第20話

「……手」

「はい?」

「手、繋いでもいい?」

「っは、はい!」


 夏といえど、19時半を過ぎていればもう辺りは大分暗くなっている。街灯が照らす道を二人で隣に並んで歩き出してすぐ、優斗が来た時より少し硬い声音で話しながら彩矢に手を差し出してきた。

 彩矢は目の前に差し出された大きな手に、約一週間前に出かけたデートの時を思い出し、照れつつも躊躇わずに自分の手を乗せる。

 少しひやりとした感触は、夏なのにどうしてと思ったけれど、緊張して手に汗をかいていたからそれでかなとすぐに意識の外に追いやられた。

 それよりも、もし彩矢の手汗なら優斗に不快に思われないだろうかと心配になり手をひっこめようかと思ったけれど、その時には既にぎゅうっと少し強めに握りこまれていて叶わなかった。


 どうも、今日の優斗はどこか雰囲気が硬い気がする。


 歩き始めて少ししか経っていないけれど、それでも解るくらいには雰囲気が違った。

 先週のお出かけの時や、火曜と木曜のランチの時間にはいつも優しい笑顔を彩矢に見せてくれていたのに、今日は歩き始めてからずっと前方か足元を向いていて、目が合わない。

 今しがた、手を差し出してくれた時も、一瞬目が合ったかと思ったけれどすぐに前方へ戻されてしまった。

 優斗のトイも、彩矢のトイの手をぎゅうっと握ったまま、ちっとも動かずに優斗の肩に座っている。こないだのデートの時は、優斗の体のゆらぎに合わせてトイ二人も楽しそうにゆらゆらと揺れたり、終始笑顔でにこにこしていたのに。


 そして一番の違和感が、会話のぎこちなさ、だった。


 彩矢が、今日も暑いですね、とか、わざわざ来てくださってありがとうございます、と話しかけても、優斗は、ん、とか、ああ、うん、といった一言の相槌を打つばかりで会話にならない。

 それに、これまでだったら優斗の方から話題を見つけて話しかけてくれる事も多かった。彩矢ちゃんはどのメニューが好き?珈琲は?洋服似合うね等と話の糸口を探しながら、お互いの事を話していた。

 けれど、それも無くずっと足元を、進む先ばかりを見つめている。


 何かがおかしい。

 彩矢のアパートまでの道のりの半分程がすぎても、口数の増えない優斗に彩矢は妙な焦りを感じた。

 それでも、彩矢には何故だか解らず心当たりも無い。

 もしかしたら、先週彼から告白してもらってから初めて二人きりの時間になったから、とかだったりするだろうか。

 彩矢が緊張しているように、優斗もこの後に、と期待してくれていたり?と楽観的に考えてみるけれど、それにしては……やはり優斗の雰囲気が硬く、空気が重い気がする。

 暗い道中、街灯は足元を照らしてくれているけれど、昼ほどには優斗の表情をはっきり見る事が出来なくて、それも少し怖さを助長しているのかもしれない。

 もっと明るければ、今優斗がどんな表情で何を思っているのか、もう少し窺えたかも。


 たらればは言い出せばキリがない。彩矢はなんとかして告白するためのきっかけをと会話の糸口を探したけれど、優斗は始終こんな調子だし、彩矢の方もアパートが近づくにつれて緊張が高まっていって、何かを言おうにも口を開いては閉じてを繰り返す。

 そんな二人で会話があるはずもなく、ほとんど話せずに時間ばかりが過ぎていった。


 結局、彩矢のアパートへ着くまでほとんど会話らしい会話もないまま、二人手を繋いで歩くだけになってしまったのだった。




「ああ、着いたね。」


 彩矢のアパートの前まで来た優斗は、そっと脚を止めて、共用廊下へと彩矢を促す。


 とうとう着いてしまった。


 促されるままに優斗の手が指し示す廊下を先に立って進んでいく。


 どうしよう、どうやって話し出そう。


 彩矢は自分の部屋の前まで、優斗の手を引くようにして歩く。

 廊下の一番奥、角部屋が彩矢の城だ。隣は片側だけだから騒音も少ないし、一番奥なので他の住人が彩矢の部屋の前を通らない事も気に入っていた。それはこうやって誰かが自分の部屋へ来た時にも、避けたりする必要が無くて迷惑にならなくていいんだな、と優斗との時間を邪魔されない事に嬉しくなって、彩矢はふわりと笑い、緊張が少しだけ解れた気がした。

 静かな空間にコツコツと二人分の足音が響くと、短い廊下は終わりを迎え、すぐに彩矢の部屋のドアの前についてしまった。


 どうしよう。


 彩矢が話し出すキッカケを探しながら、ただ黙って立っているのもなんなので、空いている方の手でカバンから鍵を取り出した時だった。


「彩矢ちゃん。」


 優斗が彩矢を呼ぶ。それと共に、繋がれていた手が再びぎゅっと強めに握られて、彩矢はどうしたんだろうと訝し気に優斗を見つつ、恐る恐る返事を返す。


「……なんですか?」

「……俺さ、何日か前の朝に、ちょうどここの前の道を通りかかったんだ。そしたら、君が……知らない男と楽しそうに話してたのが見えて……あれ誰?」


 優斗は、繋いだ手をぐっと引くようにして彩矢の上体を誘導し、アパート前の道路を示しながら話し出した。

 彩矢が誰かと話していたのを見たという優斗の言葉に、彩矢は何のことだかすぐに思い至る。恐らく、朝の通学時間に小田と話していた所を見られたのだろう。


「え、っと……ああ、小田君の事、かな。同じ学年の子なんです。最初は苦手だったんですけど、色々あって結構話をするようになりまして。」


 それ自体を話すのはなんらやましい事もないので、彩矢はそんな事かとホッとした顔で軽く話す。

 それよりも、彩矢は視界の端で気になる状況を見つめていた。


 優斗のトイが彩矢のトイをぎゅうと抱きしめて、動かないのだ。

 彼らが抱きついてきゃっきゃと笑いあっているのはいつものことだけれど、今は少し雰囲気が違った。

 優斗のトイの顔は彩矢のトイの頭に隠れて見えないけれど、彩矢のトイの表情が苦しそうにしている気がする。

 ぎゅうと抱きつかれた腕はびくともしない。いつもならそれに応えるように同じく抱きしめ返している彩矢のトイの腕は、優斗のトイの肩口を押すかのように、離れてほしいとでも言っているかのようだった。


 何かが、おかしい。


「友達、には見えなかったけどな。」

「そうですか?あー、確かに今までの私の友人たちとは少し雰囲気が違うかもしれません。」


 こうなるとトイの様子が気になって、優斗との会話が疎かになってきてしまった。

 つい何日か前も、小田相手に同じように気もそぞろに相手をして気まずい思いをしたはずなのに、彩矢は気が付かない。


「少し?大分違うよね。」

「え、ええ、まぁそうですね。あの、優斗さん?なんだかトイが」


 それどころか、優斗はトイが見えるのだしと会話に出してしまう。

 それによって、優斗がどう思うのかなんて考えもせずに。


「俺……、こんなに自分の心が狭いと思わなかったな。」

「っきゃ」


 繋がれた手をぐいと強く引かれ、彩矢はアパートのドアへ背中を押し付けられた。

 くらりと揺れた視界に驚き、反射的に短い悲鳴があがる。

 一体何が起こったのかと彩矢が体を起こすよりも先に、優斗が彩矢へ覆いかぶさってきて、彩矢は優斗とドアに挟まれた恰好で身動き出来なくされてしまった。


「ねぇ、俺さ……君が好きだって言ったよね?」

「……っゆ、うと、……さん?」


 体勢を把握してあげた彩矢の顔のすぐ目の前にかっこいいと思っている優斗の顔があって、瞬時に彩矢の頬は赤く染まる。

 しかしそのすぐ後、怖いくらい真剣なまなざしに射貫かれて、赤く染まったはずの頬は段々と色を失っていった。

 それに、優斗が告げる言葉が、かたまった頭でうまく理解できない。

 できないけれど、声音が。

 いつもの柔らかく優しい声じゃなく、地を這うような硬く低い声は、彩矢の中に恐ろしさをもたらした。


「好きだって言ったし、その前も後も、君だって君のトイだって、俺の事を受け入れてくれてるみたいに見える。なのにまだ、返事を貰えてない。」


 いつの間にか彩矢の頭の横に置かれた優斗の腕は、まるで彩矢を逃がさないと言わんばかりに檻の役目をはたしている。


 怖い。


 一週間前には優しく笑ってくれた眼鏡越しの瞳が、今は眉根を寄せ、細められて射貫かれる。


 どうしてこんな状況になっているんだろう。

 私は、彼に告白してお付き合いしてほしいって返事をする予定だったのに。

 

「それどころか、俺が見た君の友達だっていう男は、君の腰を抱いて今の俺より距離も近くて親密そうにしてた。ねぇ、あれは誰?ほんとに友達?」


 優斗が、彩矢の腰を抱いて、と言った事で彩矢は小田に恋人のふりをしようと言われた朝を思い出した。


 あれを見られたんだ。

 もしかして、小田君が言ってたスーツのサラリーマン風の男というのは、優斗の事だったのだろうか。

 だとしたら、非常にまずい。

 小田と彩矢はよりにもよって彩矢の思い人である優斗に向かって恋人に見えるように振舞ったのだから。


 誤解を、解かなければ。


「あの、待って、待って下さい優斗さん!誤解です!」

「俺は君の恋人にはなれないのかな。」


 彩矢は焦って優斗の誤解を解こうと口を開くけれど、優斗は聞く耳を持たずに話し続ける。

 どこか射貫くようだった視線は、力強さは変わらなくとも虚ろなものとなり、彩矢の中の真意を探すかのようだった。

 けれど、すぐに優斗は顔を伏せてしまい、その表情を窺えなくされてしまう。


 どうしよう、どうにかして誤解を解きたいのに、聞いてもらえない。


 優斗が視線を逸らしたことで、彩矢も息をつく余裕ができた。

 とはいえ、どう言えば優斗が聞いてくれるのか動かない頭で考えるけれど、うまくまとまるわけがない。

 どうしようとそればかりが巡るその時、ふと動かした視線の先には、優斗と彩矢のトイが居た。


 彩矢のトイが必死になってもがいている。

 けれど、優斗のトイがぎゅうぎゅうと抱きしめている事で身動きがとれず、彩矢へと助けを求めて手を伸ばしていた。


「っ、ゆ、優斗さん、あの、トイ、トイが」


 彩矢は咄嗟にトイを助けようと、優斗に声をかける。


 けれど、それは失敗だった。

 優斗は伏せていた顔をあげ、繋いでいた手を解いたかと思ったら、彩矢の頬に添えて、有無を言わせぬ声音を放つ。


「今そっち気にする余裕あるんだ……。」


 ゆらり、と彩矢に近づいた事でレンズに廊下の明かりが反射して、優斗の瞳が見えなくなる。


「そんな事より、俺を見てよ。」


 暗くなった視界と、ふ……と唇に吐息がかかった事で彩矢は優斗が何をしようとしているのか気が付気が付き肌がぞわりと粟立った。


「ぃ、やぁっ!」


 なにをどうしたのか、わからない。

 けれど、無我夢中で咄嗟にありったけの力をふりしぼった彩矢は優斗を突き放し、勢いのままトイへ手を伸ばして助け出す。そして彩矢は、押しのけられた事でよろりと数歩下がったまま動かない優斗を横目に、もたつく手を必死で動かしてなんとかドアを開けた。


「お、おやすみなさいっ!」


 ひりつく喉をなんとか絞り出してそれだけを告げた彩矢は、ドアをすぐに閉め、鍵をかけチェーンをかける。

 バタン!という大きな音はアパート中に響いたかもしれない。

 けれど、そんなものは些事だ。

 震える手でチェーンをかけた彩矢は、荒い息のまま、トイを胸元に抱えずるりとその場にへたりこんでしまう。

 ぎゅうと抱えた両手の中に大人しくおさまっているトイもまた、ふるふると全身を震わせていた。



 一方、ドアの外で慌てて部屋へ入った彩矢を見ていた優斗は、彩矢に突き放されよろけた体勢のまま動けずにいた。

 シン、と静かになったアパートの共用廊下。

 彩矢の部屋からも何も物音が聞こえないのは、彼女もドアの向こうでかたまっているのだろうか。


 しばらく放心していた優斗は、何か張り詰めていたものがふつりと切れたのか、は……と息を吐き出す。

 ついで、いつの間にか微かに震えていた両手を見つめ、俯いて乾いた笑いを溢した。


 ふと見ると、優斗の腕にトイがしがみついて、おろおろと遣る瀬無い顔をしている。

 一瞬泣きかけた優斗は、泣きたいのは俺じゃなくて彼女だろうと瞳を伏せるに留め、腕に縋りつくトイの頭をつついた。


 ……なぁ。

 俺ら……揃いも揃って、あの子たちに嫌われちゃったかもな……。


 ちら、と未だ何の物音もしない彩矢の部屋のドアを一瞬見つめた優斗は、いつまでもここにいるわけにはいかないと歩き出した。

 苛立ちに任せて大変な事をしてしまったと、後悔ばかりを背負って。


 縋りついていたトイを抱えなおして頭を撫でてやる。

 この後どうしたら彼女たちに許してもらえるだろうかと考えながら、とうに暗くなった道を、トイの頭を撫でながら駅へ向かうのだった。





 ドアの外で、コツ、コツ、という音がして、少しずつ小さくなっていった。

 帰っていく優斗の足音をきいた彩矢は、詰めていた息を吐き出した。

 微かな吐息に混じって零れたあえかな声。

 それと共に零れ落ちたのは、悲しさとも後悔ともいえない気持ちの混じった涙だった。


 少し前にも、こんな風にへたりこんだ覚えがある。

 でも、その時は、彼に告白されて。嬉しくて幸せでどうしようもなくて、ドキドキしてた。


 今は?


 ……少し、怖い。

 おとこのひと、って、あんなに強いんだ。

 それに……それに、怖かった。


 多少みじろいだ位では動けないほどの力の強さと、彩矢を捕えようという気迫を感じ圧倒された彩矢は、思い出したその恐怖にぎゅうっとトイを抱え込んで蹲ってしまった。


 すてきなひとで、すきなひと。

 だけど、強い力を持った、おとこのひと。


 ぽろぽろと零れ落ちる涙は、頬を濡らし、胸に抱えていたトイの髪を濡らしていく。

 ごめん、と思いはしたものの、俯き見たトイも彩矢と同じくらいぼろぼろと泣いていて、また彩矢の瞳から涙が零れた。


 そういえば彼からの告白に浮かれていて、まだ返事をしてなかったんだった。

 もっと早く。

 私が好きなのは、あなたですって言えていたら。

 彼にあんな思いを、あんな行動を、させる事はなかったのだろうか。


 きっと、そうなんだろう。

 私が、待ってくれるという、彼の言葉に甘えてしまったから。

 二人きりになってから返事をしたい、なんてのんびりしていたから。


 ……だとしても。いま、いまは……考えられない。

 

 ずっとドアの前に座り込んでしまっていたからか、それともまださっき感じた怖さが残っているのか、ぶるりと体が震えた。

 トイは自分で彩矢に抱きついているから、離しても大丈夫そうだと感じた彩矢は、震える自分の体を抱えるようにして二の腕をさする。

 夏だというのにすっかり冷え切ってしまった体を温めたくて、彩矢はシャワーを浴びるために、暗い部屋の中、のろのろと立ち上がった。

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