学徒出陣
一瞬で私たちを包み込んだ暗闇が明けた時、そこは外に冷たい雨が降りしきる午後の室内だった。
床に敷かれた木材から、雨の水蒸気を含んだ独特の匂いがする。
人の目に触れないお化けのような存在になっているらしい私たちは、あの防空壕からいつの間にか、菊緒さんの生家にいた。
菊緒さんの家は、木造建築の母屋から渡り廊下で続く離れがある。離れは白いコンクリート壁で覆われ、腰板を張り巡らせた内部はどこか学校の教室を思わせるような、少しばかり洋風の趣を取り入れた平屋だった。
母屋から離れに続く渡り廊下を、先程からそわそわと行きつ戻りつしていた十七歳の菊緒さんは、やがてそうしていることにさえ耐えられなくなったように窓辺に寄り掛かったのだ。
何処か心許なげな落ち着かない様子で窓辺に佇んだ十七歳の菊緒さんの上に、窓に叩きつける雨粒の影が落ちる。外気に冷やされた窓ガラスが、菊緒さんの吐息で白く曇った。
「忘れもしない、この日は十月二十一日。東京の明治神宮外苑で、出陣する学生さんたちの壮行会が開かれていましたの」
雨が降りしきる窓の外を遠い目で眺めている過去の自分自身を見つめながら、菊緒さんが話してくれる。
彼女が渡り廊下にいる理由は、離れには下宿している恋人の部屋があったから。
想いは通じ合っていても、当時の女性にしてみれば、主が不在の男の部屋に一人で入ることはできない。
現代とは違い、父親以外の家族が個人の部屋などというものを与えられることが無かった母屋では、ずっと母親と一緒に居間にいなければならない。
この時に菊緒さんが一人になれるとすれば、この渡り廊下しかなかったのだと。
「今日は清三さんの田舎の御両親も上京なさって、晴れ姿を見にいらっしゃっていたそうだから、母も私も行かなかったのだけれど……」
「菊緒さんの恋人さんは、清三さんっていうんだ?」
「ええ、そう。清三さん。松尾……清三さん」
懐かしい名を一文字一文字噛み締めるようにゆっくりと呟いた菊緒さんは、舌に乗せたその名を一度飲み込むように唇を閉じた後、ふと眉を下げて頬を赤らめる。
まるで恋する乙女そのままの姿を、可愛いと思った。
この時の菊緒さんは、恋人の晴れ姿を見に行きたくなかったのだろうか。
つい問い掛けようとした私は、すぐにその軽率さに気付き、慌てて奥歯を噛み締めた。
問われるまでもなく、行きたくないだろう。
学徒出陣なのだ。
愛しい人をこれから軍人として国に取り上げられてしまうための儀式。きっと私だったら口惜しくて淋しくて怖くてやりきれない。
この時の菊緒さんが、そんな重すぎる憂いを抱えていることは、窓の向こうを見詰める表情を見れば十分に分かるのに。
「壮行会の様子は、後で記録映画を見たのよ。清三さんがどこにいるかまでは、見つけられなかったけれど」
私の内心を慮ったように、菊緒さんが教えてくれた。
「映画?」
「ええ。兵隊さんに取られた学生さんたちはね、そうして民衆扇動に使われたの」
菊緒さんが見た記録映画によれば、その式典の様子はとても美しく勇壮で、まるで青々とした竹が幾千万と立ち並ぶような凛々しさだったらしい。
学生服に学帽を被った二十歳そこそこの青年たちが約七万人。
明治神宮外苑の競技場に整然と立ち並び、軍楽隊の奏でるマーチに合わせて行進し、大臣や首相の訓示を受け、軍歌を斉唱し、皇居まで列をなして歩いていく。
観客席で見ている彼らの家族は皆、息子たちが国を守る戦いに赴く軍人に選ばれた名誉を喜び、感涙に暮れて手を叩いたという。
「でもね」
菊緒さんは言った。
「あの中のどれだけの家族が、本当に喜びの涙を流していたことかしら。時代が時代だったから、中には本当に我が子の誉れを喜んだ親もいるかもしれない。でもその中の何人が、本当に死ぬ間際まで、その時流した喜びの涙を後悔しなかったかしら。――我が子を死出の旅に送り出す儀式に熱狂してしまった自分を憎まずにいられたことかしらね」
徴兵された学生たちは、軍神として持て囃されたらしい。
大切な祖国を守るため、その身を賭して戦いに行こうとする愛国の徒。
彼らが高々と旗を掲げて行進する勇ましい記録映像は、まるでスポーツの試合のように人々を熱狂させ、彼らに鼓舞された者たちが後に続けと軍に志願していったのだという。
まさしくハーメルンの笛吹きの物語のように。
一連の時代の流れを想像し、私は身震いがした。
平和な世界ならば爽やかな青空の下で、本当に様々な競技が正々堂々と行われ、観客が選手たちを称え、子供たちが彼らへの夢に酔い痴れるための場所で。
本来そのために用意されたはずの場所で。
戦争という異常事態だから仕方ないこととはいえ、前途ある若者たちが死に場所に送られるパレードが開催され、国の重鎮が死にゆくことを激励し、観客がスポーツ選手を称えるように死にゆく者たちを称え、子供たちはこれこそが夢と思い込まされた死への悪夢に酔い痴れる。
グロテスクだ。あまりにもグロテスクだ。
本心では彼らを強制的に戦争に行かせる国や軍へ、激しい憤りを抱えていた人々もいただろう。
しかしそういう考えを持つ人々を「非国民」として糾弾し、時には激しく弾圧する風潮が作り上げられてしまっている中で、声高に抵抗を示せる人がいるはずもない。
戦時中を扱ったドラマや映画では、そうした風潮の中でも勇気を持って異論を叫んだ人々が、軍に連行されて拷問されるシーンなどを何度も見た。きっとああいうことは現実にあったはずだ。
あれが完全なフィクションとは言えないだろうし、フィクションとして片付けてしまってはいけないとも思う。
政治的なことは私にはよく分からないが、生きている者の本能として、そう思う。
清三さんの家族も、息子の最後の姿を見るために上京し、拍手のうちに見送ったのだろうか。
どんな想いだったのだろう。
時代の流れに心まで呑まれて、晴れがましい想いだったのだろうか。
それとも周囲の同調圧力に悲しみを押し込められ、暴れ回る悲しみを胸の内に隠しながら、歓喜の形をした抵抗を叫んでいたのだろうか。
もし競技場を見下ろす木々や建物に心があるならば、彼らはその様子をどんな想いで見ていたのだろう。
その日に彼らの上に降りしきった雨は、おそらく天地万物の涙だったのではないだろうかと私は思った。
この世の全てのものが、すべからく悲しんでいたのではないだろうか。
戦争というあまりにも大きな人災。
なぜそうなってしまったのか誰にも分からないまま巻き起こってしまう、不慮の事故というには大きすぎる事故。
たった一部の人々の狂気から始まる、禍々しい運命の流れ。
それを止めることができない大いなるものが流した、悔恨と悲嘆の涙だったのではないだろうか。
「ねぇ弓美さん。あの人たちが軍神などであるものですか。学生さんたちは、死神に仕立て上げられてしまったんだわ」
菊緒さんの心は今や、私が知っている茫洋とした困ったお姫様でもなく、防空壕で見た老婦人でもなかった。
今まさに此処で窓辺に佇んでいる、十七歳の彼女の心だった。
この時の不安や憤りを抱えたまま九十五年を生きてきた女性の心を、ありのままに語っている。
思わず隣の菊緒さんの老いた背にそっと手を置き、背を擦った。
できることなら私は、窓辺に佇んで恋人を待つ十七歳の菊緒さんをも、強く強く抱き締めてあげたかった。
本心を残らず零させて、受け止めてあげたかった。
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