世界の濁流

 この国をあなたと思うことにする。

 そう言った清三さんは、星空を見上げ、そして目の前の恋人をやるせない眼差しで見つめた。


「僕はずっと、人々が平和に生活するためには、何が大切かを考えてきたんだよ。豊かさ、美しさ、思いやり、沢山あるだろう。その中の一つに、法律があると思った」


 大きく頷いた菊緒さんに笑みかけて、しかし上手く笑えなかったらしい清三さんは、苦々しげに視線を落とす。


「でも、戦争が起こって分かった。圧倒的な暴力の前には、何も敵わないんだ。この世で一番強いものは結局、暴力だ。人々がどんなに知恵を振り絞って作り上げた決まりごとも、どんなに美しいものも、命に代えても守りたいものも、生きていくために必要な肉体さえも、強大な力の前には全ては無意味で、無力だ。……こんなに理不尽なことがあるかい、菊緒さん」


「ええ。狂っています。……今の世の中は狂っています」


 いまだ周囲を気にしながら、菊緒さんが絞り出すように応えた。


「おかしいです。みんな、ただ幸せに暮らしたいだけなのに。どうしてこんなことになってしまったんだろうって」


「僕も思う。誰が望んでいるんだ、こんな世界を。誰も望んでいる筈がないのに」



「……ずっと、アイスクリームがね、食べたかったの」


 過去の自分と恋人との遣り取りを聞きながら、隣で菊緒さんがぽつりと呟いた。


「この時の私ね、ずっと、ワンピースを着て、両親と清三さんと皆で百貨店に出掛けて、アイスクリームが食べたかったのよ」


 現代ならば明日にでも叶えられる願い。

 その言葉の意図することに思い至り、私は何も言えなかった。

 これまで普通に日常にありふれていた食べ物や服が全て、ある時を境に、理不尽な暴力によって遠い過去へと追いやられてしまい、いつ戻って来るか分からない。

 もしかすると二度と戻ってこないかもしれないそれを恋しがることさえ、周囲の目を気にして言葉にできなくなってしまう。

 十代の女の子にとって世界の全てと言っていい、甘い物と綺麗な服、お出掛け、そして大好きな彼氏。

 戦争がその全てを今、奪って行こうとしている。身ぐるみを剥ぐ勢いで。



「ここまで大きくなってしまった暴力は、一度行きつくところまで行かないと止まらないだろう。きっと日本は負けるかもしれないが、僕は負けることを望んではいない。理屈が無力である以上、同じ暴力で抗う他に無い。この国の日常が――あなたの日常が、これ以上壊されていくのを見ていられない」


 独白のように語られる清三さんの想いは、きっとこの時代の全ての男性の本心だったのではないだろうか。

 隣の菊緒さんの顔を見られないまま、私は思った。

 お国のためという言葉の裏には、大切な人のためという本心があった筈だ。

 誰も望んでいない世界の濁流に、無力なまま流されて行くしかないとしても。

 理不尽な力から、大切な物を守るために、かけがえのない日常を取り戻すために、戦いに行ったのではないだろうか。


「……帰ってくると、言ってください」


 十七歳の菊緒さんが、切実な声で恋人に乞うた。


「必ず生きて帰ってくると、誓ってください。戦果なんて挙げなくていいですから、どんな姿でもいいですから、必ず無事に生きて帰ってきてください」


「菊緒さん……」


 ずっと待っていると言外に伝えるその願いに、清三さんはしかし首を振る。


「誓ってください、帰ってくると」


「……駄目だよ、誓うことはできない。そんなことをしたら、あなたはずっと苦しいままだ」


「ッ、もう、苦しいですから!」


 一瞬で菊緒さんの顔が紅潮し、くしゃくしゃに崩れた。


「誓ってよ清三さん、嘘でもいいから帰ってくると言ってよ! たった一言でいいんだから!」


「駄目だ。あなたはその言葉を頼みに、僕を待つもりなんだろう」


「だってあなたは行ってしまうんだもの、待つしかないじゃないですか。私なら何年でも待っていますから。待てますから!」


「菊緒さん……」


「私にも勇気をください。せめて今夜のうちに、清三さんの妻にしてください。婚約者としての証をください!」


 清三さんが、ひそやかに息を呑んだ気配がした。

 それは、この時代の女性にしては大胆過ぎるだろうと私でも思う言葉だった。

 ほんの数秒ほどの沈黙の中で、虫の声だけが響く。


 やがて両手で顔を覆った菊緒さんを、清三さんが包み込むように優しく抱き締めた。

 背の高い清三さんが身を寄せれば、小さな菊緒さんは顎の下にすっぽりと収まってしまう。

 その小ささを確かめるように、恋人の激情を宥めるように、清三さんは菊緒さんの背を擦る。

 腕の中の彼女をどれだけ愛おしく想っているかは、清三さんの仕草と表情が物語っていた。


「ごめんなさい……」


 清三さんの胸に顔を伏せたまま、微かな菊緒さんの声が聞こえる。


「そうじゃないよ……有り難う。できれば僕も、そうしたい。菊緒さん、どんなにあなたを――」


 菊緒さんの髪の中に顔を埋めて小さく頭を振りながら、清三さんが囁いた。

 狂おしいほどの愛しさを絞り出すような声で。


「でも、やはり駄目だ。今そんなことをしてしまったら、お互い心が残ってしまう」


 おずおずと顔を上げた菊緒さんの瞳を、清三さんが覗き込む。


「必ず帰ってこられる保証がない以上、僕の記憶とぬくもりがあなたを苦しめるものになってしまうのはつらい。一度でも知ってしまったものを待ち続けるというのは、苦しいんだ――とても」

 


――アイスクリーム。

 私は思った。

 過去の出来事を見つめながら当時を振り返るように隣の菊緒さんが呟いたアイスクリームは、もしかしたら同じ時を生きた清三さんも恋しかったのではないかと。

 戦前は普通に知っていたものが不意に取り上げられ、もう帰らない。

 既にそれを知ってしまっているからこそ、それが失われてしまった時間はいっそうに狂おしく、恋しくなる。

 ましてそれが生死も分からなくなる恋人の存在ならば、その狂おしさと恋しさは想像を絶するだろう。

 その苦しみを彼女に味わわせたくないと願う清三さんは、本当に、心から、痛いほどに菊緒さんを愛しているのだと。



 どれだけそうしていただろうか。

 抱き合った二人は、嘆き尽くせぬ溜息を吐きながら、時が止まったようにそのまま動かなかった。


 草の間から虫の声が聞こえ、空には満天の星が煌めいている。

 争っているのは人間ばかりだ。

 大きな力を持つ一部の人間たちの過ちが世界を壊し続けている一方で、虫たちは何ら変わらぬ営みを続けている。星たちは何ら変わらずそこにある。


 どうして、そんなふうに進んでいけなかったのだろう。

 ただ淡々と、生きて、愛して、食べて、どうして人間はそんなふうに進んでいけないのだろう。

 

 この時代のことを良く知らず、特に知ろうともしてこなかった私は、これから何があるのかは詳しく分からない。

 ただ知識として知っているのは、東京と八王子が、恐ろしい大空襲に襲われたこと。

 普通に暮らしている民間人が無差別に大量虐殺されたこと。

 最後には広島と長崎に原爆が落とされ、大人も子供も、ペットたちも、木々も虫たちも皆、何の罪もないのに生きたまま灼熱に溶かされてしまったこと。

 それを切っ掛けにして日本が完全降伏する形で終戦を迎えたこと。

 

 つまり清三さんが出征してしまうこの時期はまだ、その時を迎えていないことになる。

 菊緒さんたちは、これからまだ地獄のような日々を生きていかねばならないのだ。



 石像になってしまったかのように見えた恋人たちは、朝の気配に名残惜しそうに身を離した。

 まるで一つだったものが分かたれるように、身体が離れてもまだ互いの腕をなぞり、手を握り合い、その手を解き合っても指先を僅かに絡め合い、ようやく離れた。


「手紙を、書くからね」


「私も書きます」


「検閲があるだろうから、滅多なことは書けないと思う。でも、僕の心はいつもあなたと共にあると信じていて欲しい」


「……私もです。離れていてもずっと、清三さんと一緒にいます」


 菊緒さんの言葉に、救われたように清三さんが笑った。平和な時ならこんなふうに笑ったのだろうと思わせる、若者らしい笑顔だった。


「僕はね、敵を目前に突撃していく時には、あなたの名前を何度も叫ぶ。必ず生きて帰ってくるとは約束できないけれど、生きていたらまっすぐにあなたの元へ帰る。死んだなら――」


 菊緒さんが、今度は何も言わずに頷いた。


「そうだな、死んだなら……星になってあなたを見守ることにしよう。菊の色をした、黄色い星になろう。それなら分かるだろう?」


「黄色い星……」


「これが僕だと、きっと分かるようにするから。もし、その星が見つかった時は――いいね、もう僕のことは諦めて、僕の分まで幸せになるんだよ。生きて帰って来られたなら、必ずあなたを幸せにする。駄目だった時には、空からあなたの幸福を守らせて欲しい」


 是とも否とも言えないように、菊緒さんが俯きながら小さく頭を振った。


「わかるね、菊緒さん。死んでしまったら、もうあなたにどうしてあげることもできないんだ。そんな僕に、せめてあなたが幸せに生きる姿を見せて欲しい、これは、僕の最後のわがままだ」


 その言葉に、やるせなく菊緒さんが顔を上げた。

 清三さんがそのまなざしを柔らかく受け止める。

 ただ一心に恋人の人生を案じ、死後まで愛し抜こうとする清三さんの願いが、わがままなどである訳がない。


「泣かんでください。あなたそのものであるこの国を、自分は護りに往くのであります」


 兵士として言葉を改めた清三さんは、全てを断ち切るように、姿勢を正して敬礼をした。


「松尾清三、行って参ります」


 恋人の胸の内の重みと、深く真摯な愛情。

 それをありありと受け取ったのだろう菊緒さんも、ようやく姿勢を正し、少女らしからぬしっかりとした声で応えた。


「ご武運をお祈りしています。――どうか、ご無事で」

 

 このことなのだろうか。私はふと思った。

 あの甘味処で、菊緒さんが清三さんを「死なせてしまった」と言ったのは。

 戦場に送り出してしまった、この時の言葉を思い悩んでいるのだろうか。

 かつての自分と恋人の別れを目の当たりにして、私の隣で顔を覆った菊緒さんには、掛ける言葉もないけれど。

 その瞬間、不意に夜が明け、大きな歓声と汽車の警笛が高く鳴った。


 

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花月甘味夢幻録 青条玲利 @antaresruby111

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