第16話 桜咲く
◇
「あっ、ここ! やっぱり絶対この辺だ!」
目抜き通りの深川不動堂の参道近く。
何度か知っている道を行きつ戻りつしながら、間違いなくここだ、ここしかないという一角を見つけ、私は彼の隣をすり抜けて小走りに走り出した。
やっと見つけた。
お礼が言いたい。遅くなってしまってすみませんと言いたい。
そして隆宏を紹介したい。
彼と婚約して、それから私が向き合ってきたことを、きちんと報告したい。
「あれ……?」
逸る心に反して、ふと立ち並ぶ店の並びに違和感を覚えて立ち止まる。
あの時に見た白い大きな絽の暖簾。それがない。
もしかすると今日は定休日なのだろうか。
だがそれにしては、あの大きな構えの店舗が見つからない。
「おかしいな……?」
「どうした?」
立ち竦んだ私の元へ、彼が追い付いてくる。
「うーん、なんか変なの。絶対この並びなんだけど、どこにも無いの」
「また間違えてるんじゃね?」
「ううん、絶対ここだよ」
そう言った時に――気付いた。
今、私が立って向き合っているその場所こそが、確かに花月さんの店があった場所だったと。
両隣の瀬戸物屋さんとお茶屋さんの店舗に挟まれた、細く小さな五ミリほどの隙間。
その場所をもっと大きく引き伸ばして広げてみれば、まさしくあの時に私が見た、花月さんの店があった光景になると。
脚が震えた。
あの瀟洒な店は、確かにここにあったのだ。
この店と店の間の、ほんの五ミリほどの隙間に。
不思議な店主が営む、煌めくような和モダンの店が。
一体あの真っ白い絽の暖簾はどこへ消えたのだろう。
大きな構えの白木の扉。
見事な一枚板の看板。
夜空を敷き詰めたような床も、黒檀のテーブル席も、水晶を敷き詰めた生竹も。
確かに存在していたのに、何処に消えてしまったのだろう。
狐につままれたような気分とは、こういう感じなのだろうか。
だが一方で、不思議なほど深く納得してしまっている部分も否めなかった。
神楽木花月さん。
綺麗な容姿と、掴みどころのない変な性格。
過去も未来も理解していそうな聡慧さを思い出す。
人の心を読み、時空を越えて、花弁になって消えてしまう人。
そんな彼が営む甘味処は、きっと忙しいのだ。
もしかしたら今頃は、どこか全然知らない街の片隅に、或いは外国に、もしかしたら時代を超えた場所にさえ、あの真っ白な絽の暖簾が翻っているのかもしれない。
そして私と同じように、不思議ごとに悩む誰かが、花月さんの元へ導かれているのかもしれない。
花月さんはその人を出迎えて、にっこり笑って言うのだろう。
『いらっしゃいませ。店主の神楽木花月です』
だとしたら、それはそれで素敵なことではないか。
私があの店に導かれた理由は分からないけれど、きっととても稀有な幸運だったのだと思う。
「やっぱり茉莉枝が間違って覚えてると思うよ。もうちょい探してみるか。ホームページが引っ掛からなくても、SNSぐらいあるんじゃないのかな」
立ち竦む私を慰めるようにスマホを操る隆宏に、私は振り向きざま肩を竦めて笑った。
「ごめん! やっぱり夢だったのかも」
花月さん、きっとこれでいいんだよね。
胸の内に浮かぶ面影に語り掛ける。
できることなら、貴方に彼を紹介したかったけれど。
(……ええ、僕もお会いしたかったんですけどね)
胸の奥に、そう言って眉を寄せて困ったように笑ってくれる顔が浮かぶようだった。
せめてお礼を言いたかったです。
何も言えないままで申し訳ありません。
(お気遣いなく。当店は『ただの』甘味処ですから)
有り難う、花月さん。
本当に有り難うございました。
そして、最高のお茶とお菓子をごちそうさまでした。
(井沢茉莉枝さん。ご結婚して苗字が変わってしまいますから、貴女をそうお呼びするのもこれが最後になるでしょうか。……どうかこの先も、お忘れなさいませんように。つまりこの世は、お菓子の家であることを)
はい。苦い重曹の入った、繊細で甘酸っぱい林檎の砂糖菓子の家ですね。
(そのとおりです。甘さや辛さや苦さの中にも、必ず美味しさは隠れていますから、茉莉枝さんなりに見つけて、是非とも味わってください。これからは立ち塞がる壁さえ美味しく食べてしまう力が、貴女には備わりましたから)
もう、失礼ですね。人を怪獣みたいに。でも、そういう人になりたいです。そういう、優しい怪獣のようなお母さんになりたいです。
(いいですねぇ。母怪獣の優しく逞しい背中を学んで育つ子怪獣は、さぞや美しく優しく強いものになるでしょうねぇ。もっとも、貴方の力を育てるか潰してしまうかは、これからの心次第ではありますが――茉莉枝さんなら大丈夫。僕はここで、貴女がたの末長い幸せを祈り続けていますからね)
そうして猫のように目を細めて笑んだ花月さんの面影は、私の中で溶けるように消えていった。
黒い着物に赤い襦袢、黒いお盆を両手に持って。すらりと立った美しい残像だけを残して。
――いつかまたどこかで会えますよね、花月さん。きっとまた、絶対に会えますよね。
消えていった後に問い掛けても、面影も返答も、もう何も浮かんでこなかった。
本当に行ってしまったのだろう。
きっとこれから少しずつ、あの人の面影も店の光景も、私の中から薄れて消えていく。
それでも、さほど悲しくはなかった。
少し淋しいけれど、いつか私がもう一度エレナに会える時、きっとまたあの人にも会える。
どうしてもそんな気がするのだ。
その時こそは皆を紹介しよう。
父も母もエレナも、隆宏も子供も、義父も義母も。
心から愛してやまない私の家族を、まるごと全員。
「もう探さなくていいよ。たぶん夢だったんだと思う。振り回しちゃってごめんね」
「だってお前あんなに……」
「うん、もういいの」
何処か腑に落ちない様子の隆宏の腕に、腕を絡めて歩き出した。
「じゃあ、茉莉枝が話してくれよ。どんな店で、どんな人で、どんな体験をしたのか。そうしたら俺も行ったような気になれるかもしれない」
「信じてくれるの?」
見上げた私に、隆宏は眉を上げて微笑する。
「茉莉枝が言うなら信じるし、そもそも俺は疑ってる訳じゃないよ。でなきゃこんなふうに探したりしないだろ?」
「……うん」
不意にほこほこした感覚が沸き起こり、自然と笑みが浮かんできた。
ほこほこした感覚は、まるで回る風車に散らされるように、指先にまで温かい幸福感を運んできてくれる。
胸の奥にまで春が満ちてきた気がする。
やはり隆宏と出会えたことは、稀有な幸福に恵まれたと思う。
この人と、果たしてどこまで行けるだろう。
これからどんな人に出会い、どんな出来事に遭遇するだろう。
分からないけれど、前へ進んでいきたい。
どんな壁も突き崩して味わいながら、私は進んでいける。全ての出来事の中に、隠された美味しさを見つけながら。
その生き方を、子供にも伝えていくのだ。
だから――。
エレナ。花月さん。
また会おうね。
私が幸せになるところを見ててね。
「ねぇ」
「ん?」
「私、あなたのこと愛してる。とーっても」
和菓子のような香りがする風の中で、私は隆宏に向って思い切り伸び上がり、その頬に軽くキスをした。
(第一話・完)
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