ジュリエッタ独りぼっち
遊佐東吾
ジュリエッタとティト
身動きもとれないほどに人がひしめき合っていたが、何とかはぐれまいとして少女は傍らにいる同じ年頃の少年の腕をしっかりと握って離さないでいる。
「いてえよジュリエッタ。別にばらけてもそんなに問題ないだろうが」
「うるさい。一緒に見ようって誘ってきたの、ティトじゃない」
少女が少年へ軽く憤ってみせる。
整然と敷き詰められた石畳が美しい政庁前の広場には、老若男女を問わず大勢の市民が集まっていた。
それもそのはず、この日は都市国家フィオーレの建国式典が行われているのだ。
民衆のお目当ては一年に一度、この日にだけしか姿を現さないフィオーレの守護聖人ニナである。もちろんジュリエッタたちも例外ではない。
守護聖人として崇められるのも当然だと思えるほど、ニナは見目麗しい少女だった。しかし市民が彼女の顕現に熱狂するのにはまた別の理由が存在した。
奇蹟の御業。守護聖人ニナが行使する力は、すべてのフィオーレ市民から畏敬の念を込めてそう呼ばれている。
ニナは何もない空間へ、無から有を生みだすがごとく薄桃色の花びらを降らせることができた。
ここフィオーレにおいて、守護聖人の地位というのは建国以来ずっと女性によって受け継がれてきた。
ただ歴代の聖女たちの中にあっても、ニナは特別だった。
なぜなら人知を超えた力を披露できたのは十二代目にあたる彼女だけなのだから。
そしてニナによって舞い散る花びらを手に入れることができた者は、一年の間幸運に恵まれるとまことしやかに言い伝えられている。
だからこそ、年に一度の機会を何としても逃すまいと民衆は熱気に満ち満ちているのだ。
「たかが花びらで幸運になれる、ねえ。ティトは信じてるわけ?」
「それは別にどっちでもいいんだよ。ニナ様の起こす奇蹟を間近で見られるだけで、おれはもう充分に幸福なんだから」
「はん、バカみたい」
「バカってなんだバカって。いいかジュリエッタ、おまえはニナ様のことをまるでわかっちゃいない。おれたちみたいなのがどうにか生きていられるのも、慈悲深いニナ様が日々祈りを捧げてくださっているからなんだぜ」
ニナの話題となると、普段は醒めた態度のティトが途端に敬虔な顔を見せる。
三年前の建国式典において彼女が雨のように降らせた花びらを目撃してからというもの、どうやら心底から畏敬の念を抱いてしまったらしい。
いつになく熱のこもった彼の口ぶりが気に入らず、拗ねたようにジュリエッタは「あたし、そんなの知らないし」と唇を尖らせる。
「ちょっとは聞けって。だからな──」
「うるさいうるさい」
しばらくそんな堂々巡りの会話を交わしながら待っているうちに、ようやく守護聖人ニナが政庁の上階にあるバルコニーへと現れた。
その途端、広場全体が揺れたのではと思うほどの歓声が沸き起こる。
長く続いた歓喜の声も次第に引いていき、代わって静寂が広場を支配する。今やすべての視線がニナへと注がれていた。
市民たちも、そしてジュリエッタとティトも、ニナによって宙へ花びらが舞う壮麗な光景を、固唾を呑んで待っていた。
だがしかし、いつまで経ってもその瞬間は訪れない。
ニナは奇蹟の御業を行使することなく、ただ黙ってその場に立ち続けていた。
◇
話は少し時間を遡る。
姉と弟なのか、それとも兄と妹なのか。
いつまでたっても二人の間で意見の一致を見ることはなかったが、とにもかくにもジュリエッタとティトは家族同然の間柄だった。
まだ右も左もわからないほど幼いうちにジュリエッタは両親を亡くし、父の親友だという傭兵稼業の男に引き取られてどうにか成長することができた。
彼女にとって育ての親である、その男の実の息子がティトだったのだ。
しかし男も三年と少し前に死んだ。
単なる小競り合いのような戦闘で運悪く流れ矢に当たって重傷を負い、その怪我が元であっという間に帰らぬ人となってしまった。
庇護してくれる大人を失った子供二人が、どのようにして人と物が行きかう巨大な都で生き抜いてこられたのか。
「ははっ、ちょろいちょろい」
ジュリエッタは早くも本日二つ目の戦果となる巾着袋の中をさっと覗き、銀貨と銅貨がそれぞれ複数枚入っているのを確認する。
街のいたるところに様々な花が飾られていた。
この日、建国を祝う祭りが行われているとあって、都市国家フィオーレはすこぶる賑わいをみせている。それはすなわち、ジュリエッタたちにとって「お客さん」が増えることでもあった。
こちらは順調、ならばもう一方はどうか。
「ティトのやつは上手くやってるかな」
おれに盗めないものなんてない、それが日頃からのティトの口癖だった。
だが盗みの最中に見つかって捕まろうものなら、商人たちからどれほど苛烈な私刑にあうかわかったものではない。
誰からも顧みられることのない孤児の扱いなどその程度だ。
それでも二人が決定的な失敗をしたことはこれまで一度もなかった。
何度か肝を冷やす場面もあるにはあったが、その度にどうにか切り抜けてこられたのだ。
それはひとえに、ジュリエッタが切り札を隠し持っているおかげでもあった。ティトにさえも秘密にしている、恐るべき力を。
できるだけ他人の記憶に残らぬよう人混みに紛れて歩きつつ、幾筋かほどけてこぼれた栗色の髪の毛をジュリエッタは右耳へとかける。
その際に指先がわずかに髪留めへ触れた。
ただ木をそれらしく削っただけ、そんな不格好で小さな髪留めだった。
けれども彼女にとっては、触れただけでつい口元が綻んでしまうほどの宝物だ。
この髪留めはどこかの店から盗んできた品ではない。
何日も何日もかけてティトが自分自身で彫り、ジュリエッタへの贈り物として仕上げたものだからだ。
「気に入らないなら捨ててもいいぞ」
照れ隠しなのかぶっきらぼうな言葉を添えていたティトだったが、彼女にしてみれば大事にこそすれ、捨てるなどという選択肢は存在しない。
そんな大切な髪留めを、もし今、この場で踏みつけて壊したらどうなるか。
ジュリエッタが初めて自身の秘められた力に気づいたのは、養父が死んでしばらくしてからのことだった。
引き取ってくれた恩義を感じているとはいえ、酒好きで素面のときがほとんどなく、粗暴なところも少なからずあった養父の死に対しては、彼女としてもさほど打ちひしがれたりはしなかった。
そもそもジュリエッタたちにめそめそして何もせずにいる生活の余裕などない。
二人の少年少女は盗みに手を染めた。
といってもティトはすでに慣れたもので、お手本とばかりに何度もジュリエッタが見守る中でその腕前を披露してみせた。
彼が盗みを行う前には必ず、右手で作った握り拳を左手で包み込むような姿勢で、この国の生ける守護聖人であるニナへと祈りを捧げる。
そうすることで罪が許されると本気で考えているのは、ジュリエッタにしてみれば少し滑稽ではあった。
「これをおまえにやる」
ティトがくれた小さなナイフ、それを使って彼女は様々な布を切り裂いて中身を取りだし盗みを重ねていった。
初めての実戦こそ心臓が飛びだすのではないかと思うほどの緊張感に襲われたが、そんな気持ちも罪悪感とともに次第に薄れ、まるで息を吐くような気楽さでひと仕事を終えるほどになる。
だがある日、その刃がとある露店での盗みの最中に根元からぽっきりと折れてしまったのだ。音を立てて刃が地面に落ち、当然近くにいた商人にも気づかれた。
けれどもジュリエッタは「まずい、気づかれた」ではなく「ティトからもらった大切なナイフが壊れてしまった」という思いが先に来た。
そしてその直後、尋常ならざることに世界は動きを止めた。
およそ二呼吸分ほどの時間はすべての物が微動だにせず静止していただろうか。
空飛ぶ鳥、道行く人、こぼれ落ちる水。
あまりに箍の外れた光景であったが、すぐに状況を受け入れたジュリエッタはその間に無事逃げだすことに成功している。
不思議には思わなかったのだ。花びらを降らせることのできる者がいるのだから、時間を止める者がいたっていい。
この出来事をきっかけとして、彼女はティトに内緒で何度か同様の実験を試みていく。その過程でいくつかの法則が理解できた。
驚くべきことだが、ジュリエッタには己の意志で世界の時を止めることができる。
ただしその力の発動には条件があった。
それは「自らの大切なものを失うこと」だ。
加えて、大切さの度合いに応じて止まっている時間の長さも変わる。
「おまえはもうちょっと身の回りの物を大事に扱え」
頻繁に「壊す」実験を行っていたせいで、以前はよくティトからそんな小言を食らっていたものの、最近では彼も諦めたのかほとんど口にしなくなってしまった。
これまでにいろいろな物を失った。
そのほとんどはティトにもらった物であり、中でも最も長く時間を止められたのは髪留めであった。今付けているのはいわば二代目だ。
できればもう壊したくはないなあ、と再度髪留めへと手をやりながらジュリエッタは思う。
あわやティトが捕まる寸前の緊急事態だったのもあって選択の余地はなかったが、あのときの喪失感は相当なものだったのだ。
思い返しただけでぞっとするほどに。
指を折っては開き、五十まで数えてみてもまだすべてが静止したままだったのにはさすがのジュリエッタも慄き、「もしかしたらこのまま時は止まったまま動かないのだろうか」と不安に押し潰されそうになったのを今でも生々しく覚えている。
ぶるっ、と身を震わせたジュリエッタの肩へ不意に手が置かれた。
「ひゃあ」
「何て声出してんだよ。おれだおれ」
ティトかあ、と安堵しながら彼女は振り向く。
浅黒い肌、わずかに癖のある黒髪、切れ長の鋭い目。彼が隣にいてくれるだけでジュリエッタは他に何もいらないと思える。
ただ、一緒に生きていければそれでいい。
そんな彼女の体から手を離しながら勢いこんでティトが言った。
「よし、行こうぜ」
「行くってどこによ」
訝しげにジュリエッタが問う。
「決まってるだろ。ニナ様のお姿を拝みにさ」
「……ニナ様、ねえ。ま、別にいいよ。すでにそこそこ稼いだし」
どうせ豆粒くらいにしか見えないだろうけど、とジュリエッタはついでに憎まれ口も叩いてやった。正直、面白くはなかった。
時間を止められる彼女にしてみれば、たかだか花びらを降らせる程度の力で守護聖人だのニナ様だのと崇められているのは理解に苦しむ。
かといって自分の力を大っぴらにするなんてのはありえない。それこそ大人たちからいいように利用されるだけだ。
そんなジュリエッタの胸の内など知る由もなく、待ち切れないといった調子でそわそわしているティトの腕を、彼女は思いきり力を込めてつかんでやった。
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