第三章 王権の簒奪

第三章

 暑さ残る九月。

 南西の飢饉が広がり、民の起こした反乱に耐えきれなかった県令が西夷に降ったと知らせがあったのはその頃のことだ。雄元はそれを聞いて歯ぎしりをした。

 飢饉に対する援助も、反乱に対する援軍も出せないのは、かねての太子擁立争いで中央が機能しきれていないからで、公にはされていないが、公子英の六つになる息子が、志旦派に毒殺され、大叔父にあたる陶丞相も秘かに喪に服していた。

「王は公子隷に操られている。なんとしても王には還御いただかねば」

 李敬健を伴い陶勝林丞相のもとを訪れた雄元は主張したが、それに叔父は眉を少し動かしただけであった。

「王が金烏公子の神託を頼られるのは今始まったことではない。そのうちお帰りくださる」

「金烏公子を絽陽に移せば、王も帰る気を起こしてくれるでしょう」

 叔父は顎髭を撫でた。

「叔父上、ここは金烏公子を懐柔するのが得策ではありませんか」

 陶丞相は指先で机を数回叩いた。考え、そして迷っている。

「いや。それが出来るなら既に華応安がやっておる」

「どうして出来ないとおっしゃるのです」

「先生王の御遺戒で、金烏公子さまは金烏宮から出てはならぬことになっている」

「このままでは英さまも殺され、民は飢え、西方は西夷に盗られます。困るのは丞相である叔父上ではありませんか」

 陶丞相は黙った。

 雄元も押すのをやめた。

 代わりに下座でそれまで二人のやりとりを聞いていただけだった李敬健が『おそれながら』と断って顔を上げた。

「噂で金烏公子の霊力が強すぎるために、先々王が離宮に公子を幽閉されたと聞いております。金烏公子を離宮から出すことは出来ず、王は絽陽にお帰りにならない。よって玉璽(ぎょくじ)は離宮から動かず、詔(みことのり)をもって蛮族を誅(ちゅう)することもできない」

「何が言いたい?」

「ならば、離宮を王宮となさればよいのです」

「それは――」

「兵をもって離宮を囲み、英さまには金烏宮にお暮らしいただく」

 雄元は『不敬である』と思った。

 武で王と隷を脅し、公子英を太子の座につけ、聖域である離宮を乗っ取って中央を絽陽から移すということは、謀反と同じである。そのようなことは離宮の神聖さも王への忠信も少ない異国人の李敬健だからこそ思いつく。

「謀反であると言われてもおかしくないぞ、敬健」

「承知しております。ですが、玉璽を握った者が結局の所、正義なのです」

「正義か……」

 雄元は密謀に息苦しくなり、戸を開けた。風が通った。生暖かい。

「兵はいくらいるのだ」

「沢山はいりません。離宮の回りはたかがか千ほどしかおりませんので」

「うむ」

「舟は必要でしょう」

 雄元の頭の中には、離宮の回りの地形とともに配陣の鮮やかに浮かんだ。出来れば同国人同士の流血は避けたい。李敬健は少なくてもよいと言うが、数の面での圧倒的な優位が必要である。

 理想的な兵は『一万』と彼は見た。

 だが、動きやすく、そして後々に王に兵を向けたと後ろ指を指されるような大掛かりなものであるのは好ましくない。

「五千」

と先に言ったのは陶丞相だった。

 それぐらいの数字ならば、『西夷の侵略のため、離宮の警護を強化する』と建前を使える。

「国境警備のためと言ってわたくしにも兵をお与えください。決行の数日まえに、絽陽を立ち、何かありましても、北から攻められます」

 二人の男は若い軍師の奇策に黙ったままだった。

「失敗すれば、どうなるのか分かっておろうな」

 叔父の低い声が、鋭い光となって雄元に向けられた。


「決行は九月末という卜兆が出ました」

 数日後の晩に訪れた李敬健が酒杯を片手にそう言ったとき、陶雄元はそれを『矛盾だ』と思った。

 興の神域である金烏宮へと兵を向けるという不敬を企てながら、敬健はその吉日を占わせて決めたのだ。天に対する畏怖がないのなら、吉凶など知る必要もないと思うのだが、どうもこの軍師はそうではないらしい。

「卜占するのは当然です。わざわざ凶日に兵を動かしてどうするのですか」

「俺にはお前の考えていることはよく分からないね」

「私が骨を焼かせて占うのは、天帝からの肯定を求めているからです。将軍は金烏宮におわす王と興の神々を恐れておられる。ですが、天帝のお許しさえあれば、すべてが天意。何も不安に思うことはないのです」

「なるほど。物は言いようだな」

 雄元は李敬健のしたり顔に半ばあきれながら笏を置いた。月がさやかで密謀には不似合いな夜だ。敬健の向こうに見える月影が、まるで何かが見張っているかのような色あいだった。

「将軍、国境にやる兵の件はいかがなりましたか」

「問題ない。華応安も寧から戻ってきた俺の兵が絽陽に留まるのを警戒して、宛国攻略や西夷討伐に回すようにずっと主張していた。まあ、三万程度をそちらにやるということにする。九月末ではあまり時間がない。さしあたって西夷警戒のため国境に移すというのが自然だろう」

 話を聞いているのかいないのか、「さようで」といいながら、敬健は迷い込んだ蚊を袖で払っていた。

「敬健」

「はい」

「だが、問題が一つ」

「なんでございましょう」

 相変わらず蚊を煩わしそうに手で追う敬健に苛立った陶雄元将軍は、ぱしりとそれを潰した。その音に驚いたように、庭の秋虫が一斉に黙り、李敬健が顔を上げる。

「指揮は陶羽がする」

「……陶羽どのは、加冠したばかりの子供ではありませんか」

「その方が疑われない。それに何より今回の件は大きい。離宮には俺とともにお前にも来て欲しい」

 つまみ上げた蚊の屍骸を雄元は、開いた窓から外に捨てた。振り返ると、軍師の顔は険しい。

「大丈夫でございましょうか。陶羽さまはお若い」

「案ずるな。蘇学がついている」

「分かりました。私にはどこまでも将軍の供をする覚悟は出来ております」

 酒杯をそっと机に置くと、李敬健は雄元を真剣な目で見つめ返しし、そしてにやりと笑った。

「将軍は陶羽さまを玉兔公主に会わせるのがご心配なのでしょう」

「なっ!」

「公主とは年もさほど変わらず、羽さまは見目麗しい若人でございますからね」

「そんなわけないだろう」

 全く思いもしなかったことを指摘され、雄元は内心狼狽えた。

「あの頃の年齢の乙女は気まぐれでございます。すぐに心変わりする。それはもう秋の空のように移ろいやすい」

「軽口もその辺にしろ。玉兔はあんな女だが、鳳を呼び寄せた偉大なる『九つの太陽』さまだぞ」

「失礼いたしました」

 李敬健は再び酒を口にした。しかし、ちらりちらりと笑いながら顔色を窺ってくる。完全にからかったのだ。むっとしながらも雄元は顔を改めた。

「それより敬健、俺は、お前が必要だ」

「光栄です、将軍」

「三万の兵は数だけの脅しだ。俺たちが失敗さえしなければ、そこに存在するだけで、馬鹿でも務まる。だが、五千で離宮を乗っ取るのは、容易くない。軍師であるお前には、悪いが俺と生死を共にしてもらうつもりだ」

 敬健は雄元の言葉に席を立って拝手し、雄元は玉兎を想って空を見上げた。


 そして九月も半ば――。

 雄元は特に動かなかった。

 離宮もろとも乗っ取る計画は、ほとんど李敬健が裏で工作しているからでもあり、また将軍である彼が大きな動きをして華応安たちから不信の目を向けられないためでもある。

『放蕩にふけって敵の目を欺いてほしい』と李敬健から頼まれたものの、雄元は常に鞍に跨がっている武人だ。七日もすれば、美女の舞にも美酒にも飽きて妓楼の白粉の匂いに耐えかねて逃げ出した。

 今は、弓やら剣やら手にとって、自邸で稽古を付けては汗を流す。剣は錆びないように使うのが良いというのが彼の持論であり、躯もまた武器の一つだからこの方が自分の性格にあった『放蕩』ではないか。

 出来ることなら、狩りにでも出かけたいところだ。しかし将軍の狩りともなれば、大掛かりになり、逆に警戒を呼ぶだろう。時には、こうして初心に戻った躯の動かし方もいい。

 陶羽がやってきたのはそんな『放蕩』にふけっていた朝だった。雄元が一休みをしようかと剣を下ろしかけた所に、若き従弟がにこやかに現れた。

 国境へとゆく正式な挨拶に来たので、凛々しく袍をまとっていたのだが、雄元の姿を見ると

「陶将軍、私にも手合わせをお願いします」と乞うた。

 それに雄元も「ああ、いい所に来た」と破顔して剣を投げて応えてやった。

  陶羽は晴れ晴れとした面構えで、袍を脱ぎさると、剣を構える。そういう十代の若人の顔を雄元は何やら羨ましく思う。

 陶羽は家族にも可愛がられて育ったわりに、驕ったところもなく、長者を敬い、弱者に優しい。

 青竹のような男と言っていい。

「いくぞ」

「はい」

 剣を合わせても、そんな性格は表れている。

 決して姑息な手は使わずに、真正面から攻めてくる。しかしその陶羽の良さは戦地では弱点になる。

 だから雄元はこの若き従弟に今回の計画を告げる気にはならなかった。副官の蘇学のみに計画を告げ、羽は純真に国境警備の指揮を任されたと信じ切って喜んでいた。

 十代の多感な年頃に、離宮を攻めて王の権限を簒奪するなどと言えば、幼いころから教えられてきた義やら忠やらの学問に反するものだと、机上の正義を持ち出すに決まっている。

 まだ政の汚さを教えてやるには、この紅顔の青年には早かった。

「剣とは力の問題ではない」

 刃が合わさり合い、少しばかり長身の羽にじりじりと押され気味に見えた雄元が、余裕の笑みを口先に浮かべたのは、実戦を積んできた将軍として、羽の未熟な部分を十分に理解していたからだった。

 羽の剣の腕前は一級だ。

 風を切るように剣をさばき、高度な技術で狙ってくる。

「えい!」

 正面から打ち込んできた陶羽を雄元は体をそらせて受け止めた。剣がぐいぐいと押され手首にまで振動が届く。白く光る刃が、よく手入れされた剣の切れ味のよさを物語っていた。

「あっ」

 しかし攻撃を続けていた陶羽の体勢が崩れた。雄元が脚を払ったのだ。思いがけない反撃から陶羽が体を正常に戻した時には、雄元の剣が首筋に当てられていた。

「上手くなったな」

「ですが将軍にはまだまだ敵わないようです」

 負けてもなお、陶羽は爽やかだ。

「戦では死ぬか生きるかだ。あまり潔癖に剣を持つ必要もない。お前は型通り過ぎる。虚をついて、敵に動きを読まれないようにした方がいい」

「肝に銘ずる※」

 雄元は汗を拭った。

「初めての指揮だ。蘇学の補佐をよく聞いて欲しい。あれは、いい武人だ」

「蘇学を師と仰ぐ気持ちで挑む所存でおります」

 完璧な受け答え。

 とても玉兔と同世代であるようには見えない。百分の一でも陶羽の爪の垢を煎じてあのわがまま公主にくれてやりたいものだ。雄元は陶羽に微笑んだ。

「帰京したら離宮に連れて行こう。大王に拝謁できるように整えておく」

 青年の顔が輝いた。

 離宮に上がれるのは限られた人間だけだ。その名誉に預かれるのは、王から直接召された者とされていた。若い陶羽が喜ぶのも無理もない。

 だが、帰京した彼が離宮に召されるのは、武功ではなく、離宮乗っ取りの成功を意味する。それを知っている雄元の瞳には影がさした。

 翌日――陶雄元は武具を身につけると絽陽を出た。生え抜きの五千の騎兵をもって、朝霧の中を離宮へと駆け抜ける。時折、早起きの農夫が何事かと土に向けていた顔を上げる以外は、その一陣に気付く者もいない。

「ずいぶんと馬に乗るのが上手くなったな」

 以前は馬車で優雅に指揮していた李敬健もすっかり手綱を持つ手つきが板についている。褒めたつもりだというのに、

「それは将軍のお陰でございますね……」と嫌味で返された。

「馬車は遅い。どこぞの姫君でもあるまいし、お前のために西方の名馬で駟車を仕立ててやるほど俺は優しくないからな」

*駟車(四頭立ての馬車)

「女で産まれてこず残念でございました」

「そもそもあの玉兔公主さまですら、馬に乗れるんだ。軍師のお前が乗馬がままならなかった方がおかしい」

「ごもっともで。しかし将軍が離宮を手に入れ、玉兔公主を得た後は、公主には駟車ぐらい用意して差し上げてください。私は驢車に乗りますから」

*驢車(ロバに引かせた車)

 ここのところ何かと李敬健は雄元を玉兔のことでからかう。

 ――まるで俺が玉兔に気があって大王ともども離宮を乗っ取ろうとしているようではないか。

 雄元は腹が立ちまぎれに、並んで走っていた李敬健の馬の尻に鞭を入れた。驚いた馬が、慌てて歩調を速めたので、慌てる主人をあやうく落としそうになる。それを雄元や近臣たちが見てけらけらと笑った。

「やはり、駟車を仕立ててやるべきだったかな」

 すれ違い様に雄元は白い歯を見せた。それが空に輝いた。

 夜明け。

 始まりである。

 今日、この日に自分は興国の運命を変える。そう思うと、視線を上げた。東雲(しののめ)の空に厳かに日が昇り、歴史がここで動く。

「離宮が見えてきたぞ」

 軍旗がその言葉に煌めいて、追い風に揺れた。

「いい風だ」

「まことに」

 風がさあっと湖の周りの悪気と霧を吹き飛ばし、その姿を無防備に晒した。

 駒を止めた将軍の目配せに、前方の騎兵が湖へと駆けた。碧い草原に火色の軍旗と武具が広がるように散らばっていく。地を赤く染める騎兵。滅ぼされた国の民は陶雄元の軍を『血の軍』と呼んだ。それは、この鮮やかなまでの火色のせいだった。たった五千の兵でさえこれほど美しいのだ。寧公は攻められた時、城壁から十万の兵を見下ろしてどんな驚愕をもってそれを迎えたのだろうか。

「いくぞっ!」

「は、はい」

「敬健、遅れるな!」

 将軍の馬がいなないた。


 その夜の玉兔の眠りは深くなかった。

 白い衣を軽く羽織っただけで、眠りこけている見張りの脚をまたいで外に出た。そっとつま先で歩き、角を曲がると一目散で走り出す。宮殿に張り巡らされた水路の水がその足音をかき消してくれた。

「眠れないのか」

 呼び止められた玉兔は体を強ばらせた。

 ――誰?!

 見張りに見つかったのかと思った。

 しかし石で四角く囲った『水鏡』と呼ばれる西方式の小池の縁に隷が腰掛けているのを見ると、胸を撫で下ろして足先を彼に向ける。

「あなたこそ、眠れないの?」

「私は眠らない」

 玉兔は隷の言葉に長い睫毛を瞬いた。

「あなたって変な人」

「そうかな」

「本当に人間なの?」

「さあ」

『水鏡』が反射する月影の中で、隷が肩をすくめる。

「本当は月帝の隠し子とかでないの?」

「それを言うなら天帝の子ではないのだろうか? 私は九つの太陽の印をこの身に宿しているのだから」

 玉兔は隷の反論に寧の国で耳が痛くなるほど聞かせられた太陽の伝説を思い出した。

 それによると昔、天帝には十人の子があり、それぞれが順番に空に昇り地を照らすように命じられていた。ある日、十人の子が言いつけを守らずに全員が一度に空に昇ってしまった。怒った天帝は臣に九人の子を射落として太陽を一つだけ空に残すように命じたという。

 玉兔は、そんな昔話を信じてはいなかった。未だ訪れぬ未来が予感出来たとしても、それはあくまで予感であって、なんらかの神秘的な神の声ではなかったからだ。

 むしろ、十人の天帝の王子が一度に空に昇ったという神話に隠された生々しさを絽陽で繰り広げられている公子英と公子志旦の後継者争いを連想したし、あるいは金の足枷をかけられ、ここに幽閉されている白髪の公子を思い出させる。

 つまり、物語が語らんとするのは、大きな権力闘争があり、追放された九人の王子がいたということではないだろうか。それは天での話なのか、人々が忘れてしまった太古の話なのか玉兎には分からないが、歴史がいつも繰り返されることを戒めているだけのように思われた。

「ゆこう」

 立ち上がった隷は玉兔の手を引いた。『どこにいくの?』と彼女は見上げたが、言葉にしなくとも、その表情で彼女は城壁にいくのだと分かって抗うのを止めた。

 どちらにしろ、この宮殿から出ることはできない。内陸で育った玉兔には泳ぎなどというものは無縁だし、部屋から抜け出したのも、小さな家出といったところで、思いつきに過ぎなかった。せめて離宮の外を見られるなら、それで十分満足だった。

  二人は石畳の上を月の動きと同じぐらいゆっくりと歩いた。そしていつしか玉兔が離宮に初めて来た時に見た神獣の石像の群れにぶつかると、彼女は足を止めた。

「不気味」

「生きているからそう思う」

「生きているって?」

 隷は空を見上げた。傾いた月があった。

「夜明けにはまだ時間がある。だからあまり動かないかもしれない」

 玉兔には隷の言葉が理解できなかった。

「ここに手を置いて」

 隷の掌が玉兔のそれに重なり、そして麒麟の足に乗せられた。石が夜の冷えを集めてひやりと玉兔の手を掴む。

「怖い」

「怖がらなくていい」

 瞳を閉じた隷。その重ねた手から何かが玉兔の肢体に流れ込んできた。

 九つの太陽の力だと玉兔が気付いた瞬間、それは急に激しく彼女を侵し始める。玉兔は力の波長に合わせるだけで精一杯で、力の流れを身体の外に洩らさないように気を集中させるのさえ困難だった。

「大丈夫」

 隷の白い髪がさっと宙に上がった。玉兔から洩れ出る力が風をつくる。袖も大きく浮かんだ。二人の間に円状の風のさざなみができ、それは一本の柱となって天に貫いていった。

「ゆっくり、あなたもやるのだ」

 だんだんと隷の力に慣れ始めた玉兔に彼は言った。『無理よ』と言おうとした言葉をつぐんで、激しい力の流入から感じる優しい波長を掴むと、それに身を任した。心の中に秘められていた感情が急に血を奮い立たせ、隷の中に逆流していく。あまりの激しさに彼が歯を食いしばったほどだ。

 白い光の柱が、夜の闇を一瞬消して、再び闇となる。瞳を恐る恐る開けた玉兔の目に黒髪の隷が映った。驚きで彼女は瞬きを忘れ、口をぽかんと開けたままになった。

「驚くのはそっちではないよ」

「?」

 隷は移した視線の先にあった石の麒麟の鱗が微かにうごめいた。

「わっ! 動いている!」

「公主、言っただろう? 生きているとね」

「うそ?!」

「数百年前に生け捕られた麒麟だ。少し力を貸してやれはまた動きだす」

「信じられないわ」

 麒麟は長い眠りから起こされ、ものぐさそうに足を一歩踏み出した。

 隷が鼻先を撫でると、麒麟は気持ち良さそうに瞳を細める。

「噛んだりしない?」

「しない。大人しい生き物だよ」

 玉兔はその様子を見ると、本来持っている好奇心を発揮させ、恐る恐るながらもその体に触れてみた。思ったよりやわらかな感触が、指に伝わってきた。

「温かいわ」

「これは昔、貂の国の霊廟に祀られていた麒麟だ。貂を攻め滅ぼした時、ここに連れてこられた」

「貂の九つの太陽と?」

「ああ、そうだよ。興国は他国の神を奪い滅びを完結させるのだ。神を奪われた王朝は決して蘇ることはできず、神を質にとられて祭祀権を失った民は興国に隷属するしかない。それがこの国が天下を治めている仕組みだ」

 耳の後ろを玉兔が触れると、麒麟は身震いをして後ろ足で耳を掻いた。その仕草が愛らしくて玉兔がはじけたように笑った。この宮殿に来て初めて彼女は、声を立て白い歯を見せた。表情のない隷もそれに少し頬を緩ました。

「乗れないかしら」

「乗る? 霊獣に? 一応、これは貂の国では神であったのだよ? 牛や馬ではないのだ。あなたは興人よりも突拍子もなく不敬なことを言うね」

「そういうものなの? 残念」

 人差し指を掲げて隷が何かを唱えると、麒麟は身軽に台から飛び降りて主人の後について来た。初めてこの離宮に来た時、この石像の群れを恐ろしく感じたが、こうして正体さえ分かれば、玉兔にはただの動物にしか見えない。

「ここにある石像の霊獣はみんな異国から連れてこられたわけ?」

「必ずしもそうではない。興国にも時折聖人が出る。聖人が出れば、聖獣が出る。この前の鳳のようにね。捕まえれば、他の聖獣と同じように石像にされた」

「寧にはそんなものはいなかったわ」

「でも何よりも珍しい『九つの太陽』がいた。それもこんなに若く美しい太陽が……」

 隷の指が玉兔の顎を持ち上げた。その瞳の奥底に暗闇が潜んでいた。玉兔は忘れかけていた公子隷に対する警戒心を呼び起こした。

「触らないでくれる?」

「早く夜が明けるといい。そうすれば、あなたを輝く日のもとで見られる」

「あなたって本当に無礼よ」

 隷の手が鎖骨の上の日の印に伸びようとしたのを、玉兔はするりと身をかわした。

「朝だわ」

 二人の白い衣が暁に染まり、玉兎は振り返った。

「城壁へ行くのでしょう? 早く」

 玉兔は走り出した。隷も金の足枷を鳴らしながら続いた。

「ごめんなさい。やっぱり乗っていくわ」

 息が切れた玉兔は麒麟の角を掴んでその背に飛び乗った。

「さあ。私は鞍がなくても馬に乗れるの」

 手を差しのべた玉兔に「それは馬ではないのだ」と隷が言った言葉は届いてはいないかった。霊獣は身軽に石段を二人乗せて駆け上った。風が二人の視界を奪う。靄で掠れ気味だった景色がゆっくりとその様を広げてみせた。

「なに……」

「…………」

「なんなの?」

 眼前に現れた景色。それは燃え上がる日輪の下で、火色の旗が地を埋める世界だった。

 ――雄元!

 押し寄せる兵士たちの殺気に玉兔は目眩がした。それはかつてあの翠玉の髪飾りを頭に挿した朝と同じ感覚だった。

「始まりなのだよ」

 東に面を向けた隷。

「公主、これは終わりへの始まりなのだよ」

 玉兔は、太陽が昇るのも、そして彼女がここにいるのも、逆らいがたい力によって全てが必然的に成り立っているのだと思った。それは吉でも凶でもない。ただ、大きな渦となって彼女を飲み込んでいくのだ。


 風がぴたりと止んだ。

 雄元の切っ先が離宮を守る禁軍の将の首先に止まったのもその時だった。

「案内を頼もう」

「将軍、何をなさっているのか分かっていらっしゃるのですか!」

「もちろんだよ。西から西夷が興を侵している。王の身辺をお守りするためにここにいる」

  腹心の部下である呂雲(ろうん)という大男が、将の武器を奪った。縛られた部下を見て諦めたのか、近衛の将は官印を取り出すと、馬上の雄元に放り投げた。

「陶将軍、申し訳ありませんがご案内は出来ません」

「かまわない」

 雄元は舟を用意するように命じた。

 離宮内にいるわずかな兵は、雄元を敵か味方か分からないままいくつか弓を向けた。宙に弧を描き、水辺に空しく落ちた矢は、藻と並んで水に漂う。その代わりに、常に最前線へと遣わされる呂雲の矢に一撃で射止められると、屍骸が次々に城壁から落ちた。

 しかし、キリリと絞られた矢を持つ呂雲の視線が、城壁の白い影に向けられたとき、雄元はその手を遮った。

「玉兔だ」

 彼女は、均衡を崩さないようにその手を大きく広げて、垂らし髪のまま城壁の上を歩いていた。雄元は苦笑した。城攻めされているのに、全く緊張感というものがなく、守備兵が矢を構える上を平気で遊んでいる。まったくどういう神経をしているのだろう。

「あれは射るな。俺の女だ」

 面倒な説明を省きたくて、雄元はそう言った。呂雲が将軍の言葉に頷いて、彼女の横にいた兵の眉間に矢を放った。玉兔が死んだ男を振り返り、そして矢が放たれた方に顔を移すと、雄元と目が合った。彼女は髪を一筋唇に挟んでいるのも忘れて立っている。美しい。雄元は見惚れた。

「かかれっ。開城せよ!」

 しかし、情緒とはかけ離れた無粋な男の声がする。振り返れば軍師、李敬健だ。

「ずいぶん遅かったな。着替えにでも手間取っていたのか」

「これでも一応、後ろで戦っておりましたよ」

「ならいいが、化粧でもしているのかと思っていたところだよ」

 くくくっと呂雲が笑ったので、李敬健は気分を害したのか、からかいの種をみつけ、にやにやと笑みを向ける。

「玉兔公主ですね」

「ああ」

「あの御方は戦場が良く似合う。これは勝たねばなりません。将軍も戦利品が欲しいでしょうから」

「お前がしっかりと自分の立てた戦略通りに戦ってくれれば城の一つや二つ落とすことなどたわいもないさ」 

 しかし、二人は女の話をしている場合ではない。雄元も李敬健もすぐに顔を引き締めた。

「日が高くなる前に終わらせろ」

「承知しております」 

 そこに無数に湖に浮かんだ舟の群れの先から合図の旗が揺れた。城の門を確保したのだ。

「やれやれ、ようやく開門のようです」

「時間が掛かりすぎだ」

 彼らは舟に移った。雄元はほんの数ヶ月前に玉兔をここに連れて来た日を思い出した。彼女が萌黄の袖をたくし上げて伸ばした白い手が水に筋を引き、ときおり水面に玉兔の顔が映っていた。

 そんな記憶も、兵士の遺骸が舟の先に流れ着いたことで消えた。透き通る水に血が黒く混ざり合い、鮠魚が恐ろしい速さで逃げ回っている上を、兵士が死体を槍で突きながら舵をとる。

「馬は既にご用意してあります」

「そうか」

「足下にお気をつけください」

 雄元は剣の柄を掴んだ。舟は彼が立ち上がった重心のずれで揺れた。先に離宮内に入っていた呂雲が『おめでとうございます』と拝手して出迎えたのを、将軍は『ああ』とだけ言って横を過ぎた。

「呂雲。我らは王のご身辺を将軍がお守りに参ったのです。他国の城を攻めとったのとは違うことをわきまえて欲しいものですね」

「これは、李敬健さま、失言でございました」

 敬健が呂雲を戒めていたが、雄元にはもうどうでもいいことだ。彼にとって建前などというものはその程度のものでしかない。轡をとって鞍に飛び乗ると、なにやら言い合っている二人を残して手綱をとった。

 ――完全に制圧したか……。

 雄元が王が休む宮殿にたどり着いた時には既に一兵の禁軍も残ってはいなかった。わずかに宦官が矛を構えるのみで、必要以上に肥えた躯が痛々しく連なっている。

「陶将軍、ここをどことお思いかっ!」

「俺はお前らと話している暇はない。大王に拝謁する」

 宦官が突き立てた槍を雄元は片手で払いのけると、階段を一段上った。殺すことも容易だが、宦官ごときを殺すのは力の無駄だと、彼は相手にはしなかった。

「大王は休まれておいでないのですぞ! お控えあれ!」

「お前こそ控えろっ! 誰に向かって口をきいているのだ!」

 雄元の一喝に宦官たちは急に臆病風を吹かせて縮こまった。呂雲が剣を抜いた。緊張が一瞬で空気を凍らせる。互い違いに向けられる剣の先。呂雲のそれが黒ずんで見えるのは、すでにその手で何人もの兵を殺しているからだ。対して、宦官のそれは何十年と新品のままだ。

 ところが、そんな緊張を嘲笑うかのように、鈴が転がるような声がした。そこにいた全員の瞳が宮殿の脇に寝そべる麒麟の石像に向けられた。

「玉兔」

 雄元は剣を納め、石像の背に乗っている人に尋ねた。

「何がおかしい」

「だって、あんなに威張ってた宦官が、お前の一声で腰を抜かしそうなのだもの、おかしいじゃない」

 麒麟の首に両腕を巻き付けたままの玉兔がそう言うと、雄元の部下たちが失笑し、宦官たちは唇を噛んで剣を持ち直した。

「雄元、ついて来るといいわ」

「……」

「王に会うより隷に会った方がいいんじゃない?」

 玉兔はそう言うと、雄元の駿馬に飛び乗った。中原の御し方とは違う、西方の馬の扱い方で、普段は気性の荒い雄元の白馬が大人しくそれに器用に足を上げて見せた。

「玉璽は隷が持っているのよ」

 雄元はそれを聞くと、王も宦官もどうでもよくなった。剣を突きつけ合う男たちを放って呂雲の馬に乗ると『そいつらを縛っとけ』とだけ命じ、玉兔の後に続く。彼女は血だらけのこの宮殿で燦々と照る日を弾く白い衣を着ていた。その後ろを追いかけるうちに、たまらなく雄元は自分の腕の中に抱きかかえたくなった。

「お前はわたしのことを好きなのね」

 下馬した玉兔が馬の鼻先をなでてやりながらそう言った時、雄元は自分のことを言われたのかとどきりとした。だがそれは誤解だと直ぐに分かった。彼女の視線が馬に注がれていたからだ。『馬鹿な』と雄元は心の中で己を笑った。

「気に入っても馬はやらないぞ。女はなんでも欲しがって困る」

「別に欲しいと言ったわけではないわ」

 玉兔は気分を害したようで、気の強い顔をいっそう鋭くして彼を睨む。

「玉璽はどこだ」

「こっち」

 一つの戸の前に立ち、玉兔は言った。戸に刻まれた五爪の龍。王しか許されぬはずのその印のつく部屋にいる人間こそ、公子隷だ。彼のことをただの囚われの公子だと思っていたことはもしや間違いなのではないか――雄元は強く後悔した。

「入って」

 戸に触れかけた雄元の手の代わりに、玉兔がそれを押した。

 暗い室内の奥から玉兔を呼ぶ声がした。

「公主、こっちだ」

 暗闇に慣れた目が、中を窺うと、椅子に男がかけていた。金烏公子。いや、その髪が黒い。

「将軍もご苦労だった」

 金色の衣を纏う公子隷に雄元は思わず拝跪したものかと迷うほど、彼は優美に、そして厳かに座っていた。

「玉璽を渡して頂きたい」

「すでに璽書を用意してある。公子英を離宮に迎え、太子にすると いうのが一通。そして、公子志旦には賜死というのがもう一通」

 机の上に勅書が重ねられた。

「将軍、三通目はなんと書けばいいのかな? 陶雄元を宰相に命ずるとしようか?」

「公子、玉璽をお渡し下さい」

 流石の雄元も公子に剣を向けることは戸惑われ、椅子に身を沈めている人に一歩近づいた。

「公子英がここに来た時に渡そう。それでどうだろう? 将軍。私も玉璽もどこにも逃げないよ」

 隷は玉兔を手招きで側に寄せると、彼女の掌の中に黄金の玉璽を握らせた。戸惑いの瞳が小さく揺れる。なぜ? わたしに渡すのよ、と。

「しばらく玉璽は玉兔公主が管理するということでどうか。あなたとて、逆臣の誹りは免れたいはずだ。私から大王に奏上申しておく」

「ちょっと……勝手に決めないで」

「玉兔公主。寧の最後の王族にして『九つの太陽』。あなたの掌の中に、興国が存在している。神意をあなたが感じるならば璽を押すといい。人の生も死も、そしてこの国の栄えも滅びもすべてが今ここにある」

「いらない。返す。興なんかどうなろうと知らないわ」

 男たちの四つの瞳が彼女に注がれた。黒い武人の瞳と灰色の巫覡の瞳。玉兔は掌の中の金印を隷に押し戻した。しかしそれを今度は雄元が彼女の手に握らせる。

「玉兔、それはお前が持っていろ」

「いらない。いらないったら。ちょ、ちょっと!」

 彼女は面倒なことに巻き込まれるのはごめんだと嫌がるが、隷になどに玉璽を預けてはおけない。どんな勅書を勝手に作るか分からないのだ。

「あなたたちは狡いわ」

「心配するな。明日には公子英さまが到着する。それまでの間、預かっているだけだ」

「だけど……」

 公子隷が言った。

「公主、ここで私は玉璽を将軍に渡す立場にないのです。そして将軍も私に預けていては安心できない」

「王が持っていればいいでしょ?」

「大王?」

 隷が口元を歪めて冷ややかに笑った。

「もはや大王は公子英なのだよ」

「…………」

「それが今日の将軍の暴挙、いや快挙なのだから」

 意味ありげに視線を移した隷に雄元は腹を立てた。憮然とそばの長椅子に腰をかけると、血で穢れた剣を机の上に置く。

 そもそもこうまでして、雄元が王に進言しようとしたのは、国を思えばこそのことだ。謀反かと問われればそうかもしれない。しかし、国政を顧みずにこの離宮に引きこもってしまった王を諌めるのは臣として当然のことではないか――。

 隷は、雄元が王を退位させる気だと暗に言うが、彼はまずは英を太子にし、国政を摂政すべきだと考えていた。王を御位から引きずり下ろそうなどとは、雄元は考えてもいなかった。

「金烏公子、あなたは少し誤解していらっしゃるようです」

「誤解? それならいいのだけど。それより、将軍、血はこの離宮の空気を濁す。あなたの連れて来た兵と刻んだ肉の臭いがきつい。巫覡たちは玉兔公主のように強い力があるわけではないのだよ。現に私も今日は酷く気分が優れないから、我らが穢れに苦しみ死ぬまえに禊ぎをすませて貰いたい」

「死体はすぐに離宮から出しましょう」

「少し私は休む。こんな穢れは何年ぶりだろう? 王が父王を殺した時以来かな?」

 隷は雄元に戸を促した。

 雄元は、隷の書いた璽書の二通を机の上から拾い上げると言った。

「公子、玉兔は私が預かります」

 隷は雄元の言葉にただ頷いた。


 雄元が机に座ると、玉兔がため息をついて玉璽を鏡の前に転がした。

 玉璽を押し付けられたために、雄元が机を彼女の部屋に運ばせてそこで執務をとっているので、ただでさえ囚われの身であるのに、部屋から出ることも許されなくなって機嫌が悪いのだ。しかも暇を持て余して、雄元の屋敷から連れて来た老女の菜季に髪をいろいろ違った型に結わせてみるものの、一向に気に入るようには出来上がらないので拍車がかかる。

「本当にお前は役立たずね」

「申し訳ございません」

「やっぱりお前などの命を助けてやるのではなかったわ」

 玉兔は髪に触れられていた老婆の手をはね除けて、櫛(くし)を雄元に向かって投げつけた。

「ちょっと! なんか言ったらどうなの?!」

「うるさい、黙っていろ。俺は忙しい」

「私は退屈で死にそうだわ!」

「本当に死にたくないなら黙っていろ」

「だったら今殺して。退屈だから」

「公子英はすでに絽陽を発った。夜にはつくだろう。それまで大人しくしていろ」

「どうせ絽陽から来るのなら、書物か何かを持ってきてくれればよかったのに。お土産一つないじゃない」

「俺が軍を率いてここに来たのを忘れたのか」

 今頃、何も知らずにいた公子英は叔父の陶勝林から事実を知らされ、驚きと複雑な思いを抱えてこの金烏宮に向かっていることだろう。英が陶家に意見することはないが、あの温和な性格の公子のことだ。雄元の暴走を快くは思いはしない。それにどう向き合うかも、面倒な話であるのに、玉兔の退屈につき合う暇は雄元にはなかった。

『李敬健にこいつの相手をさせようか』と将軍は思ったが、今頃、英が来る前に血なまぐさいものを片付けさせるのに忙しいはずだ。雄元は、もしかしたら、金烏公子は体よく玉兔を自分に押し付けたのではないかと思ったほど、玉兎の機嫌は徐々に最悪になっていた。

「誰かこいつに猿轡(さるぐつわ)でも噛ませておけ」

 そばにいた兵の一人が彼女に近づいて、布を無理矢理噛ませた。抗う公主が大人しくなったことに雄元は心から安心し、そして満足した。床に座らされ、じっと雄元を睨みつける玉兔の姿に、彼は立ち上がると、鏡の前の筆に青色を馴染ませ、額に蓮を描いた。

「その髪型をお前は気に入らなかったみたいだが、良く似合っている」

「…………」

「これをつければ、機嫌も直るか?」

 袖の中から彼が取り出したもの、それは草原で西夷に襲われたときに玉兔が落とした翠玉の髪飾りだった。

 そっと髪にそれを差し入れた雄元。

 玉兔の瞳が『なぜ?』と訊ねていた。

 雄元は、西夷の状況を探らせる兵を国境に向けた時、翠玉の簪が落ちていないか捜させたのだ。それが、首尾よく絽陽に戻ってきたのを、彼は欠けた石を直させて離宮を攻める朝、懐に忍ばせてきた。しかし、そんなことは説明したくもない。

「良く似合う」

 初めて彼女に会ったときを彷彿させる玉兎の縛られた囚われの姿は、征服者としての、あるいは男としての心を申し分なく満たした。今やこの宮殿は雄元のもので、彼女は再び戦利品となったのだ。しかしそこに呂雲が部屋に入ってきた。

「将軍。陶羽さまが御面会を求めておられますが……」

 呂雲が苦い顔で言った。

「だれだって?」

「陶羽さまです」

 陶羽は数日前に国境へと向かったはずではないか!

「一体、これはどういうことなのでございますか?!」

 血気盛んな若者とはこういう男をいうのだろうと、雄元は玉兔の他にもう一人やっかいな人間がここに現れたことにため息が出た。『だからこの男に何も言いたくなかったのだ』と、彼は筆を置いた。

「このような暴挙は許されるべきものではございません!」

「どうしてここに来たのだ」

「蘇学から聞いたのです。それで馬を一頭潰して徹夜で駆けてきたのです」

 雄元は『蘇学めが』と内心舌打ちしたが、来てしまったものは仕方がない。掛けろと椅子をあごで差し示した。

「知っての通り、今回のことは大王に諌言申し上げるのが目的である。大王に還御頂き、長きに渡る王不在の絽陽の政を本来あるべき姿に戻すのが臣としてのつとめであるのだ」

「そのようなことは詭弁にすぎません。大王に刃を向けるなどとは、謀反ではございませんか! 現に近衛や離宮の警備の兵を殺しているのです!」

 雄元はドンと机を叩いた。

「将軍!」

 雄元は誰かにこの従弟にも猿轡をしてしまえと命じたかった。彼はこの従弟が好きだった。純粋で、そして優しい。しかし、まだまだ子供だ。青臭い理想を掲げて目上の雄元に食って掛かるなど無礼にもほどがある。

「黙れ。お前に何が分かるというのだ。俺の不忠を責める前に、国境の西夷討伐の軍をあずかりながら、それを放棄してここにのこのこ一人で来るような将である己をまず恥じよ!」

 陶羽は唇を噛んだ。

「しばらく謹慎していろ」

「あなたの指図は受けません。私は王臣なのです」

 にらみ合う瞳。だが、雄元のそれは一歩たりとも退くことはなかったのに対して、若き陶羽は沈黙の底に迷いを表し、瞳をそらした。そしてその先に猿轡をした少女がうずくまっているいるのを見つけると、雄元に対して一層嫌悪を抱いた目を向けた。

 異国風の衣に白い肌、黒い髪。あきらかに高貴な生まれの少女。陶羽もすでに成人した男だ。戦場において、女がいかなる運命をたどるかぐらい知っていた。しかしそれを目の当たりにして許せるほど彼は世の中の醜さを見てきたわけではない。

 雄元が弄ぶためにこの少女は捕らえているのだと思った彼は、玉兔に近づくと、その口にはめられた猿轡を解いた。

「来い」

 玉兎は困惑顔を雄元に向けた。しかし彼は助けを求める彼女の視線を無視した。陶羽をこれ以上相手にしたくないし、ついでに玉兎も静かになるからちょうどいい。

 彼女は腕を掴んで部屋を出て行く若者の手を振り払おうと試みていたが、女を助けてやるつもりの陶羽はがっちりとそれを掴んで部屋を出ていった。

「よろしかったのでございますか」

 二人だけとなった室内で、呂雲が遠慮がちに訊ねた。

 だが、雄元は何も答えなかった。その沈黙でどれだけこの将軍を陶羽が怒らせているのか呂雲は分かったのだろう。剣を掴んで立ち上がった。

「連れて参ります」

 この場合、彼が連れて来るのは玉兔であり、陶羽ではなかった。彼女はこの戦の前に将軍が自ら『俺の女だ』と獲物と定めている。それをたとえ身内とはいえ、下官の陶羽が横取りすることは、少なくともこの陶雄元が率いる軍の中では許される行為ではない。

「ほっとけ」

「ですが……」

「ほっておけと言っている。羽も玉兔に何かするほど馬鹿ではない」

「はい」

「何かしようにも、あの女のことだ、腕を噛んで暴れるさ。それより李敬健はどうしているのか。日暮れまでに死体は片付くのだろうな」

「間に合わすように努めております」

「努めるのではなく、するのだ。血を一滴も宮殿も残してはならない」

「かしこまりました」

 神聖なるこの金烏宮に穢れは禁物だ。玉兔は平気そうな顔をしていたが、ここに住む他の巫覡たちは皆具合を悪くして寝込んでいた。あの公子隷でさえ、『休む』と言ったほどなのだから、相当な負の気が立ち込めているのだろう。

 英や絽陽の者たちがここに来る前に、なんとしても清らかな宮殿に戻さなければならなかった。そうでなければ、興国の霊廟を穢したと雄元が批判されることになる。

「大王はいかがしている」

「あまり芳しくありません。巫医が言うには、金烏宮は聖域であるために病の進行が遅くなるのだそうですが、穢れによって大王の体調もまた――」

「玉体に何かあってはならない。少なくとも英さまが到着されるまではな。巫医にもそう伝えよ」

「はっ」

「万一、大王がお隠れあそばすようなことがあれば、その時はお前らも一緒に黄泉にお供つかまつれと言っておけ」

 雄元の強い語気に呂雲は青くなって拝跪すると出て行った。

 静寂。

 この離宮に相応しい静けさ。

 それは騒がしさになれた陶雄元にはいささか居心地の悪いものだった。わざと彼は脚を揺らしてそれを紛らわせた。机の上の筆が音を立てて転がった。

 ――馬鹿馬鹿しい。何を俺は案じているんだ。

 玉兔と陶羽は歳も近い。もし、自分が玉兔の親族であれば、羽のような男と妻合わせてやりたいと思うだろう。

 ――馬鹿な。

 雄元は心の中で再び呟いた。

 ――あれは「九つの太陽」ではないか。

「いかがなさいましたか」

 暗闇が開かれた戸によって半分明るさを戻し、顔を上げると李敬健がいた。

「なんでもない」

「陶羽さまのことでございますか。蘇学から使者が参りました。全軍を絽陽に引き返しているとのこと。陶羽さまの勝手な振る舞いの責任は自分が負うつもりであるとのことです」

「ふん。今更、蘇学に責任を取ってもらっても、陶羽の馬鹿は治らない」

「陶羽さまはご身内とは言え、ご処分すべきです。戦線離脱とは許しがたきことです。それも将が兵を置き去りにしたなど聞いたこともございません」

「分かっている。叔父上と相談しよう」

 机の上の玉璽はまるでそこが最も相応しい場所であるかのように輝いた。


 少女が陶羽の手を振り払った。そして目をつり上げる。

「無礼ね!」

「お前は誰だ」

 こんな口の利き方をする娘を陶羽は見たことがない。

「お前こそ誰よ」

「俺は陶羽。興国丞相、陶勝林の息子だ」

「私は玉兔。寧の公主」

 陶羽は玉兔の名乗りを鼻で笑った。

「なんだ、あっという間に滅んだ小国の公主か」

「話にならないわ」

 少女は陶羽の言葉に付き合いきれないとばかりに、首を横に振った。そして木に繋がれた将軍の駿馬を見つけると、手綱をとった。

「待て! どこに行く」

「どこでもいいわ。ここではないところ。お前のいないところ」

「それは将軍の馬だ」

「そう? だから?」

 少女は陶羽が轡を掴んだのを煩わしそうに馬上から見下ろした。十七、八の娘だ。北方の人らしい白い肌に大きな瞳の整った美しい顔立ちだが、幼さと純朴さを瞳に残している。そういう幼さは陶羽を戸惑わせる。自分が持つ、子供から大人への過渡期をそのまま映しているようで、己の苛立ちをかき立てるのだ。

「助けてもらって礼もお前はないのか」

「助けてもらうようなことはされてないわ」

「馬鹿か、お前は自分の運命もわかっていない」

「運命? そんなもの分かりたくもないわ」

 少女が天を仰いだ。つられて陶羽も太陽を見上げれば、午後を少し過ぎた日差しは白く高かった。兵士の死体で穢れたこの離宮をその力で浄化させようとしているようで、ここが神秘の宮殿だと言われる所以を感じる。

「離して。一人になりたいの」

「…………」

「一人になりたいのよ」

 玉兔は馬上からもう一度陶羽に言った。彼は、それ以上何も言わず、轡を放した。

「気に入られましたか」

 陶羽はしばらく彼女の背を見送っていると後ろから声がした。振り返れば将軍の右腕、李敬健ではないか。

「そういうわけでは」

「玉兔公主という寧の姫君です。将軍が連れ帰って目をかけているのです」

 敬健の言葉に含まれた意味が理解できないわけではなかったが、陶羽は彼女の後ろ姿から目が離せなかった。日がじりじりと石畳を焼いて、陽炎が彼女の幻像を揺らして昇っていくのが見えた。

「さあ、参りましょう。将軍があなたに謹慎をお命じになったのです」

「そうですか」

「処分はお父上が離宮においでになった時、公子英さまとも協議して決定します」

「間違ったことをしたのでしょうか。王に謀反を働く従兄をいさめるのは、間違った行いだったのでしょうか」

 陶羽の拳は石になり、唇は血に腫れた。


「さっきはすまなかった」

 雄元が玉兔を捜しに出かけたのは既に夕暮れ時だった。小さな身体を折り畳んで、玉兔が城壁の上で夕日を見ていた。湖が赤く染まっているのは日の加減のせいだろうか、それとも、引き上げられる屍骸のせいなのだろうか。

 玉兔の頬に一筋かかった髪が時折風にさらわれるのを雄元は盗み見た。影が彼女の肩を引きずって披帛(ショール)とともに揺れている。

「ありがとう」

 城壁に上った雄元が横に座ると、視線を変えぬまま玉兔は小さな声で言った。

「かんざし、ありがとう……」

 雄元は素直な玉兔に驚き、そして瞳を細めた。そっと伸ばした手で彼女の乱れ髪を拾ってやると、やさしくその耳にかける。そして初めて玉兔は雄元を見た。

 昼と夜の境目。

 公主の顔の半分が既に夜にとけ始めている。

「玉兔、お前は寧に帰りたいか。帰りたいのなら、俺がいつかお前をあの地に帰してやる」

 玉兔の瞳が見開いた。

「いつか――。今ではないが、きっといつか……」

「嘘」

「嘘ではない」

「嘘は言わないで」

「俺がここにお前を連れてきた。だからいつか俺がお前を寧に帰そう」

 玉兔が頭を振った。そう彼女をさせるのは、玉兔自身が自分の定めを知っているからかなのかは雄元には分からない。しかし、彼は今まで自分が言葉にしたことを違えたことはなかった。

「誓えるの?」

 挑戦めいた瞳。

「ああ」

「手を出して」

 雄元が玉兔の掌に自分のそれを重ねると、彼女は頭から髪飾りを抜き取り、自分の手を刺した。血が赤く点をつくった。

「命あるかぎりにお前に寧の地を踏ませよう」

「もし誓いを違えたら?」

「その時は俺の命をやろう」

 雄元は自分でも自分が言った言葉が信じられなかった。なぜここまで彼女を気にかけるのか。命までも賭ける必要があるのか。しかし玉兔を目の前にして言わずにはいられない。

「お前は、代わりに俺に何をもたらしてくれるんだ」

「じゃ、あなたが寧に連れて行ってくれたら私も命をあげるわ」

「命はいらない。心を――」

 恋なのかもしれないと雄元は思った。陶羽が彼女を部屋から連れ出した時に激しく感じた苛立ち、そしてこの離宮を王宮にしたらどうかと李敬健が言い出したときも、感じた何か……。それが全てこの恋のせいなら、恐ろしく馬鹿げてはいるが、合点がいく。

「お前の心をくれ」

 日が落ちていく。玉兔の髪飾りの先から光がもれて閃光を放った。

「いいわ。もし寧にあなたが私を帰してくれたのなら――。心をあげ――」

 雄元は最後まで玉兎が言い切らぬうちに逸る心を押さえつけられなくなってその唇に口づけをした。深く、熱っぽく、そして貪欲な接吻だった。小さな体はそれに追いつけずにもがくように唇を預けていたが、次第に口づけの波を理解して互いの熱を分け合った。

「玉兎……」

 女の腰は細く、太ももは柔らかで、彼は自分の欲望をその足に押し付けてやった。こちらの本気を知らしめるためだ。少女は驚き、身をかわそうとしたけれど、雄元はそれを許しはしなかった。

「二言はないな」

 こくりと頷く人に、雄元は佩びていた匕首で自分の掌を切って玉兔の血の上に重ねた。白い紙に零れ落ちた赤い点。玉兔は小さくその紙を畳むと胸の前に瞳を瞑って置き、落ちてゆく太陽の残り火をその中にしまい込んだ。

「さあ」

 玉兔が手を放すと紙が城壁からひらひらと舞いながら落ちた。そして湖面に触れるか触れないかの瞬間、それは白鳩となって羽ばたいた。

「見て! 鳥になったわ!」

 自然な驚きが彼女から漏れた。

         

  5

 その日の夜遅くに公子英が離宮に着いた。

「公子英さま、丞相陶勝林さま、ご到着です」

 大袖の袍の上から鎧をつけた、およそ実戦とはかけ離れた装いで、雄元は眉を寄せた。

「公子、どうぞ武具を外されてお寛ぎください」

「それより父上にお目にかかりたい」

「王は既にお休みです」

 英はあからさまなため息をついてみせた。控えていた近侍がそれに一層頭を低くしたが、雄元は叔父に苦笑を向けただけだった。

「志旦に賜死が下ったと聞いたが、本当であるか」

「はい。既に使者が絽陽に向けて立っています」

「信じられぬ……」

 母は違うとはいえ、父を同じくする弟だ。英は雄元の処置が不快なのだろうが、雄元から言わせてもらえば、こちらがやらなければ、賜死を命じられるのは英ではないか。

 わずらわしそうに武具に手をかけた英に、まわりの者たちが手を貸そうとしたが、その手は払いのけられ、『下がれ』と低い声が薄暗い部屋に響いた。温厚なこの公子にしては珍しい不機嫌に雄元は目の先を鋭くした。

「金烏公子が面会を求められてますが、いががなさいますか」

「お会いしよう。どうお詫び申し上げたら、聖地を汚した罪を許されるのかお聞きしなければならない」

 雄元は英の態度に内心腹を立てていた。命をかけて、この離宮を乗っ取って、志旦派を始末する手はずをとったのは、すべて英の立坊のためだ。相談もなくと陶家の暴走を快く思わないとしても、表面的に労いの言葉ぐらい向けるべきだ。

「金烏公子がお見えでございます」

 室内の三人の男は高貴なる囚われ人のために立ち上がった。英はわざわざ上座を彼に空けるべく下座にずれた。

「公子英、ひさしぶりだね」

「金烏公子にもご機嫌麗しく」

「立坊とのことお祝い申し上げる」

 英は隷に拝手して出迎えた。隷もそれに拝手をもって答えた。

「この度の離宮での流血騒ぎをなんとお詫び申し上げていいのやら」

「公子英、そんなことを気にする必要はない。浄化は巫覡たちの力が戻ったら行う。心配する必要はないよ」

 隷は優雅に椅子に腰を下ろした。座り様に払った袖の動きさえも文句のつけどころがないほどの美しい。金の烏をあしらった刺繍が襟元を飾り、それにもとに戻った白い髪が肩にかかる姿は白百合のようだった。それが男に対する形容としてふさわしいかはわからないが――。

「太子英、ゆっくりなさっていくがいい」

「金烏公子。我々はしばらく絽陽の機能をこちらに移すつもりでいるのです」

 隷は雄元の言葉に少し眉を寄せた。

「還御していただくには病が重い。英さまにお越しいただいたのもそのためです」

「歓迎しましょう」

 燭台に映し出された隷の顔は、穢れによって気分がまだ優れないのだろう青白かった。

「将軍、公子志旦の首は離宮の北西に埋めて欲しい。西夷の侵入からここを守ってくれるだろう」

「そういたしましょう」

「そうだ。玉璽を」

 隷は玉兔に預けてあった玉璽を英の前に差し出した。その金の鈍い煌めきに新しい太子は一瞬魅せられ、そして恐れを瞳に宿した。

「王の病は重い。あなたがお持ちになっているのがいい」

「金烏公子――」

 英は躊躇していた。が、隷はそんな英を待つ気はないのか、無造作に興の王の象徴である玉璽をその掌に載せた。

 そして今度は英に隷は拝手ではなく拝跪した。金の足枷が重く鳴った。それは王に対する正式な礼だった

 王が崩じ、英が王位についたのは、秋も終わりのころ。玉兎は、赤い木の葉を落とすのを高楼から眺めていた。

 喪に服しているために明るい宴などは催されることはなかったが、金烏宮の静けさは、大夫や女官たちのたてる声に追い立てられ、玉兔の部屋までその華やぎは聞こえてきた。しかし一角に集められた巫覡の居住区だけは、何かに怯えるように身を潜めている。

「ずいぶんここも変わったわね」

 老女の菜季に玉兔は呟いた。

「さようでございますね」

 玉兔は以前のように離宮を自由に歩き回ることは出来なくなった。それでもここの宦官たちに監視される日々から解放され、気に入った高楼の一室を与えられたことを雄元に感謝せざるをえない。

 彼はどうやら玉兔が「九つの太陽」であることを人に言うつもりがないようで、寧の公主で質となった娘であるとだけ説明をしていた。絽陽から来た者たちは、彼女を雄元あるいは公子隷の妾であるのだろうと思い、関わりをもたないようにした。

 それは玉兔にはあまり嬉しくない誤解だった。しかし、煩わしい好奇の目にさらされ、巫女として仕事をさせられるよりかはよっぽどましだ。

 逆に、隷は外界からの移住者たちが持ち込んだ穢れに体を崩しながらも、この宮殿の囚われの巫覡として天を祭り地を崇める儀式を一人でこなしている。

「金烏公子がお越しでございます」

 朝からの待ち人がようやく姿を現した。

「遅かったのね」

 暇を持て余している玉兔が批判気味に言うと、隷は『忙しかった』とだけ言って窓際に腰をかけた。

「ずいぶん痩せたんじゃないの?」

「そうかもしれない」

 疲れた顔をしていた。白い顔がさらに青白く沈んでいて、彼のことをあまり好きではない玉兎だが、根が優しい人のでついつい心配してしまう。

「ここはいいね。汚い気が窓を開ければ外に抜ける」

 白湯を口にした隷が、少し窓を開けさせたので、西から吹いてくる風が東へと抜けていった。冷たい秋風とはいえ、言われてみればなるほど風の流れがよく、邪気が少ない。

「悪いが、少しばかりあなたの気を分けてくれないか」

「いいけれど」

 弱っている隷を前に玉兔も否とは言えなかった。眉を少しさげて、不安げな彼女の手を隷は取り『心配はいらない』とその瞳をのぞき込んだ。

「少しでいい」

 玉兔は隷に促されるまま、長椅子に体を横たえた。

 襟を大きく自ら開けると、日の印のある鎖骨(さこつ)を彼にさらして目を閉じた。そしてやましいことは何もないというに、もし雄元が隷に触れられたことを知ったら……と不安になった。きっと菜季が報告する。そして彼はまた不機嫌になる。

 だがそんな不安も、あんな約束を交わしてからも雄元とは何もないことを考えれば、心配する必要はないかもしれない。

 冷たい手。

 隷の指先が日の印に触れた。

「恐れることはない」

 見透かしたような隷の言葉――。

「運命はあなたのものだ、公主。たとえ、将軍がなんと言おうとね」

 隷は玉兔の体から気を吸い取った。彼の日の印と彼女の日の印が結びついて、痛みに彼女は顔を歪めた。そしてその痛みの中で、初めて会った時、体に触れられたせいで隷に自分の心を視られたことを思い出した玉兔は、体に走る電撃を無視して、瞳を開けた。

 隷に出来て彼女が出来ないことはないではないか。心を日の印に集めた。

 混沌とした深い闇が玉兔をさえぎっていた。悲しみ、怒り、絶望。その余韻のように残るの何だろう? 手探りで彼女は隷の心の中を漁った。

『我子、お逃げなさい。早く』

 混沌の中で、玉兔の手を女が手を掴んで言った。隷の記憶の狭間にいるだ。金の髪飾りに絹の光沢を放ち、目の前の女が興国の後宮に住まう麗人であるのが玉兔にも分かった。彼女はしきりに振り返り、『早く!』と玉兔の背を押した。

 ――命を狙われているんだわ。

 それは陶雄元の軍が寧の宮殿に侵入してきたとき玉兔が感じた恐怖に似ていた。

『決して振り返ってはなりませんよ』

 女は隷にそう告げた。誰かが彼を抱えて走り出した。

 ――まだ隷が幼い頃の記憶?

 玉兔は隷の不安を感じた。一人になった不安、そして母と思われる、女を案じる気持ち……。それは隷の過去の記憶だろうが、玉兔が寧宮で感じたそれと共鳴して知らず知らずに涙がこぼれた。

 最期まで『案ずることはない。父がそなたを守ってやる!』と言った父や、主君を守ろうと盾になった禁軍の兵の死に際が蘇る――。『お父さま、助けて、行かないで!』そう叫んだのはついこないだのことなのだ。

 だが、そんな心の乱れも突然心と体が切り離されたことによって現実に戻された。

「言ったはずだよ、公主。私の心を覘き視てはならぬと」

 無表情の面のような顔は相変わらずだが、隷は明らかに怒っていた。

「あなたが先に覘いたんじゃない」

「公主。あなたは少し心を隠すという術を覚えた方がいい。そうするつもりがなくてもあなたの場合は視えてしまう」

 玉兔は隷の言葉に腹を立てて起き上がろうとしたが、生気を取られた後の身体は彼女の思うようには動かなかった。

「陶雄元は危険だ。あなたが想うような男ではない。信じるのは良くない」

「想ってなんかいない。あの男は寧を滅ぼした張本人よ」

「そう、そうだね。でもあなたはよく日を視た方がいい。そして大地の風を感じるべきだ。さもなければ、運命が音を立ててすべてを飲み込んでゆく」

「あなたは自分のことを心配していればいいわ」

 隷は玉兔の髪から翠玉のかんざしを抜き取った。そしてそれをくるりと指先で回して、冷たい瞳を向ける。『返して』と言おうとした玉兔だったが、言ってしまえば、自分が雄元になんらかの感情を抱いていると思われる。唇を噛んだ。

「砂漠と草原を感じる」

 石が含んだ残像を隷は視ているようだった。玉兔は彼の物言いが酷く意地悪いものに聞こえた。だから彼女は精一杯の自尊心をかき集めた。

「隷。あなたは少し心を開くということを覚えた方がいいわ」

「それはたしかにそうだ」

「何をあなたが企んでいるのかは知らないけど? 何かにすごくこだわっているのは確かね。人間は何かにとらわれてしまうと、自由ではなくなるのよ」

「公主、私はとっくの昔からここに囚われられているのだ。それはあなたも同じだろう?」

「いいえ。私は違うわ。私はたとえこの部屋から一歩も外に出られなくても心は自由だもの」

 隷はそれに反論しようとした。しかし、窓の外から何かを感じると、そちらに気を移して窓を開けた。風の重さがいつもとは違う。

「感じるか?」

「何を?」

「絽陽で何かが変わった」

「疲れているの。それに私にはどうでもいいことだわ」

 玉兔は興味も湧かなかった。襟の乱れを直すと、瞳を閉じた。絽陽で誰が死のうと、反乱が起きようと、彼女にはまったく関係ないことだ。

 ただ今は眠りたかった。『少しだけだ』と約束したのに、隷はかなりの玉兔の生気を持っていってしまっていた。もう絶対に分けてやるもんか。そう誓いながら目を瞑る。

「陶将軍が来たら、何が起こったのか訊ねるといい。何か、私も予測していなかった何かが近づいている……」

 玉兔は隷を無視して眠りについた。


 雄元が高楼の前に着いた時、中から隷とそれに侍る巫覡たちが出てきたところだった。横目で雄元の姿を見ると、囚われの公子は慇懃に拝手した。

 雄元は、それを無視して通りすぎ、玉兔を閉じ込めている朱色の楼の階段を上った。

 ――隷を自由に歩き回らせるのは得策ではないな。

 先王が崩じた今、昔のように神の威光を借りた王の威厳は必要ない。それどころか、新王英にいらない力を与えるのは、今や興国の影の君主である雄元には危険でさえある。しかも、英は先王に劣らずの迷信深い人物だった。

「玉兔……」

 部屋の戸を開けた雄元の瞳に映ったのは、長椅子に眠りこけている異国の公主だった。彼が与えた光沢のある衣が色を零して床に落ちている。その先に彼女の小さなつま先が床について無防備に晒されいたのを雄元は拾い上げた。

「金烏公子が気を分けて下さるようにとお見えになったのでございます」

 彩季が老いた身を屈めて告げた。

「そうか」

 将軍は玉兔の身体に腕を入れ、その身を抱え上げた。老婆は音も立てずに下がっていった。

 ――細いな。食べているんだろうか……。

 思ったより軽かった女の肢体を寝台に運ぶと、絹の上にそっと寝かした。物憂気な寝顔の唇に掛かった髪を指で払ってやった。

「隷、放っておいて」

 寝ぼけてそう言ったのだろうが、雄元はそれに少なからず嫉妬した。あの男は玉兔と同じ九つの太陽で、王位争いで彼の母や弟は殺され、同じようにここに囚われている。そんな二人が雄元よりも近い存在となっても不思議ではなかった。

「玉兔……」

 雄元には、欲しかったものが手に入らなかったことは一度たりともない。攻めた国は全て滅び、今や興国は彼のものと言ってもいい。

 それなのに、たった一人の女を思い通りに出来ないのは、自分がこの女の仇であり、この女が人が触れてはならない地に落とされた天帝の子であるからだ。

 李敬健はしきりに隷をこの聖地の長の座から降ろし、扱いやすい彼女をその座に据えよと進言していた。しかし、雄元はそれになかなか首を縦に振らなかった。理由は、『玉兔にそこまでの力はない』。

 本当のところ、雄元は、彼女を手の届かない神の領域にしまい込んでしまいたくなかった。

「玉兔」

 彼は寝台に掛かる薄物を垂らすと、彼女の横に添い伏した。

 触れることは許されない。

 ただ、彼女の髪に残る寧宮の香りに酔いしれる。金の柱に麝香が染み付いたあの寧の宮殿の香りは、血の匂いと共に武人たる男を酷く刺激するものがあった。

 そんなことを思っているうちに、次第に雄元は幻想の中に落ちた。彼女を伴って寧の大地を踏む幻想で、とても穏やかで幸せに満ちたものだった。

 きっとその時は煩わしい興国などとは無関係で、一人の男としてこの女をあくまで抱けるだろう。しかし、今はその時ではない。

 新王を擁したばかりであり、飢饉は深刻に絽陽に向けて進んでいる。そして西は西夷の脅威にさらされ、力によって急激に大きくなってしまったこの国のつけは、雄元が払うことになる。華応安の首を切ったとはいえ、まだ陶家に屈しない豪族もいる。

 玉兔との誓いを叶えるのは容易くなかった。少なくとも雄元が描くようなるのは簡単ではない。

「玉兔、目を覚ませ」

 でなければ、このままどうかなってしまっても知らないぞと、雄元は彼女の頬に唇を落とした。あの城壁でしたような激しい接吻がしたい。目を覚ませ、玉兎――。

「寝かせて、眠いの……」

「起きろ」

「何」

 玉兔は片目を開けた。雄元の顔がすぐそこにあるのを見つけると、腕で顔を覆って彼を肘で離した。

「何なのよ」

「寧の宮殿から運ばれた品を持ってきた」

「……」

「少しは気が紛れるだろう」

 そこには寧の宮を飾っていた鏡台や机、椅子などが置かれている。中には寧公が愛妾に与えた鏡、玉兎の母が使っていたつい立てもあった。

「どうした? 嬉しくないのか……」

「出て行って」

「…………」

「出て行ってと言っているのよ!」

 雄元の腕の内から離れた亡国の公主が叫んだ。

*        

 雄元の革靴が大きな音を立てて消えていくと、玉兔は寧の形見の机に倒れ込むように泣いた。

 全てが彼女の身近だった人の遺品だ。好きでなかった人も憎らしく思っていた人もこの世にいなければ哀しい。雄元はこれらを寧の死者から強奪してきた。そう思うと、喪失感とともに彼は自分の気持ちを理解してくれていないと怒りがわいてくる。

 玉兔は、雄元とあんな約束をした自分自身の愚かさを呪い、そして隷の言う通り、あの男に心を許してはならないと激しく思った。たとえ雄元が、寧の地に再び彼女を連れて行ってくれたとしたともだ。出来ることならば、玉兔はあの誓いの白鳩を捕まえてくびり殺してしまいたかった。

 ――助けて……。

 誰に求めるでもない。天にでもなく、ましてや亡き父でもない。ただただ玉兔の魂が助けを必要とし、それが大粒の雫となって頬を濡らしていた。いっそ、雄元になんらかの恨みや憎しみを抱き、復讐を誓えたら楽なのに、そうするには玉兔はあまりに清らかな心を持ちすぎていた。だから彼女は泣いた。

 外では黒い幹が、耐えかねたように手を放した紅の落ち葉があった。そして見上げた景色の美しさに心を奪われ、錦に凍える澄んだ空気に癒やされた。

 床に身を横たえたまま初めて亡き人を偲んで慟哭した玉兔は、泣きつかれてその瞼を下げた。

 ひとしきり心を表に出してしまえば、何に対してそんなに自分は悲しんでいたのだろうかと自分を笑う。きっと次に目を覚ましたときは、昔の平凡で退屈な日々に戻れるような気がしたからだ。そう――寧の宮殿で「お腹が空いたわ」と言って夕餉を待っているような日常が。


 思い直し踵を返した雄元が見たものは、床に眠る玉兔だった。その向こうで開け放たれた戸に一枚の楓の葉がまぎれこんでいた。

「風邪をひく」

 彼もまた床に座って、横たわる彼女の肩に触れた。瞳がうっすら開いた。

「雄元」

「身体が冷えている」

「……触らないで」

「すまない。お前の気持ちを考えていなかった」

「もういい」

 雄元が寧を攻めたのは王命ゆえのことだった。しかし、複雑な気持ちを玉兎が捨てきれないのは当然である。泣いて喚いて、雄元を罵り、死ねと言えば楽だといえるのに、彼女は、雄元の掌を払いのけると、いつもの誇り高き公主らしさを取り戻すべく、背筋を伸ばしてみせた。

 雄元はそんな玉兔に心のどこかで安堵した。弱さを見せる彼女にまだ慣れていない。雄元もまたその横に立ち上がると、優しさを見せたのは嘘のように冷淡さを取り戻そうとした。そうでなければ、玉兎が玉兎らしくいられなくなるから。

「俺はしばらく絽陽に行って来る」

「そう」

「何か不自由があれば李敬健に言え」

「何かあったの?」

「いや、別段何もない。手間取っていた志旦の首の処置が決まり、離宮に移されることになっただけだ。華応安派の中でもまだ処分が決まっていない者もいる。いろいろと後始末をしなければならない」

「隠さなくてもいいでしょう?」

「隠す? 何の話だ」

「さあ。言いたくないのならいいけれど」

 玉兔は高楼の窓際に立った。絽陽の方角を向くと何かを探ろうとするかのように目を凝らしたが、すぐにふらついて雄元に支えられた。

「どうしたというんだ」

「分からない。ただ隷が何かが視えたと言っていたから気になっただけよ」

「なんと公子は言っていたんだ」

「絽陽で何かが変わったって言っていただけよ。お前に何が起こったのか聞いた方がいいって」

 以前の雄元なら自分の目に見えない物を信じたりはしなかった。だが、ここに来てからというもの、巫覡の予言を侮ることはなくなった。

 ――何かが変わっただと⁈

 雄元は乱暴に玉兔の腕を掴むと高楼の階段を下りた。

「李敬健はいるか!」

「李敬健さまなら先ほど、使者が絽陽から参りまして――」

 謹慎が早くも解けた陶羽が、将軍が執務室に連れて来た見た玉兔に息を飲んだ。

 雄元は、陶羽が彼女が住む高楼を馬で通り過ぎるたびに見上げているのを知っていた。本人は気づいているかわからないが。恋を初めて知って夜も眠れないと軍内でさえ噂になっている。しかし、今は陶羽にかまっている場合ではない。

「絽陽から使者だと? 何かあったのか」

「そこまでは分かりません。しかしあの李敬健さまが動揺されていおられました」

 玉兔が大げさにため息をついた。

「もういいでしょう。私は疲れているの」

「疲れているなら隣の部屋で寝ていろ」

 そこは雄元が執務の間に使う私室で、竹簡が寝台の脇に積み重ねられている。

「無理よ。私は自分の枕でなければ眠れないから」

 将軍の椅子に断りなく座ると、玉兔は顔を半分机に伏せて二人の男を見上げた。幼さが残る仕草だが、気怠げな女の表情が無意識に男たちの心を掴んだ。特に羽は視線が合うと顔に火をつけた。もちろん、それに雄元が気付かないはずはなく、

「陶羽、李敬健を呼んできてくれ」と不機嫌に言って追い払う。

「寝ていろ」

「寝れないから」

「横になるだけ横になってみろ」

 雄元は玉兔の腕を無理矢理引くと、寝台に押し込んだ。

「ねえ? 知っている? 隷って寝ないのよ」

「は? そんなわけないだろ?」

「本当よ。私もいつかそうなるような気がする。眠るのは好きなのに」

「昔から人が熟睡するには二つの方法がある。一つは酒だ。ほら飲め、寧の濁り酒だ」

 雄元は盃を玉兔に手渡した。

「もう一つはなんなの?」

「お前はたぶん一生知ることはないさ」

 自嘲ぎみに雄元は笑ってはぐらかした。

 玉兎は酒を一口飲むと、先ほどまであれだけ怒っていたのが嘘のように目尻を下げて、盃の底を見つめた。国を懐かしみ、そしてもしかしたら、雄元との旅を思い出しているのかもしれない。

「雄元」

「なんだ」

「雨が降ればいいと思わない?」

「そりゃ、降ればいい。民は飢えをしのげる」

「そうじゃなくて……ただ雨が降ればいいなと思うのよ」

 雄元は戸口で苦笑を浮かべ、旅で振ったあの通り雨のような雨なら、きっと今の沈んだ気持ちを洗い流してくれるだろうと思った。

「大王がお見えでございます」

 そこに遠慮がちな声が部屋の外からした。

「大王が?」

「はい。李敬健さまとご一緒でございます」

 たとえ、ここが今や事実上雄元の采配によって成り立っているとはいえ、興国王、英が自らが将軍の部屋を訪れることは普通ではない。普段、王は飾り立てられた黄金の椅子に座り、龍と鳳凰の飾りに囲まれて過ごしており、臣下を自ら訪ねたりはしない。それが今ここに来るという。敬健が呼んだのではないにしろ、一大事が起きているに違いなかった。

 何よりも第一に報告を受けるべく自分の耳にもたらせられず、王より後にそれを聴かなければならないことに、雄元は歯ぎしりをした。

 ――まったく李敬健は何を考えているのだ。

「お呼び立てくださいませば、臣が参りましたものを。恐れ多く存じます」

 王が姿を現すと、雄元はにこりと微笑み、そして跪いた。

「かまわないよ」

 若き新王は、上座を占め、敬健の方を見た。

「将軍、絽陽から使いが参りました」

「知っている。悪い知らせだろう」

「どうしてご存知なのです?」

「理由はどうあれ知っている。何が起きたかは知らないが」

 李敬健は一瞬、間を作った。そして『まだ大王にもお伝えはしていないのでございますが』と前置きしてから、『西夷でございます』と低い声で言った。

「西夷がどうしたというのだ。攻めて来たのか」

 思わず雄元は身構える。

「そうではございません、将軍。西夷の王が使者を差し向けてきたのです。ただいま絽陽の城外に留まっておりまして、いかがしたものかと存じまして」

「で? 誰が正使として来ているのか」

「それが西夷王の第十二公子、伊士羅でございます」

 忘れもしない。寧から絽陽に向かう途中に雄元を襲った西夷の男だ。まだ傷はうずく。

「表向きは、興国王のご即位を祝うのが目的だと申しておりますが、本音としましては、今の興の状況を見にきたのでしょう」

「面倒だな」

「大王へ拝謁を願っております」

「寡の器量も見にきたというところか」

 王は愉快そうに雄元を見た。さすがの雄元もそれに対して、畏れ多いことだと頭を下げてみせた。

 そして伏せた視線とともに、雄元はあの伊士羅という男ことを思い出してみた。乗馬の技術は西夷の人として当然だが、武にすぐれ、勇敢でもあった。あの男が正式な使者として西夷から遣わされてきたのは納得な人事とはいえ、興にとっては危険といえる。

 何しろ、草原で雄元たちを追うこともできたのを、深追いせずに引いたその判断力を侮ることはできない。剣を合わせたことがあるだけに、雄元は伊士羅に警戒した。

「会うべきか」

「離宮は神域でございます。西夷を寄せ付けていいはずはございません」

 王の呟きに敬健は彼らしい正統な反対理由を述べた。

 今の興国は非常に不安定である。西夷に攻められれば、軍を西に差し向けなければならず、絽陽の警備が疎かになる。外敵以上に内々にもめ事を抱えている現在、雄元としては西夷と問題を起こしたくはなかった。

 黙ったまま考え込んだ雄元だったが、忘れていた人物が顔を出した。

「雄元、侍女を呼んでちょうだい」

「これはこれは……」

 王は見てはならぬものを見たように一瞬たじろいだが、玉兔が雄元の他に二人もそこに男がいたことに気付いて戸に隠れたので、『こちらにおいで』と声をかけた。

「髪が乱れているから」

「かまわないよ」

 王はいたずらな視線を雄元に向けた。愛妾を彼がそばにおいているなどというのはかつてなかったから少しからかってやろうというそういう視線だ。冷や汗が出る。

「玉兔、大王であらせられるぞ」

 雄元は自室の奥から女が出てきたとあっては、ばつの悪い思いだった。しかも、玉兔の王に対する無礼な振る舞いを正さねばならなかった。

「寧の公主だね」

 拝跪もお辞儀もせずに玉兔はただ王を見ていた。雄元が慌てて跪かせようとしたが、その手を彼女は激しく払いのけた。雄元はそれを玉兔の保身のために強要したのだが、玉兔も彼に恥をかかせるために払いのけたのではなかった。ただ寧の公主としての誇りが死者である父に代わって跪くのを拒んだのだ。

「かまわないよ」

 王は少女の美しさを讃え、興で不都合なことはないかを訊ねた。しかし、玉兔は反抗的な瞳を宿したまま唇を動かすことはなかった。

「こういう女を寝所で従わせるのはさぞや楽しいことだろうね」

 本気とも嫌味ともつかぬ王の言葉が雄元に向けられた。

「大王、使者には臣が会いましょう。ちょうど絽陽に向かうつもりでおりました」

「そうか、良きにはからえ。寡は寝る」

 新王は雄元の言葉を退けなかった。英は陶将軍の進言に反対意見を述べるような性格でもなければ、それだけの権限もなかった。だから、この離宮に来てから『良きにはからえ』が口癖になっていて、人に任せるのが当たり前になっていた。

 李敬健が跪いた。

 雄元が拝手し、外に控えていた陶羽が王を護衛するために現れた。たが寧の公主だけは、彼に鋭い視線を投げかけたと思うと、見つめ返した英を無視して窓の外の月を見上げた。誰にも跪かないのだという強い意志がそこにあった。英はそんな彼女に惹かれたようだった。

 王でありながら飾り物の英。囚われの身でありながら、気高い少女。あまりに対照的ではないかと雄元は思う。

「借りてゆこう」

 そう王が言ったのは必然だったのかもしれない。

 小さな雄元への反抗心がそうさせた。陶羽が困惑の視線を雄元に向けたが、興国の影の君主は顔色を変えなかった。陶羽は玉兔の腕を掴んだ。

「離して」

 抗う姫の姿に英は苦笑を浮かべた。

「公主。秋の月は美しい。寧の話を聞かせてくれませんか」

「話すことなどないわ」

 王が玉兎の無礼には無頓着なのは、彼女が正直だからだろう。慇懃無礼なのは、雄元を含めてこの宮殿にはたくさんいる。そんな輩より子供のように反抗的な少女を相手にする方がずっといいのだ。雄元は恐れた。

「心配することはないよ。将軍、月が西に傾くまでに返そう」

 王は陶羽に目配せをした。

 月の光はさやかだった。それは日の光ほど強くはないが、やわらかな力を彼女に与えてくれていた。強引に彼女の手を引っ張っていた陶羽の腕を振りほどくと、玉兎は黙って王の後を歩いた。時折、石で出来た珍獣たちの横を通る時だけ、そっとその足に触れる。

「公主はこの離宮が気に入ったかな?」

「あなたは気に入っていないみたいね」

 王の問いに玉兔はそう答えた。若き新王は微笑みを浮かべた。玉兔の口から雄元に自分がここを嫌っていると知られたくはないという作り笑いだ。

「そんなことはない。ここは美しい宮殿だ」

「嘘はつかない方がいいわ。わたしには分かるもの。ここの空気はあなたに合っていない」

 英は一歩玉兔に近づき、月を見上げる。

「私はここでの生活が気にっている。あなたはどうなのだ。ここの空気はあなたに合っているのか」

「わたしには寧の宮殿以外の空気は合わないわ」

「もう、燃えてしまって跡形もないそうだね」

 英は玉兔の手を引いた。生温かな手だと玉兔は思った。そしてその手の中にある何かに彼女は震えた。

「どうしたのか」

「…………」

「何を恐れる?」

 慌てて玉兔は袖の中に手を隠した。英の持つ運命が怖くて仕方なかった。英は彼女が九つの太陽であることを知らないため首を捻っていたが、玉兎がそのまま踵を返して走り去ると別に捕まえようとはしなかった。だから玉兎はどこへ向かうともなく走り続けた。英の持つ運命が追いかけて来そうでたまらなく恐ろしかったのだ。

 そして息が切れるまで走った玉兔を迎えたのは、隷だった。

「心配した。何かあってはと思って、急いで来た」

 玉兔が道々触れた石の珍獣たちが息を吹き返してその足下に従っていて、白虎が彼女にそっと近づくと、その喉を子猫のようにならして脚にすり寄った。

「王に会ったのか」

「ええ……」

「恐れることはない。公主にはあの人の運命は関係のないことなのだから」

「ここに来て未だに明るい未来を持つ人に会ってないわ」

「未来などというものは不確かなものだ。我々が視るのは、現在が作り上げた影に過ぎない。そもそも『運命なんて信じない』と言ったのはあなただ」

「そうね。そうだったわね。でもときどき鮮やか過ぎる感覚が暗い未来ばかりを信じさせようとするのよ」

「そう、そういうときもある」

「あの人はどうなるの?」

「王は死ぬ」

「どうして? 雄元が殺すの?」

「さあ。それは分からない。でも空を望んでごらん。王の星がない。天命のないものは王位についてはならないのだよ」

 玉兔は星視には詳しくなかった。だが言われるままに空を見上げた。

 流星が一筋の線を作って空を二つに割って行った。英は憎むべき興王である。だが、彼の中に漂う運命の儚さはどこか父を思い出させた。

 最期まで君主として傲慢で、そして誇り高く、愚かであった父。百官が口をそろえて言ったように、寧が興に言われるままに土地を割譲していれば、あそこまでの虐殺は行われなかったかもしれない。

 しかし、父は、燃え上がる宮殿の灰とともに九天に昇るのを夢みた。それがたとえ、おびただしい殉死者を伴うとしてでもだ。

 その死に方は無残だった。しかし、興王の靴を舐めて生きながらえるよりは、あの人には幸せであったのだろうと、玉兔は思う。

 空に父の星もまたもう見当たらないことに気付く。

「星の動きが速い」

「そうね」

「飲み込まれないようにすることだね」

「もう飲み込まれてしまっているわ」

 隷は何も言わなかった。

「私、明日雨乞いをしようと思っているの」

「なぜ?」

「雨が降ったらいいと思わない?」

 玉兔はまるで花を摘みに野原に出かけるような口ぶりで言ったが、隷はそんな公主を瞳でとがめた。

「いけないの?」

「災いは起きるべきして起きている。興が滅びれば自然と雨は降る。あなたが乞わなくても自然とね」

 玉兔は悪寒が走った。

「隷、あなた――」

「災いとはそういうものだ。民を虐げ、そして地を血で染めたこの国には自然とそれが落ちてくる」

「でも、それで苦しむのは民じゃない」

「民にも罪がある。だまって虐げられているだけが善ではない。憤るべきだ。搾取し、そして働き手を徴兵する国に対して、隷属するのはそれを肯定しているのと同じことではないか。時として弱さや愚かさも罪なのだよ」

『この人はこの国が滅びることを望んでいる』と、玉兔は気づくと足がすくんだ。興国の公子にしてこの国の祭礼を司る巫祝の人が滅びを望んでいる。

「あなたはそれをずっと願って来たの?」

「ああ。ずっと天に願ってきた。朝と夕と天台に上って、毎日願っていたよ」

「なぜそれをわたしに言うのよ」

「あなたもまたその一部だからだよ」

「巻き込まれないようにって、さっき言ったばかりじゃない」

「それはきっとあなたが私は好きだから。だからそう言った。あなたは本当にこの夜空そのものだ。運命を映す鏡であるあなただけはきっと星の動きを変えられるよ。それが九つの太陽。地に落とされた天帝の子だからね」

「あなただって、あなただって九つの太陽だわ」

 隷は首を振った。

「私は運命を変えることを望んでいない」

「……」

「運命はもう私が望むように動いている」

 玉兔は隷を見た。いや、視たのかもしれない。寧の滅びもそして興王の病と死、そして西夷の脅威、飢饉。すべてがこの公子の望むままに進められていたのではないか。

「私、明日雨乞いをするわ」

「なぜ? あなたの国を滅ぼしたこの国を救いたいのか」

「そうよ。わたしはあなたとは違う」

「あなたは変わっている」

「私は滅びの後には何も残らないのを知っているわ」

「終わりは始まりの過程だ」

「じゃあ、その始まりの先には何があるの。滅びではない?」

 隷は玉兔の言葉に答えなかった。代わりに玉兔の周りを囲っていた白虎と麒麟が耳をそば立てて辺りを見回した。

「誰か来たようだ」

 隷は立ち上がり、玉兔に背を向けた。神獣たちは足音も立てずそれに従い暗闇に消えていく。ただ白虎の銀色の瞳だけが玉兔を一度振り返った。

「玉兔公主」

 玉兔を捜して現れたのは陶羽だった。巫覡しか許されていない区域に彼が足を踏み入れたことに彼女は驚いた。

「将軍がお呼びです」

「私はもう寝る。雄元にはそう言ってちょうだい」

 事実彼女は疲れていた。

「公主」

 玉兔は羽の剣を見た。一度も穢れたことのない剣だ。

「先ほどは失礼しました」

「ずいぶん態度が初めて会ったときと違うのね」

「将軍がお呼びです」

 玉兔は同じことを繰り返す羽に閉口した。しかし相手は命令でここにいるから、諦める様子はない。

「明日、将軍は絽陽に向かわれます。公主にはご同行されたしとのことです」

 明日は雨乞いをするつもりだったのに。隷がこの国を滅ぼして何を始めようとしているのかは知らないが、彼女は雨が欲しかった。髪を濡らす天の雫と、頬を切るような北の風。乾いた大地が雨を乞うて泣いている。純粋に九つの太陽としてそんな地の願いを天に届けたい。

 以前はそういうものを課せられた義務と思い、自らしようなどと思ったことはなかった。しかし、この国に来て彼女は変わりつつあった。

「月の力じゃきっとあまり降らないわ」

 玉兔は地台に昇った。

 ――力が少ないのなら、せめて心を込めよう。

 掌を胸の前に合わせ、そして美しい月影の力を借りて玉兔は舞いだした。脇にいた陶羽の剣をさっと抜き取ると、それを剣舞とした。驚いた男のまん丸の瞳を無視して、天に剣をかざせば、月光が刃にあたり、彼女の頬は銀に光を集める――。

 僅かな月影と風の動き。

 そのささやくような気配に身を任せながら剣を掲げ、そして振り下ろす。玉兔が空を切る剣は邪気を祓っているようでもあり、何か見えない敵と戦っているようでもあった。

「公主……」

 陶羽のつぶやきは、しかし神舞を捧げる玉兎には届かない。

 いつの間にか、あたりは暗闇になり、月が雲に隠れたのだと玉兎が気づいた時には彼女の肩を雨が濡らし始めた。雨の匂いがした。懐かしい香りだ。それでも憑かれたように玉兎は舞をやめなかった。濡れた髪が雫を落とし頬をつたう。

 しかし、疲れた玉兔にはそれ以上舞うことは出来なかった。崩れ落ちた体を陶羽が支ええてくれなければ、そのまま地面に顔から落ちていたことだろう。

「大丈夫ですか!」

 薄れ行く意識の中で、玉兎は陶羽の強い腕を感じた。


「水浴びでも二人でしてきたのか」

 玉兔を抱えたびしょ濡れの陶羽が部屋に現れると、雄元は努めて平静な声をよそおって訊ねた。

「将軍、雨です」

「雨?」

 雄元は冷気が流れ込むのもかまわずに窓を開けた。煙雨だった。玉兎の腰のように細い雨が、斜めに屋根に降り注ぐ。

「ご苦労だった」

「……」

 羽は何があったのか報告せずに玉兔を渡すと、黙って部屋を出ていった。彼女を渡した時の喪失感が気の毒にまで顔に出ていた。雄元は玉兎を見た。濡れて体の曲線とその色が透けており、わがままで子供っぽい玉兎もまた十分に女なのだと分かる。

 雄元は、彼女を長椅子に横にすると、その線をなぞってみた。禁忌を犯している罪悪感と欲情が同時に湧き上がり、眠る彼女の手に指を絡める。

「愛おしい」そう言葉にする代わりに、彼はその首筋に顔を埋めた。

「玉兎」

 彼女が雨を降らせてくれた。

 それは、為政者という立場というよりも、男として嬉しいことだと言っていい。雨を降らせたということは、彼女は国を滅ぼし、父母を殺した興への強い恨みを消化しようとしている表れだからだ。そして雄元のこともまた彼女なりにゆっくりと許そうとしてくれている。複雑な感情を抱えつつ、前を向いて彼女は確実に進んでいる。

 抱けたのなら、そう雄元は思わずはいられない。

 将軍が亡国の王族を自分のものにするなどよく聞く話であるし、まわりもそう思っている。できないのは、彼女が「九つの太陽」だからというだけでなく、欲張りな雄元は、一人の男として受け入れられたいからで、体だけを得たいわけではないからだ。

「玉兎……」

 軽々しく、「許してくれ」とも言えない。彼女もまた決して「許す」とは生涯言わないだろう。それが万という人間を殺した罪人と、一人だけ生き残ってしまった女の哀しい性なのだ。ただ雄元が出来るのは、彼女の手を握ることであり、彼女は雨を降らせることなのだ。

 

 翌日、二人は駟車の中にいた。

「気づいたか」

 雄元が言うと、記憶をたぐり寄せるように彼女はゆっくりと重い頭を上げた。あれからずっと玉兎は目覚めずにいたのを雄元は介抱し、日が昇る前に抱き上げて馬車に乗せた。

「ここはどこ?」

「馬車の中だ。絽陽に向かっている」

 起き上がりざまに彼女の長い髪を手で一筋梳いてやると、彼の膝に寝かされていたのだと気付いた玉兎は赤くなった顔を袖で隠して照れ隠しにいう。

「な、なによ。じろじろ見ないで、気持ちが悪い」

「お前だろう」

「?」

「昨日雨を降らせたのは」

「降ったの?」

「ああ」

 玉兎は馬車に垂れた薄布をまくり上げてみたが、そこには晴れやかな秋空と切れ切れの雲があるだけで、雨の欠片も残ってはいない。

「霧雨だった」

「そう……やっぱりあまり降らなかったのね」

「見てみろ、民が喜んでいる」

 耕作する農夫の動きが多少生き生きとして見えた。しかし、もうすぐ収穫の時期。水の豊かな離宮の近くとはいえ、夏の日照りで実りは少ない。玉兔は腹を空かせ、木の実を拾う子供らの姿を見つけると、長いまつげを伏せる。

「もっと早くすべきだったわ」

「悔やんでも仕方ない。飢饉は天災ではあるが、人災でもある。寧との戦を優先したために対策に遅れが生じた」

 玉兔の鼻先をとんぼが抜けていった。

「秋ね……」

「直ぐに冬だ」

 北方では今年の冬を越せぬ者が続出するだろう。寧人であるまえに九つの太陽であるのに、なぜもっと早く雨乞いをしなかったのだろうかと、広がる田園の様子に瞳に影を落とす玉兔を雄元は愛おしく思った。

「案ずるな。志旦の問題はもう片付いたのだ。これからはこちらの問題に集中できる」

「公子志旦は殺されたの?」

「死を賜った」

「いくつだったの?」

「お前より二つ三つ年下だ」

「……」

 会ったこともない公子のことであるのに、なぜか玉兔に悲しみが襲ったようだった。十四、五の少年になんの罪があったというのか。感傷が秋色の山とともに彼女の心を染めていく。そしてそんな風に自分もまた感じるのは、そういう悲しみが似合う季節だからだと思うことにした。赤や黄色の木々と、寒々とした肌木。未だに薄着の子供たちがきっと感傷的にさせるのだ。

「しばらく都に滞在することになった」

「なんで私まで一緒に行かないといけないわけ?」

「王の閨に侍りたかったのなら、今から引き返してもいいぞ」

「は?」

「王はお前に興味を示している」

「うそよ」

「嘘ではない。お前は美しすぎる」

「…………」

「心配するな。 もう少し寝ていろ。さあ、寝ていろ」

 武人の大きな手の平が玉兔の頭を撫で、元あったようにその膝に乗せた。彼女はされるままに横たわり、引き寄せられた虎の毛皮に彼女は包まった。やさしく頭を撫でてやれば、ぐずぐず文句を言いながらも猫のように目を瞑る。

「寝ていろ。何も考えるな」

 雄元は彼女の髪を梳いた。


「人とあまり喋るな。お前は寧の訛りがある」

 絽陽の王宮の門扉を車が潜ると雄元は玉兔にそう注意した。

「失礼な。お前が訛っているのであって、私は訛ってなどいない」

「俺はただ少し興人らしく見えるようにしていろと言っているだけだ」

 寧はこの中原(せかい)でもっとも古い国だった。太古この大地を初めて治めたといわれる王朝の末裔であり、それが中原より追われ北西に小さな寧という国として残った。寧の言葉は天と地が二つに分かれた時代から話されていた正統な言葉という自負があるのだろう。玉兎が言葉を簡単に改めるわけがない。

「そんなの無理だわ。私は私。興人こそ誤った言葉を改めるべきよ」

「それに俺に対する言葉遣いもどうにかしろ。怪しまれる」

 顔を背けた彼女の顔の代わりに耳の上に挿してあった翠玉のかんざしが雄元の瞳に映った。

「これは俺が預かっておく」

「ちょっと! 返して! 返してったら」

 雄元は寧の痕跡を玉兎から取り除くいて懐にしまうと、絽陽で流行の大振りの耳飾りをその耳につけた。興の宮廷には異国から質として贈られてきた美女は多い。そんな中に放り込んでも玉兎はいろいろな意味で人の目を集めるだろう。

「二、三日のことだ。後宮にいる間だけは大人しくしていろ」

「私が大人しくしていられると思っているの?」

「……二、三日だけだ。お前にだってそれぐらいできるさ」

「退屈すぎると、大きな声で『私は九つの太陽よ!』って叫んでしまうかもしれないわよ」

 雄元は玉兔をここに連れてきたことを後悔し始めていた。かと言って絽陽に置いてくれば、王の英が、雄元への当てつけで玉兔に手をつけることも考えられた。英とは微妙な力関係を今のところ保っており、王に雄元は表面上だけでも恭順の姿勢を見せなければならない。女を王に一人ぐらい奪われたからと言って、文句をいうのは陶雄元の立場にはないのだ。同じ危惧は隷にもあって、玉兎の絽陽行きを許可してくれた。

「たのむ、少し大人しくしていてくれ」

「わかったから、かんざしを返してってば」

「返してやるから、さあ、俺を呼んでみろ」

「と、陶将軍……」

 仕方なしに、彼女は興の言葉を真似て答えた。それだけで、雄元は車の中にいるのも忘れて彼女の身体を押し倒した。

「離して」

「興の言葉で言え」

「……」

「言えと言っている」

「はなして」

 少したどたどしく玉兔が言い直した。それが愛らしくて、雄元は彼女の首筋から胸元に唇を落とした。そしてそれが鎖骨の上の日の印に行き当たると、躯の衝動を止めなければと自制が働いた。

「宮廷で誰にもこれを見られぬようにしろ」

 老女の彩季は連れてきたが、どこに人の目があるか分からない。後宮とはそういう場所だ。雄元はその印の上から唇の烙印を施した。

「痛い」

 玉兔が顔を歪めて彼を突き飛ばそうとしたが、雄元はそれを簡単に封じ込める。

「一つだけでは怪しまれるかな」

 もう一つ、彼女の胸の白く豊かな膨らみに唇を落とすと、赤い痕を残す。

「到着いたしました」

 しかし、突然がたりと車が止まったことで雄元は現実に戻された。それはきっと天の裁量だろう。巫女には触れてはならぬのだと、言われたような気がした。

「夜には迎えにいく」

 女の弾力が残る唇を雄元は触れた。

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