菊緒さんという人2
不意に、甘味処の店内を包み込んだ暗闇の中に閃光が走り、思わず顔を覆った。
掌の向こうが暗くなったのを瞼越しに感じてから、用心深く両手から顔を上げた時――そこは既に甘味処ではなく、石造りの狭い洞窟のような横穴の中だった。
周囲には沢山の人々が肩を寄せ合い、息を潜めて固まっている。酷く怯えている彼らの気配が、狭い空間に満ち満ちていた・
外が異常なほどに静かなくせに、少し遠い空から不穏なエンジン音と幾度も重い爆撃音がする。その直後に、地震のように地面が何度も震えた。
「……ッ!」
本能的な恐怖に身震いする。
ここにいる限り、少しは身の安全が守れそうな気がしなくもないが、反面こんなもので防げない災禍がすぐそこにあると分かる。しかし今その災禍を防ぐ術がこれしかないならば、藁にも縋る思いで信じるしかない。
それは、この横穴の中にいる人々全ての思いでもあるのだろう。不安や諦観が空気となって暗闇に溢れ、ひしひしと重苦しく頭の上から下りてくるようだ。
暗闇に慣れてきた目で見回してみれば、横穴の中で身を潜めている人たちは皆、大半が女性ばかりだった。女性は着物やセーラー服にモンペを穿き、まばらにいる男性は年配の老人と学校にも行っていないような小さな子供が殆どだった。昭和初期を扱ったドラマでよく見る光景だ。
皆、大きく見開いた目をきょろきょろとさせながら遠ざかっていくエンジン音を聞き、静かになってゆく外の様子に耳をそばだてている。
ここは、防空壕の中だった。
「この頃は、ほぼ毎日のようにあちこちで空襲があったのよ」
不意に話し掛けられ、驚いてそちらを見れば、私のすぐ隣に菊緒さんがいた。
「最初のうちは生きた心地もしなかったのだけれど、恐ろしいもので人間はそのうちに慣れてしまうの。ただ皆もう疲れ切って、本当に不毛な時代でしたわ」
物音ひとつしない防空壕の中で、話しているのは菊緒さんだけだ。
菊緒さんは正気だった。いつもの茫洋とした表情ではなく、まなざしにも声にも、しっかりとした力が満ちている。
私は既に心が迷子になってしまった菊緒さんしか知らないが、きっともう少しだけ若かった頃の彼女は、こんな感じの老婦人だったのだろう。
汚れた服を着た人々の中で、菊緒さんの着物と私の服は、そこだけ光が当たっているかのように異質にきれいだ。にもかかわらず、周囲の人々は誰も私たちに反応せず、異質な二人組がここにいることさえ見えていないように視線を向けてこない。
一体この状況は何なのだろう。
花月さんは何処へ行ったのだろう。
もしかすると私は、いつの間にかあの甘味処で眠ってしまって、夢でも見ているのだろうか。
だが決してこれが夢などではないということも、心の何処かで分かっている部分もあった。
確かここに来る前に、花月さんは言ったのだ。
――菊緒さんの心のわだかまりを、和合に還す風車が回り始めただけです。
あの時もう既に店内を包み込んでいく闇の中から、エンジン音と爆撃音が聞こえていた。
――菊緒さんが秘めてきた心を見てきてあげてください。
思えば私たちのために用意したというあの悲しい夜空のお菓子を食べた時から、むしろあの甘味処に入った時から、私も菊緒さんも不思議な世界に導かれていたのかもしれない。
「弓美さん、あれが十七歳の私。隣は母。父は若い頃に肺をやっていたから徴兵は免除されて、武器の製造工場に働きに行っていたの」
隣で菊緒さんが腕を伸ばして指差した先に、きつく髪を纏めた中年の女性と身を寄せ合っているおかっぱ頭の若い女性がいるのを見た時、私はそれを確信した。
いま私は、何か不思議な力によって、菊緒さんと一緒に彼女の記憶の中にいる。
娘時代の菊緒さんの姿は、あのお菓子を食べた時に一瞬だけ幻視したのだから。
「父は大学で法律を教えていましたの。私も本当なら高等女学校を卒業したら、教師の道に進みたかったのだけれど……」
「え、菊緒さん、先生になりたかったんですか?」
初めて聞いた。
驚いて問い返した私に、菊緒さんが頬を上気させて頷く。
「できれば、うちに下宿していた学生さんと一緒にね」
「下宿している学生さんがいらしたんですか? 書生さんとかいうやつ?」
それも初めて聞く。
「ええ、そうね。この頃にはもう書生という呼び方はしなかったけれど。五つ上の、学生さん」
菊緒さんがますます頬を染めて微笑した。
そうか。菊緒さん、その人が好きなんだ。
「彼氏さんだったんですね」
「彼氏……」
「恋人ってことですよ」
「まぁ! あら、まぁ!」
鈴が転がるような声で菊緒さんが照れて笑う。
もしかしてその人が御主人だった沢村勝文さんなんだろうか。そうだったらとても素敵だ。
相変わらず周囲の人々は、防空壕には不似合いな服を着て、場違いな会話をしている私たちの姿も声も、全く認識できていないらしい。
こんな話をするのは、命の不安を抱えている人たちの中で少しばかり不謹慎な気もしたが、今は花月さんが言った通り、菊緒さんがずっと秘めてきた心を見てあげたいと思う。
今まで知らなかった一面を知ることができて、これから施設で菊緒さんのお世話をする時にも、これまで以上に親しく優しくできそうな気がした。
たとえ現実に戻った時、このことを菊緒さんがすっかり忘れていたとしても。
「恋人さんは、この時どこに?」
「ああ、この時はね、鹿児島にいたの」
「鹿児島?」
「――学徒出陣」
それだけ言った菊緒さんの頬に、明らかなこわばりが走るのが分かった。
学徒出陣。
既に日本の敗戦が色濃くなっていた太平洋戦争末期に、大学生などが兵力を補充するために学業を半ばにして戦場へ駆り立てられたというのは、映画やドラマで見たことがある。
主に文科系の学生が、学校は休学の扱いのまま再び復学できるという希望だけを残して、死地に送り出されて行ったのだと。
けれどもしその恋人さんが御主人だったなら、彼は戦争が終わったら無事に帰ってくる。無事に帰って来て菊緒さんと二男一女の幸せな家庭を作るのだ。
できればそうであって欲しいと願いながらも、しかし決してそうではないのだろうことを、私は思い出していた。
――あんな優しい人を、私は死なせてしまったんです!
この夢の中に来る前、あの暗くなっていく甘味処で菊緒さんはそう言ったのだ。
学徒出陣。その言葉を言った後、とても苦いものを噛みしめたように黙ってしまった菊緒さんに、どんな言葉を掛けようか。
考えあぐねながらふと横顔を見た瞬間、防空壕の中を再び暗闇が包み込んだ。
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