弓美の記憶、菊緒さんの記憶

 テーブルでは既に店員の青年が戻ってきて、菊緒さんを宥めていてくれていた。

 二人分のお菓子の乗った黒い盆を傍らの白木のカウンターの上に置き、菊緒さんの脇に控えて、わざわざ同じ目線に屈んで、優しく何かを語り掛けている。

 中途半端に膝を折った姿勢は、背が高い分だけ苦しいだろうに。優しい人だ。

 何処か悲しそうな表情でそれに受け答えしていた菊緒さんは、戻ってきた私を目にした途端に満面の笑みになり、また隣の席をぽんぽんと叩く。

 青年も私に気付くと、ああ、という風情で微笑し、姿勢を正して会釈した。


「お電話でしたか」

「はい。菊緒さんが外出許可を取ってきたと言うんですけど、施設にも一応ちゃんと連絡しておかないと……と思いまして。でも――」

「――でも?」

「誰も出なかったんです。まぁ、この時間は夕食の準備もありますし、忙しい時間帯でもあるんですが、あんなに誰も出ないというのは妙な気がして。何かあった訳じゃないといいなと、少し心配になって」

「それなら問題ありませんよ」

「え?」


 こともなげに言う青年に尋ね返すと、彼はもう一度「問題ありません」と繰り返した。


「ご心配になられるのは分かりますが、施設は何事もありません。誰も出られないのは、そういう理由ではないですから」

「……どういうことですか?」


 そういう理由ではないというのは、どういう意味だろう。

 なぜそんなにはっきりと施設が何事もないと断言できるのだろう。奇妙に断言する青年に、そんな疑問は幾つか湧いたが。

 しかし一方で、確かに言われてみれば、存外それは大したことではないような気がした。

 今は一番忙しい時間帯だ。ちょうど誰も手が離せなくて、電話を取ることができないタイミングもあるだろう。

 留守電は入れておいたのだし、もし何かあるならスマホに連絡が入るはずだ。

 畑で祖母が一人ぼっちで倒れて亡くなって以来、私はどうしても目の届かない所を過剰に心配してしまうことがある。


「……きっと、そのことで貴女はここに導かれたんですね。広崎弓美さん」


 目を細めて此方を見る青年に、ふと心を読まれているような錯覚がした。

 まさか。そんなことができる人間がいる訳がない。いや、存外いるのかもしれないけれど。

 何か引っ掛かる。先程の看板の謎に繋がっている気がするのだが。


「あの、外の看板に……」

「さて。まずはどうぞお席で何か召し上がりませんか。そのお話も、順を追って致しますとも」


 問い掛けようとした私の言葉に被せるようにして、くるりとテーブルを回り込んだ青年が、私の椅子を引いてくれた。

 彼のなめらかな動きは舞のようだ。動く度に、ふわりと甘い和菓子のような匂いがする。


「どうぞ?」

「ああ……じゃあ、少しだけ」


 再度促され、引かれた椅子に深く座らせてもらう。途端、それを見ていた菊緒さんがうきうきした感情を隠しもせず、嬉しそうに微笑を向けてくれた。

 どうやら私は思った以上に、菊緒さんに好かれているのかもしれない。

 悪い気はしなかった。それ以上に、菊緒さんがこんなに嬉しそうにしていることが嬉しい。

 正直なところ菊緒さんだけでなく、いつも施設の部屋に閉じ込められている入居者さんたちにとって、たまにはこうした気分転換も必要な気はしていたのだ。

 あまり長居はできないが、どうせ来てしまったのだし。菊緒さんとのご迷惑を掛けたお詫びに、せめて一緒にお茶でもしていこう。

 

 

「改めまして、今宵はようこそお越しくださいました。店主の神楽木花月と申します」


 青年が菊緒さんと私に順に会釈しつつ、私たちの目の前に手際よくお菓子とお茶を並べていく。

「やだ、オーナーさんだったんですか? あの、暖簾の名前の! そんなにお若いのにこんな立派なお店のオーナーさん!」


 つい驚きのまま言葉にしてしまった。

 花月さんがその名の通り、花が綻ぶような笑みを深めた。

 接客の丁寧さと落ち着いた物腰はベテランの域だと思っていたが、どう見ても二十代前半ほどの姿のせいで、今の今まで非常に仕事のできる若手の従業員かアルバイトだと信じ込んでいたのだ。


「あら、花月さんは全然お若くないのよ。割とお年を召していらっしゃるの」

「え、え、ちょ、なんてことを、すみません、そんなことありませんよね? ね?」


 自分の方がおばあちゃんのくせにサラリと失礼なことを言った菊緒さんと、それを取り繕おうとした私に、花月さんは快活に声を上げて笑った。


「いいんです。仰る通り、これで実は結構な爺なんですよ」


 気にしたふうもなく茶化しながら、お菓子を用意し終えた花月さんは向かいの席に座る。

 今しがたの笑い声もその姿も私より年下の若者にしか見えないのに、アンチエイジングの神秘だ。実際の年齢は知らないが、後で若さの秘訣も聞いてみたい。


「さてどうぞお召し上がりください。美味しいうちに」


 勧められて、目の前の和菓子のセットを見た。


 黒い漆塗りの菓子皿には、同じ黒い漆塗りのつるりとした半球型のカバーが被せられている。半球の頂点には、金箔に覆われた三日月を模した取っ手がある。とてもお洒落だ。

 その隣に並べられた抹茶碗は、目が醒めるほど深い瑠璃色だった。底にいくほど色濃くなり、泡立つ抹茶の深緑と黒に近い濃紺のコントラストが美しい。


 菊緒さんが私を窺うように此方を見ている。私も視線を合わせ、別にそうしなくてもいいはずなのだが、なんとなく軽くアイコンタクトを交わして頷き合い、一緒に菓子皿のカバーを開けた。

 カバーの中から現れたそのお菓子を見た瞬間。



――いい加減にしてよ、私には私の世界があるの!



 鞭を打ち付けるような鋭い声が耳の奥を走り抜け、思わず息を呑んだ。

 これは――高校時代の私自身の声だ。

 声と同時に、あの頃のどうしようもない、自分では抑えきれない迸るような苛立ちと熱情までもが、身体の中心を走り抜けて行ったような気がする。


 黒塗りの皿に乗っていたお菓子は、羊羹のように長方形に切られた、サファイアのような紺碧に透き通る錦玉羹だった。

 色ガラスと言われても疑うべくもないほど澄んだサファイアブルーの上面には、非常に細やかな金箔が星のように散らされ、内部には小さな弓張月が浮かんでいる。

 下面に向かって青が濃くなり、底の方は土色の水羊羹だ。

 これは、この景色は。

 私がずっと自罰的に思い描いていた、祖母が死んだ夜の景色だ。

 私の中に何度も浮かぶあの景色を、そのまま固めたようなお菓子だった。

 おばあちゃん。

 思わず口の中でそう呼び掛けそうになった時。


「あ……あああ……あああ……」


 隣の席で菊緒さんの取り乱す声が聞こえた。見ると、私と同じようにお菓子を見詰めながら泣いている。


「菊緒さん……」


 つい呼び掛けた私の声も耳に入らない様子で、頬いっぱいを濡らす涙を拭いもせずに、ひたすらにお菓子に見入って泣いている。

 彼女もまた、こんな紺碧の夜に苦しい思い出があるのだろうか。


 そうえいば私は、菊緒さんの人生を何も知らない。

 ほぼ一世紀弱を頑張って生きている菊緒さん。

 今は時々心が遊びに行ってしまうせいで、困ったお姫様として私の中で一種のキャラクター化しているが、彼女は人として長い時間を生きてきた先輩なのだ。それはもう苦しみや悲しみや後悔など、沢山抱えているのだろう。無い訳がない。

 介護をしていると、時々そういうことを忘れてしまう。むしろ忘れていないと、人間の老いというものや自分の行く先をどうしても見せられている気になり、日々の仕事が務まらないのだ。


「……ね。すごいね、菊緒さん、綺麗なお菓子だね。感動したね」


 だから私はあえてそこには気付かないふりをした。

 慰めるように菊緒さんの背を撫でた途端、その年老いた背中の感触に祖母を思い出し、駄目だと思う間もなく私の目の裏までが熱くなってしまった。

 咄嗟に瞬きをして天井を見上げた。

 菊緒さんの前で、介護士の私が感情を見せる訳にはいかない。そんな姿を見せたら、きっと不安にさせてしまう。



「悲しい夜のお菓子ですが、美しい夜でもありますから」


 花月さんの声に、深い憐憫が滲んでいる。

 見れば彼は、まるで我がことのように沈痛な面持ちをしていた。


「ですからその夜をどうぞ、召し上がってください。お二方のためのお菓子です」



 向かいの席に背を伸ばして座っている彼を見て、ふと疑問がわいた。

 この人は、私たちが悲しい夜を秘めているということを、なぜ知っているのだろう。どこまで知っているのだろう。

 菊緒さんとは気心知れた知り合いであるようだから、何か知っていたとしても不思議ではない。だが私はまだ彼に何も話していない。

 にもかかわらず、先程からずっと、花月さんは何かを知っている風情だった。

 加えて表で見たあの看板。

 見た目よりもずっと年を取っているという彼は、一体何者なのだろう。


「僕は、ただの甘味処店主です。今日は菊緒さんに御相談を受けて、このお菓子を作ったんです」


 そんな私の内心を読んだかのように、花月さんが微笑んで言った。


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