第22話
火曜、彩矢は昨日友里恵たちと話したことで再確認した優斗への想いと、だとしてもなんとなくまだ覚悟がつかないというなんともいえなさも相まって上回る気まずい思いを抱えつつ、それでもバイトを休むわけにはいかないと、ひといきへ出勤した。
元より真面目な彩矢は個人的事情ー優斗に会いたくないというだけの話ーで休むなんて事は許せなかったので。
けれど、いつもの明るさはどこへやら、笑顔を浮かべて見せてはいるけれど、彩矢は明らかに元気が無かった。
いつもは常連客のトイ達と楽し気におしゃべりをして回る彩矢のトイも、今日はずっと彩矢の肩に乗り、彩矢の髪に縋りつくようにしてじっとしている。トイも出迎えたりお見送りするときの表情こそは笑顔を浮かべてはいるけれど、基本的にそんな様子なので常連たちとしては、いつも通り彩矢へ気安く声をかけようにもかけられないといった風だ。
この2週間くらいは笑顔で時計を見ていた様子も、かつてないほどに気まずそうにチェックし、針が進む様を見ては動きを止める彩矢を見て、店長と美弥子は何かあったに違いないと目くばせをした。前日に優斗が来なかったのも、きっと彩矢関連だったのだろうと。
だとしても、接客業であり、今は忙しいランチの時間。お客様へ店員の事情を披露して楽しむ趣味はない二人は、察しはしたけれど、今は何も聞けないとそのまま何もせず何も言わずにいることにした。
そんな、いつもと少し雰囲気の違うひといきだけれど、時は変わらずに流れて行く。
ランチの時刻は刻一刻と過ぎ、そのうちに、いつも優斗がやってくる時間が訪れた。
けれど……5分経っても、10分経ってもドアは開かれることはなかった。
眼鏡をかけた優しい笑顔で笑う彼はついぞ現れてくれなかったのである。
いつも優斗が来る時間からおよそ20分程が過ぎた頃、彩矢はもう今日は来ないなぁと思った。
どこかホッとしたような、でも会えなくてガッカリしたような、複雑な気持ちでドアを見つめてしまう。
顔を合わせるのが気まずいとはいえ、やはり想いを寄せる相手だから、会いたいという気持ちはある。それにいつもは会えるタイミングで姿が見えないとなると、勝手だとわかっていても寂しいと思ってしまった。
今日は何故かランチの時間でも長居する常連さんがおらず、店内は早くも空きつつある。
残っているのは、一番奥まった静かな席に、文庫本片手に話しかけられたくない雰囲気を出している女性客だけだ。
あまり店内に気を配らなくてもいいという状況も手伝って、彩矢はカウンターの中で暫く動きが止まってしまった。
開かないドアを切なく見つめたままじっと止まってしまった彩矢を見かねて、美弥子が口を開いた。
「優斗さん」
その名前を聞いた彩矢は、いっそ面白いほどに体を震わせ、何かありましたと自らバラしているも同然な反応を見せる。
「昨日も来なかったわよ。」
「っ、そう、なんですね。」
「あんまり人の話に口を出すのも良くないって解ってるけど……、彼と何かあったの?」
「ちょっと、私が、失礼な事をしちゃったんです……お客さんを減らしちゃってすみません店長、美弥子さん。」
「別に一人くらい減っても平気平気。それくらいで潰れるような店じゃないよ。それより、今日ずっと泣きそうな顔してた彩矢ちゃんの方が気になるかな。うちの大事なバイトを泣かす様な人だったなんてね。」
「あ、ち、違うんです、優斗さんが悪いんじゃなくて、私がやらかしちゃって。」
「ほんと?彼をかばって言ってるとかナシよ?」
「本当です、私が、ぐずぐずしちゃったから……」
「なら、いいけど……何かしてほしいことあったらいつでも言ってね?」
よしよし、とカウンターの上で撫でられている彩矢のトイは大好きな二人のトイに囲まれて先ほどまでよりもよっぽど良い顔になっている。
わかるよ、私も今、二人に話を聞いてもらえて、嬉しいもの。
優斗を知る人達に話を出来て、変に強張っていた肩から力が抜けたのか、彩矢はほうと息をつき、やっといつもの『ひといき』に来れた気がした。
そんな雰囲気にしてしまっていたのは自分なのだと、申し訳なさを感じつつ、店長と美弥子がうまく解してくれた事で、やっぱりこの店にこの二人は大切な存在なのだと理解する。
そして、彩矢は、そんな美弥子が言ってくれたしてほしい事があったらという言葉に、ほんの少しだけ、甘える事にした。
「それじゃ、あの……ひとつだけ……お願いしたい事が……。」
翌水曜日、一日講義を受けて帰ってきたアパートの部屋の真ん中で、彩矢はどうやって優斗と連絡をとろうかと考えていた。
もちろん連絡先は知っているから、メッセージを送ろうと思えばすぐに送れる。
けれど、なんとなく……画面を開くと、一週間以上前に送りあった時の、水族館デートが楽しみだという言葉で締めくくられていて、どうにも送りにくい。
話したい事があります、どこかでお会いできますか?と打ち込んでは消して、画面を閉じてはまた開いて、という動作を何度か繰り返して、結局送信することは諦めた。
でもそうしたら、どうやって彼に連絡を取れば……と堂々巡りを繰り返してしまい、半ば思考放棄して唸っていた所で、カタン、という音が玄関先から聞こえた……気がした。
彩矢は玄関に背中を向けて座っているから、気のせいかとも思ったけれど。
トイが、何かに気が付いたようにふわりと浮き上がって玄関ドアへと飛んで行ったことで、彩矢は確信を得た。
ゆっくり飛んでいくトイの後をついていくようにしてドアの前までやってくると、トイは玄関ドアの真ん中らへんにそっと手をあてて、その向こう側をみているかのようにじっと動かなくなった。
そんなトイの様子を見た彩矢は、なんとなくだけれど、彩矢のトイのドア向こう側には優斗のトイが、そしてその後ろには優斗が、居るような気がした。
そこに居る気はする。
けれど、呼び鈴も鳴らされず声もかけられていない状態で、彩矢からドアを開けるという勇気は無かった。
そこにきて彩矢は先ほどの音を思い出した。
扉は開けられないけれど、音がしたのは恐らく郵便受けで、気になった彩矢はそっと開けてみる。
中には、白い簡素な封筒が一通入っていた。
取り出して表書きを見ると『小峰 彩矢様』とあり、裏書には『星野 優斗』と、両方少し右あがりの、けれど綺麗な読みやすい字で書かれていた。
優斗さんらしい、とその字を見た彩矢がふふっと笑ったタイミングで、ドアの向こうにいたであろう人物が動いた物音がする。ザッという足音らしき音は、少しずつ遠ざかり、去って行ったのだと解った。
もし、もしドアの向こうに居たのが優斗だったなら。
きっと彩矢が郵便受けを開けた音を聞いたから、帰って行ったのだろうと思った。
ほんの数分前まで座っていた場所へ戻りながら、彩矢は手にした封筒を見る。
真っ白な封筒の裏には、可愛い犬のシールが貼られていて、それが彩矢がよく使っていたスタンプの犬と同じで、胸が詰まる。
まだ中身を読んでもいないのに、文字とシールだけでこんな気持ちにさせられるなんて。
ひとたらしすぎる、なんてトイと彩矢しか居ない空間にぽつりと溢してから、手紙を読むべく、腰を下ろした。
『小峰 彩矢さま
この間は、ごめん。
彩矢ちゃんにだって、男友達の一人くらいいるだろうに。正直焦ってたんだと思う。
前にも言ったっけ?俺さ、こんなにトイが嬉しそうにする相手には、会った事が無かったから。
でも、彩矢ちゃんに惹かれたのはそれだけじゃなくて、君の笑顔が、バイト中に笑いかけてくれた時、すごく可愛いって思ったんだ。
くるくる変わる表情も、まっすぐな瞳も、ご飯を食べるところも、ひといきで真面目に働く姿も好きだよ。
多分、トイが居なくても、君の事が気になって、きっと好きになったと思う。
彩矢ちゃんが、俺と会うのが大丈夫なら、改めて、もう一度会って話をさせてほしいです。
二度と、あんな乱暴な事はしないと誓うから、どうか俺に、もう一度、チャンスをもらえませんか。
トイちゃんへ
おれのが乱暴してごめんよ
毎日すっごいしょげてる
トイちゃんも、厚かましいお願いだってわかってるけど、もしも許してもらえるなら、明日の昼に、顔だけでもちらっとでいいから、見してやってもらえないかな
星野 優斗』
ほろほろと涙が溢れ、静かな室内にしゃくりあげる音が響く。
この手紙の価値は計り知れない。
皺にならないように気を付けながら胸にぎゅうと抱きしめてから、零れる涙で濡れないように、テーブルの上に置いて、じっと見つめる。
こんなにも素敵なもの(手紙)をくれた彼に、彩矢は何を返せるだろうか。
明日はひといきでバイトがある。
もしも、昨日とは違って、明日は、優斗が来てくれたなら。
彩矢は、しばし考え込んでから、小さなメッセージカードを引き出しから取り出す。
そして、出来るだけ丁寧にと気を付けながら、優斗へのごく短いメッセージを書いたのだった。
木曜、ひといきにやってきた優斗のトイは、みるからにしょんぼりとしていた。
いつもの窓際の席、テーブルの上に座るトイは定位置に居つつも、肩を落とし顔を俯かせて、ずっと天板の木目とにらめっこだ。正確には、視点は定まっておらず、ぼんやりと考え込んでいるのだろう。
彩矢が火曜に店長と美弥子にお願いしたことは、優斗が来る時間になったらバックヤードへ引っ込ませてほしいというものだった。
まだ顔を合わせるのは少し気まずいから、と。
優斗がやってくる時間は大体決まっているから、10分程前になったらサッと裏手に入ってしまうだけでいい。店長は笑顔で了承してくれて、裏方の仕事を任せてくれた。
「いらっしゃいませ。」
意を決してやってきた優斗を迎えたのは美弥子の声だった。ドアを開けてすぐ聞こえた声の違いに、カランという音をくぐって入った先に彩矢達の姿が見えなかったことに、優斗は落胆を隠せなかった。
でもそれも自分のした事が原因だと分かっているから、責められよう筈もない。
むしろ、ひといきの大事なバイトの子とトラブルを起こし、あげく常連である自分が二日来なかった事で店に損害を与えているのは間違いないから、自分が責められても仕方ないくらいだ。
「こんちは。いつもの席、あいてますか?」
「ええ、どうぞ。ご注文は、いつものでいいです?」
「はい。お願いします。」
けれど、二人は特に何も言わずに笑顔で対応してくれている。
多少……美弥子の笑顔と店長の視線に、思うところが無い事もないけれど。
テーブルの上で俯くトイの頭を指先でこつんとつつく。
泣きそうな顔で優斗を見上げたトイの頭を、今度は優しく撫でてやった。
俺だって寂しいと思ってるさ、とぽつりと呟いて、擦り寄るトイを何度も撫でていた。
その時だ。
ひゅん、と小さなモノが凄い勢いで優斗のトイへ突っ込んできた。
その勢いに押されて、優斗のトイはころころんっとテーブルの上を突撃してきたモノと一緒に転がってしまい、天板から落ちそうになってしまう。
優斗が慌てて転がり落ちそうなトイを受け止めると、その手の中では、彩矢のトイが優斗のトイへぎゅうと力いっぱい抱きついていたのだった。
転がったことで目を回していた優斗のトイは、くらくらしている様子を見せながらも、抱きついているのが彩矢のトイだとわかったらしい。ぎゅうと抱きつく腕をぺしぺし叩いてはずさせると、トイ達は正面からひっしと抱きあった。
しばらくそうしていると、やっと落ち着いてきたのか、どちらからともなくゆるりと腕をゆるませて、いつの間にか潤んでいる瞳で見つめ合い、額をつけて両手を合わせてから、微笑みあう。
どうやら、トイ同士は優斗の手の中で、無事仲直りできたらしい。
気が付けば、テーブルの上にはブレンドコーヒーとBLTサンドが置かれていて、いつ美弥子が来たのかも解らなかったほどにトイ達を見守っていたのだと知った。
トイ達が仲直りできたなら、主人である自分たちも、きっと仲直りできるだろう、と、優斗は希望を持つ。
けれど、そのタイミングは、手段は。
大人である自分たちは、彼ら(トイ達)のようには出来ないから。
俺らはどうしようかねぇとトイの成り行きを見守っていた優斗が溜息を噛み殺していたら、彩矢のトイが優斗を見上げて、おずおずと二つ折りにされた紙を差し出した。
トイ達をゆっくりテーブルの上に下ろしてから、両手で渡してくれたそれを、優斗は受け取って開いてみる。
『土曜日、家まで送って貰えますか?バイト終わり、待ってます 彩矢』
文字列をサッと目で追った優斗は安堵で頬が緩んでいく。
そしてすぐにバックヤードへ続くドアを見たけれど、それと同時に閉められたドアに、彩矢がそこにいるのだと確信した。
昨夜届けた手紙も、彼女に読んでもらえたのだという事も。
その後の優斗は、目に見えて覇気が戻っていった。
少しだけ震える指で彩矢からのメッセージを元通りに畳み、大事に内ポケットへ仕舞ってから、冷めてしまった珈琲を口に含む。
今朝の朝食は食べた気が全くせず、午前の仕事中に、ひといきへ来ても味わう余裕なんて無いかもしれないと思っていた。
けれど、彩矢からもらえたメッセ―ジによって、気分は一変した。
うん、美味い。
自身の心の浮上を確かに感じた優斗は、いつまでも彩矢をバックヤードに居させるのも悪い気がして、手早く(けれど味わって)食べてしまう事に決めた。
もう優斗の事なんてまったく気にせずに二人ではしゃいでいるトイ達を横目に、BLTサンドへかぶりついて、優斗は午後の仕事へのやる気を補充したのだった。
少しだけ時の戻ったバックヤード。
ランチタイムをある程度こなしつつ時計を確認した彩矢は、店長と美弥子に目くばせを送り、優斗が来る時間の10分前にドアの向こうへと滑りこんだ。
裏へひっこんで少しすると、カランカランとドアベルの音が来客を告げる。
ドアへ近づいて聞き耳をたてると、美弥子の声に続いて大好きな声が聞こえてきた。
優斗が来たのだ。
会いたい、けれど、ここは店で自分はバイト中。
込み入った話はできないし、気まずい思いを持ったまま顔を合わせるのは得策じゃないと彩矢は考えたので、店長にお願いしたのだ。
けれど、トイだけならば、話は別だろう。
彩矢の肩に乗って、同じく店の様子を窺っていたトイに、どうする?と視線だけで問いかける。
彩矢をじっと見つめたトイは、うるりと瞳を滲ませて、ドアの前へゆっくり近づいてから振り向いた。
その顔は、彼の元へ、優斗のトイの元へ行きたいと訴えていた。
しょうがないなぁ。そうだよね、私だって、行きたいもん。
ドアに手を付けたトイを優しく手のひらに乗せた彩矢は、小さな紙片をポケットから出してトイに見せる。
「これを、優斗さんに渡してくれる?」
ん!と意気込んだ顔になったトイに二つ折りにした紙片を預けて、彩矢はトイと額を合わせた。
目をつぶり、ごめんね、頑張って、それから……それ、お願いね。と小さく声をかける。
緊張した面持ちのトイを乗せた手のひらを、ドアへ近づけ、もう片手でそっとトイが通れるだけの隙間を開けてやる。
彩矢の手から飛び上がったトイは、隙間から頭を半分のぞかせたところで、弾かれたように飛んで行った。
きっと優斗のトイを見つけたに違いない。
ほんの少し開けたまま様子を窺うのは、あまり褒められた事じゃないと解っているけれど、それでも気になってしばらく光の指す隙間から店内を覗いていた。
トイはどうやら勢いが良すぎたからか、テーブルから転がり落ちかけたらしいけど、優斗の手の中に収まったトイ達はきっと仲直りできるだろう。
あとは、彩矢からのメッセージを彼が見て、どう思うか、だ。
トイ達の同行を見ていた優斗の顔が、転がり落ちそうだった所を受け止めた慌てた様子から、段々と破顔していく。
そしてその後、一瞬目を見開いて、小さな何かをトイから貰ったのが見えた。
紙片を開き、視線が動いた後、ホッとしたような、嬉しそうな表情を浮かべたのが解って、彩矢は息を吐く。
嬉しそうな顔が見えてすぐにドアを閉じたから、もしかしたら優斗がこちらを見たかもしれない。
でも、今、彩矢は心から安堵し、それでもまだドアのこちら側に留まった。
優斗からの手紙は確かに嬉しかった。
今も、彩矢の部屋の大切な物が仕舞われる宝箱に入っている。
それに、トイが飛んで行ったように彼の元へ行きたい思いも、勿論ある。
ただ、今は、その時ではないだけ。
あと少し覚悟が決まっていない、というのもあるけれど、できれば、二人で、目を見てゆっくり話をしたいから。
土曜日、どうやって話を切り出そう。
彩矢は一歩進んだ事に安堵して、ずっと抱えていた重さが消え心が軽くなっていくのを感じたのだった。
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