ジュリエッタの世界

 日はすでに彼方へと沈みつつある。

 広場での異変を目撃した帰り道、ジュリエッタの隣でティトは黙りこくったままずっと険しい表情を崩さなかった。

 会話のない二人の歩調は自然と早くなる。


 たしかにジュリエッタも困惑はした。

 さほど守護聖人ニナへの興味を持たない彼女ですらそうなのだから、熱のこもった眼差しとともに奇蹟の御業を、降り注ぐ幸運の花びらを待ちわびていた市民たちはちょっとした混乱状況に陥っていたことだろう。


 だけどそれが何だというのか。

 苛立つ気持ちをどうにか抑えつつ、またティトの横顔を覗き見た。

 前だけを見据えて、傍らのジュリエッタのことなどまるで視界に入っていないかのようだった。


 しかし父が遺してくれた狭い家へと帰りついた瞬間、土砂降りの雨が石畳を叩くみたいな勢いで「おれはやる、やってやるぞ!」とまくしたてだした。


「あの方のためならおれは命だって惜しくない! 初めてだ、初めてなんだよ! ようやくわかったんだ、おれはあの方を助けるためにこれまで生きてきたんだって!」


 興奮とともに紅潮するティトとは逆に、ジュリエッタは己の顔から一気に血の気が引いていくのを感じとっていた。

 とはいえ、このまま彼の言いたいように言わせているわけにはいかない。


「あの方って、誰。ねえティト、もしかしてニナ様だなんて寝ぼけたことを口走ったりはしないでしょうね」


 半ば睨みつけるようにして彼女はティトと向かい合う。

 そんなジュリエッタを、不思議そうに見つめて彼は言った。


「だって、おまえ、気づかなかったのか」


「──何に」


「どうしてニナ様はずっとあの場で立ち尽くしていたんだと思う? それは決して花びらを降らせる力が失われたからじゃない。あの方をフィオーレ歴代最高の守護聖人たらしめていた力が消え失せてしまったのならもっと慌てるもんだろ。なら答えは一つしかない。あれは、ニナ様にできる唯一の抵抗だったんだよ」


 たしかにティトの言葉通り、あのときのニナにはまるで狼狽えた様子がなかった。むしろ周囲にいたお付きの者たちが忙しなく動き回っていたのを思い出す。

 あれはニナがとった想定外の行動を受けてのものだったのか。


「でも、どうして。あんなことをしてしまえば守護聖人であることさえ許されなくなるかもしれないのに」


「自分じゃない他の誰かが、心の中で何を切実に望んでいるのかなんて、そんなものわかりゃしないさ。それが守護聖人であるニナ様となればなおさらだろ」


 そしてティトは力強く言い切った。


「だから、おれが助ける。おれがあの方を救いだしてみせる」


 おれならできる、と重ねて宣言した彼に、とうとうジュリエッタも「思いあがるな!」と苛立ちを爆発させた。


「あんたみたいなただのガキに、いったい何ができるっていうの? ちょっと盗みが上手いだけ、本当にただそれだけ。そんなやつがこの街の守護聖人様を救いだすっていったい何の冗談? 少しは身の程ってものを知れよ!」


 口にし終えてすぐ後悔した。ジュリエッタが言いたかったのはこんな刺々しい暴言ではなかったからだ。

 なのにどうすればいいのかが彼女には全然わからない。

 当のティトはジュリエッタの態度に当惑を隠せないでいる。


「どうしておまえがそんなに怒っているのか、おれにはさっぱりわからねえ。別に手伝ってくれって言ってるわけじゃないんだぜ? やるのはおれだけだ」


 それはジュリエッタが欲しかった言葉とは似ても似つかぬ、あまりにも無理解な返答だった。

 これまでずっと一緒に生きてきたはずなのに、彼女の想いはまるで伝わっていなかったのだ。


 だからといってティトへ協力する気が彼女にあるのかといえば、答えは否だ。

 時間を止める力を有するジュリエッタであれば、もしかしたら彼の無謀な試みでさえも成功へと導けるかもしれない。

 だがそのためにいったいどれだけ大切なものを失わなければならないのだろうか。

 しかも自分たちとは住んでいる世界が違う、はるか遠い存在である少女のために。受け入れられるはずがなかった。


「じゃあ勝手にあの女を助けにいけよ。しばらくあんたの顔なんて見たくない」


 冷たく言い放ち、ジュリエッタはそのままティトへと背を向けてしまう。

 ふう、と彼が小さく嘆息したのは背中越しでもわかった。


「そうするつもりさ。やるなら夜しかねえし」


 彼の行動は素早かった。いくつかの道具を迷わず選び、使いこまれてぼろぼろになった布袋の中へと放りこんでいく。


 準備が整ったのだろう、短くも気合の入った「よしっ」という掛け声とともに、建てつけの悪い扉を開けて出ていこうとする。

 そのときにできた隙間からいかにも夕暮れ時らしい、橙色の光が無遠慮に家へと割って入ってジュリエッタの足元へも伸びてきた。


「じゃ、行ってくる。頼むからニナ様を連れて帰ってくる頃には機嫌直しとけよ」


 彼女が何か言おうとするより早く、再び扉が閉まる。

 うるさく軋む板張りの床へ、足ごと釘で打ちつけられたかのように身動きがとれないジュリエッタはしばらく呆然とその場に立ち尽くしていた。


 時間が経てば経つほど、次第に悪い予感がじわりと彼女の心に絡みついてくる。

 一睡もできずジュリエッタは夜を明かしたが、朝になっても日が昇りきっても彼が帰ってくることはなかった。


 これ以上一人で待っていると心配でどうにかなりそうだった。

 もはや意地を張っている場合ではない、そう認めるとすぐに裸足で家を飛び出し、盛大に建国式典が催されていた広場へと駆けだす。


 向かい風の中、息も絶え絶えになってようやく目的の場所へたどり着いたとき、ジュリエッタの視界に入ってきたのは心臓が凍りつくような光景だった。

 昨日までとはうって変わって広場の中央には絞首台が設けられており、すでに処刑を終えた三人の遺体が吊るされてそのままとなっていたのだ。


 そしてジュリエッタはティトの姿をたとえ遠目からでも決して見間違えたりはしない。

 三人のうちの一人が、ティトだった。


「あ……ああ……」


 ジュリエッタの口からか細いうめき声が漏れる。

 あまりにも迅速すぎる処刑だ。裁かれることさえなく、ジュリエッタに別れを告げることもなく、ティトの命は蝋燭の火と同じくらい簡単にかき消えてしまった。

 やはり守護聖人であるニナへは絶対に手を出してはならなかった、そう結論づけるしかない。


 刑の執行は今日のまだ早い時間だったのか、処刑人の姿はすでになく、野次馬らしき人間の数もまばらとなっていた。

 そういった連中の間を縫うようにしてよろめきながら絞首台へと近づき、下からティトの体を見上げた。


 ほんの一日前、ここには守護聖人ニナが起こす奇蹟の恩恵にあずかろうと大勢の人たちが押し寄せていた。

 少し事情は違えど、ティトだってジュリエッタだってそうだ。

 あのとき、ここは確かに希望で満ちていたはずだった。


「──早く、下ろしてあげなきゃ」


 じゃないとティトがかわいそうだ。そう呟いたジュリエッタは、回りこんで処刑台へと上がったことでようやく周囲の異変に気がついた。

 世界のすべてがその動きを止めていたのだ。


 誰もが彫像であるかのように微動だにしない。

 風が出ていたにもかかわらず、雲は流れることを拒んで一つ所に留まり続けている。宙に舞う葉もいまだ地に落ちることを許されずにいた。


 時を止めるジュリエッタの力が発動した理由は明らかだった。

 ティトの死、それ以外にはありえない。

 何より彼女自身がそう認識していた。


 ナイフを取り出して口に咥え、この世ならざる地への門のようにも見える絞首台をするするとよじ登っていく。


「乱暴にするけど、ちょっとだけ我慢して」


 今や世界に干渉できる唯一の者であるジュリエッタはそう言って、横渡しにされた太い木の柱からティトを括りつけている縄を擦り切り、どうにか彼の肉体を解放してあげる。同じく処刑されている他の二人には見向きもしなかった。


 だがティトの体は落下することなく、そのまま宙に浮かんだままだ。

 飛び降りたジュリエッタがすぐに彼の亡骸を引っ張ってそっと絞首台の床の上へと横たえる。


 もはや彼女には何の願いも望みもなかった。ただこのままずっとティトの隣で、自分の人生も終わっていくのを待つばかりだ。


 独りぼっちの世界に取り残されるのは、ジュリエッタにとって当然の罰としか思えなかった。

 誰よりも大切な人だったのに、守護聖人ニナに嫉妬しつまらない意地を張ってしまったせいで、彼の無謀な行為を止めることも手助けすることもできなかったのだから。

 それでも、やるべきことがまだ一つだけ残っている。


「ティトだけをこんな目にあわせるもんか。あいつにも、必ず償いをさせてやる」


 あのとき、ニナがフィオーレの守護聖人たる自身の責務を放棄さえしなければ、きっと今日もいつもと変わらぬ一日だったはずだ。

 すべての元凶はわがままな振る舞いをしたニナだ、そんな暗い炎がジュリエッタの身を焦がす。


 ティトに「また後でね」としばしの別れを告げ、ナイフを逆手に持ち替えた彼女は、普段であれば衛兵によって厳重に警護されている政庁内へとずかずか踏み込んでいった。


 もちろん、このような場所と無縁に生きてきたジュリエッタには、ニナの居場所などわかるはずもない。

 だから手当たり次第に扉を開け、部屋の中を確認していった。咎め立てする者などいないし、きっと時間だって気が遠くなるほどに余裕がある。


 綺麗に磨き上げられた石の床は冷たかった。

 どうにも足の裏の感覚が落ち着かない。つられるように居心地の悪さも感じ、気持ちも落ち着かなくなる。

 ティトだったら何て言うかな、とつい彼女は考えてしまう。ジュリエッタにはずっとティトと一緒にいた記憶しかない。

 頭に浮かぶのは彼のことばかりだ。


 どれほど歩き回っただろうか、随分と政庁内部の奥まで彼女はやってきていた。向こうに見えるのは行き止まりだ。

 もしかして見落としたのかも、と思いつつ最後の扉を乱暴に蹴って開けた。


 とても広い部屋だった。交易によって手に入れたのだろうか、見たこともない造形の調度品があちらこちらに置かれている。

 そして部屋の中央には薄桃色の花びらがうずたかく積み重なって円錐の形を成していた。だがどういうわけか裾野にあたる花びらは一様に真っ赤だ。


「花びら……?」


 当たりだ、と確信しつつも、なぜ部屋の中でと不審に思いながらジュリエッタは近づいていく。

 そして無造作に手で花びらを振り払っていった。


 花びらに埋もれていたのはやはり、守護聖人ニナその人だった。

 間近で見ると意外にもジュリエッタより少し幼いくらいかもしれない。

 だがその胸には、彼女自身の両手によって短剣が深々と突き立てられていた。儀礼用と思しき、煩わしいほどに飾り立てられた趣味の悪い短剣だ。


 慌ててジュリエッタは手にしていたナイフを投げ捨て、必死に花びらをかきだしてニナの体を抱え起こしたが、おそらく彼女はすでに息絶えていたのだと判断せざるを得なかった。

 それほど傷は深く、多くの血が流れてしまっている。


 ニナを動かした際、何か固いものが足に当たったのが気になってジュリエッタは視線を移す。

 そして驚いた。

 なぜならこの国の守護聖人である少女の両足には、鉄製の輪が二つある木の板の足枷がはめられていたのだから。


「何なのよ、これ」


 愕然とするしかなかった。結局ティトが正しかったのだ。

 名ばかりの守護聖人として可憐な少女はその力を利用され、何もかもから隔絶された部屋で幽閉のごとき扱いを受け、精いっぱいの抵抗をしてみせた後でついには自死を選んでしまった。


 いったい、どんな思いで自分自身へと花びらを降らせたのだろうか。

 この世を呪ってなのか、それとも最後の祝福としてなのか。


「あんた、ずっと独りだったんだね」


 ジュリエッタは足を投げだして座り、太腿の上へニナの頭を静かに乗せた。まだ血がついていないところのある亜麻色の髪を優しい手つきで撫でてやる。


 ごめん、と絞りだした彼女の声が主を失った部屋へ静かに吸いこまれ、そして消えていった。


「せめてこことは違うどこかで、あんたの孤独な魂が救われますように」


 目をぎゅっと瞑り、そうジュリエッタは強く祈る。

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