第四章 抗う

四章

 玉兔は後宮の一室に押し込められた。

 豪華なその部屋は、離宮に王が移る以前は王の妃の一人が賜っていた一室だろう。しかし今は主が去り、どこか空虚さが拭いきれない空間である。

 窓を開けさせて、玉兔はそんな淀んだ気を追い払おうとした。

 冷たい風に老女の彩季が身震いをしたが、北国生まれの玉兔にはまだ寒いというには少し早い。楓がてのひらを広げて落ちていくのもどこか赤さが足りないし、寧ならば、今頃雪がちらほらと降り出していてもおかしくない時期だ。

「秋ね」

「お風邪を引きますよ」

 侍女は彩季の他に若い女たちが二人ほど付いるが、そのいずれとも玉兔は口をきかず、何か用件のあるときは彩季の耳元で囁いてすませた。空になりつつある王宮に取り残されたその侍女たちは、多少の好奇心をもって玉兔を見ていた。

 離宮へと去る者は日に日に増えても、この後宮に新しく入ってくる人間は一人もいない。それが陶雄元将軍が連れてきた女であれば尚更で、玉兔の美しさを見てなるほどと納得したかと思うと、彼女の作法の一つ一つに異国の欠片を見つけて何者であるかと囁きあっていた。

 以前の玉兔ならとうに我慢がならなくなって癇癪を起こしていただろうが、彼女は息を吸うのも気を遣うほど、鳴りを潜めていた。それは後宮と言う場所がどういうところかよく知っていたからだ。

 昼まで王の愛に驕っていた愛妾が、夜には行方をくらまして、朝、冷たい井戸から引き上げるなどというのが日常的に行われる場所が後宮だ。

 玉兔には雄元が、今この絽陽の王宮でどのような立場にあるのか知るよしもなかった。離宮では興王、英にそれなりの遠慮はあっても、実質上、雄元が君主だったが、絽陽では未だにそれをよしとしないものが多く存在する可能性もある。

 彼に近い人間というだけで、こうも好奇の目で見られるのであるから、雄元が言ったように目立たずにいるのが得策だと玉兔も思っていた。

 だからせめて時折通る人の動きを読んで、少しは絽陽の状況を理解しようと試みているのだけれど、雄元の伯母で英の生母の陶太后がもうすぐ離宮に移るのに伴って連日荷物が忙しく運び出されるだけで人の通りはない。

「お前たちも離宮にゆくの?」

 ほどんど口をきかなかった玉兔が初めて口を開いて訊ねたので、二人の侍女は驚いてすぐに床にひれ伏した。

 全く話さない玉兔のことを耳が不自由なのだと思っていたらしく、

「わたくしたちはお供には加わりません」と慌てたように答える。

 二人とも、色白で切れ長の瞳を持った美しい侍女だった。玉兔は純粋に彼女たちが供に加われないのを不思議に思った。

「じゃ、ここにずっといるの?」

「たぶん、里に帰されると思います」

「そう。お前たちは見目良いのに惜しいことね」

「仕方がございません」

「金烏宮に行きたくないの?」

「もちろん行ってみたいとは思います。金烏宮は興国でもっとも美しい宮殿と言われておりますところです。今まで身分高い方しか入ることを許されなかったのが、お許しさえあれば私たちのような身分のものでも上がれるようになりましたので、お供に加えられるとばかり……」

 二人は一様に落胆を隠さなかった。そして顔を見合わせてなにやらささやきあうと、意を決したように顔を上げた。

「姫さまにお願いがございます」

「何?」

「どうか私たちを離宮へ付き添わせていただきたいのでございます。無理を承知でお願い申し上げています。このまま里に帰されたとしても、家には私たちを養う余裕はなく、どこぞへと嫁がされるほかないのでございます」

 器量の良さだけをたよりに王宮で侍女として上がったものの、時勢に乗れなかった二人にとって玉兔が最後の頼みの綱だった。玉兔は読んでいた竹簡を脇に置いた。

「私の一存では無理だわ。でも将軍に聞いてみてもいいわ」

「本当でございますか?!」

「ええ」

「ありがとうございます」

 これは決して同情などではない。どちらかと言えば、打算だ。一人で生きていけるとずっと玉兎は今まで思ってきたが、彼女には誰か信用の出来る人間が必要だった。そして手足になってくれる人間が欲しかった。しかし、簡単には雄元は首を縦に振らないだろう。だからせめて気を持たせるようなことを言って、ここにいる数日だけでも味方にしておきたい。それだけのことだ。

 彩季が皺だらけの顔を向けた。命を助けてやってもこの老女だけは信用できないと玉兔は思った。それは年のせいかもしれない。女は年をとるごとに美しさを失う代わりに賢くなってゆくものだから。

「ありがとうございます」

 頭を嬉しそうに下げた侍女は、年長の方を香といい、玉兔より年下らしい方を莠という。姉妹らしかった。

 しかし雄元は夜には迎えに来ると言っていたのに、夕餉の時刻になっても現れない。一人箸を取った玉兔は、腹立たしく思った。人が待っていてやっているのに、なぜ来ないのかと。

「もうよろしいのでございますか。もっとお召し上がりください」

 殆ど手を付けられなかった食事を下げる彩季が訊ねた。玉兔はそれに手を振って、再び書物を読むべく長椅子に腰をかける。まったく腹立たしい。そして寂しくなった。雄元は朝になっても迎えには来ない気がした。知らない場所に置き去りにされるのは慣れていない。

 竹簡が巻き終わった時、外に火が焚かれ騒がしい声が聞こえた。中には男のものも混じる。後宮に男の声とはただ事ではない。玉兔が眉をひそめて立ち上がると、侍女らも恐る恐る集まって、玉兔が少し開けた窓の外に目をやった。

 細い女が兵に連れてゆかれるところだった。髪が乱れ、衣が汚れている。若い侍女の莠が『あっ』と言いそうになった口を両手で隠した。

「あれは誰?」

「……いえ……」

「あれは誰なの?」

 玉兔は莠に訊ねたが、その名を告げることさえも不吉であるかのように侍女は面を伏せ答えない。

「あれは誰なの?」

 玉兔は同じ質問を今度は姉の香に訊ねた。しばらく黙っていた彼女だったが、玉兔の視線が自分に注がれたままであるのを感じると顔を床に張り付けて答えた。

「あれは華妃さまです」

「華妃?」

 公子志旦の生母の華妃。年の頃は三十路あたりか。燃え上がるかがり火に映された顔はやつれてはいたが、王の寵愛を欲しいままにした美貌があった。

「処分が決定されるまで自室にて幽閉されていたのでございます……」

 志旦は毒を賜ったと聞いていたが、彼の母はまだ生きていたのか。玉兔は複雑な思いとともに聞いた。きっと雄元が離宮より来て、その処分、つまり死が決まったのであろう。

「殺されるのね……」

 玉兔の呟きに誰も答えるものはいなかった。

 志旦も華妃も玉兔の知る人ではない。ただ乱れた頭に挿している簪の数がかつての威勢の影に見えた。それは寧から興国に連れてこられた自分の姿であり、今の自分なのだ。華妃がそんな彼女一瞬、気付いたように、振り返り窓を見上げた。

 玉兔は、華妃と目が合うと慌てて窓を閉めた。

 ぱたり閉じた音と共に、華妃の骸からその黄金の髪飾りを奪おうと群がる兵の姿が一瞬脳裏に閃いた。そういう予感は美しくない。

「醴(れい)をちょうだい」

 立っていられないほどの黒い気。悲しみと憎しみ、怒り。華妃の持つ感情が玉兔に乗り移り、玉兔はそれを祓うかのように運ばれてきた醴に手を伸ばした。熱い酒が喉もとを通り過ぎれば、あいまいな悲しみと重苦しさをそのまま一緒に胃に流し込む。

「陶将軍がお見えでございます」

 後宮に王でもない雄元が現れる。それは彼が今はこの国の王であるからだ。玉兔はまだ気分の優れぬ頭を持ち上げて杯を置いた。

「遅くなった」

「遅いわ」

「不機嫌だな」

「そんなことはない」

「もう今夜は遅い。ここで寝る」

「わたしはどこで寝るわけ?」

「お前もここで寝るんだ」

 玉兔は彼の一方的な言葉に苛立った。

 寝台ではなく玉兔は長椅子に身を横たえた。

「何を怒っている」

「怒ってなどないわ」

「どう見ても怒っている。男というものはな、言ってくれないと分からないようにできているんだ。さあ、いえ、何をそんなに怒っているんだ」

 雄元は、今日という一日を、華妃渡そうとしない陶太后を説得するのに費やした。女とは恐ろしい。一息に殺してしまうよりも、長々と暗い部屋に閉じ込めておく方が残酷であるのを承知で陶太后はかつて寵愛を競った相手を渡そうとしなかった。たとえ、華妃が我が子に殉じるのを望んでいたとしても、その生死を自らの手の内からはなしたくないがために雄元の要求をはねつけたのだ。

 それはもちろん嫉妬ゆえだ。

 華妃は陶太后よりも十は若い。そして陶太后は決して美しい女ではなかった。陶家に生まれなければ王は見向きもしなかっただろう。誇り高い彼女が権力の虜になったのは、なるべくしてなったと雄元も思う。

 こういう老いた女たちを相手にした夜は、雄元は無意識に若い女を抱かずにいられない。無知で純朴な女たちを――。しかし、今夜はつまらぬ女官を相手にする気にはとてもなれなかった。たとえ抱くことは叶わなくとも玉兔を側に置きたかった。

「何を怒っているのだ」

 それなのに、玉兔までもがこうも不機嫌なのには雄元も付き合いきれない。自然に声が低くなり、玉兔の腕を掴んで寝台に押し込んだ。

「なんでもないと言っているでしょう」

「なんでもないようだから聞いている」

「華妃が連れて行かれるのを見たのよ」

「それがお前になんの関係があるというんだ」

「お前のような人間には分からないわ。心の痛みが連なっていくのよ、鎖に繋がれるようにね」

 玉兔が涙を零した。流行病のように他人の悲しみが自分の心に入り込んで侵してゆくのだと言い、袖でそれを拭う。雄元はそれを見て、目の前の女がまるで別人のような気がした。出会ったばかりのころの玉兔はもっと自己中心的で、そして他人に冷たかった。ゆっくりとだが確実に重厚な人格が作られている。

「何もお前が嘆くことではないだろう」

 雄元は玉兔の感じやすい心を理解できなくはなかったが、武人としてそして為政者としてあえて同調はしなかった。だが、温もりは必要だった。玉兔を抱きしめたのは彼女が泣いているからのように装ったが、実のところ彼が抱きしめられたかったからだ。

「泣くな」

 細かった燭台の明かりが一つ消えた。

 急に室内は冷え、そして部屋が狭くなった。

「泣くな」

 雄元は玉兔を抱きかかえたまま寝台にその身を横たえた。

「わたし、離宮で絽陽から立ち上る紫雲を視たの。そして赤い気も視た。この世は乱世になり、新しい王が立つのを知ってた。鳳が現れたのもきっとそのせいね。なのにどうして寧の滅びは分からなかったのだろう。お前に滅ぼされるとなぜ分からなかったのだろう」

「人は知らなくてもいいことは知る必要がない。天帝がお前に不必要だと思ったことを、知らせることはないのだろ?」

「わたしはお前のような人間は嫌いだわ。髪まで死の臭いが染み付きそうだわ」

 嫌悪感を口にしながら、それでも玉兔は雄元の腕の中から動かなかった。それどころかきつく抱きついた。

「わたしは今の愚かな自分が嫌い。なんでこんなに愚かなの?」

「気にするな、俺は愚かなお前が愛しい」

「…………」

「愛おしいよ、玉兎」

 雄元は初めて想いを言葉にした。

「目を瞑れ、玉兔」

 雄元は玉兎の髪を撫でた。遠くで不気味に鳥が首を絞められるような声が聞こえたが、彼女は夜の闇に横たえたまま身じろぎさえしなかった。

 朝目覚めればそこは寧であると、何度玉兔は願って眠ったことだろう。しかし、そんな期待は今朝も裏切られ、瞳に映ったのは紫檀で出来た寝台の天井だった。ただ、いつもと違うのは雄元の腕が体に巻き付いていたことだ。

 昨夜、もちろん雄元は巫女の決定的な純潔に触れることはなかった。先に玉兔が寝息を立て、雄元がいつ眠りについたのか定かではない

 が、日が高く上がっているところを見ると、彼は遅くまで眠れずにいたのかもしれない。

 玉兔は彼の腕を解くと裸足を床につけた。

 すると、どこからともなく彩季が現れて、玉兔を着替えさせ、新しい菊の髪飾りを頭にさし、壁の首飾りを胸元につけた。

 鏡の中の自分にはどこにも寧の巫女姫の影は微塵もなかった。あるのは、美しく着飾らされた陶雄元将軍の愛妾――。

 玉兔は眉をひそめて鏡を向こうに寄せた。

 そして窓を開けさせると、今日一日を占うために東の太陽を探した。以前はまったく自らしようとしなかった日視の儀式だが、彼女は日に向けて叩頭して祈りを捧げた。たとえ、どんな姿をしていようが、どこにいようが、自分は九つの太陽であり、民の安寧を祈るのが務めであるからだと思うからだ。

「もう、昼か……」

 しかし、起きてきた雄元によってその神聖な時間はは妨げられてしまう。

「朝餉を運べ」

 侍女にそう命じると雄元は半身着ているものを脱ぎさって、武人らしい体躯を晒した。いくつかある傷のうちの一つは草原で伊士羅によって付けられたものだ。それはまだ新しく、痛々しいが、まるで武功の証しのように雄元の躯に刻まれている。

 眩しくそれを見て、玉兔は視線を逸らした。

 昨夜の雄元の息づかいを思い出したからだった。重なった唇と、絡まった脚、献身的な口と頭を撫でる雄元の手。そして白い閃光が走った。それは誇り高い玉兎には屈辱めいた触れ合いではあったが、彼女に必要な過程でもあった。雄元が結局のところ核心を得ようとしなかったのは、九つの太陽であることを尊重したからか、その利用価値を捨てきれなかったのか、考えても玉兔には分からないけれども、少なくとも、ほんのひと時の間だけ、玉兔は九つの太陽ではなく女であり、雄元は男だった。

 しかしそんな夜も明け、日の光に照らされた雄元の躯を見れば、玉兔は天帝の怒りを恐れた。たとえ、巫女である事実を失わなくとも、人ではない自分を雄元が触れていいはずはないと思ったからだ。九つの太陽の公主は日の視線を恐れて、窓を閉めた。

「朝餉は取ったのか」

「まだ」

 後ろを向きの玉兔の背を雄元はなぞった。

「案ずるな」

 雄元がもう一つ脇の小窓も閉めた。そして彼女の首もとに顔をうずめる。

「案じなくていい」

「……」

 玉兔も雄元も昨夜のなごりを思い出した。だが二人ともそれ以上どうすることもできない。玉兔が彼の腕を冷たく払うほかは――。

「支度が調いました」

 香が時を計ったかのようにそう告げた。雄元は先に席に付いた。

 だが、箸をとるまえに、あたりが騒がしくなった。

「雄元お兄さま!」

 一人の少女がそう言って部屋に案内もこわずに駆け入って来たからだ。

「蓮杏(れんあん)さま……」

 一人の少女がにこやかに雄元に抱きついた。


 少女の名は蓮杏。

 興王英の同母妹だ。つまり雄元の従妹である。

 十八才の公主は、愛らしい季節外れの牡丹をあしらった髪飾りを頭につけ、柔らかな桃色の衣を身にまとっていた。

 晩秋の季節に不似合いな牡丹は、しかし公主の頬の色によく映えている。それを知っていてわざと秋に春の装いをしているのだろう。

「雄元さまが絽陽にいらしていると聞いて、お会いしたいと思っておりました。それがこの王宮に昨晩はお泊まり遊ばしたと聞きましたので、朝一番で来たいところを我慢して日が高くなってから参りましたのよ」

 公主蓮杏はせきを切ったように話し出すと、そこにまるで玉兔がいないかのように雄元の袖に手を掛けて見上げた。それがいかに玉兎を意識しての行為か分かるから、玉兎は、蓮杏が王妹であるのも気にせずにそのまま、朝餉に手を付けた。

「無礼ではありませんか! こちらは大王の妹姫であられますぞ!」

 しかし、蓮杏の侍女の一人は我慢んならぬと玉兔の箸を取り上げて、跪くように玉兔に厳しい声で言った。

「よろしいのよ」

 蓮杏が苦笑して慈悲深さをみせた。

「この方はお客人なの。そうなのでしょう? 雄元お兄さま」

「…………」

「はじめまして、わたくしは蓮杏。あなたの名前は?」

 玉兎が無視をしたので、雄元が仕方なさそうに口を開いた。

「蓮杏さま、こちらは玉兔公主です。寧人は名を秘する習わしがあるので化粧料で

ある玉兔邑の名で呼ぶのがよろしいかと」

「そう。では玉兔さまと呼ばせて頂いてよろしいかしら?」

 あからさまに無視を決め込んだ玉兔に蓮杏は眉をよせ、そして将軍に微笑んだ。

「ご覧の通り未だに着替えてもおりません。蓮杏さまにはまた後ほどご挨拶に参りましょう」

 雄元は目の前の姫君に言外に帰るように促したが、

「まあ、お気遣いは無用ですわ」とそのまま空いた席についてしまうのも怖いもの知らずに育ったせいなのだろう。

「母上が雄元さまとそろそろ話したほうがよいと申しましたの」

「陶太后さまが? 何をですか」

「もちろん、わたくしたちの婚儀はいつ頃にするのがよろしいかという話です」

 蓮杏の優越感に満ちた瞳が玉兔に注いで止まった。『あなたは妾にすぎないのよ』とその目は言っており、玉兔は屈辱に唇を噛んだ。自分が九つの太陽の巫女であることは秘されなければならない。けれど、雄元とこうして朝餉を共にしている関係はきわめて曖昧で、それは玉兎の気持ちにもいえた。

 それなのに、こんな風に人に蔑みの視線を向けられると、それに抗おうと湧いてくる自分の感情は明らかに嫉妬だった。天帝の子として今まで額ずかれて生きてきた玉兔には自分の卑しい人としての感情が許せなかった。

 玉兔は席を立った。

「待て。玉兔」

 雄元の声が背中を追いかけてきたが、彼女はそのまま外に出た。侍女の香と莠の姉妹だけが続いた。

「玉兔さま……」

「お気になさることはございませんわ」

 慰めの言葉は肩をかすり玉兔の心には入ってこなかった。空っぽの王宮は甍ばかりがまばゆく、白い雲が北西へと流れていく。

 そして玉兔は隷の顔を思い浮かべた。感情を決して映さない冷たい巫祝の司の顔を。ああいうものこそ今の玉兎に必要なものなのかもしれなかった。心を閉ざし、天の流れを告げる人ばなれした仮面をかぶった顔が――。

 玉兔は連なる殿舎の向こうに高い楼があるのを見つけた。

 靴の裏革を鳴らして玉兔は走り出した。そして侍女たちの制止を振り切って、塀に囲まれた宮殿を迷路のように走り回る。右に左にと行っている間に、いつの間にか、女らしい曲線の多い建物ばかりだったのが、龍紋があしらった厳めしい建物に四方を囲まれていた。

 ――迎賓の宮殿かしら……。

 楼はどこであったかとあたりを見回すとその建物のすぐ後ろらしかった。人気はないが、全く無人というわけではないはず。玉兔は人に見咎められないように抜き足差し足でそこを通り抜けようとした。

「待て」

 しかし案の定、玉兔は建物の角で男の声に引き止められた。びくっとして立ち止まり、固まる。どう見ても自分は女官ではない。どう言い訳をしようかと一瞬思い悩むも、なんとも言いようがなかった。捕まって、雄元のもとに戻されるだけだろうと、開き直って彼女は振り向いた。

「……玉兔公主」

 しかし、そこにいたのは、鷹を手にした碧眼の男ではないか。

「伊士羅」

 あの草原で、玉兎は彼を見た。半分、見間違っていたかもしれないとも思っていた。それが、今、こうして自分の目の前にいる。幻だと思っていたあの日は、たしかに現実だったのだ。

 二人は同時に駆け出した。大鷹が白い羽を羽ばたかせ伊士羅の腕から飛び立ち、代わりに玉兔の小さな身体がすっぽりとその胸に埋まった。

「生きていたのですね」

「……いしら」

「どんなにかあの時あなたを追って行きたいと思ったことか――」

 伊士羅の言葉に玉兔はもう何も言えなかった。彼からは遠い西国の匂いがした。それはどこか寧を憶わせる、厳しい冬と美しい春を待つ北西の匂いだ。

「寧が滅んでしまったの。父さまもお母さまの殺されたわ」

「……」

「わたしひとりだけなの。みんな殺されてしまった」

 みんな、みんな……

 五年ほど前まではほんの子供だった伊士羅は彼女よりもずっと背が伸び、そして厚い胸板の中でこうして抱きしめてくれた。涙が彼の襟を濡らし、豪快に鼻水をすする音が緊張を解き伊士羅を笑わせた。

「あなたを迎えにきたのです」

「わたしを?」

「もう案ずる必要はないのですよ」

 彼の薄い青色の瞳に優しさが溢れた。

「私と共に西偉の都、廷関へ来てください」

 西夷は国名を西偉(せいい)と言うが、『偉』の文字を蛮族に使うことを嫌って中原の人間たちは、かの国を西夷と蔑んでいる。

 玉兔は伊士羅のいう廷関という場所がどこであるのか分からなかった。ただ広がる草原のどこかにそういう名の都があるような気がした。

「知らなくて当然です、公主。廷関は最近定まった都で、まだ城壁の土も乾かないような状況ですから」

 首を傾げて見上げた玉兔に伊士羅はそう付け加えた。西夷より更に西に玉兔が名も知らない国から技術者を呼び集めて、都はつくられたのだという。唐草模様が天井をはう宮殿を玉兔は思い浮かべた。

「しかし私の個人的な屋敷はあの寧の宮殿のように朱の漆に金の飾りを施したものを建てるように命じているのです」

「本当に?」

「砂漠を渡ってきた白い石を床に敷き詰めてあった寧の宮殿は私の故郷のようなものですからね。もう何も心配することなどないのです。瑶凛(ようりん)」

 諱(いみな)を呼ばれて玉兔ははっとした。美しい草原も西方の建物の立ち並ぶ都も、寧の宮殿を模写した伊士羅の屋敷もその一瞬で消え去って現実が眼前に現れた。

 寧では名を伏せるのが習わしだ。

「忘れておしまいになったのですか。あなたは私の妻になるはずだったのに」

 その習わしの例外は夫。

 日の印を体に宿す前の玉兔は忘れ去られた公主だった。あまたいる王の娘の一人にすぎず、母は女官で、後ろ盾もなかった。王宮を自由に駆け回っても誰も咎める者もいないほどの、気楽な身の上で、異国の質の王子と妻合わせるにはちょうどよかったし、いつも馬の乗り方を教えてくれる伊士羅は玉兔には一番身近な存在だった。

「あなたが十五になったら王に妻に欲しいと請おうと思っているのです」

 供を遠くに引き離し、二人だけで野駆けした十二の春。馬の手綱を引きながら歩いていた時、そう伊士羅に告げられた。白い花が小さな一面に咲いていて、そよかぜがその首をなぎ倒しながら野原を滑るように泳いでいった。

『だめ』とも『うん』ともそれに彼女は答えなかった。

 代わりに「瑶凛(ようりん)」と小さく呟いた。

 ほんの五、六年ほど前の話だが、彼女にはそれが何十年も前のことのように思い出された。幼い自分。何も知らなく、知る必要もなかった日々。絵物語のように美しい世界がそこにはあり、不必要な醜いものは何もなかった。

「あなたを迎えにきたのです。あなたが、私を西偉に帰国させてくれたのもそのためなのでしょう?」

 玉兔は靴の先を見た。

 玉兔が日の巫女の印を得たことを母は喜び、父に報告したのは、十三の時。

 妃の一人とも数えられなかった母が宮殿を賜り、そして玉兔は寧の国において生き神のように扱われた。薄絹の簾の垂れた向こうに椅子があり、天の声を百官に伝え、その執務を助けた。

 贅は欲しいまま。常に人は額ずいてその頭の黒さだけしか玉兔には見えなくなった。それはその後のわがままの原因とも言え、同時に孤独な心の裏返しでもあった。父にさえ、時にはすがり付かれるのは、十三の少女には耐え難いものだったからだ。

 当然、伊士羅との約束もなかったことになり、二人はそれから言葉を一言もかわしたことがない。

「西夷に遣わされた寧の人質の死にともなって、人質の交換をすべきか、それともこのまま公子伊士羅をとどまらせるべきか」

 そう公に卜占を頼まれた時、迷わず玉兔は神の言葉ではなく自分の意思で言った。

「質は新しくすべし」

 しかし、言い切った後、誰かが自分の代わりに彼の妻となり、馬を引いて野を並んで歩く――。そんな空想をして、不安になった。

 玉兎は、だから玉で髪にかざり、長く長く裾を引く衣を縫わせ、そんな不安をぬぐい去ろうと試みた。誰かが、『日の巫女よ、どうぞ国を傾ける浪費はお考え直し下さい』と額を上げたこともある。汗を滝のように垂らした中年の男だった。

「口を慎め」

 その男がその後にどうなったのか、玉兔は知らない。知ろうとも思わなかった。その頃は全ての人が自分の敵のように感じて憎んでいた。今、こうして玉兔は敵国で囚われの身となっているが、別の意味で彼女はとうの昔から窮屈な囚人だったのだ。

 伊士羅が寧を去ってから、日の巫女姫は手の付けられないほどの癇癪持ちになってしまった。隷の無表情とはちがう、むすりとした顔は眉間に一本の線が立つほどで、玉兔の機嫌が優れないたびに、寧の宮殿が縮こまったものだ。

「瑶凛姫?」

 伊士羅が黙ったままの玉兔に再び諱で呼びかけた。

 たった五年。たった――。

 しかし、玉兔はもう自分が瑶凛ではない気がした。伊士羅と無邪気に野を歩いたあの頃の自分ではない。玉兔公主と呼ばれた月日は長いわけではない。しかし、もう彼女は自分でさえ諱(いみな)を憶えてもいなかった。

 玉兔は右手で彼の体と自分のそれを引き離した。

「姫?」

 真っ赤な木の葉が二人の間を分かつ。

「玉兔公主」

 後ろから声がした。呂雲が蹄の音を立ててやってきたのだった。数十人の兵士が二人を囲む。

「将軍がお呼びでございます」

 きらりと光った槍の先が伊士羅に向けられる。

「分かったわ」

 玉兔は後から連れてこられた雄元の青馬の背に乗った。

「伊士羅、お願いよ。わたしを名前で呼ばないで――」

「姫……」

「玉兔と呼んで」

 玉兔は言いたいことを胸にしまったまま、かつて馬を伊士羅に教えられた通りに操って駆け出した。


 雄元は陶太后の部屋を訪れた。

 すっかり片付けられ、あとは身を一つ車の中に移せば、そこは後宮でも王宮でもなく広いただの空き部屋となるだけだった。

「陶太后さま。公主蓮杏と私が結婚とはいったいどういうことでしょう」

 太后は恐ろしく太った猫を膝に抱いたまま、雄元の問いにしばらく答えようとはしなかった。日がちょうど彼女の顔には届かずに暗い影だけが伸びている。

「伯母上」

「何を今初めて聞いたような口ぶりを」

 低く小さな声。しかしそれははっきりと雄元の耳に届いた。

「確かに以前よりそのような噂をする者は数えきれずおりましたが……まさか公主ご本人から聞くとは思っておりませんでした」

「最高の縁談ではないか。蓮杏とそなたはいとこ同士。王家の血と陶家の血が混ざれば、これに増す国の安定はありますまい」

 それは事実だ。王の妹を娶れば王と雄元の関係も安定し、雄元が王を補佐する建前もできる。他の一族に王との間に割り込む隙をあたえないためにもそれは必要なことだ。だが、いくら蓮杏が愛らしい少女だろうが、雄元は彼女を愛せるとは思えない。

「叔母上。今は不安定な時期。そういうことは後々の方でよろしいはずではありませんか」

「不安定なればこそ。お前は何を迷うか」

 太后は喉の奥で笑った。寡婦の黒い衣がそれに揺れて、腕輪の飾りが音を立てた。

「よもや一人で全てを成し遂げたとは思うでないぞ」

「…………」

「若さとは罪なことよ」

 猫だけが雄元を見た。鋭い目が暗闇で片方だけが光っている。雄元は黙って踵を返した。

 武人である彼は引き際を知っている。特に相手が自分より狡猾であるときは。

 陶太后は雄元が生まれる前から後宮に上がり、そして生き抜いてきただ。決して彼が正面から当たって勝てる相手ではない。

「玉兔はまだ見つからないのか!」

 王宮の回廊を憤懣が怒りとなって配下の頭上に落ちた。

「ただいまこちらに向かっているとのことです」

「どこにいたのだ」

「……それが……」

「どこにいたのかと聞いている!」

「西夷の使者とおりましたところを見つけたのことです」

 雄元は自分の失態にその時ようやく気がついた。ここに来た目的、 それは西夷の使者である伊士羅と会うことだったではないか。雑務に追われ、失念していた自分に雄元は腹が立ち、そして玉兔と伊士羅を会わせてしまったことを苦々しく思った。

「玉兔は俺の部屋に閉じ込めておけ。一歩も外に出すな!」

「はっ」

「今から使者に会う」

 呂雲は戦場では役に立つが、秘書官としては李敬健にはとてもおよばない。

 雄元は呼吸を整えた。

 ――落ち着かなければ。

 草原で剣を合わせたときの記憶が蘇る。切れ味がよい優れた腕前で、やろうと思えば、雄元の命を取ることもできたというのに、あの男は深追いをせず、雄元たちを見逃した。それはなかなか出来ることではない。

 ――西夷公子、伊士羅とはきっと冷静な判断と計算ができる男だ。

 雄元は、衣を改めた。

 黒い袍に金の飾り刀を帯び、そして冠を頭にのせる。興国の威信と『血の軍』を率いる陶雄元将軍の名を背筋に表し、臣下が掲げた鏡の中の自分を見た。影の君主として一つの隙もそこにはなかった。

 雄元は主のない賢清宮の玉座を見上げると、ゆっくりその階下ある椅子に腰を下ろし、西夷の使者を迎えた。三名の西夷からの使者うち一名は明らかに碧眼長身の異形の男で、他の二人は顔立ちなどはさほど中原の人間とは違わないが、身にまとっている胡服や歩き方、持っている雰囲気全てが異民族のものだ。それに対して、碧眼の男のみが、袍をまとい、雄元に寧風の拝礼したのは、いかにも格式張った中原の貴族のものだった。

「二度目かな? 公子伊士羅」

「その節はご挨拶もままならず失礼申し上げました」

 視線は着物の襟元よりも少し上。礼にかなった位置だった。ただ、玉兔を思わせる寧の言葉が鼻につく。

「挨拶なら十分していただいたよ、公子。未だに傷がうずくときがある」

 伊士羅の口元が少し緩み、そして視線が上がった。 「この度、先王が崩御遊ばしたのを西偉王に代わりましてお悔やみを申し上げに参りました」

 横にいた男がその言葉に立ち上がり、王からの書を呂雲に手渡した。雄元は『お預かりする』とだけ答えた。そして贈り物として白狐裘や、西方の硝子の杯、楽器、玉などが目の前に広げられると、その珍しさに雄元は舌を巻いた。西偉が西方でいかに巨大化しているのかうかがえて、そら恐ろしくなった。

「前置きはこのあたりにして欲しい」

 そう言ったのも、長々と伊士羅主導でこの場を仕切られたくなかったからだ。

「我が国の国境を西夷は侵している。一体どういうつもりか」

「陶将軍。我が国の目的は今は一つだけです」

「それは何か」

「寧は我が西偉と同盟の関係でありました。将軍は我が国が寧に送った質をも殺し、寧の地には今や興の旗が上っております。我が主はそれが不快であると思っているのです」

「寧は滅んだ。今は興国の地であり西夷が何と言おうが兵を引くつもりはない」

「陶将軍、ご事情は十分承知した上で申し上げているのです。ただ西偉といたしましても興と武力で対立することは本意ではありません。つきましては、こちらに渡して頂きたいものがあるのです」

「それは何か」

「寧の公主です」

 伊士羅が低く頭を下げた。態度は非常に謙虚で服従的であるのに、言葉の中に含まれているのは脅しだ。

 雄元は足下に跪いたままの男を見下ろし、微動だにしない異国の公子に無感情になった。

「断る」

 伊士羅は面をゆっくり上げた。瞳が初めてぶつかった。

「玉兔は譲れない」

 寧に質として暮らしたことのある男は、玉兔がどのような能力のある女か知っていて戦と彼女を交換したいと言っている。雄元も九つ太陽の予言や雨乞いを目の当たりにしてきて、その有効価値を十分に分かっているつもりだ。それをみすみすこの内政の不安定な時期に手放すことは出来ないし、手放せば公子隷が、英を使って必ず復讐してくる。

「あれが天帝の子であるから欲しいのだろう?」

「興国には既に二人も九つの太陽がいるのです」

「だから一人ぐらい寄越せと?」

 雄元は皮肉に笑った。

「それもありますが、将軍。かの姫は私の妻となるべき人なのです。そういう星の巡り合わせで生まれてきた人なのです」

 雄元は運命や宿命などを信じない男だ。

 西夷はどのみち興国と対立していくのは避けられない。戦の理由が欲しくて無理難題を押し付けてきているだけの話だと思った。

「私が寧に人質として遣わされる時、西偉で最も力のある占星術者が『やがてこの君、王になる』と予言したのです。人質にやることが決まっていた公子にそんな定めがあるとは自分も含めて誰も思わなかったものです」

「……」

「しかし、私は寧で天帝の娘に姫に恋をした」

「つまらない話だ」

 伊士羅は『つまらない』と一蹴した雄元に苦笑を浮かべ、そして今度は鋭い視線を向けた。

「ですが、予言は本当になった。いや、私は予言を本当にした」

「……」

「兵は二十万。明日には国境を越えるでしょう」

「それではまるで予言通りにあなたが西夷王になったとでもいうようだな」

「そうです、私が西偉の王です。興の君主、陶雄元」

 雄元の頭の中は一瞬だけ白い底に落ちた。だが、それはほんのひと時の間のことで、彼は速やかに兵の位置と数に頭をめぐらせた。直ぐに使える兵は蘇学の三万。それに絽陽に常駐する二万。南方にいる五万も無理をすればなんとか呼び戻せるだろう。しかし寧にいる四万は動かしがたいし、金烏宮の兵、一万は王を押さえるのに絶対に必要な数だ。

「ならばこういうことは考えなかったのか」

 雄元は黄金の柄を持つ剣を抜いて伊士羅の首に当てて言った。

「残念ながら私を殺しても兵は引きません。あまたいる兄と父を殺して王座に就いた私を将軍が殺してくれるのを楽しみに待っている連中など腐るほどおりますから」

 雄元は歯ぎしりをした。

「将軍、失礼してよろしいでしょうか」

 呂雲は、顔色を青ざめて戸口に姿を現し、雄元が使者に剣を突き立てている様子に驚いた。

「後にしろ」

「いえ、後では」

「私のことならかまいません」

 西夷王は平然とそう言って雄元が使っていた椅子にどしりと座った。

「どうしたんだ」

 雄元は伊士羅の余裕めいた態度を腹立たしく思いながら、耳打ちする呂雲に訊ねた。

「それが……北方の揩州にてまた農民の反乱が起こっているとのことです」

「数は?」

「今のところ二万。ですが大規模に発展する可能性があります」

「皆殺しにしろ」

 揩州は北の地。すでに兵が鎮圧に動いているだろうが、今の雄元には農民とは言え、手心を加えている余裕はなかった。それにしても間が悪すぎる。雄元は西夷がこれを煽動したに違いない。

「西夷王、あなたはなかなか手の込んだことをする人のようだ」

「私はただ私の妻となるはずだった人を返して欲しいだけなのです。そのために、王の座にこだわったと言っても過言ではないのですから」

「玉兔にこだわったのか、天下を手中に握ることにこだわったのか疑問だな」

「陶雄元、それこそ愚問です。私は姫を妻に迎えられるのなら、寧で人質のままでもよかった。寧は穏やかで美しい国でした。冬の白い雪、春の雪解けと若菜。碧い夏。庭に散る秋の木の葉。そこに公主がいる。決して悪い人生ではない」

「…………」

「しかし、九つの太陽、天帝の姫を妻に出来るのは地を治める王のみ。ならば、私がこの地を治め、天を祀るしかない。選択の余地のなかった」

 雄元は目の前の男が興の王であったならと思った。そうであれば、この男のために戦場で命を落としても苦ではないかもしれない。しかし、事実は違った。興には煮え切らない王が存在し、雄元はそれに代わってこの国を治めなければならなかった。

「王よ、しかし残念ながら紫雲はこの興国から上がっていたと玉兔は言っている」

 碧眼がこちらを向いた。

「それが本当であれば、天命を持ち地を治める人間はあなたではないことになる」

 雄元には今まで壮大な野心などなかった。前王が政務を放棄し、隷の言葉に耳を傾けなければ、一人の武人として戦場で生涯を閉じていただろう。だが、この碧眼の王の前に立つと、為政者としての血が騒いだ。

 自分こそがこの広大な大地を治める者となり、この男を倒す。それは初めて彼が抱いた必然的な野心だった。


 李敬健は絽陽にその日のうちに呼び戻された。

 雄元から西夷王の意向を聞くと、少し眉を上げ、そして目元を険しくした。

「背に腹はかえられぬとはこのことをいうのでございましょう。蘇学の三万に絽陽の二万を加え、五万でまずはあたり、南方より兵が着くのを待つしかありません」

「それでは絽陽が空になる」

「離宮の一万をこちらに動かせばよろしいのでは」

「禁軍が離宮を握る」

「ですから背に腹はかえられぬと申し上げているのでございます」

 李敬健は卓上の地図にのせられた兵の駒を動かしてみせた。南方は薄手になり、隣国の宛国や極国などがこれに乗じる可能性が高い。

「そもそも興は急速に大きくなりすぎたのでございます。そして奪った土地を直轄ではなく、細かく切り刻んで臣たちに分け与えた。前王の政策でございますれば、致し方ないと言うほかございません」

「そう半分諦めたような言い方では困る」

「では玉兔公主をお諦めくださいませ」

 雄元は黙った。李敬健は今ある窮地から簡単に脱する方法がありながら、雄元がそれに消極的であることに批判的な視線を送る。日の巫女を得た人間がこの大地を治める天命を授かるなどと言われてみても、このままでは西夷に国の半分は最低持っていかれる方が現実的だ。

「兵は二十万。あちらも大所帯でくるということだ。都が廷関とい う地に定められたと聞くが、それはどの辺りか」

「このあたりかと」

 遊牧の民である西夷が都を定めたということは、急速に西夷が中原化していることを意味した。それは寧で育った伊士羅の強い意向によるもののはずだ。見た目は異国人でも、あの男の思考は中原のものだ。

「西夷のさらに西にある契氏国も西夷の拡大にはいまいましく思っていることだろうな」

「敵の敵は味方と申しますから、使者を遣わしましょう」

「それがいい。ただ時間がかかる」

「しばらくのらりくらりと戦う他ございません」

「そうだな」

「それと、軍を離宮から動かすことになれば、当然、王との関係が難しくなります。このまま離宮で飾り立てておくのは厳しくなるやもしれません」

「ああ」

「つきましては、そろそろお腹をくくって頂きたく」

 李敬健が言いたいことは雄元には分かっていた。公主蓮杏との結婚のことだ。王の妹を妻に持てば、陶太后も納得し、雄元が完全に国を乗っ取っている現状に不満を持つ人間たちも懐柔できる。

「それほど嫌な相手でもございますまい。芙蓉のような方ではありませんか」

「あの陶太后の娘だ」

「玉兔公主の足元にも及ばないとしても、普通に美しい姫君です。悪い方に考えるのがいけないのでは?」

「……気乗りがしない」

「初夜さえ乗り越えればいいだけの話です。体つきなどは似ているのですから、後ろからお抱きになればいい」

「合理主義だな」

「どちらか一つでお願いいたします。玉兔公主を西夷に引き渡すか、あるいは公主蓮杏さまと結婚するか」

 それでは雄元には後者の選択しか残っていないことになる。彼にはもう玉兔を手放すことなどできなかった。たとえ、人の情欲の池に二人で漂うことはなくても、彼はかの人を愛し、そして持たなくてもよかった野心さえも抱き始めている。

「分かった。蓮杏を妻としよう」

「ご英断に感謝いたします

 李敬健はそのまま下がっていった。

 雄元はそれを見送ると、襟を緩めた。空気が必要だった。一人、供も付けずに広大に広がる白い庭に出れば、冬が待ち遠しい。雪が降れば、西夷も引かずにはいられない。

 雄元は初めて天に祈った。

 厳しい冬を願って――。

        

 玉兔は伊士羅と会ってから文字通り一歩も雄元の部屋から出るのを許されなかった。それどころか、何日もそのまま忘れ去られたように放置された。雄元の本棚からいくつかの難しい本を読む以外することもなく、侍女の莠が『西夷の使者は絽陽を去ったようでございます』と報告に来たが、それが何を意味するのかも分からなかった。

 しかし王宮全体が異様な慌ただしさに殺気だっているのは確かだった。既に華妃の存在も華応安の名前も人の口の端に上ることはなくなり、陶太后も離宮へと去り、何か新しい不安が絽陽の空を覆っている。

「玉兔」

 扉が開き、皮靴が荒い音を立てて近づいてきた。

「なによ」

「玉兔」

「数日だけという話ではなかったの。退屈で死ぬところだったわ」

「それどころではなくなった」

 不機嫌気味に不満を口にしようとした玉兔を雄元は抱えた。

「どうかしたの?」

「戦になる。西夷が攻めて来る。お前と交換に止めてもよいと言われたが、断った」

「馬鹿じゃないの?」

「馬鹿ではない」

「わたしがお前なら、さっさとお前を引き渡しているわ」

 玉兔は心底雄元を愚かだと思った。しかも、先王が亡くなって半年も経っていない。喪中に兵を動かすとは相当な話だ。

「俺は馬鹿ではない。国の威信もある。未開の蛮族に脅されて、たとえ質だろうが要求されて差し出すことはできない」

「伊士羅は?」

「煮ても焼いても食えない男だ。西夷に大人しく帰した」

「そう」

「長い戦いになるかもしれない」

「お前も行くの?」

「最終的にはな」

 唇が重なった。何かを隠したいための接吻のようでも、何かを飲み込むための接吻のようでもあった。

「俺には二つの矛盾した要求がお前にある」

「なに?」

「一つは今、俺はお前を抱きたい。そしてもう一つは雪を呼んで欲しい。大地を凍らせるほどの雪を降らせて欲しいんだ」

 玉兔は眉を寄せた。霜月に雪。寧ならば不思議でもない。しかし、まだ絽陽には早い。それに飢餓で苦しむこの国に雪を降らせては、民が苦しむ。

「どちらも無理だわ」

「雪が降れば西夷は引かざるを得ない。血が流されずに戦は一時停止するはずだ」

「そんなの隷に言えばいい。力もあるし、あの人は興人よ」

「俺はお前に頼んでいる」

 玉兔は顔を背けた。

「戦で男手が減れば来年も民は飢餓に苦しむことになる」

「で? どうして私を抱きたいなんてそんなことを言うの? あなたは私の力が必要なのに。巫女でない私なんて無価値だわ」

 玉兔には分かっていた。蓮杏と会ったときからあの娘が雄元の妻になるのだと。ここ数日ずっと考えていたことだ。

 玉兎は何も答えぬ雄元を睨むとその腕を払いのけた。そして『自分には関係ないことだわ』と心に言い聞かせながらも、婚儀のために金烏宮へと向かう雄元を乗せた馬車が雪で往生する光景を思い浮かべた。

 長く続く道を雪で埋めてしまいたい。軽い雪の片などではなく重い水気を含んだ石のような雪で――。

 それを嫉妬などという単純な言葉では玉兔は言いたくなかった。酷く惨めな気持ちと誇りを汚された怒り、それらは憎愛以上に彼女心を占めていた。

「すまない玉兔」

「私には関係のない話だわ」

 玉兔は顎を持ち上げて言った。

 それでも、玉兔はその朝、肌が透けるほど薄い白衣に着替えた。

 髪も結わずに垂らし髪にし、化粧も落とした。そして額に一つ蓮の葉を描き寧公の宝剣を抱き父を懐う。本当なら血の穢れのない剣こそが相応しいけれど、今日の玉兔は魂に叫びを込める必要があり、あえて寧の哀しい剣を選んだ。

 ――お父さま、寧の民よ。お願い、力を貸して。

 乙女である香と莠の姉妹にも同じような姿をさせ、冷たい外へと裸足で出る。

「本当に雪が降るのでしょうか」

「降るわ」

 地に渦巻く怒りをもって天に奏上するのだ。絶対に降る。降らせてみせる。

 玉兎は正殿の前の四神獣が刻まれた石畳の上に立つと、寒さのせいで唇が紫色になった。キュと口をつぐんだ玉兔は、宝剣を鞘から抜くと、玄武像の前でそれを掲げ頭を下げる。玄武は北を司り、冬の象徴でもある。彼女は瞳を閉じた。

 そして、金烏宮へと向かったであろう雄元を想った。

 哀しみ。

 なぜそんな男のために天に祈らなければならないのか。

 矛盾。

 なぜ、抱かれたいと言わなかったのか。

 玉兎は天を見上げた。人ではない自分が、人の苦しみの中に身をおくこと自体が愚かな過ちなのだ。自己という一個の人格を越えた向こうにこそ、崇高な自分が存在する――。そう彼女は思い込もうとした。

 雪が欲しい。人の都合で地が戦で穢れてはならない。

 天に舞を捧げ、玉兔は自分の思い描く情景が未来となるように願った。

 剣の先が天に煌めき、玉兔の背が完璧なまでの型を取った。額から汗が粒となって地に落ち、彼女の心からはいつのまにか、人らしい迷いが消えていた。雄元のことも公主蓮杏のことも、伊士羅のことも、寧のことも――。

「雪だわ!」

 香(こう)が天を指差して言った。花弁のような一片の雪だった。

「本当に雪が降ってきた!」

 莠(ゆう)が香に似た顔を横に並べててのひらを空に広げる。

「これで興は救われるのですか」

「雪が道を閉ざしてくれたなら」

 ――雪の嵐よ、お願いだから、この世すべてを白く染め変えて。そして、あの人の望みを叶えてあげて。わたしがすべての犠牲を払うから――。


 李敬健もまた同時刻に馬車から雪を見上げていた。そして遠のく王宮の甍が黄金から白に変わっていくの見て、わざと明るい顔を将軍に作った。

「天帝のお恵みですね。今頃西夷は馬首を返していることでしょう」

 雄元は何も答えなかった。雪のせいで馬車の揺れが酷くなり、それはまるで将軍の何かを揺すぶるためのようで、李敬健はため息がでる。

「やはり玉兔公主は興の神祇の司にするべきかと存じます。金烏公子はどこか信用ならぬところがありますから。最近ではしきりに王に取り入っていると報告もございますし、民が疲弊しているのに雨乞いも芳しい成果を上げず、ひたすら王から依頼されている妃の安産ばかりを祈る始末です」

「そうか……」

「聞いておられるのですか」

「ああ……」

「将軍?」

 李敬健は、ひじをついたまま空を見上げ続ける雄元に苦笑し口をつぐんだ。雪に雄元が玉兔を想っているのを彼は分かっている。馬車から手を出して重くなりつつある雪の具合を確かめた李敬健は、西夷との戦が回避されたことを確信すると、無口な同乗者相手に会話の糸口を探すことを諦め、軍師らしく、貯蓄米の量を頭の中で勘定し始めた。

 米の値があがれば物価が上がる。北の民の暴動も興国全体どころかこの巨大な中原全てに広がっていく可能性は大きかった。だが西夷が完全に兵の撤退するまでは、どうしても軍事優先にしなければならない。敬健は頭を抱え、雄元の意見を聞こうとして口を開きかけた時、馬車が大きく傾いた。敬健の体は辛うじて馬車の中に残ったが、馬車自体が前にのめり、載せていた書籍がいくか雪の上に落ちた。

「どうしたというのですか」

 大切な書籍を拾いに出た敬健が馬上の呂雲に不満げに訊ねると、

「車輪が溝にはまったのです。お二人とも、直ぐに引き上げますのでそのままでいらしてください」という。

「こんな雪になると知っていれば輿にしたものを。これでは無事に離宮に着けるかどうかわかりませんね」

 雄元が敬健の言葉に急に立ち上がった。

「いかがいたしましたか? 将軍。すぐに馬車を呂雲が引き上げますのでそのままでいてくだ――」

「帰る」

「はい? 帰る?」

「俺は絽陽に帰る」

 将軍は馬車から飛び降りると、供に引かせていた自分の駿馬の手綱を取った。

「ちょ、ちょ、ちょっと、お待ちを! 華燭はいかがなさるおつもりなのですかっ!」

「お前に後は任せた!」

「任せたって! 将軍! 呂雲、お止めしろ!」

 止めるように命じたというのに呂雲は嬉々として馬にまたがった。こうなることはなんとなく分かっていたというのに、李敬健は雪の大地の真ん中で脱力した。

「任せたって、そんな――。王の妹との結婚を当日に反故になどできませんよ……」

 残念ながら李敬健のつぶやきは雪の中に吸い込まれ、将軍の部下たちはこぞってその後を追っていってしまった。そしてはたと気づく。

「馬車が溝にはまっているのですよ! どうやって私は離宮に行ったらいいのですか!」

 雪道に人は通りそうにない。


 後日、当然だが雄元は金烏宮の多くの者たちから非難された。王の妹を降嫁されるという名誉に授かりながら、それを当日になって放棄し、王の面目を潰したからだ。

 李敬健は雄元が非難されるたびに『西方の状況が雪のため急変したため、その対応に将軍は追われているのでございます』と頭を下げて説明した。が、他と隔離された金烏宮に住む貴人たちには、目に見えない西夷の脅威よりも雄元の方が問題だった。

「やれやれ」

 李敬健は一人になるとそう呟いた。

 公主蓮杏あたりは、婚儀が流れ、雄元の不誠実に初めは取り乱し、李敬健に噛み付いてきたが、そのうち

「婚儀はございませんでしたが、日を改めて必ず行うことでございましょう。儀式めいたものはなくとも、私は既に雄元さまの妻であるつもりでおります」と殊勝なことを口にして反雄元派の臣下を牽制した。

 それは王と雄元の確執を心配する者たちが、公主に言わせた台詞だったが、蓮杏は、公主というよりも陶雄元将軍の妻として離宮でも振る舞い、今まで以上の羨望の眼差しを周囲から得ようとしていた。

 もちろんそれに李敬健が閉口しないはずはなかった。

 玉兔が尊大な態度に出るのとは違う。玉兔公主が亡国の公主であるのに対して、蓮杏は現にある程度の影響力をもった女性だ。それが、このように振る舞えば、雄元の配下としては煙たくなる。李敬健自身、雄元と蓮杏が結ばれることをこれ以上にない縁組みだと信じ、雄元にも無理強いしたが、確かに蓮杏は『陶太后の娘だ』とうなずかずにはいられない。

「やれやれ」

 李敬健は再びため息とともにそう呟いた。

 やっかいなことを『後は任せた』と押し付ける雄元に恨み言を言いたい。

 今頃、玉兔とよろしくやっているのかと思うと腹も立つ。

 李敬健は脇に片付けられた雪を避けるように歩きながら、『将軍も九つの太陽に恋するなどどうかされている』と思いつつ、そんな男に付き合っている自分もどうかしていることに気付いてくすりと笑った。

 ――一生抱けない女を好きとは将軍らしい。

 玉兔が降らせた雪のお陰で西夷も今年の冬は、興を攻めることを諦めただろう。春までには西夷の敵である契氏国に使者を使わし、左右から西夷を叩くことも出来る。そうすれば、この問題も婚礼もなんとかなるのではないか。

 ――そうだ、楽天的に考えよう。

 李敬健は、気を取り直すと道から顔を上げた。そして遥か向こうの城壁に雪と同じ色の人影を見た。

 ――金烏公子?

 白髪と白い衣。祈りを捧げているようでも、ただ雪に染め変えられた大地を見ているようでもある。

 ――こんな寒い中、何をしているんだ?

 李敬健はなぜか興味を持った。

 寒さから逃げるように自室で休もうと思っていた足を城壁へと向けた。

 この離宮の主であり、興国の神司である金烏公子は、異様なまでに若い相をしているが、敬健には隷が年老いた翁にしか見えなかった。

 隷は先王の子ではない。

 その事実だけでも、彼の年齢は窺える。先々王が隷の父である王を弑して王位についたということを聞いたことがある。ただ秘されるべき事実なのだろう。詳しいことはずっと李敬健も知らなかった。だが公子志旦の首を離宮の西に埋める前に、年老いた宦官から、そこには隷の母の首が埋められており、それを隷は長いあいだ掘り起こしたがっていたのだと聞かされた。  

 首を城の周囲に埋めるのは外敵から守る呪禁の一種だ。今、年月を経て、隷の母の首はその役目を終え、志旦の幼いそれが据え代えられた。では、隷は城壁の上で何を思っているのだろう。李敬健は暗い石段を上った。雪がまたはらはらとし始めた。

「金烏公子、いかが遊ばしましたか」

 李敬健は彼に声をかけてみた。

「美しいと思っていたのだ。まるで女の泣き声のように聴こえないか」

 李敬健は隷の言葉に耳を澄ませた。何も聴こえない。ただ雪がしんしんと空気を冷やしているだけだ。

「人為的な雪だ」

「さようで?」

「玉兔公主が空を見上げて泣いているのだろう」

 隷が手を宙に伸ばし、袖から白い腕が見えた。日の印。太古の昔の文字が刻まれて、目の前の人がただの人間ではなく、偉大なる九つの太陽であることを示していた。

「公主は離宮に戻るのか」

「さあ、そればかりは私めの知るところではございません」

「長く一人で暮らして一人に慣れていたわりに、あの賑やかな人がいないと寂しいね」

 雄元はこのまま絽陽にとどまるような気がした。既に王との仲は誤摩化しきれないほど険悪だったし、それを雄元が蓮杏と結婚して修復するようにはとても思えなかった。

「金烏公子、お風邪を召されます。どうぞ室内にお戻り下さいませ」

「風邪?」

 隷が振り返って鼻で笑った。そして肩に積もった雪を払うと、再び遠くに目をやる。

「例の南門の前から出てきた首のことだが」

「はい」

「あれは私に渡して欲しい。お前が持っているようなものではない」

 本来なら雄元の指示を待ち、回答すべきことだ。即答しなかったのはその命を仰ぎたかったのではなく、南門から出てきた首が事実、隷の母親のものであるならば、返してやりたいと李敬健が思ったからだ。

「南門の首だけでよろしいので? 華応安の首もありますし、公子志旦の生母華妃の首が絽陽から送られてまいりました。北門もそろそろ首を差し替えたらいかがでしょうか」

「そうだな。父上もお疲れであろう」

 李敬健は隷の言葉の意味が分からず、伏していた視線を上げて白髪の人の背を見た。

「北門には父、孝哀王の首がある」

「まさか?! では陵に祀られている王のご遺体には?!」

「首なしの胴が横たわっているのだろう」

「まさか、そんな畏れ多いことは、さすがに――」

「ない、と? 嘘ではない。私がこの手でこの離宮に結界をつくるために呪を施して埋めたのだからね」

 言葉を失った李敬健に対して、隷はまるでなんでもないことのように言う。

「それにしても父上の代わりが華妃では心もとないね。西夷も当然攻めてこよう」

 白い髪が振り向きざまに揺れた。

「もう少し立派な首が欲しかったが。まあいい。私にはどうでもいいことだ。守るだけが全てではない」

 李敬健は深く頭を下げる以外に何とそれに答えてよいか分からなかった。靴の上に積もった雪が溶け出して急に冷たく指先に触れた。

「西夷はどうなったのか?」

「未だ小競り合いをしております。蘇学も健闘しておりますし、主力は西に引き上げましたので、本格的な冬になる前には終わるかと」

「そうか」

「公子の目にはどのような未来が視えているのかお教え頂けないでしょうか」

「なんとも言えない。気と気が大地で争っている。それだけだ」

 隷は振り返った。

「首を返してくれるなら李敬健、お前に礼をしよう」

「一体何をくださるのですか?」

「お前は何を一番大切に思って生きているのか」

「私めは陶将軍の臣であり、将軍こそが私の命だとおります」

「ならば、迷ったときには陶将軍を裏切ることだ」

「……裏切る?」

「そうすることで雄元は助かるだろう」

 李敬健は訝しむ視線を隷に向けた。だが、その視線に隷のそれが合わさることはなかった。白虎がどこからともなく現れると、牙を剥いて軍師を睨んだ。


 霜月の雪は三日してからやんだ。

 形ばかり残っていた木の葉も急な雪と冷えのせいで舞い落ちて、残ったのは寒々とした景色だけだった。

 李敬健は雲の間からのぞく太陽を見て、玉兔は笑っているのだろうかと考えた。雄元から遣いが届き、一部の高官たちは絽陽に戻されることが決まった。離宮は盆がひっくり返ったような騒ぎになったが、敬健だけは晴れの空に頬を緩めた。

「李敬健殿」

「陶羽殿」

 そんな軍師を引き止めたのは若き陶羽だ。まだこの青年の処置は決まっていなかった。雄元は純朴で一途な性格の従弟を可愛がりつつ、同時に持て余している。李敬健は、なかなか陶羽の帰京を将軍に進言出来ずにいた。

「将軍はいったいこの興国をどうされるおつもりなのでしょうか。百官は皆、口を揃えて将軍の王への不敬を口にしています。このままでは大王や陶太后も含めた王族をここに幽閉して、将軍が王位につくのではとまで案じているのです」

「お言葉には気をつけられよ。将軍以上に大王に忠実な臣はおりません」

「しかしながら、私が言わずして誰が言いましょう」

「お身内だからこそ、口は慎まれた方がいい」

 雄元の性格からして、陶羽を二度も許しはない。戦線を離脱して、雄元を諌めた行為は勇敢だったが、愚か過ぎる出来事だった。あれを雄元が許したのは血ゆえのことで、二度目がないのも血ゆえのことだ。

「大王も焦っておられる」

「畏れ多いことです」

「私はただ今より、大王の使者として絽陽に行くことになったのです」

「大王の?」

「と、言うよりも陶太后のと申し上げた方がいいかもしれませんが……」

 陶羽は声を潜めた。眉を敬健は上げた。

「玉兔公主を離宮に戻すようにとのことです」

 将軍の優秀な軍師は、彼女が「九つの太陽」であることがあばかれたのだと思った。なにしろ、西夷を追い払う雪を降らすことのできる女だ。王が彼女の存在を知れば、その権威を増すのに彼女の力を欲しがるのは当然だった。

「陶羽殿、それは一体どういう理由で?」

 敬健はだから訊ねたのだが、十以上も年下の陶羽が『何を馬鹿なことを訊ねているのだ』と怒りとあきれを含んだ視線を返した。

「もちろん、閨事の話です」

 しばらく驚きで李敬健は言葉がなかった。そして陶羽が雄元を批判しながらも、王の使いという機密を洩らす意図が、玉兔をこの男も惚れているためであることに気づいた。

「陶羽殿、それは蓮杏さまの件での仕返しでしょうか」

「そんなところですよ。大王はというより、太后は陶将軍の愛妾を取り上げて、どちらが本当の王であるのか、このあたりで示しておきたいのです」

「あなたもそんな遣いに絽陽に行ったら将軍に斬り殺されかねませんよ」

 李敬健は頭を抱えた。当然、雄元はこの話をつっぱねる。雄元さえ未だに手を出していない玉兔は九つの太陽であり、その力なくしては、雄元も政務に支障がきたすだろう。だが、雄元はそれを王に告げることはない。将来的に玉兔が利用されることを恐れるからだ。

「将軍に選択の余地はないのでは? 大王を蔑ろにしてきたことは事実なのですから」

 敬健は苦笑を浮かべ肩をすくめた

「困ったことです」

「李敬健殿、将軍は玉兔公主を一夜お貸ししてでも、大王との和解を探るべきです。そうでなければ、太后も大王を支える臣らも納得いたしません。ですから何度も私は将軍に大王を疎かにするのはどうかと、申し上げてきたのです」


「一夜とて将軍は頷くはずはございませんよ」

「大王との間に亀裂が入ってもですか?」

「玉兔公主の乙女を献上するほど将軍が寛容な方か、あなた自身が絽陽で確かめるのがよろしいのではないですか」

「乙女?!」

 今度は陶羽が声を失う番だった。


 雄元は陶羽のもたらした親書に烈火の如く激怒した。文を陶羽の顔に叩き返すと、『馬鹿は休み休み言え』と声を荒立てた。

 さすがに王の使者を斬り殺しこそしなかったが、いつ剣に手がいってもおかしくない様子で、相手が陶羽でなかったら、きっとつかみかかっていただろう。

「大王より公主あてに贈り物も持たされております。一度、会わせて頂きたいのですが」

「黙れっ」

「離宮での将軍の評判は芳しくありません。将軍の忠誠を疑う輩も多い。大王は将軍を試されているのです」

「そんなことはお前に言われなくても分かっている!」

「金烏宮は金烏公子の宮殿。離宮では巫覡はかの公子を敬い、絽陽では将軍を敬う。誰が大王を敬うのでしょうか。死んだ華応安こそが忠臣であったと言うものさえ大王の周囲にはいるのです」

 陶羽は璽の押された書を拾い上げて、雄元の前に開いて置いた。

「将軍、お気持ちは十分お察し申し上げますが――」

 二十万の兵を連れて脅した西夷王、伊士羅の要求さえ断った雄元だ。ここで引くわけにはいかなかった。英に一歩譲れば、 いずれ十歩譲らねばならなくなる。これは男の面子の問題だった。雄元は忙しく部屋の中を歩き回った。

「大王も太后も今がどういう時か分かっていらっしゃらない。西夷の脅威は去ったとはいえ、戦は続いている。契氏国にやった遣いは春にならなければ戻ってこないだろう。農民の反乱によって一部南西の国土は西夷の制圧下にあるし、北の揩州の反乱は武によって抑えたと言っても民の不満に蓋は出来ず、いつまで持つかわからない。そんなときに大王は俺を試めされるのか!」

 玉兔を渡したくないというより、自分が王位につけてやった王にこのような扱いを受けなければならないことに雄元は我慢がならなかった。

「それでは使者である私はどうすればいいのですか、将軍」

「そんなこと自分で考えろ!」

「…………」

「玉兔は渡さない」

 そう言い切ってしまえば、雄元は落ち着いた。確固たる意志が定まった。すると本来の彼らしい思考を取り戻し、椅子に座り、立ったままの陶羽を見た。

「王と対立するのは避けられないだろうが仕方ない」

「陶家は当然分裂します。陶太后が黙ってはおりません」

「お前は好きな方へつけ。俺に遠慮することはない」

「正気ですか。女一人ぐらいくれてやれば、この場は収まるのですよ」

「俺はいたって正気だ」

「将軍、あなたの今があるのは、陶太后のご助力によるものです。お忘れですか」

「王の今があるのは俺の助力によるものでもあるのを忘れては困る」

 雄元は呂雲を呼んだ。

「王と陶太后を幽閉せよ」

 将軍に忠実なる呂雲は、主の命に疑問さえ投げつけずに将軍の剣を受け取った。彼にとって雄元は絶対なる神だ。幾度もの生死の境を将軍と共に生き抜いてきたからこその信頼で、見上げた呂雲に雄元は頷いた。

「さあ、どうする? 陶羽よ」

 呂雲がさると、雄元は余裕さえある微笑みを浮かべて振り向いた。

「将軍、金烏公子に仲裁を頼んでみたらいかがですか」

「お前は何も見えていない。あの男こそ信用してはならないのだ」

「あれは興を滅ぼそうとしている」

「まさか。ただの囚われの人でしかない公子が、そんなことを考えているとは思えません」

「そもそも興国とはなんであるのか。興とはまやかしの国だ。孝哀王を殺して先々王は王位についた。正統な王位継承者である公子たちの中で、隷だけが殺されなかったのは、九つの太陽という巫祝者だったからだ」

 若者はこの国の歴史に暗い。語られることがないからだ。

「そして陶家とは何だと思う? 先々王を助け孝哀王を殺した一族なのだ、陶羽」

「孝哀王は病で亡くなったと聞いてます」

「病でなくなった死体の首がないではおかしいではないか。俺は陵を開かせてご遺体を見た」

「陵を掘り返すなど――。祟られます」

「別にあった首を収めたのだ。祟られはしない。隷の了解も取っている」

「……それは……」

「あの公子は現在の興と、王脈を呪っている。もしかしたら、この国が乱れているのは、あの男の思惑なのかもしれない」

「まさか」

「帰れ、陶羽。そして牢にぶち込まれているであろう王に伝えよ。寧の公主は天命のある男に抱かれる女であると。そして牢に窓があるのなら、空を見上げよと言え。王の星は天になく、我が星が天に瞬いているのだと」

 雄元はそう言い終わると、自分の中に星が煌めいたの感じた。


 その夜――。

「いやな風が吹いている」

 高楼で雄元に後ろから抱きかかえられた玉兔が言った。

「知っている」

「あまりお前にとっていい結果は視えない」

「風向きは変わるものさ」

 雄元はもちろん、玉兔に王の要求を告げなかった。

 雄元は、伊士羅を思い出した。あの男は、『やがてこの君、王になる』と占われたことがあると言っていた。そして事実、彼は父や兄を殺し王となった。運命とは何なのだろう。玉兔は雄元に『お前は泥の上で自らを滅ぼすの』と告げたことがあった。

 あの時、彼はそんな生き様も悪くないと思った。雄元は生粋の武人であり、戦場こそが彼の生き、そして死んで行く場であると信じていた。

 しかし、今、温もりのある女の腰を抱きながら、この国を見渡せば、生きたいと思うから不思議ではないか。

「玉兔、お前は星の位置を変えられるか?」

「星?」

「ああ。そうだ星の位置だ」

「馬鹿じゃない? 星の位置を変えるのはその星を背負う運命を持った人だけよ。天帝だって変えられない」

「では俺が願えば変えられるのか」

「激しく生きればね」

 雄元は『激しく生きれば』と心の中で繰り返し言った。もう既に激しく生きている気もしたが、繰り返しているうちに、その言葉が好きになった。

「では激しく生きよう、玉兔」

「嫌よ」

「なぜ?」

「激しく生きるのは辛いものよ」

「では運命を甘受するのか」

「…………」

「お前らしくないじゃないか」

「はなして」

 玉兔は雄元の腕の中から逃れようとするも、彼はそれを許しはしなかった。抗議して玉兔が拳で雄元の胸を強かに打ったが、将軍はそれでも離しはしなかった。

「あきらめろ」

「嫌よ」

「運命を共にするんだ」

「誰と誰がよ」

「お前と俺に決まっている」

「誰がお前なんかと。勝手に決めないで」

 玉兔はもういちど雄元の胸を拳で打ち付けると、そっぽを向いた。髪が流れて、北風にさらわれた。しかし、もう抵抗するのを止めて、ひたすら迫り来る何かを視ようと目を凝らす。雄元はそんな玉兔が愛おしかった。

 彼女と生きられるのなら、泥の上に這うこともかまわない。

 抱けなくても良い。

 片思いの恋でもよかった。

 いつか、寧の地を踏んで約束を叶えてやれれば、玉兔もきっと約束を思い出して、心をくれるだろう。

 雄元は玉兔を絽陽に連れて来たときに取り上げていた寧の翠玉の簪を髪に挿してやった。これをしていない玉兔は何かもの足りない。

「寧は今頃雪だろう」

「大雪よ。とっても寒いの。こんな風に外になんか出てられないわ。背丈ほどの雪が積もるの。泣いたりしたら涙が凍ってしまうのよ」

「それでは泣けないな」

「そうよ、だからちょっとやそっとのことでは寧人は泣いたりしないのよ」

 雄元は玉兔を抱きかかえると火の側へと戻った。

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