この国のあなた

 いつの間にかまた周囲が闇に包まれ、依然この時代の誰の目にも見えない私たちは、今度は星空の下で誰もいない小径を歩く恋人同士を見ていた。

 現代とは違う八王子の秋の夜は、空気が澄んで宇宙の果てまで見渡せそうだ。

 家からさほど離れていないどころか、家の裏庭と言って良さそうな近場の小径を、若い恋人たちは肩が触れ合うかどうかの距離を保ちながら行ったり来たりしている。

 時折お互いにちらちらと横顔を窺うばかりで、何も言葉を交わしていない。

 ただ草の間から聞こえる虫の声がするばかりだ。

 女性は十七歳の菊緒さん。

 その隣のすらりとした背の高い男性が清三さんなのだという。髪は既に丸刈りだった。

 壮行会が終わって数日後、準備を終えて明日から戦地へ向かうという日に、清三さんは初めて夜の外へ菊緒さんを呼び出したらしい。

 そう説明してくれた九十八歳の菊緒さんを見ると、まるで娘に戻ったような表情で、愛おしげにかつての恋人の姿を見つめていた。



「あの時代、ランデヴーなんてしていたら不良なんて言われて大変でしたのよ。だから私たちはいつも、お互い学校がお休みの日曜日、清三さんが裏庭のお掃除をするのをお手伝いする名目でお話をしていましたの。もちろん近所の人たちの目もあるし長話はできないから、ほんの僅かなひとときだったけれども」


「それじゃ、あまり色々なお話しできないんじゃないですか?]


「それはあなた、私たちだって考えますよ。貸し借りする本の間に手紙を挟んだりしてね」


 悪戯っ子のような表情で、菊緒さんが肩を竦めて笑う。

 目の前にいる十七歳の彼女を見ていると、どんな様子でやり取りしていたのか、何となく想像できる気がして私も笑った。


「でも、ご両親が公認だったなら、清三さんのお部屋でお話していれば良かったのに」


 私がどうしても現代の感覚で話してしまうことに、何処か羨ましげな表情を見せた菊緒さんは、学校の先生が物を教えるように頭を振って見せた。


「そんなことをして噂好きの人に見られてごらんなさい、とんだ不良少女ですわよ。私だけじゃなく、私の両親まで不純異性交遊を推進しているなんて言われて、酷くするとお巡りさんがやって来て、お父様と清三さんは連れて行かれて折檻される時代ですもの」


「そんな!」


「でもこの時はね、特別でしたの。明日、戦争へ行かされてしまう兵隊さんが何をしていても、誰も何も言えるはずがないでしょう。そうですとも――誰にも、何も言わせてたまるものですか」


 兵隊さん。

 この時の清三さんをそう言った菊緒さんは、過ぎた時代へ石を投げるように呟いた。

 苦学をしても法律を学ぶ勤勉な学生だった清三さんは、熱望していた学問をする機会も、恋をする自由も奪われて、国から徴兵を受けて無理矢理に兵隊にされてしまった。

 今こうして目の前にいる彼はもう、個を封印され、即席のお仕着せだけを与えられた、兵隊という戦争のコマにされたのだと言うように。



 私が思うに、きっとこの時の清三さんも、同じ憤りと遣る瀬無さを抱えていたのではないだろうか。

 彼が夜の外へ菊緒さんを呼び出したのは、明日からもうこの家を出て行かねばならない切迫した悲しみのせいだったに違いない。

 最後に松尾清三さんという一人の男性として、運命にせめてもの抵抗を試みたのかもしれない。

 街灯などもあまりない時代である。夜の裏庭ならば誰にも見られない。人の気配がしたなら物陰に隠れて息を潜めていれば気付かれない。

 それだけでも、この当時の若い二人には十分な冒険だったのだろうけれど。

 


 行ったばかりの小径を戻ってきた恋人たちは、どちらからともなく脚を止めて星空を見上げた。


「菊緒さん」


 不意に、清三さんが口を開いた。


「明日、自分は鹿児島に参ります」

「……はい」


 びくりと肩を震わせた菊緒さんが、それだけがやっという風情で応える。

 暫くの沈黙の後で、黙っていることに耐えられなくなったように菊緒さんが呟いた。


「鹿児島は、遠いでしょうね……」


 清三さんもまた、どう答えようか迷うような沈黙の後で、結局オウム返しに答えた。


「……遠くあります」

「でも、暖かいところでしょうか」

「暖かい所と、聞いております。沖縄も近くあります。沖縄は、何としても守らねばなりません。どのみち行かねばならぬなら、自分は心身を賭してお国の弥栄を守り切る所存であります」


 文章をそのまま読み上げるような不自然な清三さんの物言いは、いかにもこれから軍人になろうとする人のそれだ。

 そんな恋人との心の距離を測るように、菊緒さんが清三さんを気遣わしく見上げる。

 黒目がちの菊緒さんの瞳は、恋人が今どんな想いでいるのかを、真摯に推しはかろうとしているふうだった。

 清三さんの表情は、此方からは見られない。

 それでも彼を見上げる少女時代の菊緒さんと、私の隣にいる老いた菊緒さんの表情を見れば、彼もまた苦渋に満ちた心を噛み締めるような表情を見せていることは分かった。


「お願いです」


 そんな恋人を見上げながら、菊緒さんが絞り出すように乞うた。


「いつもの清三さんのように、お話ししてください。……ごめんなさい。でも、お願いです」




「……ばかね」


 過去の自らの言葉を聞いた途端、私の隣の菊緒さんが一言そう呟いて顔を覆った。

 戦争の惨禍から国を守るための兵隊になろうとしている人へ、いつものようにして欲しいという願いがどれほど酷な願いかということは、今の私でも十分に分かった。

 清三さんがこれから向かう場所は、生と死が紙一重の地獄だ。

 大切なものを全て置き去って、駒としてそこへ向かうには、それなりの大きな覚悟と決意が必要になる。

 だからこそ清三さんは壮行会にも出席し、心から兵隊になり切るために言葉からそのように改めているのだ。

 全てを諦めるように、今から少しずつ大切なものから距離を取ろうとしているのだ。


 一方で、今夜こうして菊緒さんと二人きりになったことは、自らを翻弄する運命に抵抗し、ただの市井の男として愛しい人と最後の時を過ごしたいという意思と――それからもう一つ。

 初めて恋人と二人きりでデートをしたという記憶を、戦地での拠り所にできるように心にしまっておきたかったのだろう。


 だが、そんな彼の想いは十七歳の菊緒さんも分かっているはずではないだろうか。

 彼女はこの時代を肌で感じ、この時代の価値観の中で生きている女性なのだから。


 それでも、愛しい人との生死をも知れぬ別れを明日に控えた少女が、最後だからこそ素のままの彼に戻って欲しいと乞わずにはいられなかった思いも、私には十分に分かった。


 清三さんと菊緒さん。どちらの気持ちも分かる。

 馬鹿じゃないよ、菊緒さん。

 そんな思いを込めて、私は頭を振りながら菊緒さんの背を撫でた。




 肩を震わせながら俯いた清三さんは、身体の横で拳をきつく握りしめている。

 いとけない願いをする恋人を、ともすれば抱き締めてしまいそうになる衝動を懸命に堪えるように。

 抱き締めてあげればいいのに。

 目の前の二人と隣の菊緒さんを見比べながら、私は思う。


「……菊緒さん。……たぶんね、日本は、負けるかもしれないよ」


 噛み締めるように絞り出した素のままの清三さんの声は、穏やかで知的な法学生の声だった。


「……ッ」


 菊緒さんの肩が大きく震え、周囲に誰もいないことを確かめるように辺りを見回す。

 そんな彼女を制するように、清三さんは静かに頭を振った。


「構うもんか。皆もう分かっているんだ。薄々どこかで分かっていて、目を背けているんだ。そうだろう、兵隊が足りなくなって僕らのような学生まで駆り出されて、子供のおもちゃまで取り上げて戦闘機の材料にしているようなら、もう……」


「……清三さん」


「それでも行かねばならないなら、僕は……菊緒さん、この国をあなたと思うことにするからね」

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