第19話

「彩矢ちゃんおはよ。」

「おはよう、小田くん。だからもう少し早くって言ってるのに。」


 月曜に小田の秘めた恋心を聞いた彩矢は、翌日から電車通学の小田が駅から歩くのにあわせて一緒に登校し、友里恵の個人情報にならないような好みの話だったりその日の授業内容についてを話したりしていた。

 いつも登校する時間よりも少しだけ遅めになってしまうけれど、電車の時間もあるし、ある程度は仕方ないかなと思っている。

 それでも、彩矢としてはできればもう一本早く来てほしい、と思うけれど。

 金曜の今朝で三度目、やっとこの時間に合うように支度をするのに慣れてきた頃だ。

 慣れたといえば、トイが見えない小田への対応と、トイが居ない様に振舞う事にも同じくやっと慣れてきた。

 小田はまだ未成人だから、どこにトイがいるかも、トイ達がどんな行動をとっているかも、ましてやそんな存在が居る事も知らない。

 なので、話の流れで小田がいきなり拳を突き上げたら、そこにトイが居て、慌てて逃げているのを見てびっくりしかける、なんていうことはしょっちゅうある。

 けれど、それに驚いてはいけないし、むしろ驚いてしまった場合のフォローというか、ごまかし方がうまくなってきたなぁと彩矢は自分を振り返ってそっと息をついた。

 アパート近くの道の角で落ち着きなく視線を彷徨わせながら待っていたら、駅方面からやってきた小田が片手をあげて笑い、こちらも慣れてきた朝の挨拶をする。

 小田のトイは彼の頭の上に乗ってやはり彩矢達に向かって手を振っていて、今日はのんびりしているらしかった。彩矢のトイは定位置となっている肩に座り、手を振り返していた。

 トイ達の事は、小田が早く成人してくれたらな、と思わないでもないけれど、そこはまぁ、個人でどうにかできるものではないので、ゆっくり待つしかないだろう。

 それはそれとして、寄ってくる小田の少しラフな服装をしみじみ見て、彩矢は私の友達としては珍しい人、になるよなぁ、と思いながら、彩矢も笑顔を浮かべてやってきたその人に挨拶と彩矢の希望を口にする。

 と、すぐ目の前までやってきた小田が、ふいに彩矢へと手を伸ばし、ぐっと腰を引き寄せられた。


「あー、彩矢ちゃん、もうちょいこっちだって。」

「へ?……っきゃ!ちょ、なにす」

「(シー、声抑えて。なんか俺後つけられてる気がしてさ)恋人ならこの位普通っしょ。」

「(えっ、やだ、嘘?)」


 いきなり近寄った小田の顔に驚き、声を上げかけた彩矢を止め、小田は彩矢の耳元に顔を寄せて小さな声で囁くように言ってきた。

 あまりに近い距離にすぐに離れようとした彩矢だけれど、小田が言う内容はスルーしてはいけないものの気がして、動きが止まる。

 彩矢のトイは急にぐらりと傾いだ彩矢の肩から転げ落ち、ふわりと空中に浮いて、少し文句を言いたげだ。小田はまだ見えていないというのをトイも解っているからか、小田のトイに直接文句を言うべく近寄って行く。解っている、というよりも、彩矢が解っているから小田本人には行かない、という事なのだったと思い出す。

 それでも、やはり、彩矢としては、トイ自身が理解しているから、という感覚になってしまうので、まぁもうそんな感じでいっかとスルーしている。

 結果的にはあまり変わらない訳だし。

 それはそれとして、小田から言われた事は本当に良くない事柄のようだ。


「(ほんとほんと。リーマンぽいやつが、俺の後ろにいてさ。駅からずっとつかず離れずで歩いてきたんだよね。彩矢ちゃん狙われる心当たりは?)」

「(っな、ないよそんなの)」

「(んー……まぁ一応念のために一芝居打っておこ。ストーカーだったら撃退した方がいいでしょ)」

「(一芝居、って、あ、そういえばさっき恋人とかなんとか……)」


 小田が言うには、駅からずっと何者かがこのアパートまでの道をそっくり同じように通ってきたのだという。さらには、彩矢は気が付かなかったけれど、今も、少し向こう、角を曲がった辺りにいる気配がする、らしい。

 その人物の狙いが、小田なのか彩矢なのかが解らないけれど、彩矢には全く持って身に覚えが無い。普段から人に迷惑をかけないようにと気を付けている彩矢だけに、思い当たることなんてあるはずもない。

 とはいえ、そういった類の犯罪を犯してしまう人は、思い込みが激しい場合が多かったりするから、本人にはなんの落ち度もなかったりはするのだけれど。それはまた別の話。

 正直、小田の方が、色々と女性に声をかけていそうでトラブルになったりしていそうだな、なんて彩矢は思ってしまうけれど。

 でも小田が言うにはサラリーマン風のスーツを着た男性だというから、二人とも心当たりなど無いし、ならば双方どちらを狙っているか解らない以上、協力しておいた方が身のためかもしれない。


「今日も可愛いなぁ、俺の彼女。」

「(えええ、ちょっとまってよ)」

「(だーかーら、恋人の振り。しといた方がいいんじゃない?ずっと狙われてもヤバいでしょ。俺結構腕が立つようにみえるらしいから、使いなよ)」

「(あ、そういう……うーん……)」

「(ラブラブっぷり見せたら諦めるんじゃない?)」

「(そう?かなぁ?)」

「(そうでしょ、相手がいれば普通はすぐ諦めて違う子探すって。てことでホラ、彩矢ちゃんもそれっぽい事言わないと)」


 しかし、今現在好きな人がいて、もう少しで恋人になれるだろう優斗という存在がいる彩矢には、小田の提案は簡単に頷くにはちょっと躊躇うところはある。なんて迷っている間にも、小田の口は止まってくれなかった。

 それどころか、早くのってこいとせっつかれる始末だ。

 これはもう小田の案にのらないと解放してもらえないと思った彩矢は、仕方なしにそれらしい会話を繋ぐことにした。


「(え、と……)そ、そう?いつもと変わんないと思うけどなぁ。」

「んにゃ、間違いないね。俺に会えるからって気合入れて可愛くしてくれたんでしょ?スカートもノースリも似合ってる。ああ、でも今度俺好みの服をプレゼントしたいから買いに行こうよ」

「えっ、そういうもの?ていうか小田くんの好みの服ってどんなの?」

「肌見せオフショルとかいいなー。ちらっと出てるのがセクシーじゃん」

「ええー、私には似合わないって。ということで行きませんー。でもランチは行ってもいいよ(もちろんゆりちゃんも一緒にね)」

「やった、じゃ今日の昼一緒しよ。(さすが彩矢ちゃん、ありがと!)」


 小田につられるように、彩矢はなんとかカップルに偽装するべく会話を繋ぐ。

 こんな感じでいいのかな?と考えつつ、結局はいつもの友人としての会話になった気もするけれど、小田の顔を見ると彩矢にウィンクしてみせたので、間違ってはいなかったらしい。

 気が付けば、小田のトイが彩矢のトイに手をこまねいて小田の頭の上に一緒に座ったかと思ったら、ぎゅっと手を繋いでいた。

 トイまでそんな行動をしなくても、と思いはしたけれど、実際お付き合いをしているカップルのトイはそんな感じで仲良さそうにしているのが一般的だし、必要な措置かもしれないと考え直す。

 それでも、彩矢の心には、罪悪感に似た何かが、ざらりと掠めたけれど。

 そして二人は、小田が彩矢の腰に手を回したままアパート前の道から出発し、角を曲がって大通りに出て人混みにまぎれるまで歩いて行った。

 二人ともがちらちらと背後を気にしつつ、大通りに出てから程なくして、小田がじっと背後を見た。どうやら撒けたらしく小田がコクリと頷いたのを見て、二人は、はあぁぁ……と共に大きく息をついたのだった。


「……いなくなった、ぽいかな。」

「ああ、良かった……なんだろ、私たちに関係してなければいいんだけど……」

「俺の勘違いならいーんだけどね。まぁ、俺としては?彩矢ちゃんの彼氏役して役得だったってことで。あ、まじで今日の昼は一緒していーの?」

「んもー、そういう事いうから誤解されるんでしょ。うん。今日は一日ゆりちゃんと一緒の予定だから、お昼に食堂で会えたら一緒に食べよう。」


 友里恵には、火曜に元気になって講義を一緒に受けた時に、小田の事を話してあった。

 彩矢に恋人が出来そうだという事を知ったので、もう諦めたから普通に友人として喋りたいという、まぁ、いいのか?それで?と突っ込みたくなる展開だったけれど、小田が良いというのだからいいんだろう。

 そして彩矢もそれに同意していて、よくよく話してみた結果、小田に対する偏見や苦手意識、わだかまりなども無くなった事を伝えているので、今では彩矢と友里恵と小田はぼちぼち良好な友人関係となっている。


「さ、それじゃ早く行こ。時間ちょっとヤバいから急がなきゃ。」

「ほんとだ、流石にヤバいな。彩矢ちゃん頑張って、俺はよゆーで間に合うから。」

「ちょ、ひどい!」


 いつの間にか時間がそれなりに過ぎていた事を知った二人は、ついさっきまで誰かにつけられているかもと気にしていた事などすっかり頭から抜けて、キャンパスへと走っていったのだった。






『もうすぐ着くから、ひといきのドアの前で待ってて。暗いところにいちゃ駄目だよ』

 ポンと音を立てて届いた優斗からのメッセージを直ぐに読んだ彩矢は、緊張を孕んだ、けれど浮かれてもいる赤い顔で画面を見つめながらなる早で返事を返す。


「大丈夫です、ドア前の街灯の下にいます、っと。」


 今日は、待ちに待った土曜日。優斗がバイト終わりにひといきから彩矢のアパートまで送ってくれると約束してくれた日だ。

 そして、彩矢が優斗に返事をしよう、と思っている日でもある。

 昨日の夜は夕飯を食べ終わった後くらいから意識してしまって、日付が変わるまでドキドキして。日付が変わったスマホの画面に表示された曜日を見てさらに緊張して。

 寝て起きたらバイトがあってその後は……と考えてしまったらもう目がさえて眠れなくなってしまった。

 なんて言おう、なんて切り出したらいいだろう。

 布団に潜っても全然眠気なんて訪れてくれなくて、優斗が彩矢へ告白してくれた日の優しい笑顔が何度も脳内にリフレインされる。

 いつもは優しくも頼れる眼鏡のイケメンな彼が、はにかむような笑顔で『好きだよ』と言ってくれた時の嬉しさと言ったら。

 思い出してはニヤニヤしてしまう頬を引き締めようかと思いつつも、今は一人だしいいよね別にと緩むままに笑い出してはトイと顔を見合わせてへにゃりと笑い合う。

 やっぱり王道で、『好きです』かな。それとも『お付き合いしてください』で伝わるかな。でもでもやっぱり気持ちはちゃんと伝えた方がいいよね。

 待って、どこで言うの?ひといきの前だと恥ずかしすぎるし、でも歩いてる途中でそんな雰囲気にできるかってそんなの難しい。

 やっぱりうちのドアの前?いっそ玄関入ってもらっちゃう?いやいや、まだお付き合いしてないのに男の人を部屋の中に招き入れるのは駄目でしょ。

 えーじゃあやっぱりドアの前?ソレで?なんて言おう?

 あっそうだトイに邪魔されないように捕まえておかなきゃかな。

 んんん、でも多分空気読んでくれるよね?ていうか読んで。お願い!

 こういう時こそトックス?でもでも優斗さんの前でいきなりトックスを取り出してトイを入れるのも、なんだかこう、いかにも過ぎない?

 えー、まってどうしたらいいのー!?


 暗い部屋の中、何度もぐるぐると同じような事を考えてはなかなか寝付けなくて、結局彩矢が眠りについたのはいつも寝る時間より一時間以上も後だった。


 寝不足の頭で、枕元で鳴ったアラームを止めた彩矢は、スマホの画面を見た瞬間にばばっと起きあがり、瞬時に目が覚める。

 そこには優斗からのメッセージが来ていたのだ。

 優斗は『おはよう。今日約束してたよね?19時半頃、ひといきまで迎えにいくから』と丁寧なメッセージを送ってくれていて、彩矢は今日の約束が自分の妄想ではないと実感する。

 それと共に、まとまっていない告白プランを練らなきゃと思ったのも束の間、我に返って確認した時刻はバイトまで間がなく、寝坊した事に気が付いて慌てて支度をしたのだった。



 朝から連絡をくれた優斗は、約束していた19時半よりも少し前にも『ひといきの店の鍵って閉められちゃう?のかな。できれば俺が行くまでは建物の中に居てほしいけど、無理そう?』と彩矢を心配して聞いてきてくれていた。

 たぶん店長には優斗が来てくれる事を言えば、店内で待たせてくれるだろうけれど、自分の都合で戸締りを遅らせてしまうのも忍びないので、何も言わずに彩矢はドアの外で待つことにした。

 ドアのすぐ前なら街灯もあるし、まぁ大丈夫だろうと思ったからだ。

 いざとなればトイもいるし、ひといきの建物は店長の住居も兼ねているから、もし何かあっても助けを呼ぶのはできるだろうと思って。

 優斗には『明かりもあるから平気ですよ、外で待っていますね』と送っておいた。

 そしてまたついさっき、もうすぐ着く、という優斗からのメッセージを受け取った事で、彩矢は知らず頬が綻んでしまう。

 早く来ないかな……。ああでも優斗さんが来たら告白するんだよね!?と早く会いたい気持ちと、でも告白することへの緊張から逃げ出したい気持ちとで、相反する想いを抱きつつ、彩矢はじりじりとその時を待った。


 そんな、何とも言えない気持ちを抱えた彩矢が、ひといきのドア前の街灯の下で優斗とのメッセージ画面を見ながら待っていると、いくらも経たないうちに彩矢ちゃん、とここ数日で耳慣れた声が彩矢の耳を擽った。

 その声に彩矢が顔をあげるよりも先に、トイがひゅんっと飛んで行ったのが解って、もはやいつもの事だなぁと苦笑してしまう。

 私どれだけ優斗さんの事好きになってるんだろう。だって、トイが寄っていきたいと思うって事は、そういう事、だよね?

 トイの行動から自身の気持ちを顧みて、ぶわりと恥ずかしさがこみ上げた彩矢は、優斗に訝しがられないように全身を軽くはたいて気持ちを切り替えた。


「こ、こんばんは、優斗さん。」

「うん、こんばんは。ごめんね待たせたかな。」

「いえいえ、全然です。ついさっきまでドアのとこで店長と喋ってましたし。」


 彩矢が持っていたスマホのロック画面には19:32と表示されており、優斗が少々申し訳なさそうな顔をしたので、彩矢は慌てて否定する。

 5分ほど前まで、店長と話していたのでそれ自体は間違いではないし、彩矢自身がこの後の事を考えて緊張してしまっていたから少し早く出て待っていたので、それは優斗にはなんら責のない事だ。


「そっか、良かった。……それじゃ、行こうか。」

「はい。」


 この段になって、彩矢は少しだけ違和感を覚えた。

 優斗のトイが、彩矢のトイと手を繋ぐのはいつもの事だけれど、その顔に笑顔が見られなかったのだ。

 優斗はというといつもと同じように笑いかけてくれていて、普段通りに見えた。一瞬だけ、眼鏡の奥の瞳がいつもと違う気がしたけれど、すぐに細めて笑いかけられたからわからなくなってしまう。

 なんとなくでしかない違和感は、気のせいかなと思い直す。

 もうそれなりに暗い時間だし、彩矢達だけで外に居た事を心配してくれたのかなと、彩矢は自分の緊張もあって僅かな違和感をスルーしてしまったのだった。


 この時もっと気を付ければよかったというのは、後から思えばこそ、だろう。


 その時の彩矢はどうやって告白するかという事でいっぱいいっぱいで、優斗を慮る余裕などまるで無かったのだから。






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