without ジュリエッタ

 目が覚めて、体を起こしてみてもしばらくの間わたしは自分がどこにいるのかわからなかった。

 ただ、やけに冷たい空気のせいで次第に頭がクリアになっていく。


 ここは日本で、わたしはジュリエッタじゃない。高校一年生の藤代梓だ。

 そしてどうやら昨晩のわたしはうかつにも暖房のタイマーをセットし忘れたらしく、強烈な寒さが戻ってきた三月の冷気をもろに浴びてしまっている。

 おまけに掛け布団を握っている手の甲には水滴まで落ちてきた。

 だけどそれはわたしの目からこぼれた涙だった。


 夢なんて、ちょっと時間が経てばすぐに忘れてしまう。

 そういうもののはずだが、なぜだかわたしは夢の続きを知っていた。

 結局、ジュリエッタの時間が再び動きだすことはなかったのだ。ティトを失いニナの死を知り、永遠の独りぼっちとも呼べる時間を生きて、彼女は死んだ。


 暗がりの中でのそのそとベッドから抜け出し、パジャマの袖で乱暴に目元を拭ったら、まだ魂が半分だけしか戻ってきていないような感覚を無理やり振り切るようにして部屋のドアを開け放つ。


「あいた!」


 たまたまそこには人がいた。隣室で寝起きする一学年下の弟、朔也だ。


「ちょっと姉ちゃん、起きる時間を間違えてるぞ」


 ドアをぶつけられた仕返しも兼ねてなのか、毎朝わたしが遅刻ぎりぎりまで惰眠を貪っていることを揶揄して彼は言う。


 でも今のわたしにとってそんなのはどうでもよかった。

 そうだ、こっちではちゃんと本当の家族になれたんだ。ただただその気持ちだけがわたしの心を満たしていく。

 浅黒い肌、わずかに癖のある黒髪、切れ長の鋭い目。

 どこから見ても弟の朔也はティトその人なのだから。


「だいたい姉ちゃんらは今日休みだろ。ゆっくり寝とけって」


 あくびをしながら通り過ぎようとした朔也の背中へ、思わず反射的に飛びつく。

 彼の首へと巻きつけた両腕に力を込め、おんぶのような形で全体重を預ける。


「おわっ、いきなり何するんだよ!」


 心底驚いたように朔也が大声を上げた。

 照れくさいのと泣いていたのを隠すため、わたしは彼のうなじあたりへぎゅっと顔を埋めてしまう。


「うるさい。猿の親子の真似してるだけだから、あんたは黙っておとなしくしとけ」


「はあ? わけわかんねえ。つーか重さ的には猿じゃなく子泣きジジイ──いった!」


 朔也が言い終わらないうちに、容赦なく踵で脛を蹴っ飛ばしてやった。


「静かにしろっつったでしょうが。ほら、さっさと歩きな」


 どこの家であれ、有無をいわせぬ姉の圧力に弟が逆らえるはずないのだ。

 朔也はひとしきりぶつぶつと文句らしきことを口にしてから、「ちゃんと捕まってなよ」とわたしをおぶったまま階段を慎重な足取りで下りていく。

 お互いの吐きだす息が白い。


 一階の居間ではすでに朝食の準備が整いつつあった。今朝の朝食当番は和食党の母なのでごはんに味噌汁、焼き魚にお浸しといった定番メニューだ。

 調理中の母はわたしたちの様子を見ても特に驚いた風ではなく、「おはよう」の挨拶を交わした後に続けて言った。


「何それ。ノゲイラ?」


「え?」


「いやだから、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラの真似してるのかなーって」


 別に絞めてないもん、と小声でわたしは格闘技好きの母へ答える。


「ま、あんたらはほんとに仲がいいからね。でも高校まで一緒になるとはねー。梓は小さい頃から勉強できてたけど、体育以外は焼け野原みたいだった朔也の成績でまあここまでよくぞ頑張ったと思うわ」


 感慨深げな母を前に、弟は「待って、ちょっと待って」と慌てて制止した。


「まだ受かってないから。今日が勝負だから。できるだけ意識しないように努めてるんだし、頼むからあんまりそういうプレッシャーかけないで」


 そう、今日は朔也の高校入試の日だ。

 同じ学校へ通うため、何が何でも彼には受かってもらわなければならない。

 そして晴れて合格となった暁には、先輩となるわたしの友人連中へ、自慢も兼ねて引き合わせるつもりでいた。

 ただしやつらが朔也へアプローチを掛けることは一切許可しない。


「自然体、とにかくみんな自然体でお願い」


「『テキ』に『カツ』とか赤飯とかじゃないし、充分自然体でしょうが。というかここまで来てあんた何びびってんの」


 梓やわたしみたいにどーんと構えてなさいよ、と母が豪快に笑い飛ばした。


「はあああ、うちの女二人は強すぎるんだよ……。少しは男のセンシティブってものを理解してくれ」


 わたしに伸し掛かられたままの朔也がため息混じりにぼやいているところへ、すでに髭も剃って身支度を整えた父が姿を見せる。


 息子が当落線上の入学試験に挑むとあって落ち着かないのだろう、もうスーツへと着替えてネクタイまで締めていた。

 それでもいつも通り、顔をくしゃくしゃにして笑いながら声を掛けてくる。


「何だ何だ、二人ともいい年してお馬さんごっこか? それとも寒いから猿のおしくらまんじゅうか」


「姉ちゃんは猿だって言ってたけど……」


「お、後ろが正解か。冴えてるなおれ。ちなみに正確には猿団子だぞ、朔也。今日の試験に出るかもしれんからな」


「アホか父さん、そんなもん出ねえよ」


「いやいやわからんぞ。人生には三つの坂がある、上り坂、下り坂、そして──」


「まさか、でしょ」


 最後の部分だけはわたしがとってやった。


「言わせてくれって……」


 無念そうな表情で父がうなだれる。

 そんなわたしたち三人へ、母がエプロンの紐をほどきながら「ほら、用意できてるならしょうもないこと言ってないでさっさと朝ごはん食べてちょうだい。わたしも化粧して着替えないといけないんだから」と急き立ててきた。


「それと梓」


「ん、何?」


「あんた、ちゃんと朔也に渡したの?」


 危ない。すっかり忘れるところだった。

 ようやくわたしは朔也の背から下り、ダッシュで部屋まで戻る。

 大事なものばかりを集めた机の引き出し、その一番奥から取りだしたのは「合格祈願」の御守りだ。

 受験生に人気のある御守りらしく、わざわざ電車で片道一時間以上かけて出向き購入してきたのだ。


 その横には桜があしらわれたバレッタが置かれていた。

 三月生まれの朔也と四月生まれのわたしは、いつからかエイプリル・フールに互いの誕生日プレゼントを交換するのが毎年の習わしになっている。


 去年の四月一日に朔也からもらったそのバレッタを手に取った。

 可愛すぎて似合わないよー、とつい照れて笑ってしまったのをまるで昨日のことのように思い出す。

 すると朔也はぶっきらぼうに「姉ちゃんには春が似合う」と言ってくれたのだ。


 あのときより随分と伸びた髪の毛を無造作に留めて鏡を見た。

 ああ、やっぱりジュリエッタはわたしなんだ、と改めて思う。

 姿形はまるで違うのに。

 だけど彼女はもうどこにもいない。わたしはわたしの人生を生きるしかないんだ。


 さしあたっては、さぞご利益があるであろうこの御守りを朔也に手渡し、寒風吹きすさぶ入試会場までの道のりを無駄口叩きながらお姉ちゃんらしく付き添ってやり、試験が終われば誰よりも早くこれまでの頑張りを労ってあげるのだ。


 その甲斐あって同じ高校に通い、校舎ですれ違うことがあればわざとらしくウインクし、どうせ成績はよくて中の下くらいのはずなのでたまには勉強だって見てあげよう。ただで。


 そしていつか、彼に好きな人ができたならば。

 そのときはからかいながらも相談に乗ってあげるよき姉でありたい。

 わたしよりもずっと花が似合う、悔しいくらい素敵な相手に違いないから。でも、一度だけ。たった一度でいい。

 全身が張り裂けそうなほどに叫んで、独りきりで泣こうと思う。

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ジュリエッタ独りぼっち 遊佐東吾 @yusa10

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