第21話

 週末が明けた月曜、喫茶ひといきでは店長と美弥子がいつも通りにランチの忙しさを乗り切っていた。

 けれど、その日はいつもと違う事が一つあった。

 優斗が来なかったのだ。

 店長と美弥子の二人は少しの違和感を感じつつも、今までにも来なかった日はあったし、月曜は彩矢もいないからそんな事もあるかと、あまり深く考えずに流したのだった。




 その頃、彩矢は、キャンパス内のカフェの一角で、小田と友里恵の二人に明らかな落ち込み具合を指摘されていた。


「さ、なーんでそんな暗い顔してるのか、全部吐き出しなさい。」

「ゆ、ゆりちゃん……」

「友里恵さんかっこいいねー。まぁでも俺も一緒かな。彩矢ちゃんめっちゃ顔色悪いよ?何があったのさ。」

「小田くんまで……」


 俯いた先のテーブルの上には三人が注文した飲み物のカップが置かれている。

 それらの真ん中で、彩矢のトイが友里恵のトイにぎゅっと抱きついていて、よしよしと撫でられていた。

 必死そうな……縋るようなトイの様子を見た彩矢は、自分の今の本心がまさにトイへ影響しているとわかった。

 できるなら、彩矢だって今すぐに友里恵に抱きついて泣きたい。

 けれど、他人も居るカフェの中だし、小田も居る手前小さな子供みたいな恥ずかしい真似を出来るわけもなくて、ぐっと唇を噛んで泣いてしまいそうになるのを堪えた。

 大人になるって、厄介だ。

 場所とか、人目とか、色んなものを気にして、自分の思う通りに動ける事はどんどん少なくなっていく。

 トイは、そんな風に簡単には泣けない彩矢達・大人の代わりに泣いたりしてくれているのかもしれない。

 そう思うと、少しだけ気持ちが楽になった気がした。


「世話が焼けるったら。」

「えっ、きゃ!」


 はぁ、と堪えた溜息を吐き出した彩矢の様子を見た友里恵は、未だ抱き合っていたトイ達をがしっと掴んだかと思うと、隣に座っていた彩矢の肩へ乗せてからトイ諸共大きく広げた腕の中に抱き込んでくれた。

 友里恵の優しさが胸に、目頭に響いて、じわりと滲む視界をもう止める事は出来なくて、そこから暫く彩矢は顔を上げられなくなってしまった。



 数分か十数分か。

 ようやく涙が収まって、彩矢がゆっくり顔をあげると、優しく笑う友里恵と目が合った。


「ん、さっきよりはマシになったわね。」

「……あ、りがと、ゆりちゃん。」

「ほんとだ、さっきまでより笑顔が似合うよ彩矢ちゃん。」

「小田くんも、ごめんね付き合わせて。」

「小田はなぁんにもしてないけどねー。」

「まぁねー。」

「……ね、二人ともうちに来ない?ゆりちゃんは服濡れちゃったし、私の貸すから。」

「別に気にしなくていいのに。でもま、お邪魔しよっかな。詳しく聞かせてくれるんでしょ?」


 おどけたように言う友里恵の服は彩矢の涙を吸って濡れているし、小田も何もしていないと言うけれど、何も言わずともずっと傍にいて待ってくれていた。

 それを気にするなという二人に、彩矢は多少の申し訳なさと、言葉にしきれない感謝でいっぱいになる。

 そして、気にするなという友里恵に着替えを貸すという名目で、ついでに他人の目を気にせずに済む場所で話を聞いてもらいたいと思った彩矢は、自分の家へ二人を招いたのだった。




 彩矢の部屋で再び腰を落ち着けた三人は、改めて彩矢の話を聞いた。

 彩矢は、言葉を選びながら、土曜の夜に優斗に言われた色々を、キスされそうになったことは濁しつつも、少しずつ話していく。

 彩矢の話が進むにつれて、左斜め前に座っていた小田の表情が段々と真顔になり、最後には真っ青になって、平身低頭とはまさにこのことという体で土下座し謝り倒されたのだった。


「ホンっとゴメン!!!」

「あああ、小田くんとりあえず頭あげてお願い。あれはあれで仕方なかった、んだと思うから……。小田くんは小田くんで私の事を考えてああいう風に対処してくれたんだし……ほんとにストーカーだったらって思うと、正解だったんじゃないかな。」

「そうそう、それにもう過去の事なんだし、謝罪と反省が済めばもう後は気にしないの。大事なのはこれからの対処でしょ。」

「う……あーでもほんと、ごめん。俺いますぐ彩矢ちゃんのバイト先行って彼氏さんに事情を話して来るわ。」

「まだ彼氏じゃないし、ランチの時間すぎてるからもう居ないんじゃないかな。」

「小田は落ち着いて。誤解を解くのは必要だけど、それより、他人が余計な口出しするともっとこじれそう。」

「え、んじゃ、俺元凶なのに今なんも出来ないってこと?」

「そ。」


 友里恵の短い肯定と彩矢の無言の頷きに、小田はがっくりと肩を落とした。

 テーブルの上で、ずっと彩矢のトイに向かって申し訳なさそうにしていた小田のトイも、主人そっくりに肩を落として、しょんぼり座り込んでいる。

 あまりにも可哀想で、彩矢と友里恵のトイに慰められている程だ。

 そんなトイ達はカフェにいた時と立場が逆になってしまっていて、彩矢はくすりと笑みが零れた。


「さっきより随分良い顔色になったわね。」

「ゆりちゃん……。小田くんも、ありがと。」

「いや、俺なんもできてないどころか事態を悪くしてんじゃん……。」

「それで、彩矢はどうしたいの?」

「うん……」

「好きなんでしょう?」


 落ち込む小田はそっちのけで、友里恵は彩矢へ向き直る。

 こくり、と頷いて見せるけれど、つい先ほど笑っていた彩矢の表情は、一転して曇ってしまった。

 その顔は、とても好きな相手の事を考えているようには見えなかった。


「すき、だけど……、わかんなくなってきちゃった……。それに、もし今私が彼に告白したとして、信じてもらえる、かな……」


 あの日、土曜日、ドアの前で迫られた時の恐怖を思い出すと、まだ手が震えてしまう。

 こんな状態で優斗を好きだといえるのだろうかと、彩矢は思考の迷路にハマってしまったのだった。


「ねぇ、彩矢。彩矢はさ、優斗さんのどこを好きになったの?ただトイが仲良くしてたからって訳じゃないんでしょ?」

「え、あ、ちょゆりちゃん小田くんが!」

「ああ、まぁ、小田は聞かなかったことにする位できるでしょ。」

「あー、なんか、ちゃんと聞こえない単語出てきたけど、まぁうん、スルーしとけばいいんかな。」

「そうしといて。そのうち解るから。それよりも今は彩矢よ。ねぇ、彩矢は彼のどこが良かったの?」


 小田の前でトイの事を堂々と言ってしまった友里恵に驚いたけれど、なんでもない事のように言ってのけられてしまって、面食らう。

 小田は小田で、わかったというように手をひらひらと振ってから目をつぶり耳をふさいで、何も聞かなかったというジェスチャーをしてみせた。

 いいんだろうか、こんな適当で。

 それよりも、と友里恵は彩矢の両手をとって、真剣なまなざしで問いかけた。

 思っていたよりも強く真剣な表情の友里恵に言われて、言葉に詰まった彩矢は優斗との間にあった色々な事を思い返す。


 優しい笑顔と、素敵な声。

 眼鏡をかけてて少し知的に見える顔は眼鏡がなくてもとても恰好良い。レンズの奥の瞳は笑うとタレ目になって、すごく優しくて安心する。

 話すときはいつだって彩矢を気にかけてくれて、話しやすい雰囲気を作ってくれる。それに二人いるお姉さんに鍛えられたのか、服装を話題にしてくれたり、アクセサリーをさりげなく褒めてくれたりと細かな気遣いがとても素敵だ。

 他にも、些細なことだけれど、いつだって素直な感情を、目を見て耳に響く心地の良い低音の声で、告げてくれる。


『ありがとう』

『可愛い』

『それいいね』

『そうじゃないかもしれないよ』

『それもいいけど、こっちも捨てがたい』


 人に流されず、自分の意見を持っていて、でも押し付けたりしない。


 それに、トイに対しても、とても優しいのだと、何度も見て話して、知った。

 トイの額を優しく撫でる手も、幼子を相手にするようにそっと抱き上げる仕草も、からかうように話しかけたりつついたりする様子も、小さな事柄の一つ一つが優斗の優しさを表していて、その全てが好ましかった。


 トイが見えるようになった後、改めて話をしませんかと言ってくれた真摯さ。

 彩矢が了承した時に見せた嬉しくてはにかんだ笑顔。

 水族館で、最初は素直に言えなくてはぐれないようにと理由を付けつつも、照れながらちゃんと手を繋ぎたいから、と言ってくれた事。


 他にも沢山、知らなかった一面をどんどん知っていった三週間は、どれも、思い出すだけで彩矢の胸を打ち、頬を熱くさせる。

 いつの間にか、彩矢の瞳からは涙が零れ、握った友里恵の手を濡らしていた。


「……まだ、すき。優斗さんが、好きなの。」

「それなら、ちゃんと言わなくちゃ。」

「なぁ、俺やっぱり彼氏に謝った方が、」

「後で。今はそれよりも、彩矢が告白する方が先よ。」

「おっけー、了解。いつでも良いから、彩矢ちゃんがうまくいったら教えて。すぐに行くからさ。」

「うん、その時はお願いします。」


 震える声で、けれど二人へはっきり告げた彩矢の瞳は、もう揺らぐことは無かった。

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