第23話 【最終話】




「こんばんは。」

「……こんばんは。」

「こないだは、ごめん。」

「いえ、私も、その……何にも、返事とか、してなかったので……。」

「……うん。」


 土曜がやってきた。


 二人は今、営業を終えたひといきの前、街灯の下で向かい合って立っている。

 ただ、やはりというかなんというか……漂う空気は気まずさを多分に含んでいて、二人の視線はかみ合わない。

 といっても、逸らしているのは主に彩矢だけれど。

 優斗はというと、彩矢へ書いた手紙を読んでもらえた事と、木曜に彩矢のトイが優斗のトイと仲直りしてくれた事で、少しだけだけれど気まずさは緩和されたらしい。

 一方、彩矢は……まだ出来ていない優斗への返事とか、先週の優斗との一件とか、誤解されている小田の話とか、どれからどうやって話したものかと考えてしまって、うまく二の句が継げないでいた。


 木曜に優斗と会わないようにして、トイに今日の待ち合わせについてのメッセージを渡してもらってから、彩矢はものすごく考えた。

 考えて考えて考えて……、トイに心配されるくらい考えて。

 でも結局のところ、優斗が彩矢の話を聞いてどう答えてくれるかは解らないのだという事だけが解った。

 優斗の気持ちは優斗にしか解らないのだから、それなら彩矢の気持ちを、精一杯心を込めて、先週の事はもう大丈夫ですとか、小田の事も誤解なんですと丁寧に話したなら、なんとかなるだろうと、つまりは考える事を諦めたのだった。


 とはいえ、優斗と待ち合わせたこの時間が来れば、緊張しない訳ではなく。

 どうやってどの話からするべきか、と迷っていたら、彩矢の胸ポケットからトイがちょんと頭だけ出して、ちら、と向かいへ視線を投げかけた。その様子を見た視線の先にいる優斗のトイは、座っている優斗の肩の上で今までと同じ様に彩矢のトイへ手を振ってみせる。すると、彩矢のトイはぱぁっと笑顔になって、なんの衒いもなく優斗のトイの隣へ飛んでいき、今までと同じ様に並んで座ってから楽しそうにお喋りを始めた。


 いいなぁ、私だって優斗さんと、楽しくお喋りしたい。

 なんて、そんな思いが顔に出てしまっていたのかもしれない。

 トイの行動になのか彩矢の表情になのか、くすりと苦笑した優斗が、口を開いた。


「ここで立ったままもなんだし……行こっか。」

「あ……そう、ですね。」


 優斗が動き出し、彩矢も導かれるようにして歩き出す。先に立って歩き出した優斗はけれど自分のペースで行ってしまう事はなく、彩矢が隣に並ぶまで一歩二歩待ってくれるし、歩くスピードも彩矢に合わせてくれる。


 先週と同じように、ほとんど会話が無くて、少しだけ気まずさの漂う時間。

 けれど、先週とはまるで雰囲気の違うそれは、どこか気恥ずかしさも孕んでいて、少しだけ甘かった。



 気が付けば、彩矢のアパートまでの道のりは瞬く間に過ぎ去り、誰かとすれ違ったりしたかどうかも覚えていない。

 アパート前に着いた優斗は、前回と同じように彩矢を振り返ってからどうぞと大きな手で促してくれた。

 4部屋ほどしかない1階の廊下を歩く時間は数分もかからない。一番奥の彩矢の部屋の前までもあっと言う間に着いてしまった。


「着き、ました……。」

「うん。」


 到着したドアの前で、彩矢が鍵を開けてから振り返り優斗へ話しかけるけれど、うまく言葉が出てこない。

 優斗も何か考え込んでいるようで、ドア前で再び向かい合って、二人とも動きが止まってしまった。

 そのまま双方何も言わずに時間だけが過ぎていきそうになったのだけれど。

 ずっと優斗の肩に座っていたトイが、ふわりと飛び上がった。

 彩矢のトイの手を引いたまま浮き上がった優斗のトイが、優斗の頭の上へ移動したかとおもうと、彼の頭をぺしぺしと叩き始める。

 そういえば、市役所で貰った冊子の中に小さく注釈があったっけ。【トイはとても思いを込めると、主人に影響を与えることが可能です】って。


「なんだよ……あーもうわかってるって。さやちゃんこの間はごめん!」

「っあ……、ふふ……はい。」


 トイの応援?に、文句を言いつつも、それでも空気を打破してくれた事は確かで。優斗は頬を僅かに緩ませた後、大きな声で謝罪を口にした。

 トイの行動にくすりと笑みを浮かべていた彩矢は、口火を切ってすぐの優斗からの謝罪に驚きはしたけれど、思いのほかすんなりと受け止める事ができた。

 それは良いのだけれど。

 それよりも、優斗の声がそこそこ大きかったので思ったよりも廊下に響いたのが気になってしまった。さらに、ちょうどそのすぐあとのタイミングで、道路から足音が聞こえてきた。

 こつこつ、という足音は徐々に近くなってきて、このアパートの住人のものかもしれない。


「あっ、えと、あの!こ、こっちへ!」


 あまり人に見られたり聞かれたい話ではないし、どうしようと焦った彩矢はあわてて部屋のドアを開け、優斗の手を取って部屋の中へ引き入れた。

 元々狭い玄関に二人分の身体を押し込むようにして引き込んで、バタン!とドアを閉じる。すぐに鍵をかけてホッとひと息つき、安心した彩矢だったけれど、何か柔らかいものに縋りつき支えられている事に気が付いた。

 優斗が、彩矢が倒れないように抱きとめてくれていたのだ。


「すすすすいません!」


 真っ赤な顔で優斗の服を掴んでいた手を離して離れようとしたけれど、結果的にそれはうまくいなかった。

 彩矢は優斗の身体を押して勢いよく後方へ飛び退こうとしたので、狭い玄関の中で彩矢の後頭部が壁にぶつかりそうになり、それに気が付いた優斗が慌てて彩矢をより強い力で引っ張って……、ぎゅうっと、最初よりもしっかりと抱きしめられてしまったのだった。


「危ないから、落ち着いて」


 優斗が、彩矢を落ち着かせようとして、こう言ってくれているのは解る、わかるけれど、こんな状況で、しかも耳元でそんな風に言われても、ドキドキする心と身体は止められない。


「~~~~っおち、お、おちつけ、ませんんん」

「ゆっくりでいいから、大丈夫……。俺だって、そんな、落ち着いてる訳じゃ、ないし」


 ゆっくり、と言ってくれる優しさと、ぽんぽんと背中をゆるく叩く彼の手が心地よくて彩矢は少しずつ現状を把握していく。けれど、まだどこか焦ったままの思考には、優斗がぼそりと呟いた言葉は入るわけがなかった。


 そのままどれくらい経っただろう。

 体感的にはあっと言う間すぎて30秒か1分かという、それとも実は10分くらい経っているのだろうか。あまりにも解らない感覚の中、彩矢は優斗に抱きしめられているという状況を、やっと実感した。

 そして、少しだけ落ち着きを取り戻した彩矢は、優斗の腕の中の心地よさに、離れがたくなってしまって、一度収まりのいい場所を探してもそりと動きはしたものの、その体勢のまま話し始めた。


「……さっき、優斗さんが謝ってくれましたけど、私こそ、ごめんなさい。」

「ん?」

「あの、たぶんなんですけど優斗さんが見た友達は、誤解なんです。たまたまだと思うんですけど、小田くんが、優斗さんのことをストーカーだと勘違いしたらしくてカップルのフリして撃退しようって言われたから小田くんに合わせただけで、ぜんぜん、小田くんにも私もそんな気持ちはなくて!」

「うん。」

「私が好きなのは優斗さんなので!」


 時が止まった、気がした。

 今、私はなんて……?


 勢いに任せて誤解を解くために説明していたはずなのに、気がつけば彩矢の口からは優斗への思いが飛び出していた。

 自分の口から零れ出た言葉を戻したいというかのように口元をおさえながら見上げた先では、優斗が固まっている。目が点になるというのはこういうことなんだろうな、という表情を彩矢は初めて見た。

 けれど、今はそんな場合じゃない


「〜〜〜〜っやだもうなんでこんなやけっぱちみたいな言い方しちゃうの!やだぁもおぉ……っ!あああ、あの、それと!えっと、私も!優斗さんを好きになったのはこの子が、いたからじゃ、ないので!」

「っは、あはははは!っく、ははっ、あ、ははははは……!ご、ごめん、っふ、はは……っあー、ははっ」


 慌てたように付け加えた彩矢の告白を聞いた後、ひとしきり笑って笑って、涙を流すほどに笑った優斗の頬はほんのり赤く染まっていた。


「うん、わかってる、彩矢ちゃんはトイに流されるような子じゃないって、わかるよ」


 手を離して自分の目元を拭った優斗は、そのまま彩矢の頭を撫でてから、頬をすっと人差し指の背でなぞる。


「〜〜〜っ」

「嬉しいよ、凄く、嬉しい」


 突如として放り込まれた甘さだらけの空気の中では、彩矢は満足に息も出来なくされてしまい、口をはくはくさせるばかり。


「ああ……俺、今死んでもいいかも、嘘だめ絶対死ねない」

「やだ死んじゃだめ!」

「うん、死にたくない。ね……ぎゅってしていい?」

「……」


 優斗の発言にぎょっとした彩矢は彼の腕に縋りつき、駄目だと言い募る。その時に合った視線が、優斗の瞳が、余りにも甘く幸せそうに自分を見つめているので、彩矢はゆでダコもかくやという程に赤くなってしまう。

 彩矢はさっきまでの優斗の腕の中の心地よさを思い出し、離されてしまった腕に寂しさを感じていたので、ほうっておくと緩む口元を引き結んで、恥ずかしさからか視線をそらしつつ、コクンと頷いた


 ゆっくり優斗の手が伸ばされて、もう一度、ふんわりと抱きしめられる。

 優斗の優しさを感じた彩矢は、自らも腕を持ち上げて、優斗に抱きついた。


「嬉しいな……俺ら、恋人、でいいんだよね?」


 もういちど彩矢はコクリと頷く。

 そう、そうか、自分たちは恋人になったのだ。

 両想いの、彼氏彼女。カップル。恋人同士。

 自覚してまた、恥ずかしくなって、縋れる目の前の暖かさに顔を埋める。

 それはそれで恥ずかしいのだけれど、でももうこうやって優斗に触れていい権利を得た事が嬉しくもあって。

 彩矢も嬉しくて仕方ないのだと気が付いて、じわじわ心が満たされていった。


「っはは、だめだ、幸せすぎて顔が緩みっぱなしかも。」


 頭の上から聞こえる声は、浮かれてはしゃいでいるようで、少年のような感じすらした。そんな優斗の顔は見たことがないから見たいと思ったけれど、思いの外しっかり抱きしめられていて、顔を上げることが出来なかった。

 背中に回っている手は、いつの間にか彩矢の頭を抱きかかえるようになっていて、彩矢が少し身じろいだら、離れると思われたのか、腕により力が込められ、優斗の頭が彩矢の肩に埋められた。


「ねぇ、彩矢ちゃん。」

「……なんですか?」

「一つ聞きたいんだけどさ、トックスって、今持ってる?」


 いきなり聞かれた質問に、彩矢は正直面食らう。

 何故今この場面で?トックス?と。そうは思ったけれど、とりあえず聞かれたからにはと彩矢は優斗へ答えを返す。


「あっち……部屋の、中です。あの、テーブルの向こうの棚の上に。」

「そっか……俺も持ってないんだよね、しょうがないか。」


 優斗が言った事で、そういえばトイ達はどこにいるんだろうとその存在をすっかり忘れていたことに気が付いた。


 しょうがないじゃない、色々、ちょっと頭がいっぱいだったんだし。

 まだいっぱいいっぱいだけどさ、等と言い訳を並べながら彩矢が探すと、靴箱に並んで座り、彩矢達の動向を見ていたらしいトイ達に、優斗が彩矢の頭へ添えた手と反対の手を伸ばしていたところだった。


 どうするんだろう?


 優斗の動きを目で追っていた彩矢に、さっきまでよりもぐっと顔を近づけた優斗がパチリとウインクをしてみせる。

 そして、優斗の大きな手がトイ達の顔を覆ったところで、すぐそこにある唇が小さく呟いた。


「お子様には、目の毒、だろうから。」


 ふわ、と動く空気と共に、彩矢の唇に吐息がかかる。

 すぐそこに迫ってきた優斗を押しのけるつもりは微塵もなかった。

 それは彩矢だって、先週の行いを悔やんだ後に、とても……とてもしてほしいと思っていた事なのだから。




 暗い部屋の狭い玄関の中で、二人の影は重なっていく。そのうちに、優斗は両手で彩矢を抱きしめてしまったのだった。

 最初こそ暖かく大きな手のひらで隠されたトイ達だけれど、優斗のトイは指の隙間から主人達を見ていた。彼らの様子を見た優斗のトイは殊更に嬉しそうな顔をしてから、隣に座る彩矢のトイをつついて見つめ合う。

 そして、僕たちも!と言わんばかりに、にこにこと嬉しそうに笑ったまま、離れていく優斗の手の向こうでちゅうと唇を合わせたのだった。



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この子が、いたからじゃ、ないので さくらぺん @pen-kitty

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