菊緒さんと甘味処


 幽霊の正体見たり。

(噂のお化けの正体は菊緒さんだったのか……)

 その後の顛末を考えると、少し可哀想だった気もする。

 結局あれから、吉田さんが一人でコールを鳴らした入居者さんたちのお世話をした。

 私は菊緒さんの顔を丁寧に拭いてあげて、彼女がパジャマの上から巻き付けていたシーツを取り上げてベッドに敷き直し、宥めて寝かせる運びとなったのだが。

 無駄に仕事を増やされた吉田さんから当社比こっぴどくお説教されて、菊緒さんは魔法が解けたシンデレラのようにしゅんとしてしまった。

 しかし考えてみれば、菊緒さんは別に幽霊の真似をして私たちを驚かせて遊んでいた訳ではないのだ。

 彼女は彼女なりに切実な思いで、何処かへ出掛けようとしていたのだろうから。

 重労働だったろうにベッドから引き剥がしたシーツをドレスのように身体に巻いて、あんなに熱心にお化粧をして、心が乙女に戻った菊緒さんは何処へ出掛けて行きたかったのだろう。

 王子様の待つ舞踏会にでも行きたかったのだろうか。

 施設は入居者さんの脱走や徘徊対策のために、お年寄りが行ける場所と行けない場所を区切り、出入口には鍵を掛けてしっかりと封鎖している。

 だから実際に菊緒さんが何処かへ出掛けていくことはできないのだとしても。


「――え?」


 そう考えた時、皮肉なものを見た。

 車道を挟んだ向かいの街道沿いの道を、菊緒さんがしずしずと歩いている。

 さすがにシーツは巻いてはいなかったが、パジャマでもない。普段の部屋着でもない。銀鼠の単の着物に芥子色の帯をきっちり締めて、見たこともないほどしっかりとした足取りで歩いていく。

 何度見ても間違いない、菊緒さんだ。

「え、うそでしょ、菊緒さん!? 待って、何処へ行くの!?」

 確かさっきまで部屋でおとなしく寝ていたはずなのに。


 どういうこと? 脱走?

 ご家族が連れ出した可能性も頭をよぎったが、それにしては周囲に車も付添人も見当たらない。やはり脱走だろうか。

 いつの間に?

 どうやって?

 

 一瞬のうちに頭の中が疑問符でいっぱいになる。

 あの幽霊騒動が終わって、菊緒さんもここ数日はおとなしかったのに。

 誰かが鍵を閉め忘れたのだろうか。それにしてもまだ施設には職員も沢山いるし、これから夜勤の人たちも出社してきていたのだから、誰かが見つけて阻止することもできただろうに。

 どうして誰にも気付かれずに出て来られたのだろう。しかもあんなお洒落をして。

 いやそれよりも、これは職員のあるまじき失態だ。

 もし入居者さんに何かあれば、私たち全員の責任になる。施設の信用も地に落ちてしまう。

 いやそれよりも、心が迷子の菊緒さんに何かあったら。事故にでも遭って怪我でもしたら――。


「菊緒さぁん!」

 呼び掛けてみたが、耳が遠い菊緒さんは私の声が聞こえないらしい。

 車道を行き交う車が通り過ぎる度に菊緒さんの姿をチラチラと隠し、その間にどんどん歩みを進めて行ってしまう。

 やがて菊緒さんは、大きな白い暖簾が翻る立派な店構えの甘味処らしき店に、吸い込まれるように入っていってしまった。

「ちょっと待ってぇ!」

 行き交う車の流れがなかなか途切れない。

 漸く左右から車が来なくなったことを確認して、向かいの道へと走った私は、まるで置いて行かれた小間使いのように菊緒さんの後を一直線に追い掛けた。


 まったく菊緒さんは困ったお姫様だ。

 


 菊緒さんが入っていった店先に翻る大きな白い暖簾には、見事な達筆で「花月」と書かれている。やはり甘味処だろう。

 迷わずそこへ飛び込み、涼しげな白木の格子戸を勢いよく開けた途端、森のような爽やかな風がふわりと溢れ出してきた。


「あのあの、すみません、ここにうちの入居者さんが……」


 扉を後ろ手に閉めながら店の中に足を踏み入れた時、既に菊緒さんは奥のテーブル席に座り、傍らに立つ従業員らしき黒い和服の青年と楽しげに談笑していた。

 慌てて飛び込んできた私を、話を止めた二人が特に驚いたふうもなく見る。


「……あら、弓美さんじゃありませんの。どうなすったの?」


 菊緒さんが目を丸くする。


「き、菊緒さん!? 駄目じゃないですか、一人で出歩いたりしちゃ!」


 その呑気な反応に若干の苛立ちを覚え、つい語調が勢いづいてしまった。


「どうやって出てきたんですか? 無事だったから良かったようなものの、何かあったらどうするつもりだったんですか? 職員もみんな心配しますし、ご家族だって悲しまれますよ!」

 

 そうなることが起こらなくて良かった。転んだりして怪我などせず、車通りの中を事故にも遭わず、誘拐もされず、無事にお店に座っていてくれて本当に良かった。

 だがそんな気持ちは、心配して焦った分だけ強い語気に変わってしまう。


「……あら……あら、まぁ……」


 その勢いに押されたように、菊緒さんは戸惑うように視線を彷徨わせて言葉を失った後、しゅんと黙り込んでしまった。


「まぁまぁ、何事も無かったんですからいいじゃないですか。今日ぐらいは大目に見て差し上げても。せっかくの初夏の宵ですし。――菊緒さん、貴女も幸せ者ですね。こんなふうに真剣に心配してくださる方がいらっしゃるんですから。そうでしょう?」


 従業員らしい青年が見兼ねたのか、大仰に両手を広げて明るい声で仲裁に入ってくれようとする。

 少し芝居がかったその仕草と語調に、熱くなった胸の苛立ちに水を注がれたような気がした。


 確かに、いきなり頭ごなしに感情をぶつけてしまったのは菊緒さんのような人には悪手だったし、ここは施設には無関係な飲食店だ。

 店の中には私たちの他に誰もいないものの、部外者であるこの青年には迷惑な話だろう。

 我に返った私は、いたたまれない思いで青年と菊緒さんを交互に見遣り、菊緒さんに両手を合わせてごめんねのポーズをした後、青年に深々と頭を下げた。


「お騒がせして申し訳ありません。私、そこの介護施設の職員で、こちらは入居者さんなんです。つい心配で。もし菊緒さんが何か注文しちゃっていたらキャンセルでお願いできますか? とりあえずこの方を一刻も早くお部屋にお連れしないとならなくて。もう厨房の方でお菓子とかご用意できていたら、代金はお支払い致しますので」


 ここでお茶を飲みたかったのだろう菊緒さんには可哀想だが、まずは急いで施設に連れて帰らなければならない。

 職員の誰かが菊緒さんの不在に気付いて、脱走事件として大騒ぎになる前に。


「ええ、存じておりますよ。広崎弓美さん。貴女は入居者さん一人一人にとても誠実に、真剣に向き合っていらっしゃるんですね」

「はい?」


 名乗った覚えもない名をいきなり初見の青年に呼ばれ、驚いで頭を上げた途端、思わず息を呑んでしまった。

 菊緒さんのことで頭がいっぱいで気付かなかったが、すごく綺麗な人だ。

 赤い襦袢に重ねた黒い和服の取り合わせなど、普通は多少の外連味が出るはずなのに、彼の場合は洒落た気品が漂う。

 きれいにカラーリングしているのか、ピンクがかったベージュ色をした長い巻き毛も、不自然な派手さは全く感じさせず、まるで桜の精のように可愛らしい。

 大人びて見えるのは、落ち着いた声でゆっくりと話すせいだろうか、


「え、あ、はい……」


 なぜこの美青年が私の名前を知っているのか一瞬不思議に思ったが、きっと菊緒さんが話したのだろう。

 どうやら彼は菊緒さんを良く知っている雰囲気だし、菊緒さんは何度かこの店に来たことがあるのだろうか。家族に連れられて施設に入居して数年、殆ど外出などしたことも無かったはずなのに。或いは彼は、菊緒さんの親戚か何かなのだろうか。


「さて今宵はお客様が二人、良いですねぇ、お二方にちょうどいいお菓子があるんです。堅いことは仰らず、どうぞお掛けになり一緒にお茶でも。いま持って参りますので――少々お待ちを」

「ご迷惑おかけしまして、ほんとすみませんでし……ええ!?」


 とりあえず急いで菊緒さんを連れて帰った後は、着替えさせて寝かせて――などと連れ戻した後の手順を考えながらもう一度頭を下げたところで、やっと青年の言葉が脳に到達し、弾かれたように頭を上げた。

 歌うような抑揚で勝手に言い置いた青年は、既に厨房らしき奥へ向かって行ってしまっている。


「違う、ちょっと、店員さん、分かって頂けてなかったかな、私たち帰りますので! 大丈夫です、お菓子、大丈夫でぇす!」

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