第18話
時は少し遡る。
水曜、優斗は通勤ラッシュの電車から抜けだして、金糸雀駅の改札をくぐり自社へ向かう道……ではなく、彩矢のアパートのある方向へと歩き出した。
まだ出社時刻には余裕がある。数日前の日曜の彩矢との水族館デートの帰りに、彼女をアパートまで送らせてもらったので、もしも、ほんの少しでも顔が見られたら、という期待とも希望ともいえる感情からだ。
優斗の会社までは、彩矢のアパート前の道を経由しても5分かそこらの違いなので、そんなに変わるわけじゃないというのも丁度良かった。
一歩間違えればストーカーと言われそうだという行動に、自分でも気付きつつも、いやいや健康のために少し長めに歩いているんですと言い訳をする。
ふわふわと自分の顔の周囲を飛んでいるトイも、優斗が歩き始めた時には、心なしかそっちへ行くのかと言っている気もしたけれど、今は別に気にしていないらしい。むしろ、こいつも彩矢のトイに会えるなら会いたいという感じなんだろう。飛ぶのに飽きたのか頭の上に座ったトイは、表情こそ見えないけれど、楽しそうにしている雰囲気が伝わってきた。
彼女が出てくるまで待つつもりはないし、脚も止めずに進むつもりなので全く会えなければそれはそれで仕方ないと諦める。翌日の木曜にはまたランチの時間に会えるはずだからと己に言い聞かせて。
前日の火曜のランチの時の彼女も可愛かった。
彩矢はバイト中なのであまり会話は出来なかったけれど、真っ赤な顔で一生懸命接客をしてくれていて、優斗の告白を意識してくれていることがわかって嬉しかった。
それに、あの表情なら、まず振られる事はないんじゃないかと、つい期待してしまう。
ちゃんとした返事を貰うまでは、期待も邪推もしない方が己のためだと解ってはいるけれど、そこはどうしたって相手の様子を窺ってしまうし、優斗を見たとたん真っ赤になった彩矢を見た限り、自分に気があると思ってしまうのは無理もないだろう。
彩矢とは連絡先を交換したのだから、メッセージのやりとりをすればいいともわかっているけれど、優斗は普段からあまり使わないので、どんな風にやりとりしたらいいのか勝手がよくわからないというのもあった。
それに、ただの知り合いの状態で、用件もないのにあまりメッセージを送りすぎるのも、と思うと、スマホを手にしてはすぐに置くという行動を繰り返してしまう。
最終的には視界に入らないように充電させて早々に寝てしまったりしていた。
そんな事もあって、もしも朝から少しでも顔が見られたら嬉しいし、会えて話ができたらいいな、と期待してしまう。
普段は眼鏡をかけているのもあって、真面目だとか硬いと言われがちな優斗の表情が、彩矢の事を考えているとつい緩んでいく。
ついつい浮かれて道を間違えるなんてカッコ悪い事をしないように、と周囲をチェックしながら歩いていく。
そんな優斗の前後には大学生らしい人達が大通りをやはり同じ方向へ向かって歩いていた。
そういえば、この道を進んだ先には、彩矢が通う金糸雀大学があるんだったとここに来て思い至った。
彩矢だって、そこの学生であるからして、この付近のアパートなのだし。そんな事にも頭が回らないなんて大分浮かれてるな、と自嘲しながら少し先を進む男子学生と距離をとるようにして歩いていく。
そうして、大通りから一本入った先、角を曲がれば彩矢のアパートの入口が見えるという所まできた優斗の耳に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「おはよう、小田くん。」
耳に届いたその声は間違いなく、前日の昼にもその前の日曜にも何度も聞いた彩矢の声だった。
しかし、その後に続いた名前は誰だろう。くん、とついたからには男に違いない。
「彩矢ちゃんおはー。」
すぐに続いた、相手らしき男の声が彩矢を呼んだ。
それも名前で。
どういう関係の相手だろうか。
いやいや、友達ならそれくらい普通に呼び合う事もあるだろう。
つい咄嗟に曲がり角である隣家の壁に身を隠しつつ、優斗の脳内を疑問と否定とその他色々な感情が瞬時に駆け巡る。
「もー、小田くんもう少し早く来てくれないと遅刻しちゃうよ。」
「えー?俺いつもこの時間の電車よ?余裕で間に合うっしょ。」
道の先から聞こえる声に耳をそばだてながら、身を隠している壁から少しずつ顔を出して覗き見ると、先ほどまで優斗の前方を歩いていた男子学生らしき人物が、彩矢と話しているのが見えた。
念のため、トイは両手で抱えて飛び出さないようにさせる。なんとなく、今優斗がここに居る事はすぐそこで立ち話をしている二人には知られない方が良い気がしたから。
少し優斗よりも若い雰囲気のその彼は、よし行こうぜ!と拳を突き上げているが、その場所には二人のトイが、空中に浮かんで少し距離をとってはいるものの仲良さそうに喋っているのが見えた。つまり彼には見えてないらしいと判断して、未成人かとあたりを付ける。
彩矢は成人したばかりだし、つまり二人は同学年なのだろう。
それなら、まぁ、友人と一緒にキャンパスまで行くくらいは、まぁ、よくある光景だろう。
男女という組み合わせなのが気になるけれど、性別の垣根を超えた友人が優斗だって居、た気がする。世間的には普通にあるらしいと聞いてもいる。
そもそもまだ恋人でもない相手で。もしも彩矢が優斗の恋人だったとしても、友人関係に口を出すのはよくないだろう。
それに加えて、今自分がここにいる事とか、なんとなくバレたくないという罪悪感もあって、優斗はすぐに目を逸らし体勢を整えた。
二人は少し話した後、優斗がいる方向とは反対側のキャンパスがある方向へ歩き出したらしい。
遅刻するとも言っていたし、少し早めの足音が段々と遠くなっていった。
俺も会社行かなきゃなと、優斗は働きの悪くなった頭で考え、来た道を引き返すようにして大通りへ向かった。
ちらっと見えた、彩矢の表情が、いつも自分に見せるどこか緊張したものと違って、屈託のない笑顔だったのが、胸の奥に、ほんの少しだけ引っかかったけれど。
気にするな、と自分に言い聞かせ、ついさっき見た彩矢の顔を振り切って、優斗は始業時間に遅れないように急いだのだった。
その次の日、木曜の昼に『ひといき』で会った彩矢は今までと同じように優斗に笑いかけてくれた、ように思えた。
それに、優斗が店を訪れるとすぐにトイが飛んできて抱き合っていたし、彩矢も火曜と同じく頬を染めつつ接客をしてくれた。
じゃあやっぱり昨日の相手は友達かな、と優斗は邪推した自分を申し訳なく思いながら、いつものメニューを注文し、少しだけ話をしていつも通りのランチを過ごしたのだった。
しかし。
金曜の朝、優斗はまた彩矢のアパートへの道を歩いていた。彩矢は金曜は講義が午前から午後まで入っているらしくバイトには居ないため、ランチの時に会えないので少しでも顔が見られたら、と思ったのだ。
けれど、優斗は水曜の朝に辿ったのと同じ道を進むうちに、あることが気になった。
優斗の前方、少し先を歩く学生らしき人物の後姿になんとなく見覚えがあったのだ。
正確には、トイに。
少々離れた前方を歩く男子学生のトイになぜ見覚えがあるのか、どこで見ただろうかとしばし考えたけれど、それはすぐに思いついた。
水曜の朝、彩矢のアパート前まで行った時だ。
あの日、彩矢と話していた相手のトイがあんな顔だった気がするのだ。
それに気が付いた優斗は、少し歩みを早めて、前方を歩く彼から離れすぎないように距離を詰めた。
こんな、探るような真似はするべきではないと解っていつつも、気になってしまったから。
おそらく彩矢の友人で、きっとそれ以上でも以下でもない。
だとしても、彩矢本人から聞いた訳ではないし、何より先を歩く彼の雰囲気というか……少し軽い、カジュアルと言えば聞こえはいいが随分とラフな服装で……要は彩矢とは雰囲気が大分違うのだ。
類は友を呼ぶともいうし、友人になる相手は似た雰囲気を持つ場合が多いというのは優斗の経験則だ。
けれどあながち間違ってはいないと思っている。どうしても好むものの傾向から似た友人が集まりがちだからだ。
そんなわけで、彩矢の持つ静かで柔らかな雰囲気とは大分違うその男子学生は、似た雰囲気という傾向からは、大分ズレているから、本当に友人なのかなという疑問が沸いてきたのだ。
もちろんまったく趣味が違うのに何故かウマが合うという相手もいるだろうし、その場合は優斗の見る目がないというだけなので、後で彩矢に謝った方がいい事になるかもしれない。
彩矢にとって、前を歩く彼はどんな存在なんだろうかと、優斗はあれこれと考えてもしようがないことを巡らせながら、彩矢のアパートの前までずっと同じ道を、小田の後をつけるように進んでしまうのだった。
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