第二章 湖の上の聖域

第二章

 陶雄元は絽陽への帰路、『山賊』に襲われた。

 それは案の定という言葉がぴったりなほど、彼の予想通りに両端を崖に囲まれた細い道にさしかかった時だった。ずいぶんと兵書通りの『山賊』であると、雄元は感心したほどだ。

 書物によれば、こういう場合、避けて通るべきだが、あえて彼はまっすぐに進んだ。

 それは相手がこういう地形を選んで来る限り、小勢だろうと予測できたのもあったが、離宮で借りた兵三十人ほどを『山賊』の背後に回し、挟み撃ちを目論んでいたからだった。

 ――どうせ王功(おうこう)あたりだろう。

 王功は、各国を遊説して歩く兵家でそれが今は興に流れ着き、公子志旦(したん)の外祖父にあたる華応安(かおうあんの)食客となり、太子冊立に奔走している。

 悪い男ではないが、二枚舌で机上の空論から抜けきれない。雄元や叔父の陶勝林などは、そんな王功を重用する華応安の気がしれなかった。

「そろそろ来るぞ」

 雄元は家人たちに声をかけた。

 緊張が男達の手綱に走った。落暉は山の端を燃やしている。暗くなれば、こちらも少なからず被害も覚悟しておかなければならない。

 焦りが、だらりと垂れる汗とともに草の匂いを一層深く蒸らした。

 ――まだか

 雄元は馬車の中で、既に抜いてある剣の柄を握り直す。馴染みすぎた皮の具合が余計に煩わしいぐらいだった。

 張りつめた息が空の色を変えてしまえば、気付かれる。だが、それより先に賊の踏みしめていた土が崩れた。

 ――来た!

「山賊だ。山賊が出たぞ」

 前駆を務めていた男が、教えられた通りにわざと悲痛な声を上げて駆け戻って来た。顔を隠した賊がそれを深追いする。

「かかれっ」

 雄元も馬に飛び乗った。

 だてに幾度も戦を生き抜いてきたわけではない。剣の打ち付ける高い音が、すぐに賊を斬り捨てる鈍い音に変わった。『逃がさぬ』と雄元は王功を捜したが、賊の中には姿が見当たらない。

「高みの見物というわけか」

 出来る事なら一人ぐらいは生け捕って、王功あるいは華応安が黒幕だと吐かせたいところだ。しかし、手を抜いている場合ではなかった。こちらの方が手数が少ない。五十、いや七十人は刺客がいた。

 それに離宮で借りた王の兵が、思っていたよりも遅れた。華やかな鎧に輝く剣を持つ若く見目もよい男達ばかりを集めた近衛の武官たちに足らないのは場数ばかりということだ。

 雄元のような将から言わせれば、それは、身分や剣の腕以上に重要であり、こういう時に嫌というほど思い知らされる。まったく奴らはどこをほっつき歩いているのか! 苛立ちが剣を強くする。しかも、ようやく現れた離宮の近衛はあまり役には立たなかった。

「山賊ごときがっ」

 雄元は、若い兵を押さえつけていた賊を叩き斬って叫んだ。返り血が黒く淀んで視界を染める。

 王功もこちらを甘くは見ていないのだろう。凄腕を集めていた。

 ――五分五分か……。

 冷静に状況を判断しながら、息をつく間もなく雄元は敵を倒していったが、それでも限度というものがある。既に家人の幾人かは息絶えていた。これ以上、やられるわけにはいかなかった。

 ――くそっ!

 だがその時、金星が紺碧の空に瞬いた。誰かが指差した先に、幾百もの松明が赤々と「陶」と書かれた旗を照らしているではないか。

「将軍っ! あれは陶家の旗ではございませんか?!」

「そうだ! 陶家の旗だ!」

「助かった」

「助かったぞ!」

 その兵の数の多さに「山賊」たちが恐れをなして山へと逃げていく。正直、雄元も胸をなで下ろす※辺りを見回した。この山賊騒ぎを指揮したであろう王功がどこかで首尾を確認しているはずだだ。

「あそこだ」

 彼方崖の上で騎乗の男を雄元は見つけた。残念ながら弓を射るには少し遠い。いまいましいが逃がす他ない。雄元は大きく舌打ちした。

「ご無事で何よりです」

 雄元を迎えに来たのは、今年成人したばかりの従弟の陶羽だった。

「ずいぶんと兵を連れて来たものだな」

「父が私では心もとないと申しまして」

 戦ではないが、初陣といってもよい今夜の指揮に羽は紅顔に白い歯を輝かせた。その後ろには、叔父の股肱の臣である蘇学がのそりと音も立てずに現れて付き従っている。存在しているだけで、こういう老臣は空気を引き締めるものだ。

「羽、悪いが、けが人の手当を頼む」

「はい」

 雄元の言葉に陶羽は、颯爽と指示に回った。

 つい先頃までほんの子供でしかなかった少年が、今は剣を帯びて兵を率いるとは不思議なものだ。それは蘇学も同じ思いだったらしく、常は厳しい目尻をやわらかくした。

「いい将になりそうだな」

「まことに」

「で? どうして俺が襲われるのが分かった」

「李敬健さまの屋敷が焼き討ちにあいました」

「そうか」

「驚かぬのですね。李敬健さまは将軍の邸宅にいらして無事でしたが、予測しておいででしたので?」

「いや、驚いているさ」

 雄元は血のりのついた剣を袖で拭うと、それを引きちぎって捨てた。驚いているといえば、玉兔の勘が当たったことの方だ。李敬健が狙われたことは、自分がこのざまではさほど驚くには値しない。

「それにしても離宮で兵を借りたのは運がようございました」

「運でもなんでもない。山賊が出ると忠告されたのだ」

「それは?」

「とにかく絽陽に戻ろう」

 雄元は少しあごを持ち上げて、王功がいた崖のあたりをもう一度見上げた。

 興王の病は重い。

 公子志旦派が、既に動き出しているとすれば、雄元も戦場ばかりを走り回っている場合ではなかった。実直な彼は好まないとはいっても、政治の駆け引きも時にはやらなければならなくなる。

「やっかいなことだ」

 堅苦しい袍と冠をつけ、宮殿で策謀する自分を思い浮かべて雄元はため息をついた。

「叔父上は何と仰っている」

 蘇学が答えた。

「すでに手を打たれているご様子でございます」

「また近々離宮に戻らなければならそうだな」

 陶相丞が動くという事は、粛正が始まるということだ。

「西夷のこともある。あまり揉めずに立太子の件は決めなければならない」

「おっしゃる通りで。陶妃さまもただ黙って見ているおつもりではないでしょう」

「それが一番怖い」

 女というものは案外男よりも肝の据わった事をことをする。叔母の陶妃などは、やはり陶家の血筋で、今も老いを感じさせない白い顔に紅を引き、上品な宮廷言葉を操りながら公子志旦派の宮女に対して誰よりも残酷に処置していた。

「あの方が俺の敵ではないことだけが救いだよ」

 雄元が肩をすくめて見せると、蘇学もつられて笑った。

「男であったらと、お祖父さまがご生前には何度お嘆きになったことか」

「伯母上が男だったら、今頃西夷も戦わずして興に降っているだろうな」

 雄元は手綱を取った。

 馬車に乗るよりも馬の方がいい。夜の風が血を洗い流してくれるようだった。そして彼は出来る事ならば、多くの血を流さずにこの件を片付けたいものだと思った。それが先日、万という寧の兵士と公族を殺したばかりの雄元の本音だった。


 日も暮れて雄元が屋敷に到着すると、李敬健が轡を取って迎えた。

「ご無事でしたか」

「それはこっちの台詞だ」

 李敬建は、将軍の衣ににじむ黒い返り血の多さに言葉を失った。雄元の方ははそんな軍師の様子を笑い飛ばし、剣を部下に預けると馬から下りた。

「お前のところは何人やられた」

「火に逃げ遅れたものが八人ほど」

「俺のところは四人だ」

「あわせて十二人でございますね」

 こちらが十二人なら向こうは四十人ぐらいは犠牲を出さなければ、雄元の気持ちは収まらない。だが、もし今回の事が立太子の件と確実に関係しているとするなら、互いにそれだけではすまなくなるだろう。

 雄元は衣を床に脱ぎ捨てながら、左右の者たちに屋敷の警備を増やすように命じ、李敬健を残し人払いをした。

「西夷どころの話ではないな」

「将軍を襲うとはかなりの勝算がなければなしえぬことです。後宮で何か動きがあったのではございませんか」

「さあ、それはどうか。大王に離宮でお会いしたが、未だ太子を誰にするかは決めかねている様子だった」

「大王が迷うこと自体が勝算なのです。長子である英さまが当然太子となるべきところを、大王が若き華夫人に心を奪われ、公子志旦さまをと、秘かに悩まれている。そのご心中を慮ればこその華応安の暴挙なのです」

「お前の言う通り、大王の心は決っている。後押しする神託が出ないだけだ。奇襲の件で華応安を糾弾したいところだが、こちらには奴の仕業だという証拠がない」

「証拠など必要なのですか」

 冷たい夜風が通り過ぎ、燭台の火を揺らした。

 権謀術数などというものは、戈を背負って戦う雄元の性格に反するとしても、綺麗ごとばかりを並べているような年でもない。

「将軍」

 しばらく考え込んだ雄元に敬健が待ちきれぬように一歩進み出た。

「焦らすな。今、どこを突けば崩れるか考えていた所だ。そんなに策を練りたいならお前が叔父上の屋敷に行って来い。俺よりずっと役に立つだろう」

「また私に押し付けるのでございますか」

「押し付けるとは人聞きの悪い。俺はお前を信用しているんだ」

「上手くおっしゃるものです」

 敬健は大げさにため息をついたが、雄元はそれに白い歯を見せ『俺に名案などが思いつくわけがない』と逃げる。

 事実、雄元は自分をそれほど明晰(めいせき)だとは思っていなかった。

 名家の子息としてそれなりに学問はしてきたつもりだが、好んでしてきたわけはない。李敬健のような優秀な者を部下とし、その才に敬意を払うことで己の足りない才覚を補えると心得ている。

「玉兔公主は離宮でいかがでしたか」

「いかがも何もないよ。不機嫌が輪をかけたようだった」

 そう言いながらも雄元は彼女の顔が湖の水面(みなも)に照らされて輝いていた姿を思い出した。北国の白い肌。碧い湖。朱の唇。長々と肩から垂れる披帛(ショール)が風の具合によって波になった。

「公主はあの態度でございますから、殺されはしませんか」

「まあ、殺したくなるような生意気さだが、見目は無駄にいい。大丈夫だろう。金烏公子も気に入られたご様子だった」

「金烏公子さまが……」

「それに玉兔はかなり公子隷を恐れていた。俺のような普通の人間には分からない何かがあるんだろう。あいつは公子の持つ霊力に敏感で、お前ににも見せてやりたいぐらい、ビクビクしっぱなしだった。大きな態度には出ないさ」

「公子とは一度お会いしただけですが、私も薄気味悪いという印象でございました」

「お前まで何を言う」

 雄元は李敬健を戒めた。

 巫覡は天と祖先を祭る。敬いこそすれ、薄気味悪いという言葉は適切ではない。

「申し訳ありません。私はもともと興国人ではございませんので――」

 省かれた李敬健の言葉の端には、この国に置ける巫覡の影響力へ不満が含まれていた。


 玉兔は太陽が高く真上へと上ると、必ず地壇へと向かう。

 地壇とは天を祭る天壇に対して地神を祀る祭壇のことだ。天壇と違って建物ではなく、舞台のようにただ四角い台があるだけで、そこで日を視るのか彼女の課せられた務めだった。

 龍が刻まれた石の階段を上れば、降り注ぐ夏の白い光が視界を奪い、首もとの金の首輪を熱した。供は数人の巫女のみで、隷は同じ時間に天壇へと向かっている。

 日を視ると言っても、面倒くさがりな玉兔のこと。地壇に刻まれた日の方角を記すだけで後は、巫女たちに傘を差し掛けるように命じ寝そべる。

 問われれば「日を視ている。邪魔するな」と答え、目を閉じる。そしてときどき通りすぎていく鳥を感じて、自分も飛べたらいいのに、などと思った。

 ――帰りたい、寧へ……。

 目を瞑るたびにあふれる望郷の思いは、憂愁などというなまやさしい感情ではなく、孤独の底を這う感覚に近い。それなのに、玉兎が帰る所はもうどこにもなく、迎えてくれる人もない。

「玉兔公主さま、どうか少しは真面目になさってください」

「うるさい」

「公主さま」

「うるさい」

 ――絶対に泣くもんか。

 唇をかんで、なぜが雄元の顔が瞼に映った。

 ここに自分がいるのはすべてあの男のせいだというのに、恨めずに懐かしくさえ思ってしまうのはなぜだろう。玉兎は痛む胸を押さえて頭(かぶり)を振った。

 ――鳥になりたい。

 鳥になれば自由に寧へと帰ることができる。羽を休めに北より来る渡り鳥のように何事にとらわれることもなく羽ばたけたらと、少女らしい空想を玉兔は空へと向けた。

 だから、それはまるで玉兔の願いが届いたかのようだった。「あっ」という声とともに巫女の一人が大空を指差した。

「あれは、なんでございますか!」

「公主さまっ! 大鳥がっ」

 空に黒い影を作って鳥が飛んでいた。玉兔は離宮を囲う森にいる白鷺かと思った。しかしその羽音が違った。その大きな音も影も、鷲の五倍はあった。

 慌てて振り向きざまに仰ぎ見えれば、伝説の大鳥、鳳(ほう)ではないか。玉兔も初めて見る南方に住むらしい聖獣だ。真の天子が出現するときにこの世に現れるといわれる鳥が、長々とした尾を引いて玉兔の真上をゆっくりと通り過ぎていく。

「待って!」

 玉兔は裸足で走り出した。

「待って、待って! わたしを置いていかないで!」

 高欄に身を乗り出して彼女は叫んだ。肩に掛けていた披帛が大きな翼のつくった風のせいで宙を舞った。玉兔の伸ばした手がほんの少しだけ鳳の羽を触れた。

 ――もう少し!

 玉兔は思わず鳳に飛び付こうとして高欄に足を掛けるも、巫女たちが慌てて彼女の衣の端を捕らえて止めた。『おやめ下さいませ』と悲鳴ともつかぬ声が彼女を囲う。

「行かないで!」

 しかし、残酷にも鳳は玉兎を待ってはくれなかった。

 披帛が彼女の代わりにゆらゆらと地に落ちて、玉兎ははたとその高さに我に返る。

「玉兔公主、鳳を捕まえようとしたのか!」

 碧い披帛が落ちた先で、壇を見上げたのは隷だった。鳳を見て急いで駆け付けたのだろう。息を切らせて、いつもの白い面を青くして訊ねた。

「あれはやっぱり……鳳?」

「ああ。確かにあれは鳳だった。ほら、山の方へと逃げていく――」

 隷は神祇用の白衣で、米粒のような大きさとなって山の端に消える鳥を指差した。

「あなたが呼んだのか」

 地壇の長い階段を煩わしそうに隷は上ると、すぐに地に三拝九拝して高欄に腰掛けている玉兔に近づいた。

「わたしは呼んでなんてないわ」

「いや、あなたが呼んだから鳳は現れた」

「わたしはただ鳥になりたいと思っただけよ」

「公主、ここから興の都の絽陽が見える。何色か――先日は紫だと言った」

 玉兔は心の目を開いた。

 鳳が飛んで行った方の風を感じた。

「紫――いいえ、赤? 混じり合った色をしている――」

「公主。『赤』は血と乱を意味する」

「戦乱……」

「紫雲は王の気。赤と紫が同時に立ちこめる、それが何を意味するか分かるかな?」

「…………」

 隷は答えない玉兔に『賢いね』とその頭を撫でた。そして耳元で『答えたら殺されてしまうよ』と囁いた。


 隷はさっそく興王に鳳の出現を告げた。

 またとない瑞兆(ずいちょう)に王は、自分が聖人君主であると天が認めたのだと喜色を表し、鳳を呼んだ玉兔にも多くの絹や宝石が下賜された。

 だが、囚われの寧国の姫君はそれを見ても

 ――誰も見てくれる人もないのに、こんなに飾り立てても面白くもないわ。

 と無造作に投げ捨てて、ほお杖をついて憂うつになった。そして銅鏡の向こうに映る浮き雲を見てはため息をつく。

 何しろ赤い気が立ちこめているということは、国が乱れ、戦乱となることを意味する。隷が言うように紫雲や鳳の理由は、新しい王の誕生がその戦乱から生み出されること暗示している。

「もう戦はいやなのに」

 小さな唇から思いがため息とともに出るのは、寧の滅びを見たからだ。あの時も赤い気を視た。

 興という国がどうなろうと玉兔には関係ない。だが、泣き叫ぶ人々の声や、流れる血、そして燃え上がる宮殿は、できることならば、もう二度と見たくはなかった。人の死の臭いは未だに衣に帯びているように染み付いて玉兎の鼻から離れない。

 うつむき、彼女の長いまつ毛に影が出来た。

「ずいぶんと退屈そうだな」

 低い声だった。隷ではない。喉の奥から出るような声でありながら、どこか明るさを含んだ爽やかな声だ。

「雄元!」

 首だけを回して戸口に向けて、玉兔がその姿を見た時、思わず彼女は笑顔を作ってしまった。

「なんだ、そんなに俺のことを恋しく思っていてくれたのか」

 この離宮が持つ陰の気をさらりと消してしまう雄元の微笑み。彼が彼女をここに残してから既に半月が経っている。その間、人間らしい会話をする相手もこんな風に笑いかける者もここにはいなかった。玉兔が嬉しくないはずはない。だが、彼女の彼女らしさというものが邪魔をして、雄元の言葉に居住まいを正すと鼻端をつんと上げた。

「誰が。ただ、生きているのかしらと思っていただけよ」

「ふん。少しはましな手になったな」

 雄元は、そう言いながら玉兔の手を取った。

 彼の言うとおり傷だらけだった掌は癒え、本来そうあるべき姿となって白いふくよかな肉付きとなっている。

「気安く私に触らないで」

「そんな可愛くない態度だと頼まれたものをやらぬぞ」

 雄元はにやりと笑って、抱えていた木箱を出して見せた。

「忘れていなかったのね」

「ああ。侍女も連れて来た。面倒を見てやってくれ」

 絽陽で湯の世話をした年寄りが膝を曲げて挨拶を始めたが、玉兔は木箱の方に気持ちがいき、雄元からそれを取り上げると、箱を開けてみた。

「きれい」

 金と玉(ぎょく)で出来た指甲套だった。根元が金で、花を彫った玉が鋭く伸びる。さすがは、象牙の箸を使う陶家。王の下賜品と比べても見劣りしない細工の出来ぶりである。

「気に入ったならいい。花は寧の草花を掘らせた」

 雄元は玉兔の左手の人差し指にそっと指甲套をはめた。冷たい男の手に彼女の指先が小さく震えた。

「何しに来たの?」

「何しに来たのはないではないか。お前に会いに来てやったのに」

「うそ」

「王が鳳を天から呼び寄せたと絽陽の都では大騒ぎだ」

「あっそう。それで? 絽陽の様子はどう?」

「相変わらずだ。賑やかだよ。鳳が出現したとなればそれこそお祭り騒ぎさ」

 玉兔は押し黙った。

 赤い気のことも紫雲のことも口にするのを憚られる。

 不吉を告げた巫覡の末路がどのようであるかなどは、彼女は嫌というほど寧国でも見て来た。ある者は国を追われ、ある者はくびり殺された。凶を言葉にされることを為政者は一番嫌うのだ。

 それは、寧の滅びを玉兔は予言できなかった理由でもあった。

 何よりも自分の視たくないものは視ないというある種の自衛的心の作用が彼女にはあった。少女特有の気まぐれともいう。それは力の不安定さへと繋がり、九つの太陽というまれに見る能力者でありながら、どこか玉兔の告げる定めの頼りなさとなっていた。

「それで? なんの用でここに来たの?」

 自分の心の中を読まれまいと、玉兔は指甲套をはめた長い爪で、団扇で顔を隠した。そんな玉兔に雄元は一歩近づくと、その首にはめられた金の首輪を右手で鷲掴みにして言った。

「お前に会いに来たのだ」

「離して」

「占ってもらいたいことがある」

「…………」

「次の王は誰にすべきか。天命は誰にあるのか。鳳が出現した今、それが必要なんだ」

 玉兔の赤い耳飾りが片方だけ地に落ち、雄元は一瞬それに目を移した。草原を二人で駆けた旅で西夷に追われ、落としたかんざしを失った時に似ていた。が、玉兔はその一瞬の雄元の隙を逃がさなかった。とっさに彼の腰にある剣の柄に手をかけると、身を横に反転させ、振り向きざまに剣を頭の上から斜めに目の前の男に向けて構えた。

「玉兔……」

 雄元の公主の首輪を掴んでいた手が忘れ去られたように宙に浮いて、戸惑いの形を指先に作った。雄元の連れて来た老婆も、玉兔付きの巫女たちも驚きと恐れで固まった。

「剣を下ろせ」

「近寄らないで」

 剣を突きつけられている雄元よりも、突きつけている玉兔の方が怯えているから不思議である。何しろ雄元に対する玉兔の思いは複雑なものであったし、ましてや卜占に関しての強要は玉兔にとって恐ろしいことだからだ。

 雄元はそんな玉兔に敵意をないことを示すために両手を上げた。

「近づかないでって言っているでしょう!」

「馬鹿なことはやめろ」

 瞳と瞳とがにらみ合う。

「立太子の件で絽陽はもめている。お前がどちらの公子に天意があるか教えてくれたのなら、俺はたとえそれが陶家の血筋を引かない公子だろうが、推そうと思う。力を貸して欲しい」

 玉兎の剣を持つ手に力がこもる。

「このままでは国が乱れる」

「……誰も運命を変えられないわ。天命はどこにもない」

 雄元はゆっくりと玉兔の剣の先に指を乗せた。そしてそれを自分の喉元にあて、静かに跪いた。

「絽陽では陶家と華家による争いが始まっている。李敬健の屋敷も焼かれた。王には一刻も早く還御していただかなければならない」

「……そんなのわたしには関係ない」

「玉兔。お前の力が必要だ」

 雄元の強い視線に玉兔の持つ剣は震えた。喉元にあった剣先が、その震えを隠すかのように額に向けられた。

「玉兔」

 一瞬触れた刃。小さな切り傷が眉間に一筋の血を垂らした。それでも雄元は玉兔から目を離さなかった。

「出て行ってっ! みんな出て行って!」

 剣を両手に持ち直し頭上に振るって、玉兔は叫んだ。巫女たちはどうしたものかと、顔を見合わせていたが、雄元が黙って頷いてみせたので、さらさらと絹を泳がせて、後ろ向きに下がっていった。

 二人だけになった部屋。

 玉兔は剣を下ろした。

「天命はここにはないわ。乱の気はでも立ち込めている。紫雲の気はまだ弱い。わたし、言ったわよね? あなたはここに来ない方がいいって」

「ならば、天意はどこにあるって言うんだ? 王が留守の絽陽は血と血で争う街となっている。放火、暗殺、かどわかし、何でもありだ。鳳が出てからは、それはそれは賑やかに毎日どこかで騒ぎが起こっている」

「知らない。私は知らないわ! 天命なんてどこにあるのか知ってどうになるっていうわけ?!」

 玉兔は死を覚悟した。

 雄元の口からこのことがもれれば、殺される。

「興王家には天命はないのよ」

『馬鹿な』と雄元の唇がいった。

            

 この半月というもの、各公子派閥の争いは激しく、絽陽の治安は悪化する一方だった。その理由の一つに寧攻略をすませた陶雄元の帰還も含まれており、公子志旦派は敏感に状況に反応し、呪詛、刺客、嘘の罪状による公子英派の逮捕など、あらゆる手を使ってきた。

 李敬健にまかせたとは言ったものの、雄元もただ静観しているわけにもいかず、陶妃の子である公子英に帰京の挨拶に行ってみたが、元来のんびりなこの公子は、庭先で雄元をもてなしながら人ごとのように

「父上には思う所がおありだから」と笑って取り合わない。

「英さま、そのような悠長な――」

「でもそうだろう? 母上や将軍がどう思うと、やはり弟の志旦は私より優れた人物であるのは確かだし、陶家以外の者たちは志旦を慕っている」

「しかしながら、長子はあなたさまなのです」

「長子だろうが、末子だろうが、天命があるものが王位に昇る。そういうものではないのかな」

「……離宮から知らせは当分来ないでしょう。金烏公子は強かです」

「鳳が現れた。瑞兆はやがてもたらされるだろう。それが私にとっての凶兆だとしてもね」

「英さま……」

「忘れてもらっては困る。私はこの国の公子で国に尽くすのが責務なのだ」

 凡庸と世間はこの公子を嘲るが、雄元は天を崇める従弟を悪く思ってはいない。むしろ、王位につけば、才気立つ志旦よりもそれなりに器の大きい所が見せられるのではないかと、期待すらしていた。

「私自身は王位にこだわりはない。将軍には天命のある人間を補佐してもらいたいね」

 英の言葉に雄元は自分の姿を映す白湯に瞳を落とした。

「父上は離宮でいかがであった」

「少しお年をお召しになったように思いました」

「そうか。では金烏公子は?」

「お元気でした」

「また行くのだろう? ご挨拶申し上げてくれ」

 天命とは一体誰に与えられているのか――。

 英と話した後に、それを求めて雄元はここへと戻ってきた。それなのに玉兔は興王家に天命はない言う。

 驚いて声もでない雄元がようやく呪縛から我に返ると、異国の公主は血の気が失せた面を向けていた。言葉を失ったままの雄元はそんな彼女を気遣って『玉兔』とその名を唇だけで呼んだ。

 だらりと垂れた剣を持つ腕。

 何かちゃんと声で言ってやりたいと、一歩彼女に近づいたのと同時に戸が開き、公子隷が現れた。誰かが呼びにいったのだ。白い衣に白い髪の麗しの公子は緊迫した状況にも落ち着いていた。しかし、袖からのぞく白い腕に浮かぶ青い血管に雄元は、この公子持つひやりとした刃のような鋭さを感じた。

「金烏公子……」

「将軍、うちの公主が失礼をしたようだね」

「いえ……」

 隷は玉兔が持っていた剣を取り上げると、雄元に手渡した。それを受け取った雄元だったが、「うちの」という言葉に玉兎を遠くに感じ、剣を持つ手がぎこちなくなった。

「おいで。公主」

 隷の手が玉兔の肩にのり、長椅子にその体を引き寄せた。玉兔の顔からはあれほどまでに激しかった感情が消えて、抱き寄せられるままに同じ椅子に並んで座る。

「将軍もおかけになるといい」

「はい……」

 勧められた椅子に腰掛けたが、ちらりと隷に目をやって、この公子の歳は一体いくつなのかと思った。顔はどう見ても十代。ただ白髪のために年齢は不明だ。

 そんな隷と玉兔が並ぶと、白髪と黒髪が混じり合ってなんとも奇妙だ。

「絽陽は賑やかなようだね」

「はい……」

「大王も気にかけておられた」

「還御のご様子は?」

「ない。と、いうより絽陽の気がよくない。お帰りになれば、いろいろと良くないことが起こるだろう」

「しかし、帰京して頂かねば、絽陽はおさまりません」

「そう……どうする? 公主」

「知らないわ」

「困ったね」

 隷は、玉兔の髪を指ですくい上げ、口元によせた。

「あなたは鳳を呼ぶ力がある。絽陽に大王とともに行って何かあっては心配だ」

「じゃ、あなたが行けばいいわ」

「それは絽陽で許さないだろう」

『そうだろう?』と隷は雄元に微笑みを向けた。

 かつて古代において、王とは巫祝の長であったという。雨を請い、豊作を祈る、天と地を繋ぐ者が王。それがいつのからか、王に必要とされるものは、剣と盾となり、王その人に特別な力は必要とされなくなった。

 囚われの公子、金烏公子こと公子隷。

 王位争いで破れ、ここに幽閉されたのだと雄元は聞いていた。

 絽陽の年寄りたちは隷のことを話したがらない。

 彼の持つ力が、この金烏宮殿から出られぬように呪(じゅ)の施された金の足枷によってこの地に封印され、興国の廟でもあるこの離宮を護るのを務めとする。

 雄元はその銀色にさえ見える白髪に隷の年齢を再び思いをはせた。

 ――この公子はこの離宮で何年暮らしているのだろう……。

 しかし、その答えを雄元は知らない。ただ、神事を司る者たち特有の冷たい視線が雄元に流れて来た。

「大王は帰京できないよ、将軍」

「私は公子英さまの使者として参ったのでございます」

「絽陽では星を視ていないのか?」

「星と申されますと?」

「彗星が視えるとそう報告が来ている」

 彗星は凶兆。雄元は息を飲んだ。

「そのようなこと軽々しく口にすべきではありません」

 雄元は隷の言葉にその目をまっすぐに見据えて言った。

「将軍。私は本当のことを言っている。この世は乱世になる。いや、もう乱世か。それに興国も巻き込まれようとしているのだよ」

 玉兔が隷の言葉に怯えた。それに隷がやさしい視線を送り、彼女のあごに指を触れた。不吉は口にすべきではない。それを承知で隷は今、雄元の前にいる。

「大王が絽陽に還御するには私たちをともなう他ない」

「……」

「さもなければ、大王の命は朝露のごとくはかないことだろう」

 脅されているのだと、雄元は思った。王に帰京を進言できるのは隷しかいない。だが、その引き換えにこの男を自由の身にしなければならい。

 目に見えないものは信じない男の雄元だったが、絽陽に隷を連れて行くことは迷信深い百官から難色を示されることは分かり切ったことだ。諾といえるわけがない。

「玉兔だけならなんとかいたしましょう」

「彼女のことは絽陽の者たちには知られてはならぬ。これは大王のお考えだ」

「公子、あなたは何をお考えなのですか」

「何も。ただ大王が帰京するにはそれしか方法がないといっている。無理なら、私は公主とともに、絽陽の末路をこの離宮で見届けよう」

「お尋ねしてよろしいでしょうか」

「何か」

「公子英さまには王となる天命はあるのしょうか」

「それは天のみぞ知る」

 隷は「私は答えは急いでいない」と言った。王への謁見を申し出たが、それは隷によって退けられた。すでに王は隷の手の中に落ちているのだ。もし、公子隷に手を貸せば、神意によって英を擁して王位につけることが叶うかもしれない。雄元の心は揺れた。

「一度、絽陽に帰って協議いたします」

 雄元は、拝辞の礼をとった。跪いた視線に隷の足枷が映った。黄金の呪だ。

「今度将軍がここに来る時は兵を引き連れて大王を迎えるだろう」

 隷の言葉に彼は百万の兵がこの金烏離宮を囲む白昼夢を視た気がした。鮮やかな赤い旗が棚引き、天の日をはじいた武具が輝く幻想だ。見上げる高い壁の上に立つ玉兔の白衣が、風に乗って飛んでいる。青い空。だが、玉兔が落とした耳飾りを踏んだ時、雄元はふと我に返った。

 赤い血のような紅玉の耳飾りだった。

 それを拾い上げ『あなたはここに来るべきではない』と言った玉兔を思い出して握りしめた。既に何かに自分は捕まりかけているのかもしれない――。


「玉兔公主は運命を信じるか?」

 そう訊ねたのは、隷だ。

 彼は、玉兎を天壇の楼に誘って、雄元が舟に乗って去っていくのを小さくなるまで見送っていた。それが突然、ぽつりとそう隷が尋ねたのだ。

「運命? 私は信じない」

 きっぱりとそう玉兎が言ったのはどうしてか。

 運命を見極めるのが仕事の彼女だから、それは天に対する反抗だった。

 隷の肩を借りて高欄の上に立つと、彼女は笑ってみせた。彼女が抱える運命も天意もすべて今、ここから飛び降りれば、それで終わりだ。選択肢は天ではなく玉兎にある。

「鳳が現れた日、私は空を飛びたいって思ったの。飛んで、寧の国に帰りたいって思ったの」

 隷は黙ったまま聞いていた。玉兎は微笑んだ。

「私は飛べるかしら? ここから飛び降りたら――」

 羽を羽ばたくように両手を広げ『生きているのが退屈なの』と玉兔は言った。隷はそれにただ苦笑し、高欄の上を歩く危うげな足下の公主を抱き下ろす。

 玉兎は逆に訊ねた。

「隷、あなたも飛びたいって思うことはない?」

「そうだね……」

「帰りたいんでしょう? 絽陽に」

 隷はそれに何も答えなかった。その代わりにまだ微かに見える絽陽へ帰る人の影を見やった。

「わたしは寧に帰りたい」

「寧はもうない」

「それでも寧の土を踏んでみたい。寧の匂いを嗅ぎたい。寧の花を見たい」

「…………」

「あなたの望みは何?」

「私はあなたとは違うよ、公主。私は興国の人間だ。ここが私の故郷だよ」

「違う。わたしには分かる。あなたは何かを強く望んでいる。そうでしょ? 私には分かるわ」

 玉兔は日を袖で梳かして視ようとした。だが、それは隷に妨げられ、唇が重なった。感情のない面の奥底にしまい込んだ思いが逆流してきたかのような激しい接吻だった。今の思いを受け止めて欲しいとか、吐き出したい思いを飲み込んでくれとかそんな悲壮な懇願が込められていて、恋愛の恋も愛もそこにはない。

「私の心をのぞこうするのはやめてほしい」

 唇が離れたとたん、隷はいつもの冷たい顔に戻っていた。玉兔は『そんなことを言ってもわたしには隠しきれないわ』と眉を吊り上げたが、言葉は出ない。背を向けた隷に孤独を感じたからだ。

「公主、あなたは私の運命において凶なるものなのだよ」

「わたしが? なぜ?」

「そう。そう卜占に出た」

「それをあなたは信じているの?」

「さあ、どうだろう?」

「わたしは運命なんて信じない」

 高い声が天壇の天井に吸い込まれていく。その黄色い声色には、すべてを切り裂く音韻があった。

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