないわ」

 雪をかぶった頭のままで玉兔は彼の手を払いのけた。公主をここまで強がらせるのは、心配をかけまいとするせいであるのを知っている雄元は、そんな玉兔に何と言ってやったらいいのか分からない。

「薪を探してくる」

 やさしい言葉を探すよりも、手っ取り早く雄元は雪に剣を突き刺して背を向けた。

 そして一度だけ振り返った。赤切れた手を地につけて玉兔が立ち上がった。呂雲も遠くからそれを心配げに見つめていた。指甲套をはめ、長い髪に髪飾りを挿し、玉(ぎょく)を首から下げた姫の影はもうどこにもなかった。

 しかし、ひもじくて泣くような女ではない。

 きっと一緒にこの旅をしたのが公主蓮杏あたりなら、今頃道に座り込んで死にたいと叫んでいただろう。だが、玉兔は唇を噛んで立っている。

 大地に落ちた白い雪。それに瞳を落として、黙ってそれを玉兔は食んだ。冷たくて顔を歪め、もう一口、雪を食べる。それを見た雄元は剣を取りに大股で雪の道を戻った。近くの民家を襲ってでも、玉兔に何かまともなものを食べさせなければならない。

 彼は自分の中からわき上がる怒りを止められなかった。王に渡すか、公子隷に預けて来れば、彼女は食べることに不自由しながら雪の中を連れ回されることもなく、敬われて過ごしていたはずだ。

 自分本位な理由で彼女を自分の運命に引き入れてしまったのではないか。それは本当に彼女のためであったのか。後悔は彼を非常に惨めに、そしてどうしようもない無力感に陥れる。

「どうしたの?」

「すぐ戻る」

 雪にさしたままだった剣を雄元は腰に戻した。玉兔はただならぬ彼の様子に慌ててその手をとる。

「ここにいて」

「…………」

「天の味がするの」

 玉兔は掌を広げた。小さな雪の団子。

「ここにいてちょうだい」

 雄元は指を伸ばしてそれをつまむと口に入れた。

 土の味がした。

「天の味などしないではないか」

「したわ」

 見上げた玉兔の頭を雄元は自分の胸に押し付けた。目頭が熱くなるのを見られたくなかったからだ。口に残った土のざらつきが彼を苦くした。

「象牙の箸で朝餉を食べていた陶雄元将軍がぶざまなものね」

「お前もそれだけ憎まれ口が叩けるのだ。まだ死にはしまい」

「私は死なないわ」

 涙が凍り付く寒さ。雄元は玉兔と同じように唇を噛んですべてを耐えた。


 しかし、狩りに出た永明と金維央の二人はあたりが暗くなっても戻ってこなかった。手ぶらでは帰れないのだろうと雄元は思い、深々とふけていく夜に臣を案じる。

「お前はもう寝ろ」

 雄元は自分の膝の上に玉兔の頭をのせて、額を撫でてやる。短くなってしまった髪。悔いても仕方ないのは分かりつつ、雄元は柱に背をもたれて瞳を瞑る。呂雲が、『少し見てまいります』と出て行ったのは気をきかせたのだろう。が、玉兔を抱くような俗な気分にはならなかった。

「みんな飢えているのに、興王はどうして何もしないの」

「この地が飢えているのは俺に責任がある。興はずっと戦続きだった。先王が生きている間は国を大きくすることばかり考えていた。農民が反乱を起こしたときも制圧を命じたのは俺だ」

「でも今、英は何もしていない」

「国が乱れているのだ。こんな辺境の土地にまで手が回らない」

 雄元は興国の宮殿を思い浮かべた。金の柱。銀の器。全てが幻想にすぎない。二人の前で燃えている竃の灯の揺れと同じようなものだ。

「私達が行こうとしているのはどんなとこ?」

「さあな。俺も行ってみないと分からない」

 目指しているのは、雄元の領地の哲郡という地だ。王の直轄領よりは低い税率で彼自身は剣と馬さえあればいいというような男だから、税収をまともに取らずに、水路を作ったり交易の場を作ったりと金を回した。だから、きっと少しはましな場所だろう。

「寝ろ」

 雪がまた降り出したのだろうか、屋根が軋んだ。

「将軍」

 呂雲は玉兔が眠ったのと同時に戸を開けた。背には雪が積もっていた。

「まだか」

「はい。何かあったのでしょうか」

 雄元は首を振った。

「いや、心配しなくていい。二人ともよい武人だ。猟犬が狩りではぐれても必ず帰ってるのと同じで、案じる必要はない」

「はい」

「それより、食え。また玉兔が残した」

 雄元は玉兔が食べ物を残すのは宮廷作法であると言ったが、彼も呂雲も、彼女が動き回っている男たちを慮っているのは分かっていた。その証拠に普段より多めにした食料は椀にほどんど手つかずに残ったままだ。

「いえ、これは永明らが帰ってきてからにいたします」

「そうか。俺もでは休む」

 雄元は玉兔の頭を膝から腕に移して横になった。呂雲が火を足した。

 火が音を立ててはぜる。

「将軍、起きて下さい」

 酷く疲れていた雄元だったが、いくらも寝ていなかったうちに呂雲が雄元を揺すぶった。重たい瞳を開けると、男たちの荒々しい足音と息づかいが聞こえた。雄元はすぐに右手に剣を抜いた。

「何人か」

「四人、いや六人」

 二人で六人は不可能ではないが、こちらもそれなりの覚悟はしなければならない。雄元は自分の上着を脱ぐと玉兔に被せ隠した。

 しかし、それは杞憂に終わった。戸を開けたのは永明と金維央の二人だったのだ。二人は一人のけが人を抱えていた。

「遅くなりました。山賊に襲われたこの者たちを助けていたのです」

 金維央が四人の男たちを小屋の中に入れた。そのうち二人は怪我を負っている。主人らしき男は非常に若く、商人の姿をしているが、どこか商人らしからぬ高貴さを漂わせていた。

「ご家臣には大変お世話になりました」

 丁寧な拝手。礼にかなった態度だ。雄元はしばらく握ったままであった剣を鞘に納めた。

「けが人の手当をされるといい」

「なんとお礼を申し上げていいのやら。私は琥珀と申します」

「礼にはおよばない。火に当たられよ」

 雄元は自分は名乗らずに琥珀を火に招いた。


 楊琥珀は一行を値踏みした。部屋の脇に寝かされている女は顔こそ見えないが、どう見ても貴族の女で、永明や金維央の二人が山賊を倒した腕前は相当なものだ。

 こちらが名乗りながら、名乗らない男の態度といい、かつてはかなりの身分のものだったのが窺える。女は男の妻なのか、それともこの一行の主人なのか、そこのところはよく分からなかった。女は丁重に扱われており、命を助けてくれた永明は男に服従しているように見える。

 ただ荷をほどいて酒や食べ物をせめてもと並べると、供の者らが喜色を見せた。

「どうぞ存分にお召し上がり下さい」

 琥珀は男に直接、酒の入った杯を手渡そうとしたが、それは金維央によって遮られ、両手をもって男に捧げられた。

「かたじけない」と男は礼を言ったが、一口飲むと、寝ていた女の唇にそれはいった。

「どうしたの」

「今夜は同宿の客人がある」

 目がさめた女が白い指で目を擦った。

「奥方がお疲れのところに大人数で押し掛けて申し訳ない」

「…………」

 琥珀は二人の関係を推し量ろうと試みたが、やはり男は何も言わず、若い女を抱え起こした。

 頭から被せた衣。そこから金の耳飾りがのぞいていた。鳳凰のつがいの飾りだ。王族かそれに準ずる身分だと琥珀はみた。興国や西夷の拡大がここ数年激しく、小国の多くは滅びている。

 この女もそんな一人だろうかと琥珀は思った。

「おいしい」

「美味いか」

 女が盃に少し微笑んだ。

「まるで父上のお酒のよう」

 女のその一言で皆がはっと琥珀の方を見た。

「何者だ」

 女を抱き抱えていた男が、とっさに剣を抜いて琥珀に向けた。男の従者たちも反射的に抜刀して琥珀の配下の喉元に刃を向ける。

「…………」

 琥珀は鋭い目を上げた。落ち着かなければ、確実に殺される。それが出来る男たちなのは五感で分かる。

「そちらこそ何者だ」

「この状況で俺に先に名乗れというのか」

 先ほどまで親切だった永明と金維央も琥珀に剣を抜いていた。男の一言があれば、すぐにでも心臓を一突だろう。一触即発※の危機。しかし、そこに女の凛とした声が響いた。

「剣を下ろしたら? お互い名乗るにはおよばないわ」

 琥珀は一度息を吸ってから、努めて落ち着いた声を作って言った。

「かまいませんよ、姫君。私は楊琥珀。寧人です」

「ようこはく?」

「はい」

「まさか禁軍の?」

 琥珀は目を見開いた。被りものを解いた女の顔を見て、

「玉兔公主!」と叫び、地に頭を付けた。


 楊琥珀。

 玉兔の記憶が正しければ、寧宮一の美男と呼ばれた男だ。大臣の子息であり、その見目の麗しさから、禁軍に選ばれ、玉兎の父の最も近くに仕えていた。

「女官たちがよく噂をしていたから憶えているわ」

「玉兔、お前もそれに一緒になって騒いでいたのだろう」

「私? 私は伊士羅が好きだったから」

 悪意なく玉兔は雄元に否定したので、呂雲たちは将軍の内心を思って凍り付き、琥珀は苦笑を浮かべる。

「公主に名を憶えて頂けているだけで光栄でございます。寧の公族は陶雄元に皆殺しされたと聞きいておりましたが、まさか玉兔公主が生きているとは」

「琥珀、あなたはどうして助かったの?」

「公の酒を産地の笛州から運ぶ任を仰せ付けられ笛州にいたのです。知らせを受けて王宮に駆け付けましたが、その時は既に興に王宮はもう……」

「そう」

「申し訳ありません……」

「みんな死んでしまったのね」

 雄元は席を立った。呂雲が手をついた。

「どこに行くの」

「馬を見てくる」

「行かなくていいわ」

 玉兔の手が雄元のそれを握って見上げた。無感情の将軍の顔だった。

「玉兔公主を助けて頂きましてお礼のいいようもございません。これは少しばかりではございますが」

 琥珀が雄元の足下に砂金の袋を置いた。

「馬鹿にするな」

 雄元の低い声が琥珀たちの頭に落ちた。

「一袋の砂金ごときで手放すつもりもない。こっちは一国と引き換えにしてきたんだ」

 琥珀が雄元を見た。

「俺が陶雄元である」

 玉兔は雄元と琥珀の間でどうしていいのか分からず、途方にくれた。雪の中、琥珀たちを彼は外に追い出すことこそしなかったが、それ以降言葉を交わさなかった。

 雄元は、夜は玉兔をしっかりと抱えて眠り、彼女もそれに従った。食物がつきかけている雄元たちに寧の旧臣たちは食事の用意してくれたけれど、それも当然のように無視された。とはいえ琥珀としては玉兔を飢えさせるわけにはいわず、公主の前には無理矢理食べ物を置いた。その時だけ、雄元はずっと腕に抱えたままだった彼女を自由にし、小屋の隅で剣を磨いていた。

 雄元が食事を口にしない限り、呂雲たちも琥珀の食事を断る。一口二口箸をつけると、玉兎は一番年若い金維央に、川で皿を洗って琥珀に返すように言いつけた。雄元の手前食べることのできない若い武官がこっそり食べ物を口に出来るようにするためだ。

「出立する」

 昼になり日が出ると雄元は呂雲に言い、玉兔を馬に乗せた。日はやわらかで、少しばかり薄物を被せたような空に雲にない。この分では数日雪は降らないだろう。

「お待ちください」

「邪魔をすると斬る」

 呂雲は腰に手を掛けて琥珀が雄元に近づくのを遮った。

「呂雲どの、あなたが陶将軍に忠実であるように、私は玉兔公主の臣なのです。禁軍に属しながら生き残った私や、その他、生き残りの寧臣は、どうすればいいのですか」

「知るか」

 雄元はそう吐き捨てると、鞍に跨がった。

 こうなると玉兔もとりなしようがなかった。それでも、雄元たちの後ろからつきず離れず琥珀たちはついて来る。けが人も無理して騎乗して、旧主の姫に付き従うのだった。

「あまりいじわるしないであげればいいのに」

「いじわる? 俺が『いじわる』していると言うのか」

「楊家は寧の太祖以来の家よ。供に加えてやればいいわ」

「あの若さで校尉だったというではないか。見目が良いだけで、聞けば腕が良いわけでもない。飾り物の禁軍の校尉など役には立たない。それに俺はあいつの国を滅ばし、家族を殺した。寝首をかかれないとは限らない」

「お前が仇だって言うのは、わたしだって同じだわ。それに校尉にしては若過ぎるっていうのも、あなただって若くして将軍じゃない。琥珀は、わたしがお前を殺せと言えば、刺し違えてもやる。でも私が命じなければしない。呂雲と同じ類いの男よ」

「よくあの男のことを分かっているではないか」

「あれは父上のお気に入りの男だったわ。わたしの護衛もよくしていた」

「そんなにあの男がいいなら一人で琥珀のところに行けばいい」

 つまらない男の嫉妬だ。

 雄元は、伊士羅にしろ、楊琥珀にしろ、彼の知らない玉兔を知っている男が気に入らないのだろう。同乗していた玉兔を馬からさっさと下ろすと、雄元は『待ちなさい!』と玉兔が怒鳴っているのも聞こえない風を装って、一人駒を進めてしまった。かと言ってそのままにしておけば、やがて琥珀たちが追いついて玉兔を拾う。呂雲が主人の代わりに馬首を返して玉兔の腕をとって馬上に引き上げた。

「呂雲の方が何倍もマシだわ」

 大きな声で雄元の背に言ってやると、呂雲が『公主、どうかそれ以上将軍を怒らせないください。臣が叱られます』と囁いたので、膨れ面をしたまま腹を立てていた。これが李敬健なら一緒に雄元をからかって楽しんでくれただろう。今頃、あの男はどうしているのか――。

 玉兔は李敬健を思い出すと懐から彼が拾ってくれた翠玉の簪を取り出し、短い髪を馬の背に揺られながら結い始めた。

「呂雲、ここを押さえなさい」

 手綱をとっている呂雲の厳つい手首を掴み、公主は頭を指で押さえるように命じた。困惑気味な呂雲が髪を結うには大きすぎる手でいわれたとおりにする。ちらりと見やった視線が将軍のそれと合わさった。

「玉兔、お前は本当に男なら誰でもよいのだな」

「女官はいないし、髪を結うのを手伝ってもらっただけじゃない。男がダメなら琥珀に言うわ」

「あれは宦官なのか?」

「違うわ。言ったでしょ。父上のお気に入りだったって」


 玉兎曰く、楊琥珀は人当たりよく涼やかな眉を持つ美少年として寧で知られていたと同時に、憎愛の激しい寧公の寵臣らしく、どこか残忍なところを持ち合わせていた。

 気まぐれで傲慢な性格であった玉兔とはそういう点で通じるものがあり、女官だろうが身分の高い大夫だろうが、彼女が気に入らずに『去ね』と言えば、どんなに泣き叫んで許しを乞うても、彼は無言で襟を掴んで床を引きずっていった。

「忠臣なのよ」

「……そういうのを忠臣とは呼ばず佞臣と言う」

 雄元は李敬健を憶った。あの男は雄元が間違っていることすれば、どんな方法でも主人をいさめようとした。最終的に意見が分かれてしまったとはいえ、雄元が李敬健を恨めないのは、彼もまた己が信じるものを主人に身をていして進言したというだけだと分かっているからだ。

「琥珀は善悪を考えないの。考える必要なんてないの。父上が神であり、寧が全てだったから」

「馬鹿馬鹿しい」

「なんとでも言うがいいわ。ただ私が言いたいのは琥珀は使いようによって毒にも薬にもなるということよ」

 雄元は話の腰を折るように『寒い』と呟いた。玉兔には彼の言おうとしていることが分からなかったが、呂雲は馬を雄元の横に並べた。

「公主、どうぞ将軍の馬の方にお移りください」

「雄元、お前ってつくづく素直ではないのね」

「俺は寒いと言っただけだ」

「戻ってあげてもいいけれど、琥珀がついて来るのを許してあげて。あれは私の臣だから」「ああいう男は好きではない」

 雄元は玉兔にそう言いつつ、呂雲の馬から手を差しのべた彼女の腕を掴んだ。

「これで私の臣下は八人」

「俺もお前の臣と言いたいのか」

「そうよ。それで全てが丸く収まるわ」

 あと五日もすれば雄元の領地、哲郡の郡都、平邑に着く。北の辺境の地、哲郡は太古の昔から、中原の国々や異民族の支配が代わる代わるに続き、その民族の編成も多岐にわたる。今は名目上興国の領土で、雄元の父が貂国を滅ぼした時に褒美として下賜させた土地であるので、雄元たちにとっては最も安全な地と言えた

「少しはましな場所になっているといいがなぁ」

「お前は平邑に行ってどうするつもり?」

「独立する」

「独立する⁈」

「興から独立して国を作る」

 雄元はこの旅の間ずっと考えていたことを初めてに口にした。興は急速に大きくなり過ぎた。先王は既に卒し、雄元は国を見限り、残るのは現王にへつらうだけの大臣や、陶太后を恐れ何もせず不平だけの臣だけだ。

「自ずと砂の城は崩れていくだろう」

「あの金烏宮もろともね」

「興は西に西夷、北西に寧、南に宛、極国の二国ある。そして北には俺の哲郡があるし、東には小国が四つもある。攻めることが出来なくなった興が守りに入れば、攻めるのは今度はこちらの番というわけだ」

「九つ太陽ね」

「九つの太陽?」

「神話では天帝に十人の息子があり、一人一人が順番で太陽として役割を担っていた。でもある時、十人の太陽が同時に天に昇った。だから天帝は九人の子を地に落としたの。この世には天命を持った人が九人もいるから地は乱れるっていう話」

「では俺もまた九つの太陽の一人というわけだな」

「さあ、それはどうか知らない。でもお前なら自分でなると言ってなれそうだから怖い」

「まあ、俺としては大地が九つに割れるのは悪くない。九という数字は久に通じる。興が一国でこの世をすべて平定しようとしていた方が不自然だった。もしかしたら実際は九つ国あれば、案外安定するかもしれないぞ。一つ多いのも一つ足らないのもだめだ。九が久となり、地は永久に安寧となる」

 木の枝に積もっていた雪が、枝がその重みに耐えられずに、どさりと落ちた。黒ずんでいた道が白くなった。

「早く春になるといいわ」


 李敬健は興王、英を絽陽に迎えた。

 陶雄元を追放した功績は一応評価されたが、彼はかなりきわどい状況に立っている。反雄元派が政において重きをなしている現在、李敬健を信用する気配は皆無だろう。ましてや、敬健は主人である雄元を裏切っての王への貢献だ。李敬健の頭脳の鋭さを知る英が警戒するのは当然のことだ。

「母君はしばらく王宮に滞在なさるといい」

 ひっそりと田舎で暮らしていた李敬健の母を人質として王宮に住まわせ、李敬健には離宮へ行くようにと沙汰があった。事実上の幽閉である。

「まあ、殺されなかっただけましですね」

 護衛というより護送の任についた陶羽にそう李敬健は話しかけたが、彼は一笑した。

「あなたが私に将軍をいさめろと言ったのですよ」

 陶羽はむっとした顔をそのまま向けた。

「だからといって将軍に供を三人だけつけて追放しろなどと誰も言わなかった。あの人は大王に対して不遜な態度をとったが、大王の従兄であり国の英雄だ。春になれば西夷も来る。陶太后も大王も内心では将軍にそれにあたって欲しかった」

「それはずいぶん身勝手な要求というものです。あの方は、いつまでも誰かに跪いているような器でないのはご存知でしょう」

「……しかし……」

「噂では蓮杏さまと陶羽どのがご結婚とか。陶将軍に逃げられて一番困っているのはあなたでしょうか」

 陶羽がため息を洩らした。

「まったくえらい迷惑だ。将軍を探し出して蓮杏さまとの華燭の儀を整えてやりたい気分ですよ」

「それこそ無理な話です。お諦めになってあなたが蓮杏さまを妻に迎えるのですね」

「将軍が一国と女を秤にかけて女を選ぶような人だとは思いませんでした」

 羽が多少の落胆をその瞳に刻んだ。憧れの存在であった従兄が、女を選び、国を追われたこと自体が失望でしかなかったのだろう。

「さあ、それはどうか。あの方は一国ぐらいでは収まりきれない方だ。この廃退した興国を捨てたのはよいことだと思います」

「捨てたのではなく、あなたに追放されたのでしょう?」

「いや、将軍は自ら興を捨てたのです。将軍が選んだのはただの女ではない。天命を持つ女ですから」

 陶羽は言葉の意味が分からずに眉を寄せた。敬健はその顔に余裕の笑みを返した。

「将軍はきっと王となられるでしょう」

「王?」

「ごらんなさい。将軍が運命を変えたので、陶雄元という男の星が空いている。それに代わりに私が乗ろうと思うのです」

「はぁ……」

「陶羽殿。今、私の宿星が空いている。あなたが将軍を助けたいというのなら急がれるといい」

「将軍は今どの星を宿星といているのですか」

「ほら、あそこにある星です」

 北辰。

 北の空を司る宇宙の中心。王の星だ。

「では将軍の運命を得たあなたはどうなるのです?」

「泥の上で死ぬらしいのですよ」

 李敬健は不吉を口にする割に明るく言った

「泥の上とは、将軍らしい死に際でしたが、あなたには似合わない」

「まあ、そうですね。でもそれは十中八九確かなことです」

 雲が少し月を陰らせた。

「そう九つ太陽に将軍が言われたらしいですから」

「ほう? 金烏公子がそんなことを?」

 李敬健は頭を振った。そして「それより」と言った。

「お願いしたいことがあるのですが、よろしいですか?」

「出来ることであれば」

「私にもし何かあれば、首を金烏公子に渡して欲しいのです。あの方は首を集めておられるのですよ」

「首をですか」

「はい」

 李敬健の瞳が陶羽に男と男の約束なのだと言った。李敬健は巫覡ではないが、軍師として未来をみることはできた。興王は必ず自分を殺す。それは遠くない未来の話だ。頼めそうなのは、もはや陶羽ぐらいしかいない。

「ほら、来ました。先にいかせて頂きますが、どうぞお許しください。もし将軍と再び会うことがあれば、臣の王宮での無礼を代わりに謝っておいてください」

「李敬健殿?」

 陶羽は李敬健が差し示した方向を見た。そこには明かりが、馬の背とともに凄まじい速さで迫ってきていた。


「王命である。李敬健に死を賜う」


 陶羽の前で下馬した近衛の一団が、重々しく李敬健に告げた。松明が掲げられ、そのうちの一人が王の剣を李敬健の前に差し出す。陶羽は驚き、璽書を見せるように唾を飛ばしたが、そこには確かに『李敬健に死を賜う』とあった。

「何かの間違いだ。俺は王より直接、離宮へ李敬健殿を送るように命じられている!」

 陶羽は必死に自身が絽陽に戻って命令を確認してから、任務を遂行するようにかけあうも、禁軍の将はとりあってはくれない。李敬健の方が落ち着いていたぐらいだ。

「間違いなどではなく、たぶん事実でしょう。王は今になってようやく私が信用ならぬ男だとお気づきになったのです」

「私がなんとか王を説得します。早まることはない」

「あなたは本当に良い方だ。だが事実、私は信用ならない人間なのです。将軍が絽陽を去った後に、寧にあった兵を将軍のもとに送るように命じたのです」

 陶羽は驚きで瞳を見開いた。

「忘れないで頂きたい。私は将軍の臣であり、どういう状況でも臣であり続けるのです。私は異国人であり、興国の王臣であったことは一度もない」

 李敬健は近衛の手から剣をとった。龍の瞳が彼を睨みつけている。

「ああ、そうだ。『泥の上で死ぬ』と言った人ですが、それは玉兔公主でした」

「玉兔……。え? でもそれでは――」

「将軍こそ天命があるのです」

 隠れていた月が大きく腕を広げてみせるように輝いた。白い月。黒い空。それに李敬健の赤い血が加わった。

 泥にうつ伏した屍。

 静か過ぎる夜。

 陶羽は込み上げる荒い息に耐えられなくなった。涙を流すほど、李敬健と仲もよかったわけでもない。しかし、この男こそ真の忠臣であると思えば、男泣きせずにはいられない。

 禁軍が遺体を無造作に打ち捨てようとしたのを制すると、陶羽は剣を剥いで、その首を切り落とした。今日という日ほど、剣を磨いておいてよかったと思った日はなかった。切り落とした後まで、その感触が掌の中に残る。

「首は俺が貰う」

 血に染まった袖を払って陶羽が言うと、禁軍の兵士たちは唖然としてそれを引き止めることを忘れた。陶羽は鞍に首をくくり付けると、手綱を握った。

 泥を蹴った馬を陶羽の供が慌ててそれに続いた。馬上で、陶羽は不条理な星の巡り合わせを呪わざるをえなかった。たとえ、それは李敬健自身が選んでの道であったとしても、彼が陶雄元という人に捧げた命と忠誠は、こんな形で閉じるべきではなかった。とうの昔に滅んだ鷺国人であった李敬健は貧しい暮らしの中を勉学に励み、雄元に見出され、その才を発揮した。『惜し過ぎる』と陶羽は唇の中で言った。

 これからいくらでも必要とされる人間であったはずだ。陶羽の中からふつふつと怒りが湧いた。

 ――星か……。

 もし李敬健が言ったことが本当であったならば、こうして泥の上で死んだのは彼ではなく雄元だった。蘇学が西方より帰国して、絽陽の王宮を囲めば、たしかに王が周りの意見をいれて、一度確執をもった雄元を殺すことを考えるのも不思議ではない。そうなると、雄元がこの興を見限ったのは、時期として最善であったと言っていい。

 ならば自分が李敬健の空いた星に座ってはどうか。今の興国の状況は真っ直ぐな陶羽の性格にはあわなかった。知謀策謀が渦巻く宮殿、政略結婚で公主蓮杏を妻にし、結局王に疑われれば命もない。剣術や馬術のような誠実なるものはここでは必要ではなく、絽陽ではいかに陶太后の機嫌をとり、他者を出し抜くかが、今や出世の近道である。

 若き陶羽には、それらは苦痛でしかなかった。

 雄元は今どこにいるだろう? 李敬健に訊ねるのを忘れたことを陶羽は後悔した。陶家は代々豊かな南方に領地を賜っているが、丞相である父、勝林が握っている。もし雄元がそこに姿を現すことがあれば、絽陽にすぐに知らせが来るだろう。

 ――北か。

 北の地、哲郡。雄元が個人的に所有している領地だ。その広さだけは興国一とはいえ、決して豊かではなかった。昨年農民の大規模な反乱のあった揩州とは近い。李敬健が、寧から兵を送ったと言っていたが、寧からならば確かに時間をかけずに哲郡の郡都、平邑に着けるから戦略的地理としてはいい。

 ――哲郡だ! きっとそこにいる!


 陶羽が金烏宮殿にたどり着いた時、空には銀色の月が昇っていた。

 ――まるで浮いているようだ。

 水に映る離宮を見て馬の手綱を思わず引いた。雲の動きさえも水面がとらえ、一瞬一瞬を刻んではゆっくりと進む。

「陶羽さま、あれを」

 離宮の美しさに目を奪われていた陶羽に供の一人が城壁を指差して言った。

 そこにはこの離宮の主、金烏公子の姿があった。普段垂らしたままの白い髪を一つに結び、白い巫覡の衣の上に銀の鎧を身にまとっていた。手には白い剣。

 ――何が始まるというんだ?!

 陶羽は固唾をのんだ。そして二人の視線が一つに合わさると、隷は白虎と共に城壁から飛び降りた。袖が大きく広がり、白鷺が羽を広げたように宙を飛ぶ。ひたりと足先が水につくと白い気を放って髪が逆流するではないか。

 湖面を歩く白虎の四つの足が作るさざなみが、水月をときどきかき消しながら、岸辺の陶羽に近づいてくる。陶羽は恐れた。この公子は明らかに人ではなく、白虎は普通の生き物ではない。神獣を操る巫覡だ。陶羽の馬が後ずさった。

「首を」

「…………」

「首をこちらに」

 隷の白い手が馬の鼻先に伸びた。陶羽は震えを隠して首を手渡そうとして手元を狂わせた。すると首は湖へと転がって行ったが、不思議なことにそれは水の上にとどまり、沈むことがない。

「いい首だ」

 隷はそれを拾い上げ満足そうに言った。

「き、金烏公子。李敬健殿の首をどうするのですか」

「首を離宮の東に埋める」

「一体、ど、どういう理由で――」

 隷は陶羽に『ついてまいれ』と視線を送った。陶羽は言われるまま馬と供をそこに残してゆっくりと湖面に足を着けてみた。沈まない?! もう一踏みして、確実にそれが地べたと同じことを確認すると、白虎と並んで歩く隷の後に走って続いた。

「ここだ」

 そこは離宮の東、小さなほこらのようなものがある場所だった。隷は彼にそこを掘るように命じた。陶羽は渡された鍬(くわ)で土を掘った。水気を含んだやわらかな土だった。

 陶羽は言われるままにその土を掘り進み、やがて何かにぶつかって鈍い音を立

てた。

「私の兄の首だ」

「兄というと?」

「太子と呼ばれた人だ」

 白い骸骨の土を払うと隷は静かに腕に抱えて言った。李敬健の首がその空いた穴におさめられ、白虎が後ろ足で土をかける。

「首を差し替えてどうなさるつもりですか?」

「この金烏宮に閉じ込められている神獣を放つ」

「放つ?」

「その土地その土地で崇められていた神獣たちは、先王によってこの国に集められた」

 陶羽にはそれが何を意味するのか分からなかった。一歩踏み出して、それを問おうとしたしたが、隷はその足につけられていた金の足枷を剣の鞘で叩いて外し

「煩わしかった」と陶羽の手の上にその足枷は置いた。陶羽は問うきっかけを失った。それどころか、隷の気が白く浮かび上がり、髪が静かに波打ち始めると、もしや自分はとんでもないことに手を貸してしまったのではないかとはたと気がついた。

「あの、公子……」

「気にすることはない。あなたが望む望まないに関わらず全ては既に進んでいる」

「あの、それはどういう――」

「北に行こうとしているのだろう?」

「いえ、それはまだ決めてないのです」

「惨めに自分を嫌って生きたくなければ、行くといい。それは吉凶を超えた男としての生き方だ」

「あなたはどうされるつもりなのですか」

 陶羽は隷の出で立ちを見た。銀の鎧に剣を携えている巫覡など見たことがない。

「神獣たちがここからいなくなればこの国は滅びる。少なくともここにある偽の興国はね。私は東に行くことになるだろう」

 隷の言葉と同時に遠くで馬がいなないた。

「迎えが来たようだ」

 白い旗の群れ。陶雄元の朱の旗でも、興国の黒い旗でもない。東に続くなだらかな山間が白い軍で埋まってる。一体――。

「もしやあれは、王功ではありませんか!」

 白い一団を指揮する将の顔がさやかな月明かりに照らされて、陶羽の目に映った。王功は華応安の臣下であった男だ。雄元を殺そうとして以来、姿を消していた。陶羽は剣を抜いた。

「あれは私の臣だ。お前たちの敵ではない」

「あなたの望みはなんですか、公子」

「偽りの興国の滅亡と真の興国の再興。それこそが私の望みだ」


 たった十八年しか生きていない陶羽には、公子隷の言葉は理解出来なかった。それもそのはず、先々王が興国王家の傍系の人間に過ぎなかった事実は特に秘されているからだ。

 先々王が王位についたのは、新年の祝いの席で、王と太子だけでなく王族を皆殺しにし、王位を簒奪したからだ。

 簒奪。

 いや、先々王が王位についてからは、それを禅譲と呼ばれた。そして美しい史跡は塗り替えられ、陶羽のような若者は、先々王や先王の領地拡大の功績やその名君ぶりに敬意を払いこそすれ、王の王位継承の正当性に疑問など抱こうはずはなかった。雄元の口からちらりと聞いたときも陶羽はそれを信じなどしなかった。不敬なとさえ思ったものだ。

「知らないのは当然だ。先々王に手を貸したのは陶家であるのだからね」

 そう付け加えた隷であったが、かと言って陶羽や陶雄元に敵意を持っているというわけでもなさそうだった。

「陶雄元は変わった色の気をもつ男だった」

 隷はその色を赤とも青とも見分けがつけなかったと言った。時には乱を表す鮮やかな赤であったし、時には穏やかな青であり、混じり合って紫にもなる。それが陶雄元という男。隷は少し自嘲するような顔を作った。

「しかしまさか、あの男に私がずっと待ち望んでいた玉兎公主を奪われるとは思ってもいなかった。予知できなかったのが不思議だよ」

「玉兔公主は一体――」

「九つの太陽だ。未だ非常に若いけれどね。かの姫の清らかさがこの地の色を変えていくだろう。毒にしかならないと思っていた陶雄元の気さえも少しずつ変化している。北に行くといい。李敬健の死を無駄にしたくないのならばね」

 隷はそう言い残すと馬に乗った。

 王功が隷に頭を下げ、白い一団が風下の西へと消えていく――。

 一人取り残された陶羽。

 政治に疎い彼にも、華応安を煽り、公子志旦と英との間の世継ぎ争いを悪化させた黒幕が王功であり、実のところ金烏公子の命でそれが緻密に計画されていたのだということに今更ながらに合点がいった。

「くそっ」

 雄元が『あれは信用ならぬ。国が滅びるのを望んでいるのだ』と言った言葉の意味がようやく分かった。

 このままここに残って蓮杏を妻に迎え、陶家の人間としてこの国を守るのもよし、あるいは雄元を追って北東の哲へ行くのもよし。陶羽は岸辺に座り込んで金羽宮を望んだままでいた。銀色の月に金色の宮殿。水の小さな満ち引きが心を澄ます。隷はこの国は『偽の興国』であるといい、雄元は『まやかしの興』だと言った。

 ――天帝よ、おれはどうすればいいのですか。

 その時、天帝が陶羽の問いに答える代わりに、地が動いた。

 それは金烏宮に閉じ込められていた神獣たちが、隷の解いた結界から逃げ出していく地響きだった。青い龍に、麒麟。鳳凰、白い雉、孔雀。象。各地でそれぞれ崇められていた神獣が天へと帰っていく。

 ――ここから神々は逃げていってしまうのか……。

 ならば陶羽がここにとどまる理由もないように思われた。決意すると彼の気持ちは明るくなった。李敬健との約束もある。雄元に会わなければならない。

「今から哲の郡都、平邑へと向かう」

「は?」

「将軍に加勢するんだ!」

  陶羽を探しにきた供の白救は目を丸くした。西夷との国境警備の任に西に向かったときも将の責務を放棄して金烏宮に向かった主人が、再び突拍子もないことを言い出したのだから当然だ。しかし、それが陶羽であり、自分の気持ちに正直な人だった。白救はそんな男の臣下である。同じように危険な賭けを常に求めていた。

「何人用意できるか」

「何人必要なのですか」

「将軍に加勢するのだ、それなりの数がいる」

「ならば五千は確実です。絽陽で捕らえられている将軍の兵を連れて行きましょう」

 寧の兵が平邑に向かったのならば、王は雄元を討伐しなければならないだろう。だがまだ冬が深い。春になったら全てが動き出す。その前に陶羽は動かねばならなかった。

「陶羽さま、船で行きましょう」

「それがいい。親父には気付かれるなよ」

「はっ」

 陶羽は、李敬健が雄元の星だと言った北辰を眺めた。


      *

  雄元は面白くはなかったが、楊琥珀たちを平邑への旅の道連れとするのを許した。彼らは寧の遺臣だ。玉兔を諦めるはずはない。

 たとえ、雄元が嫌だと言おうと、ついて来るのは目に見えている。あるいは、山賊などを金で雇って少数の雄元を襲わせることも可能であることを考えれば、それが一番危険が少なかった。

「お召しかえください」

 朝、琥珀の姿が見えなくなったかと思うと、昼過ぎに一行に追いついた彼が包みを掲げて言った。玉兔に着るものを買って来たのだ。

 今まで絽陽からずっと同じものを玉兔は着ていた。冬場とはいえ、玉兔の思考に洗うなどという発想は存在しておらず、洗おうにも着替えもなかった。

 琥珀が広げた衣は商人の娘といった装いで、今までの貴族然とした衣では目立ち過ぎたので安全面からもその方がいい。

「こんな衣は初めてね」

「粗末な衣を公主に着て頂くのは心苦しい限りです」

「いいの。気に入ったわ。馬にも乗りやすい」

 萌黄の袖が、まるで雪に萌える若菜のようだった。

 どうやら琥珀は国が滅んでからは、寧の酒を売って旅していたらしく、各地の情勢にも詳しく、雄元としてもその洞察力と情報網には一応の敬意を払わなくてはならなくなったほどだ。ましてや、玉兔のことに関しては、雄元や呂雲のような無粋な武人と違ってよく気がつくので、食さえも細かった人がだんだんと元気になった。

 楊琥珀という男は、将というより、官吏と宦官の間のような存在といっていい。時に雪を見て詩を詠んだかと思えば、玉兔の髪の乱れの心配をした。全く呂雲とは話が合わないが、忠義心の厚さは似たものがある。

「琥珀、お前は武人には向かないな」

「自分でもそう思います。商人の方が向いていると思ったぐらいですから」

 雄元に琥珀は苦笑した。

「貴族の子息なのだろう? 文官職についた方が才が伸びただろうに」

「ただ、地味なことは好きではないのですよ」

 雄元はなるほどと笑った。確かに机の上の書類に埋もれて日がな一日を過ごしていそうな男ではない。王の近習として華やかな武具が似合いそうだ。

「しかし、俺について来る限り、地味なこともやってもらわなければならない」

「それが、玉兔さまのためになることでしたら」

「まあいい。お前に玉兔に関係ないことを頼んでも動きそうにないからな」

「将軍はどのような地味な仕事を私にお求めなのですか」

「各地に散った寧の遺臣を集めて欲しい」

 琥珀はなんだそんなことかと口元を歪めて笑った。そういう笑い方は内面のねじれを映しているのだが、ある意味正直であり、偽善ぶる人間よりもましだと雄元は思う。

「西夷にいる人質の公子で安敬公子と呼ばれる人がいます。その人の周りに遺臣は集まりつつあるのです」

「なるほど。それで西夷は寧を返せと言って来たわけか。傀儡の国を作り、中原への影響が増せば、西夷を他国も無視出来ない」

「ただし、その公子は酷く傲慢で残虐な性格を持っているのです。西夷まで足を運んだ臣下は今頃後悔しているのではないでしょうか」

「ははぁ。それは血筋ではないのか」

 雄元の言葉を証明するかのように、後ろから金維央を罵る玉兔の声がした。二人が振り向くと、どうやら金維央が玉兔の裾を踏んで転ばせたらしい。琥珀に買ってもらったばかりの真新しい靴先で跪いて謝る彼を叩いていた。

「玉兔公主は本当にお可愛らしい」

 この光景を見て、玉兔を可愛く思える琥珀に雄元は言葉を失った。どう見ても、あの傲慢さはただ者ではない。女だから愛嬌で許せるも、あれが男の安敬公子であったらと思うと、それに仕えなければならない臣が気の毒になる。雄元は立ち上がった。金維央は武人だ。あまり恥をかかせるものではない。雄元が玉兔を注意しようと思った時、

「少々失礼いたします」

 琥珀が玉兎の方へ歩いて行った。何をするつもりやら。

「公主、転ばれたのでございますか」

「転ばされたのよ」

 むくれっ面を玉兔は琥珀に向けた。

「お怪我は?」

「ない」

「しかし、無礼は無礼。どうぞご存分に」

 琥珀は剣を玉兔に両手で捧げた。斬れということだ。だが、玉兔はぷいっと琥珀からも顔をそらした。

「もういいわっ」

 玉兔は琥珀の顔を背けると、背中を向けて一人沢の方へと歩いていってしまった。

「お前はあのじゃじゃ馬の御し方を知っているのだな」

「お可愛らしい方です」

 雄元は琥珀の言葉に苦笑しながら金維央を立ち上がらせると『気にするな』と言った。金維央は姫を転ばせるなどという失態に素直に反省しているらしく、『申し訳ありません』と雄元に謝る。

「あれが安敬公子なら蹴る前にぶすっと一突きですね」

「なるほど」

「侍女が袖に酒を零しただけで、殺したこともあります」

「……それはまた残酷な……」

「金維央どの、早く姫を追いかけてください。怪我をされているのです」

 雄元は意外な気がした。なぜ、玉兔は怪我をしていることを琥珀に告げなかったのだろう。告げ口は得意そうなのに。

「玉兔公主は寧では公と同じ、あるいはそれ以上の敬意をもって扱われてきました。怪我などさせたとならば、私は金維央どのを斬らねばなりませんし、やめよと公主がおっしゃっても私や他の寧の臣は内心よしとはしないでしょう。派手にああやって叩いて人の目を怪我からそらせていたのです」

 琥珀は袖で口元を隠した。艶のある流し目。琥珀としては『お分かりになったか』と言っているだけだろうが、どう反応していいかわからず、金維央が薬箱を抱えて今にも走り出そうとしているのを止めた。

「いい。俺がいく」

 沢に行くと冷たい水に脚を冷やす玉兎がいた。

「怪我をしているのだろう? 見せてみろ」

「なんでもない」

 沢の畔で布に水を当てていた玉兔に雄元は声をかけた。脚を怪我しているらしいが、玉兔は見せようとはしない。傷を見ようとした雄元の手を彼女ははね除けた。

「触らないで」

「強がるのもいいかげんにしろ」

「強がってなどない」

 雄元が無理やり玉兔の脚を引き寄せると、彼女は顔を歪めた。

「ほろみろ。筋を痛めたのだろう」

 大人しくなった玉兔の衣の裾を雄元はめくった。白い脚。まるみをおびた曲線。美しいと雄元は思った。

「少し血も出ているな」

 筋を痛めただけでなく、石か何かにぶつけたのだろう。すねをわずかに外し、足の内側に血がにじんでいた。

「これぐらいなんでもないわ」

 玉兔は恥ずかしがって雄元から自らの脚を奪い返そうとしたが、彼は放さなかった。つややかな肌の弾力を確かめるように唇をそこに落とした。そして玉兔の真っ赤な顔を見上げた。

「これぐらいで恥ずかしがるとはな。一体今日はどうしたんだ?」

 そういう余裕の雄元に腹を立てた玉兔が拳を上げた。が、そんなもの簡単に封じ込める。顔を背けた玉兔の耳元に雄元はささやいた。絽陽宮での初めての夜の出来事。そして供の目を盗んで毎夜のように森の茂みや馬小屋の片隅で彼がどううぶな少女を弄んだか。

 それらは曖昧でいて官能的な関係だったが、十分玉兔に雄元の気持ちを伝えるものだったし、雄元を欲望と愛を満たした。

「忘れたわけではないだろ?」

「知らない」

 玉兔は雄元の腕から逃れようとした。枯れ草の上を二人はもみ合うように転がった。いつの間にか体勢は逆転し、雄元が玉兔を見下ろしていた。

「怖いのか」

 日は天にある。日中の玉兔は太陽の巫覡として、天帝の目を恐れていた。

「お前には自分の運命が視えないのか」

「視えない。自分に関わる全てが視えない。まるで薄い絹を張りめぐらした帳の中にいるように不確かなの」

「だが俺には視える」

 雄元は断言した。

「一体何がお前に視えるっていうのよ」

「俺にはな、寧が視える。寧の草原も、寧の王宮も視える。俺はお前を寧に連れて行くよ」

「嘘よ」

「嘘ではない。俺には視える。お前との約束を果たしたら、心をくれると言ったのを忘れていはいないな。約束を果たしたら、寧で俺はお前の心を貰う」

 雄元は玉兔の前髪をかきあげると、そこに自分に額を重ねた。

「これでいいだろう」

 雄元は、寝転んだままだった玉兔の脚に薬を付けるといった。彼は手を差しのべて立つように促したが、玉兎は手を取らなかった。代わりに視線を雄元の肩の向こうに向ける。

「見て!」

 玉兔が空を指した。雄元は振り返った。

「神獣だわ」

 白い龍。

「河伯(かはく)かしら」

 河伯は黄河にすむ神と言われている。白い鱗を瞬かせて、悠々と空を泳いでいた。

「河伯は金烏宮に祀られていたはずだが……」

「河伯が?」

「ああ。河伯を祀る種族である莢という小国を興が滅ぼした時、その祭祀権を奪ったのだ。他の神獣たちと河伯も金烏宮に捕らえられていたはずだ」

「隷だわ。隷が金烏宮に張りめぐされていた呪縛を解き放ったのよ!」

「どういうことだ?」

「雄元、急ぐわ。一刻も早く!」

「玉兔?」

「地上の神がもといた国に帰っていくのよ!」

 玉兔は脚を引きずって走り出した。興という国は、征服した国の祭祀権を奪い、その民を従えて来た。祖先の霊や神を取り上げられた遺民たちは興国に従う他なかったからだ。しかし今、隷が金烏宮に集められていた各国の神々やその祖先の霊を解き放った。頭を地に付けて従う他なかった各地の遺民たちが反乱を起こすはずだ。

「興国は中からそして外から滅んでいくわ」

 雄元は玉兔の言葉に、彼女の身体を肩に担ぐと坂を上った。時というものは常に波がある。それに乗り遅れてはならない。

「呂雲! 呂雲!」

「将軍、いかがなさいましたか」

「馬だ! 馬をひけ!」

 雄元の血相を変えた様子に呂雲だけでなく、琥珀も驚き腰を上げた。

「平邑まで馬を潰しても駆けるぞ! 時間がない!」

「は、はい」

 雪がまだ所々残る草原を馬は駆けた。

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