星空

第二章 星空の錦玉羹



 まったく菊緒さんは困ったお姫様だ。


 爽やかな風の中に僅かに温さを感じる夜の空気に、初夏という季節を感じられる帰り道、肩を竦めながら思った。


 既に齢九十八になる菊緒さんは、心が迷子になってしまっている。


 私が働く職場は、そういったお年寄りを御家族に代わって亡くなるまでお世話する施設で、菊緒さんはそこの古株入居者さんの一人だ。


 沢本菊緒さん。

 若い頃は相当な美人だったのだろう名残りが僅かに残るお顔、若々しく鈴が転がるような声で話す言葉はとてもきれいで、普段はおとなしくテレビを見ているか折り紙などで遊んでいるばかりの、とても可愛らしいおばあちゃんなのだが。

 既に彼女の肉体から自由になりつつある心が、時々かなり遠くまで遊びに行ってしまうことがある。

 施設の特徴的に、困りごとには事欠かない職場ではあるものの、先日は本当に参ってしまった。





「最近お化けが出るって噂なんだけど、弓美ちゃん知ってる?」


 夜勤の休憩時間にこっそりと持ち掛けてきたのは先輩の吉田さんだった。


「三階の階段の踊り場にね、出るって言うのよ。だから近頃みんな怖がっちゃって夜勤を嫌がるのよね。あ、この話は入居者さんたちには内緒よ。騒ぎ出す人がいると困るから」


 私たち介護職員が大変なことの一つは、入居者さんたちの夜中のお手洗い事情だ。

 できれば夜は静かに眠っていてくれると有り難いのだが、お年寄りは総じて夜間頻尿で、しかも殆どの入居者さんは職員の手を借りないとトイレに行くのも難しい。

 職員の手を借りなくとも済むような元気な入居者さんでも、お年寄りは転倒リスクが一大事なので、私たちは影のように寄り添い、従者のようにお世話をする必要があった。

 しかも心が茫洋としてしまっているお年寄りの中には、子供のように暗がりを怖がる方もいる。

 そんな所へ怪談など耳に入れてしまったら、ほんの少しの物音にも過敏になり――後はもう、どんな騒ぎになるか想像するだけでもげんなりしてしまう。


「ああ……そうですね。分かりました。特に菊緒さんとか、めっちゃ怖がりそうですもんね」

「あら冷静。弓美ちゃん、お化けとか平気なタイプだった? なんだ最近の若い子はつまんなーい」

 あっさりと受け入れた私に、面白く無さげに吉田さんが唇を尖らせながらお茶を啜る。

「別に若くないですよ、もう三十ですもん。吉田さんと十ぐらいしか違わないのに」

 笑いながら私もお茶を飲み、古びた天井を見上げた。

「それに、お化けだって元はと言えば人間じゃないですか。此処に出るお化けだったら、きっと昔この施設にいた入居者さんだと思いますし」

 

 この終末介護施設は、お年寄りの終の棲家だ。創立以来ここで最期を迎えた入居者さんも沢山いるだろう。

 きっとそんな中には、何か未練や気掛かりを残して亡くなった方もいて、強く残った想いを訴えるように姿を現す人がいても不思議ではないと思う。


「やぁねえ、だから怖いんじゃない」

 吉田さんが心底不気味そうに肩を竦めた。

「昔ここにいた入居者さんなら、例えば何か介護士に恨みを持って出てきているのかもしれないでしょ。ほら、ニュースでよくあるような事件じゃなくてもさ、昔どんな人が働いてたか知れないし、もしかしたら逆恨みってこともあるかもだし。そうじゃなくても何かほら、取り憑かれたりとか?」

「うーん、そうですかね? 私はむしろ最初から人間じゃない妖怪とか異形の方が話が通じなさそうで怖いですけど」

「ちょっとやめて、どっちも怖いわよ! ああこの話もう終わり終わり!」

 お茶のおかわりを淹れに行った吉田さんの背中を見るともなしに眺めながら、その光景を想像してみた。



 真夜中の階段にぼんやり浮かぶ、恨めしげなお年寄りの幽霊。

 それは女性だろうか、男性だろうか。どっちでもいい。

 物言いたげに佇む姿を想像をして、もしどうしても誰かに何か伝えたいことがあるのなら尚更に、どんな話でも聞いてあげたいと思った。

 なぜなら私の祖母は――大好きだった私の祖母は、一人ぼっちで畑で倒れて亡くなったまま、誰にも気づかれずに一晩放置されていたのだから。

 最期の瞬間を誰にも看取られず、誰とも言葉を交わすこともなく。

 虫の声があちこちに響き渡る星空の下、夜露にぐっしょりと濡らされながら寒い土の上で硬くなっていく祖母の姿を、私はどれだけ想像してきただろう。

 自罰的な思いで、どれだけ想像してきただろう。

 私がこの職業を選んだのも、贖罪の意識からだった。



「……ところで前から言おうと思っていたんだけど、弓美ちゃんさ」

 小さな深呼吸の気配の後、吉田さんが言い難そうに声音をくぐもらせた。

 吉田さんがこんなふうに切り出す時は、決まって小言だ。


「はい」

 勤務態度は気を付けているが、何か不手際があっただろうか。私は若干姿勢を正した。

 ポットからお湯を注ぎながら、吉田さんは此方に背中を向けながら続ける。


「私はあなたより少しこの仕事長いから、おばさんのお節介だと思って聞いて欲しいんだけど」

「はい」

「――入居者さんたちに感情移入しすぎ」


 吉田さんの言葉が胸の中央に真っ直ぐ刺さった気がして、思わず「おう」とも「うぐ」とも付かない変な声が出た。


「ごめんごめん、別にそれが悪いって言ってる訳じゃないの。弓美ちゃんの仕事の丁寧さと一生懸命さは偉いと思う。でも一生懸命過ぎるっていうのかな。入居者さんたちに対して、まるで家族みたいに親身になりすぎるんだよね。もう少し心理的に距離を置かないと、後々に苦しい想いをするのは弓美ちゃんなんだよ」

「……はい」

 自分でも驚くほど深刻な声が出た。吉田さんも驚いたようにこちらを振り向く。

「あっ、違うの違うの、それが悪いって言ってる訳じゃないの。いやほんと、よくやってるよ弓美ちゃんは。ただ結構いるのよ、自分のおじいちゃんおばあちゃんにしてあげられなかった孝行をしてあげたいって介護の世界入って来て、後で息切れして辞めて行っちゃう子。冷たいようだけど結局ほら、他人は他人だからさ」

「あ、大丈夫です。仰ってることは分かります。心配してくださって有り難うございます」

 慌てて取り繕うように笑みを浮かべた顔の下で両手を振って見せると、吉田さんも場を取り繕うような曖昧な微笑を浮かべた。


 ――おばあちゃん。


 畑に倒れている姿に呼び掛けた途端、胸の奥に重苦しさが込み上げて、努めて深呼吸をする。

「はぁ、やれやれ。最近腰が痛くってやぁね」

 少しだけ深刻になった空気を変えようとするように、吉田さんが脈絡ないことを言いながら私の分までお茶を持ってきてくれた時である。

 不意に複数のコールが鳴り響いた。

「ハイハイ、トイレの御所望だわね。弓美ちゃん、行くわよ」

「はーい」

 吉田さんに促され、私は心を現実に引き戻すように勢いを付けて立ち上がった。

 休憩時間も何もあったものじゃないが、翌日の休みを励みに、吉田さんと私は事務室を出る。



 だが。

 目の前に広がる長く暗い廊下を見た瞬間に、私たちは気付いた。

 コールの部屋に行くには、例の三階の階段の踊り場を通らなければならないことに。



「ああもう参っちゃうわよねぇ。ほんと休憩も何もあったもんじゃないんだからぁ」

 暗い廊下を歩きながらわざとらしく愚痴る吉田さんの声が上ずっている。

 上ずっている理由は分かるが、それを指摘するほど私は馬鹿じゃなかった。

 吉田さんも私も、闇の中を自然と早足になっているのも自覚している。

 だがこれは介助を待っている入居者さんたちのためであり、他意は無い。他意は無いとも。

 スタスタと鳴る二人分の足音の合間に、自分の鼓動が大きくなってきたことを自覚せざるを得ない。


「もうほんとにさ、佐藤のおじいちゃんとか重いじゃない? この間なんかさ――」


 無理にでも明るい声で話を続けようとする吉田さんの無言の怯えが、私にも伝染してきたのだろうか。

 それとも人間は、暗闇というものに本能的に恐怖を感じるせいだろうか。

 先程は我ながら鷹揚にも「幽霊の話を聞いてあげたい」などと思ったばかりにも関わらず、背筋から首筋、頬までが、ぞわぞわと冷えていくのが分かる。

 お化けよ、頼みがある。

 何者かは知らないが私たちは仕事があるんだ。

 今は勘弁して三階まで通してくれ。

 出ないでくれ。出るな。

 取り留めない吉田さんの声を聞きながら、なるべく足元しか見ないようにして、三階に至る階段を昇ったその時である。



 ゆらり。

 目の前に躍り出るように現れた、全身真っ白の女。



「ぎょえええええええええ!」

 女性とは――と考えずにはおれない潰れた悲鳴を上げた私たちの前に、ゆらりと躍り出た影は。


「あらまぁ、御機嫌よう」


 白いシーツを巻き付けて、ファンデーションで顔を真っ白に塗りたくった菊緒さんだったのだ。




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