菊緒さんという人

 最初に菓子切りを手にしたのは、菊緒さんだった。

 ただ静かに涙を流したまま、錦玉羹をひとかけら切り、口に運ぶ。

 咀嚼するように顎の線を動かしながら瞼を閉じて味わい、やがて飲み込んだらしく喉が動く。そのまま暫く瞑想のようにじっとしていた後、花月さんに頭を下げて、独り言のように呟いた。


「……とてもおいしゅうございますわ」

「それは良かった。何よりです」


 花月さんがそう言ったところで、私はティッシュを取り出し、菊緒さんに差し出そうとした。


「弓美さん、あなたも召し上がって」


 菊緒さんが自分の分をもうひとかけら切って、私に差し向けてくれる。


「あ……うん、有り難う、いただきます」


 同じお菓子が目の前にあるのだが、せっかくの御好意なので、私も素直にそれを頂くことにした。



 口の中に柔らかな風が吹き抜けていくような、涼やかな甘さだった。

 透き通る上層はゼラチンの柔らかすぎる食感ではなく、咀嚼すると少し硬さを残す寒天が星屑のように口の中に散らばる。残りを舌と上顎で押し潰すと、上層よりも柔らかくねっとりした中層から微かな生姜の風味がして、下層にある濾し餡の濃厚な甘さに包まれて喉の奥に消えていく。

 甘い物を食べたという満足感もありながら、さっぱりとした後味が後を引く。幾らでも食べられそうだ。

 そう言おうとした時。


 ほんの一瞬だが、視界の上に薄いフィルムが一枚重なるように、星空の下で顔を覆って泣いている女性が見えた気がした。

 女性というよりも十代の女の子だ。黒髪を全て同じ長さのおかっぱに切り揃え、ほっそりした身体に汚れた着物を着て、ボトムに膨らんだ黒いズボンを穿いている。

 着物にモンペ。おそらく、というよりも間違いなく、これは菊緒さんの若い頃なのだと分かる。

 なぜ分かるのか自分でも不思議だが――分かる。

 これが菊緒さんの悲しい夜の欠片なのだ。



「沢本菊緒さん。旧姓は筒井菊緒さん。ご出身は東京八王子。現在は九十八歳。五つ上の配偶者の勝文さんは十五年前に他界。二男一女の母。貴女は沢本家の良き妻であり、良き母でしたね」



 何処か私にも聞かせるように花月さんが述べる、菊緒さんの簡潔なプロフィール。

 菊緒さんは私があげたティッシュを握り締めて、時折瞼に当てながら頷いている。


 そうだったんだね、菊緒さん。

 その横顔に、私は声に出さずに語り掛けた。


 私が知っていたのは、現在の年齢と、御主人を亡くされていること、既に家庭を持っている息子さんたちと娘さんがいるということだけだ。

 もう少し踏み込んだ菊緒さんの背景をこうして言葉にされれば、彼女が単なる「入居者のおばあちゃん」というだけではなく、当たり前だがちゃんと子供の頃や若い頃があって、しっかりと一人の女性として生きてきた人であることを改めて認識させてくれた。


「ですが貴女は、ずっと――悪夢の中にいらしたんですか?」


 花月さんの問い掛けに、菊緒さんは顔を上げた。


「いいえ――いいえ、幸せな人生でしたわ。沢本は昔の男ですから寡黙で不器用でしたが優しい人でしたし、よく働いて私たちを養ってくれました。子供たちも五体満足で大人になってくれて、これ以上ないほどに私は幸せでしたのよ」


 穏やかだが一語一語がはっきりした声に、私は息を詰めて菊緒さんを見詰めた。

 今、菊緒さんの心は彼女の中に確かにある。

 菊緒さんはかつてないほどに正気だ。


「そう――そうですわ。幸せだったんです。あの人がそう願ってくれたから、いつでも私は幸せでいられたのだと思いますの。あの人が守ってくれていたから……」


 言葉を切った菊緒さんが、手の中のティッシュにもう一度顔を伏せた。小刻みに震える背が、堪えている感情の激しさを知らしめてくる。

「菊緒さ……」

 慰めるようにその背に手を当てようとした私を、視界の隅で花月さんが制止するように軽く手を挙げた。

 はっとして視線を移すと、先程までの柔和な印象とは違う、見据えるようなまなざしで私を見詰めている。

 思わず息を呑んで手を握り込み、菊緒さんの震える背中に視線を戻した。

 確かに、菊緒さんからこんなにも理路整然とした言葉を聞くのは初めてかもしれない。

 このままそっとして、彼女の背景を私も聞いてみたい。

 いつも私たち介護士を困らせてくれる困ったお姫様の心が、何を抱えているのか。

 決して下世話な好奇心ではなく、これからのためにも、その心の一番柔らかな部分を共有してあげたい。



 何処からか風車が廻るような音がする。空調機器だろうか。いや違う。

 カラカラと音を立てて回る風車だ。

 あの看板に描かれた卍の風車だろうか。

 何故そう思うのか分からないが、脳裏に色とりどりの風車が回る光景が浮かんでくる。

 風車の音に合わせるように、少しずつ少しずつ、辺りが暗くなっていく。

 何が起きているのか不安げだったのだろうか。微かに笑んでくれた花月さんが、しぃっと人差し指を唇に当てた。その唇が人差し指の後ろで「大丈夫」と象っている。


「心配ありません。菊緒さんの心のわだかまりを、和合に還す風車が回り始めただけです。……菊緒さんが秘めてきた心を、見てきてあげてください」


 少しずつ暗くなっていくほどに風車の音もまた遠ざかり、代わりに何処からか何かが爆発するような音とサイレンの音が近付いてくる。まるで古いラジオから聞こえてくるような音声だ。

 これは何が起きているのだろう。どうなっているのだろう。



「あんな優しい人を、私は死なせてしまったんです!」



 顔を上げた菊緒さんが力強く訴えた時、唇に人差し指を当てた花月さんの残像を残して、明かりが全て消えた。



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