遥か東の玉葱模様

白里りこ

遥か東の玉葱模様


 あまり活気を感じられない気がする。

 カプチーノのカップを置き、店内を見回してそう思った。何と言うべきか、客の顔付きや所作などがどことなく暗い。窓の外に目を移してもそう。古くからのカラフルな建物が並び、薄曇りの空を尖塔が貫くこの町は、どこか陰鬱な雰囲気に包まれている。

 ちょっと意外だ。

 先だっての東西ドイツ統一で西側の空気に触れたのだから、ここの人々はもっと、未来に希望を抱いて明るい顔をしているものと思っていた。いや、今はまだ東西の経済格差は深刻で、例えば旧東ベルリン名物の車トラバントは紙でできたかのような質の悪さだ、とかいう噂を聞いてはいたが、こうして実際に見ると驚いてしまう。まだまだ旧東側陣営の正確な情報は日本に入って来づらいらしい。

 私は大学の夏休みを利用して単身でドイツのマイセンという場所に来ていた。海外に渡ったのはこれが初めてだ。旧東ドイツのここでは英語など絶対に通じないだろうから、頑張ってドイツ語を頭に叩き込んでおいた。

 目的は、私の研究対象であるマイセン磁器。私はたった今そのマイセン磁器の博物館を堪能し終わり、観光ついでにカフェに立ち寄った所だった。

 マイセンは民主化を経験したばかりだし、その後旧西ドイツと統合して更に政治経済に改革が起きた……ということになっている。そう言うと何やら素晴らしい大転換が起きたように聞こえるけれど、どうやら違うらしい。ここでは人々の生活が劇的に良くなったという感じはしない。現実には変化とはかなり緩やかなものであるのか、もしくは……変化した結果、却って格差問題が深刻化している、とか?

 再び店内に視線を戻した私は、気になるものが目に留まったので、思考を一時中断した。

 二つ向こうの席で、テーブルいっぱいに紙を広げて、何かを描いている女性がいた。目を細めてよくよく見るとそれは、ツヴィーベルムスターの柄のようだ。

 私は小さく息を呑んだ。

 灯台下暗し! あの絵を描いている人が、まさかこんな近くに居たなんて!

 ツヴィーベルムスター、またの名をブルーオニオン。マイセン磁器における最初期の様式だ。白地の皿に青の線でぐるりとタマネギが描かれているためこのように呼ばれる。他の都市の工房などに技術とデザインを借用され放題だったため、これはマイセン特有のものとは言えないのだが、一応の発端はマイセン磁器ということになっているし、ブランド力もマイセンが強い。

 私はグビグビとカプチーノを飲み干すと、席を立ってその女性の描く絵を堂々と見に行った。

 何を隠そう私は、美に対して並々ならぬ興味と愛を抱いている、熱意ある美の研究者の卵。美のためならばいくらでも行動しどこへでも馳せ参じるのが私の信条だ。たった一人で国を飛び出してマイセンくんだりまで来ていることが何よりの証左である。変人呼ばわりも何のその、私は自分の審美眼を信じて、突っ走りながら生きている。

 というわけで、私は彼女のテーブル近くまで移動して、しげしげと彼女の作業を観察した。

 彼女はカラー版の本も机に広げていた。開かれたページには中国の工芸品、青花磁器の写真が載っている。そして彼女が熱心に描いている柄は、伝統的なツヴィーベルムスターとは少し違って、青花の模様に寄せていることが見て取れた。タマネギはそのままに、筆で描いたような繊細な動植物の模様が追加され、上手く融合している。

 私の中にある美のセンサーが、ピコーンと反応した。

 これは──何と秀逸なデザインであることか! こんな所でこんな素晴らしいものに出会えるとは、運が良い。

 私は一言も発さぬまま更に机に近づいて、彼女が描くアジアンでヨーロピアンな図柄をじっと見つめた。

「……」

 彼女はちらりと目を上げたものの、至極どうでもよさそうな顔をしたかと思うと、特に何も気にした様子もなく自分の作業に戻った。そこで私は遠慮なく、彼女の青いペンからタマネギ模様が生まれる様子を覗き込み続けた。

 ──そもそも何故、青いタマネギなのか? これにはちゃんと由来がある。

 まず、光沢のある白地に藍色の柄の食器というのは、そもそもが青花磁器の特徴だ。当時オリエント文化に憧憬を抱いていたヨーロッパの貴族たちは、競ってこの舶来品を求めると同時に、美しく輝く真っ白な焼き物を作る技術を確立するために執念を燃やした。長い時をかけ最初にこれに成功したのが、マイセンの王に仕える職人たちだった。そして、元々が中国の品の模倣であったために、絵付けにも当然、深い青色が選ばれた。

 そしてタマネギ、これは中国で縁起が良いとされる柘榴や桃の絵があしらわれていたのを、タマネギだと勘違いして描いたものだそうだ。他にもブルーオニオンには、竹や蓮みたいな植物や、漢字を彷彿とさせる謎のモチーフなどが取り入れられている。

 つまり、盗作に悩まされていたマイセン磁器のツヴィーベルムスターも、言ってしまえば初っ端は、東洋への憧れから出来た偽物であり劣化版だ。当然ながら、制作し始めたばかりの頃は、中国の青花の方が美術品としての価値が非常に高かった。磁器としてのクオリティはもちろん、絵付けの技術も芸術性も精巧さも奥深さもずば抜けている、

 とはいえ、マイセンでも徐々に品質が向上してデザインも洗練されていったために、今ではツヴィーベルムスターも立派な美術品となり、世界的な人気を獲得できている。シノワズリ的な趣味を継承しつつ西洋的な良さも取り入れた、シンプルな線で描かれた絵柄が、私も好きだ。青花のデザインを高尚で美麗と評するならば、ツヴィーベルムスターは上品で小洒落ているといったところか。このように文化と文化が影響し合うことや、模倣を通して技術が発展していくことは、美術品の良さの一つで──。

「……座ったら?」

 急にドイツ語で話しかけられて、私はハッと我に返った。彼女の向かいの椅子を指さす。

「ここに座って良いですか?」

「二度も言わせないで」

「ありがとうございます!」

 私は椅子に腰掛け、改めて彼女の作業を凝視し始めた。しばらくして彼女は、こちらを見ることなく口を開いた。

「……何でそんなに見るの」

「あっ、あのっ」

 私は居住まいを正した。

「私は、日本で工芸品を研究している学生です。マイセン磁器のツヴィーベルムスターが特に好きです」

「ふうん……わざわざ、日本から」

「はいっ!」

「……私はツヴィーベルムスターの絵付け師を目指してる。今は工場で案内人やってる下っ端だけど」

「絵付け師を!」

 私の声は感激のあまり裏返っていた。

「何と素敵な! 応援します! 特にこの絵は、えーっと……普通のツヴィーベルムスターと違うところがありますね! 私はこれを、とても良いと思います!」

 素直に賞賛したのだが、彼女は僅かに苦い顔をした。

「……東ドイツも今のドイツも、伝統的なデザインを要求している。だから私みたいなスタンスの人材は採用されない」

「そうなのですか。あなたのように良い絵を描く人が採用されないのは、残念なことですね」

 彼女は溜息をついて首を横に振った。再び線を描きながら、こんなことを言う。

「採用されないだけで済むようになったのは、まだマシ。前は、国の方針に沿わない絵を描いたら、逮捕される危険があった。だから描いたものは誰にも見せずに焼却してきた」

「……えっ?」

「東西ドイツ統一後は、逮捕の危険がなくなった。それは素直に嬉しい。でも同時に、父も母も失業した」

「えっ⁉︎」

「資本主義になって、完全雇用じゃなくなったから。私も……副業を失って、稼ぎが減った。今後は私が出世しないと家族が食べていけない。だから私は真っ当な絵付け師にならないといけない」

「……」

 彼女は手を止めて、青インクのペンを机に置き、私の顔を見た。

「こういうデザインの考案は、今日が最後。明日からは伝統的な絵の練習を始める」

 私は、完成した目の前の図案と、彼女の目とを交互に見た。

「それは、残念ですね。これは素敵な絵です。……美術において、デザインの保守は確かに大切なことですが、革新もまた重要だと思います」

 頑張って言葉を選んだ私に、彼女はふっと表情を和らげた。

「最後にそう言ってくれる人に会えて良かった。誰かに見てもらえた上に褒めてもらえたなんて、この絵は幸せだよ」

 私は何とも言えなくなって、考え込んでしまった。彼女は恐らく今も、自分のデザインを他人には見せずにいるのだろう。それはとても悲しい。

 なぜなら私は、彼女のデザインに惹かれてしまったからだ。美を愛してやまないこの心が、魂が、このデザインが世に出ることを切に願っている。何とかして、この人の生み出す素晴らしい美を、人々に知らしめることはできないだろうか。

 私が黙っているうちに、彼女はさっさと荷物を片付けた。完成した絵も仕舞い込まれてしまった。

「あ……」

「それじゃ、先に失礼するよ。さよなら」

「さようなら……」

 残された私は寂しさを噛み締めながら席を立った。彼女に続いてカフェを出ようとした所で、窓の外に彼女の姿が見えた。

 彼女は、何やら男の人に絡まれて、揉めているようだった。男の人が彼女の手首を強く掴んだのを見て、私は慌てて道まで飛び出した。

 あんなに価値のある絵を生み出す彼女の手を、粗雑に扱わせてなるものか。そんなことはこの私が許さない。彼女を助けることは、美を愛する者としての使命だ。

「あのっ!」

 男の人の腕を掴んで、彼女から引き剥がそうと試みる。

「あなたはこの人に、何をしているのですか!」

 二人とも、ポカンとして私を見た。男の人は心底当惑した様子で、私を指差した。

「何だ、この東洋人のガキは。お前にこんな知り合いは居なかっただろう」

「……この人とは今さっき、どうでもいいお喋りをしただけ。巻き込んでも意味ないよ」

「だとよ。てか、触るんじゃねえ」

 彼は私の手を易々と離させた。

「あっち行け。シッシッ」

 虫のように追い払う仕草をされて、私はムッとした。

「あなたは私の質問に答えるべきです」

「質問って何だ」

「あなたはこの人に何をしているのですか」

「何でそんなことをお前に言う必要がある?」

「やめて」

 彼女がやや険しい声を出した。

「この男は私の元恋人。もう縁を切った。それだけ。あなたもあんたも、もう私に関わらないで」

「ああ……」

 私は若干の哀れみを込めて、男の人を再び見上げた。

「元恋人さん、これは脈ナシですよ。この人のことは、諦めた方が良いですよ」

 男の人はあからさまに不快そうな顔つきになった。

「うるせえな。何様のつもりだ」

「通りすがりの、美を愛する者です」

「何言ってんだこいつ……」

 男の人は鼻白んだ。

「そんな適当な理由でこいつに構うのはやめとけ。こいつは信用ならないぜ」

「ちょっと!」

「よく聞けチビ。こいつはな、元IMSイーエムエスだったんだ」

「……!」

 彼女は体を強張らせた。ちらりと周りを気にする素振りもした。それを見た男の人はニヤニヤ笑いを深めた。

「ほらな、お前は過去から逃れられない。今はまだ、黄色いガキに知られただけで済んでるが、今後はどうだろうな?」

 彼女は男の人を睨みつけた。

「……IMSやってたのは、あんたも同じでしょ」

「俺は良いんだよ。だがお前は困るよな? 絵付け師になりたいんだもんな? だったら、俺の言うことを聞いた方が身のためだぜ」

「……」

 私は困惑して二人を見ていたが、二人とも黙ったので、気になっていたことを尋ねた。

「あのぉ、IMSって何ですか?」

 二人はまたしても、ポカンとして私を見つめた。

「何って、そりゃ、非正規協力者だよ」

「非正規で協力を……? 何にです?」

 三者間にしばしの沈黙が降りた。

「おいお前、このバカを早くどっか行かせろ。話の邪魔だ」

「……私はあんたに話はない。あんたがどっか行って」

「そうです! 元恋人の手を掴んだりするのは、話とは言えないと思います! えーっと、私は警察を呼びますよ! あなたがまた乱暴をするならば!」

「……」

 男の人は呆れ返った顔をしていたが、面倒くさそうに舌打ちをした。

「やってられっか。今日はこのくらいにしといてやるが、次は無いと思えよ」

 何が何だかさっぱり分からなかったが、男の人は彼女の手を離してどこかに行ってしまったので、ひとまず脅威は去った。私は彼女を振り返った。

「すみません。大丈夫ですか?」

「大丈夫だけど……なぜ謝るの」

「私は、出しゃばりました。事情をよく知らないまま」

「……構わない、そんなの。助かった。ありがとう」

「それならば良かったです。あなたは元恋人に、何か弱みを握られているのですか? もしあなたが、彼からストーキングを受けていて、お金や仲直りを要求されているなら、警察に相談すると良いですよ」

「……そうなの?」

「えっ、あっ、私は何か間違えましたか? すみません!」

「だからなぜ……まあいいや。あなた、今からの時間は空いてる?」

「はい。私には今日はもう予定がありません」

「じゃあちょっと来て」

「あ、はい。どこへ?」

「うちの工場」

「えっ」

 スタスタ歩き始めた彼女についていき、私は彼女の勤め先であるマイセン磁器の工場に到着した。受付でしばらく待たされていると、彼女が戻ってきて、書類を差し出した。

「あなたは特別に私が案内する。工場見学と絵付け体験。絵付けの方はツヴィーベルムスターと同じ工程の、下絵付けができるよう手配した。この紙に、名前と住所と希望する日時を記入して」

「わあ……! ありがとうございます!」

 私は書類に必要事項を書いた。それを受け取った彼女は怪訝な顔をした。

「名前、何て読むの」

「ヨリコ・タナカです」

「ヨリコが名前? 苗字でなく」

「はい。ドイツでは珍しいですよね」

「珍しい。……私はルーツィエ・リヒター。明日はよろしく、ヨリコ」

「こちらこそよろしくお願いします、ルーツィエ!」

 その後ルーツィエは、私をホテルまで送ると言い出した。私は断ったが、助けてもらった借りを返したい、とルーツィエは譲らなかった。

「お礼なら、工場の案内だけで充分です」

「もう一個。あなたは私に、警察に相談するという提案をしてくれた」

「それは大したことではありません」

「大したこと。つべこべ言わずに宿泊場所を教えて」

 何だかんだで、私は押し切られた。

 道中、ルーツィエはIMSについて教えてくれた。それは東ドイツの秘密警察シュタージに秘密裏に協力していた一般人のことを指すのだと言う。つまり彼女は、東ドイツ政府による市民弾圧に加担していたのだ。

「そうだったんですね」

「そう。……不快に思う?」

「いいえ。私はあなたの経歴を気にしません。私はただ、あなたの美のセンスを尊敬しているだけです。美を生み出す力のある人には、誰であっても活躍して欲しいと思っています」

 ルーツィエは困ったような複雑な顔で私を見下ろした。それから急に話題を変えた。

「ヨリコは、オスタルギーという言葉を知っている?」

「知りません」

オスト懐古趣味ノスタルギーを合わせた言葉。……東ドイツ時代を懐かしむ気持ちのこと」

 へえ、と私はルーツィエを見上げた。

「懐かしいのですか? 意外です」

「昔は窮屈なこともあったけれど、暮らしはマシだった。私の両親は働いていた。私は誰に知られることもなくIMSになって、優遇措置を取ってもらえた。下っ端とは言え希望する工場で職に就けたし、対価として金銭も受け取っていた。私は国家に貢献しているんだという小さな正義感すら持っていた。……本当は、自分が得をしたいばかりに人を騙して陥れていたのに、その事実を直視しようとしなかった。だってどうせバレないから、誰も私を責めない」

 ルーツィエの声音は、闇よりもなお暗かった。

「でも今は情報が公開されてる。私がやっていたことは、ちょっと調べれば分かってしまう。そうなれば私の周りのあらゆる人間関係は崩壊するし、すぐに職を追われて生計が立てられなくなる。今では、IMSだったことには何一つとして利点がなくなって、不利益だけが残った」

「……」

「元IMSなんてどこの業界でも根こそぎ解雇されている。今もまだ私の首が繋がっているのは物凄い奇跡だし、それがいつまで続くかなんて分かったものじゃない。現状うちの工場は裏切り者探しから免れているけど、その理由は恐らく、腕のある職人の数が決して多くはないから。もし優れた技術の持ち主がIMSだったとバレて辞めさせられたら、業界にとっての大きな痛手になる。でも私は下っ端だから、明日にも過去が暴かれて、解雇されるかもしれない。東ドイツ時代だったらこんな境遇はありえなかったのに……と思ってしまうことがある。それが最低なことだと分かっていても」

「それは」

 私は二の句を継げなかった。ルーツィエは滔々と話を続ける。

 東ドイツに生まれ育った人々は、統一という名の吸収合併によって急速に西ドイツ化しているこの場所で、慣れ親しんできた東ドイツの文化が徹底的に潰されて全否定されていくのを目の当たりにして、悲しい思いをしているようだ。生活も良くなるどころか、失業者が爆発的に増えただけで、経済格差も広がるばかりで、政府からの救済措置も特に無い。そして、旧西ドイツに流入していった人々も豊かに暮らすことはできていない。旧東ドイツ的な人材は、今のドイツの企業に気に入ってもらえないし、事あるごとに旧西ドイツの人々に見下される始末だという。

 旧東ドイツに生きた人々はこの先ずっと、アイデンティティの揺らぎとどうしようもないコンプレックスを抱えながら生きなければならない。シュタージに協力していた一般人は、日々怯えながら困窮していくしかない。それを思うと、オスタルギーという概念が生まれるのも納得である。

 でも、と私は思う。時間は戻らない。この先ルーツィエは、この環境で生き続けなければならない。それも、立派な絵付け師として。

 そして私は、彼女の独自のデザインが世に出ることを望んでいる。

 もし、彼女が腕のある絵付け師として認められたら、過去がどうであっても、勤め先に重宝してもらえるかもしれない。そうしたら彼女の絵がツヴィーベルムスターの新しい様式として、人気を得られるかもしれない。部外者の希望的観測に過ぎない発想だけれど、可能性があるなら試さないのは勿体無い。

 一つ案を思いついた私は、口を開いた。

「ルーツィエ。明日の絵付け体験の枠を、もう一人分用意できますか? お代は私が払います」

「……ヨリコ、連れがいたの? 先に言ってくれれば用意したのに」

「はい。連れはあなたです、ルーツィエ」

「何て?」

「あなたも絵付け体験をするのです。体験ならば革新的なツヴィーベルムスターを自由に描けます」

「え……」

「職人の皆さんに、あなたのデザインを見てもらいましょう」

 ルーツィエは何度か目をしばたたいた。

「それを、工場が許すかどうか」

「私からの我儘だと言っても不可能ですか?」

「……確認しないと分からない」

「では、二人で戻って確認しましょう」

 ルーツィエはしばらく躊躇っていたが、今度は私が押し切った。そして無事に、絵付け体験の枠を二人分、確保することができた。

 翌朝早く、私はルーツィエの務める工場に足を運んだ。受付で挨拶と用件を告げる。

「ご予約のタナカ様ですね。ただいま担当の者を呼んで参ります。少々お待ちください」

 本当に少し待っただけで、ルーツィエが顔を出した。手には、何かが入ったトートバッグを持っている。緊張してはいるようだが、昨日の暗くて後ろめたそうな様子はどこへやら、表情は明るく見えた。こんな煌めいた表情の人物は、この国に来てから初めて見た気がする。

「おはよう、ヨリコ」

「おはよう、ルーツィエ」

「じゃあ早速、絵付け体験をするよ。描き終えた後に釉薬をかけて焼成するから、その工程をやっている間に工場見学をしよう」

「分かりました」

 私は体験工房に連れて行ってもらい、第一焼成を終えた平たい焼き物を二枚渡された。次いで、ごく簡単な模様が彫られたいくつかの金属板を選ぶ。この金属板の上から木炭を振りかけて下描きを写し、コバルトブルーで線をなぞるのだ。

 ルーツィエはトートバッグから、より複雑な模様が刻まれた金属板を取り出した。

「それが、ルーツィエのオリジナルデザイン?」

「昔……学生の時に作った習作を、昨晩のうちに直しておいた」

「すごいですね!」

「……少し、怖い。これはマニュアルには無い勝手な行動だし、私のデザインが職人たちにどう思われるかを想像してしまう」

「きっと大丈夫です。せっかくですから、ルーツィエも楽しんでやりましょう」

「それは、そうだね」

 皿の上にうっすらと出来た線を慎重になぞる。コバルトブルーの染料は、この段階では黒っぽい灰色をしている。これに釉薬をかけて第二焼成を施すことで、あの鮮やかな藍色が現れる。

 長い時間をかけてちまちまと線をなぞり、作業を終えた私は、うーんと伸びをした。

「疲れましたー」

 そう言って、とうに自分の絵を完成させていたルーツィエの方を見る。彼女は不安そうに俯いていたが、やがて決意を固めた様子で私を見た。

「職人に渡しに行こう」

「はい、もちろん」

 こうして二枚の皿が次の工程へと引き継がれた。

 私はルーツィエの案内で工場を巡り、様々な種類のマイセン磁器が作られる様子を観察した。ろくろを回しながら形作られていく食器や雑貨の数々。マイセン磁器には皿だけではなく、置物や像や燭台など沢山の種類の作品があるのだ。

 また、上絵付けという技法を使えば、藍色以外にも多種多様な色彩を乗せることが可能である。可憐な花模様のティーポットや、綺麗なドレスを纏い頬を染めた人形なども、美しいと評判だ。どの作品にも、輝かしい光を放つ艶やかな白色の磁器の特長が、よく活かされている。

 やがて、絵付け体験の皿が焼き上がる頃合いになった。私たちは再び体験工房に足を運んだ。

 私は、ぴかぴかで透明感のある白い皿の上に、自分がなぞった線がくっきりとした藍色となって添えられているのを見て、危うく感涙するところであった。

 ルーツィエは目を見開いて、自分のデザインが取り入れられた皿を見つめていた。

「ルーツィエ、出来上がりはどうですか? 思った通りになりましたか?」

「なった……」

「実現できて良かったですね。これは非常に素敵な作品です。皆さんに自慢しませんか?」

「いや、いい」

「自慢しましょう。すみませーん。そこのスタッフの方々は、ルーツィエのデザインをどう思いますか?」

 私が大声で呼ばわったので、ルーツィエは怯えたような顔をした。

「ちょっと!」

 しかしルーツィエの心配は杞憂に終わった。スタッフたちだけでなく、たまたま来ていた絵付け師の人や、他の工程を担当している職人さんなども集まって、思い思いにルーツィエの絵を褒めて盛り上がった。ルーツィエは耳まで真っ赤になっていた。

 やはり、私の美のセンサーの反応に、間違いは無かった。彼女は素晴らしい感性の持ち主だ。

 もしこのままルーツィエが評価されて、絵付け師として認められたら、何もかも上手くいく。ルーツィエは秘密を隠し通せるし、お給料も上がるし、好きな絵を描き続けることができる。さすれば、この美しいデザインが世に出回って、世界がまた一つ美しくなる。それは私からしてもこの上なく喜ばしい。一介の美を愛する者として、当然のことだ。

 その後、私はルーツィエと連絡先を交換し合って別れた。私はふらふらとマイセンの町を堪能し、ついでにドレスデンやベルリンをうろついて、満足して帰国した。

 じきに、ルーツィエから手紙が来た。そこには、警察に相談することで元恋人に絡まれなくなったことや、勤め先で絵付け師見習いとして改めて雇用されたことなどが記されていた。文中には感謝の言葉がこれでもかと詰め込まれていた。

 しかし、礼には及ばない。私はいつも通り、美のために行動しただけなのだ。彼女が統一後のドイツで夢を追って生きていく術を手に入れられたのは、紛れもなく彼女自身の力によるもの。私などは少し手助けをしたに過ぎない。そのようにしたためて、私は手紙をルーツィエに送った。

 近々、世界に美しいものがまた一つ増えるのを、私は確信している。中華風味の奥深さと欧州風味のお洒落さを兼ね備えた、白地に藍色の絵柄のつやつやな食器が、必ず出回るようになる。

 その報告が来る日を楽しみに、私は日本での研究生活に戻っていった。


 おわり

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遥か東の玉葱模様 白里りこ @Tomaten

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