奇妙な電話
「ねぇ、弓美さん。ねぇ弓美さん」
厨房へ向けて声を掛けた私を、菊緒さんが呼ぶ。そちらを見れば、菊緒さんは嬉しそうに頬を上気させて微笑しながら、自分の隣の席をぽんぽんと叩いていた。
「弓美さん、大丈夫よ。先程は驚いて言えなかったのだけれど、わたくし、ちゃんと許可は取って参りましたの」
存外はっきりとした口調だ。いつも茫洋と夢を見ているような瞳も、しっかりと焦点を結んでいる。こんな表情で話をする菊緒さんは随分と久し振りだった。
「え、本当ですか?」
「そうよ。わたくし、ちゃんと皆様に言って出て参りましたの。だから大丈夫よ」
果たして本当なのだろうか。
年上の女性らしく私を諭すように言いながら、菊緒さんは少女のように隣の席をぽんぽんと叩き続けている。行動は少し夢の中だが、思えばこんなふうに寸分の乱れもなくきっちりと着物を着て、今宵の彼女は正気八割といったところなのかもしれない。
「オーケー。分かりました」
こういう時は、ともかく言われたとおりにする方がいい。
隣の席に座った私に、菊緒さんは嬉しそうに肩を竦めてウフフと笑った。
「菊緒さんは、このお店、前にも来てるんですか?」
菊緒さんに分かりやすいように簡単な言葉で問い掛けてみたが、菊緒さんは何も答えずに嬉しそうに笑っている。そして小さな女の子が仲のいい友達によくそうするように、少しだけ私の方に席を詰めるように身を寄せて、また笑った。
私と一緒にこうして座るのが嬉しくて堪らないといった風情だ。可愛い。
しかし問い掛けに答えてくれないということは、やはり正気度は低いのだろう。
「ごめんなさい、菊緒さん。私ちょっとお電話してくるから、少しここで待っててね」
膝に置いた荷物からスマホを取り出す。
申し訳ないが、本当に許可を取っているかどうか施設に電話して確認せねばならない。
もし取っていなかった場合は、菊緒さんの脱走を報告することになってしまうが、それももう致し方ないだろう。他の職員たちに小言など言われないように、私が時間外労働として気分転換に散歩に連れて行っていたとか適当に嘘をついて庇ってあげよう。
電話をしてくるという私に、菊緒さんは少し不満げな表情だ。
「すぐ戻ってくるからね」
言い置いてスマホを持って立ち上がったところで、この店の内装の豪華さに漸く気付いた。
ゴミ一つ落ちていないどころか傷一つない黒御影石の床。
大きな白木のカウンターや、天然石で土を隠した生竹の飾り。
ここに来た時も感じた爽やかなグリーンノートの良い匂いもあいまって、空間全体がキラキラと光を放っているようだ。
出入口の白木の戸を少しくぐって見てみると、大きな店構えに掛けられた白い暖簾に書かれている「花月」の字が裏側から透けて見えた。生地のことはよく分からないが、シースルーの素材が小粋だ。
振り返ってみれば、白木の格子戸の上に、古びた大きな一枚板の看板の字が見えた。
「不思議ごと 卍 万事相談承り処」
はて、面妖だ。
真ん中にあるものが卍(まんじ)の字なのか、風車の絵なのかよく分からない。
不思議ごとを相談承るというのは分かるが、果たしてその不思議ごとというのも謎だ。
どういうことだろう。ここは甘味処ではないのだろうか。
いや、それよりも電話をしなくては。
電話帳から施設の名前を押し、電話を掛ける。コールはすぐ繋がったが、呼び出し音が長い。
まだ午後六時を少し過ぎた夕方だ。普段ならコール二回ほどで誰かが応答するはずなのに、全員が介助に出ているのだろうか。
呼び出し音が留守電に切り替わる。受付にさえ人がいないということだ。
「――あ、お疲れ様です。広崎です。入居者さんの沢本菊緒さんなんですけど、私とちょっと気分転換にお散歩に出ています。少ししたら、ちゃんと責任持ってお部屋まで送り届けますので、ご安心ください。何かあったら私の携帯に連絡してください」
メッセージを吹き込んで電話を切る。一応はこれで大丈夫とは思うものの、こんなに誰も電話に出ないのは奇妙だ。施設で何か起きているのだろうか。まさか。
「弓美さぁん! 弓美さぁん!」
その途端に、まるでそれを待っていたように、店内から菊緒さんが非常に大きな声で私を呼び始めた。
駄目だ。続けさせていたら騒音になってしまう。
「はいはい! ちょっと待ってね、いま行きます!」
スマホを切って、慌てて店に戻る。
奇妙な施設の電話になんとなく感じた違和感は、しかし店の扉をくぐった途端にふわりと和らいでしまった。
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